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御門台のベル・短い合図の練習(舞台:静岡市清水区 御門台)

 幹夫青年は、御門台の駅へつづく道の、電線がいちばん低く見えるところで、ふっと立ち止まりました。 冬の空気は透明で、すこし硬く、息を吐くと白い息がふうっと出て、街灯の白い光の中でいちど膨らみ、それから闇の方へほどけて消えました。

 消えるのに、あたたかい。 幹夫は、また思ひました。

 (ことばも、白い息みたいならいい。  出て、消えて、でも少しあたたかい。)

 けれど幹夫の胸の中のことばは、息みたいに軽くありません。 冷えた小石みたいに角ばって、胸の奥でごろごろしてゐます。

 ――「遅い。」 ――「いまさら。」 ――「でも言はないと、もっと遅い。」

 そんな見えない裁判官が、胸の中でこつこつ机を叩いてゐました。 机の上には、送られないままの文が、切符みたいに何枚も並んでゐるのです。 並んでゐるのに、改札を通れない。 通れないから、ますます冷えて硬くなる。

 そのとき、御門台駅の方から、短い音が来ました。

 ツン。

 まるで小さな金属の星が、ひとつだけ光ったみたいな音です。 長い説明が入りこむひまのない、一点の音。 幹夫は、その一点を聞いた瞬間、胸の裁判官の机の音が、すこし遠くなるのを感じました。 短い音は、叱りより早いのです。

 幹夫は駅の方へ歩きました。 線路の匂ひが濃くなり、電気の匂ひがまじり、空気が少しだけ金属になります。 駅前の灯は白く正確で、夜の地面にきちんと四角を描いてゐました。 四角は厳しいのに、合図は短い。 その組み合わせが、どこか理科室の実験器具みたいでした。

 ホームに上がると、向う側に静鉄の車両が止まってゐました。 ドアのところに、小さな表示の灯が点いてゐます。 そして、また鳴りました。

 ツン。

 幹夫は、耳の奥がすこし痺れるのを感じました。 なぜなら、その音は短いのに、音の中にいくつもの細い音が混ざってゐるのが分かったからです。 鐘の音は一つに聞こえても、ほんとうは、たくさんの「ふるへ」の束です。 だから遠くへ届きます。 短い音ほど、たくさんのふるへを含む――幹夫は、そんな理科の感じを、胸のどこかで思ひ出してゐました。

 (短い合図は、たくさん運べる。) (長い説明は、ひとつしか運べない。)

 幹夫の胸の中のことばは、いつも長くなりたがります。 長くなると、途中で凍ります。 凍ると重くなり、重いものは、送る前に落ちます。 だから幹夫は、送れない。 送れないまま「いまさら」と言って、さらに冷やす。

 けれど、ベルは違ひました。 ベルは、いま鳴って、もう消えてゐます。 消えてゐるのに、耳の中に残って、胸を動かします。 残るのは、音の長さではありません。 音が「鳴った」といふ事実の熱です。

 幹夫は、ホームのベンチに腰を下ろしました。 座板は冷たいのに、冷たいだけではありません。 冷たさの奥に、昼間の人の体温の名残りが、ほんの少しだけ残ってゐました。 人がゐた場所は、夜になっても完全には零度になりません。 そういふことが、幹夫にはなんだか救ひのやうに思へました。

 そのとき、隣のベンチの端に、小さな布袋が置かれてゐるのに気づきました。 布袋の口から、金色の輪が少し見えてゐます。 幹夫がじっと見てゐると、布袋がふいに、ちりん と鳴りました。 風に触れたのです。 袋の中に、小さな鈴が入ってゐたのでした。

 ちりん。 ちりん。

 鈴の音はベルよりやさしく、ベルより丸い。 丸い音は、胸の角を丸くします。

 幹夫が音の方を見てゐると、向うの階段から、学生らしい女の子が駆け上がって来ました。 息が白い。 頬が赤い。 そして、目がすこし慌ててゐます。

「……あっ」

 女の子は、布袋を見つけて、ほっとしました。 ほっとした息が、白い息になって、街灯の下でふわりと膨らみました。

「すみません、それ、わたしの……」

 幹夫は反射で言ってゐました。

「落としてましたよ」

 女の子は布袋を抱へ、何度も頭を下げました。

「ありがとうございます。これ、明日、演奏で使う鈴で……なくしたら、終わりで……」

 終わり。 その言葉が、幹夫の胸に小さな火花をつくりました。 幹夫も、ことばが送れなければ終わりみたいに思ってゐたのです。 けれど、ベルは終わりません。 鳴って消えても、次にまた鳴ります。 終わりは、「鳴らさない」と決めたときだけ来るのです。

 女の子は、布袋の口から鈴を一つ取り出して、指で軽く揺らしました。

 ちりん。

 その音が、ホームの白い灯にふわりと溶けました。 溶けるのに、きちんと届く。 届くのに、相手を責めない。 幹夫は、その音がひどく好きだと思ひました。

「短いですよね」

 幹夫がぽつりと言ふと、女の子は目を丸くしました。

「え?」

「鈴の音。短いのに……ちゃんと、伝わります」

 女の子は、すこし考へて、それから笑ひました。 笑ひも短く、短いから、夜にちょうどいい。

「そうですね。合図みたい。……わたし、いつも長く謝っちゃうんですけど、鈴は、謝らないで鳴くだけですよね」

 幹夫は、胸の中でうなづきました。 謝ることが悪いのではありません。 長く謝ると、途中で自分を責める言ひ訳が混ざって、音が濁るのです。 濁ると、相手より先に、自分が冷えます。

 そのとき、車両の方で、またベルが鳴りました。

 ツン。

 女の子は鈴をしまひながら言ひました。

「ほら、いまのも合図。……出発の合図」

 幹夫は、その「出発」が胸にひどく効きました。 出発は、準備が全部終わってからするものだ、と幹夫は思ひ込んでゐました。 でも実際の出発は、ベルが鳴ってしまへば始まる。 始まると、人は乗るか乗らないかだけを決めればいい。 乗れば、動く。 動けば、景色が変はる。

 女の子は「じゃあ」と言って、改札の方へ走って行きました。 走りながら一度だけ振り向いて、口の形だけで言ひました。

「ありがとうございました」

 声は聞こえません。 でも伝はりました。 伝はったのは、長い説明ではなく、口の形と、白い息と、短い合図が混ざったからです。

 幹夫は、ひとりになったホームで、白い息を吐きました。 白い息は、ベルの鳴った方へ少し引かれて、細い線になって消えました。 消えるのに、方向が残る。 方向が残るなら、ひとことも残せる。

 幹夫は、胸の中のことばを、長文のまま持たないことにしました。 ベルのやうに。 鈴のやうに。 短い合図の練習をするのです。

 幹夫はポケットからスマホを出しました。 画面の白い光は正確で、すこし厳しい。 けれど今夜は、ベルの一点と、鈴の丸い音が、その白さに薄い“にじみ”を足してくれる気がしました。 にじむ白は叱りません。 にじむ白は、短いものを通します。

 幹夫は長い文を書きませんでした。 ベルは一点。 鈴も一点。 なら、ことばも一点でいい。

 幹夫は、たった一行だけ打ちました。

 ――「御門台でベルと鈴を聞いた。短い合図のほうが届く気がした。元気?」

 送信すると、胸の中で、なにかが小さく発車しました。 汽笛は鳴りません。 でも、ベルの ツン のやうに、確かに鳴ったのです。

 そのとき、電車が動きだして、車輪が夜の線路を刻みました。

 コトン、コトン。

 規則のある音。 規則のある音は、心を落ち着かせます。 幹夫は、ホームの端まで歩いて、その音が遠くへ行くのを見送りました。 遠くへ行く音は、港の灯のやうに、見えなくなっても「届く」を残します。

 幹夫青年は、御門台で大きな奇跡を見たわけではありません。 ただ、鈴を拾わせてもらひ、ベルを聞き、短い合図を一つ送っただけです。 けれど、その“一つだけ”があると、胸の中の裁判官の机の音は、いつのまにか遠くへ行ってしまひます。 御門台のベルは今夜も短く鳴りながら、長い言ひ訳をほどき、ひとことの線だけを、そっと線路の上へ引いてゐたのでした。

 
 
 

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