悪臭届――犯人は、まだ生まれていない
- 山崎行政書士事務所
- 5月14日
- 読了時間: 16分

静岡市葵区、七間町の外れ。 古いビルの二階にある山崎行政書士事務所には、雨の日だけ少しだけ茶葉の匂いがした。
階下の喫茶店が焙じるほうじ茶の香り。 向かいの花屋から漂う濡れた菊の匂い。 そして、開け放した窓の向こう、遠くの駿河湾から風に乗ってくる、塩と鉄の匂い。
山崎怜司は、その匂いが好きだった。
匂いは、嘘をつかない。
妻を亡くしてから十年、山崎はそう信じるようになった。書類は嘘をつく。印鑑も、署名も、証言も、金を積めばいくらでも歪む。けれど匂いだけは、そこにあったものを消せない。
だからその日、事務所の扉が開いた瞬間、山崎は顔を上げた。
雨の匂いがしなかった。
黒い傘を閉じた女は、濡れているはずなのに、まるで真空から出てきたように無臭だった。
「悪臭防止法に基づく届出をお願いしたいんです」
女はそう言って、白い封筒をカウンターに置いた。
山崎の補助者、青井まどかが椅子から立ち上がる。二十七歳。元市役所の環境保全課職員で、笑うと目尻が下がる。だがこの瞬間、彼女の表情から血の気が引いた。
「……届出、ですか。事業場の設置か、変更か、廃止か、どちらでしょう」
「全部です」
女は微笑んだ。
「これから設置され、すでに変更され、今夜廃止される施設です」
その声は静かだった。 静かすぎた。
山崎は封筒を開いた。
中には、見慣れた様式の申請書類が入っていた。事業場名は「清沢バイオ脱臭研究所」。所在地は静岡市葵区の山あい、廃校になった小学校跡地。発生源は堆肥化施設。臭気指数、排出口、敷地境界線、作業時間、脱臭装置の仕様。
きちんと整っている。
整いすぎている。
そして最後のページに、赤いインクで一文だけ書かれていた。
山崎怜司様あなたの事務所は、本日二十一時に悪臭発生源となります。
まどかが小さく息を呑んだ。
山崎は女を見た。
「これは、脅迫ですか」
「いいえ」
女は首を横に振った。
「届出です。においは、誰かが受け取らなければ、ただの空気ですから」
その瞬間、事務所の奥にある古い複合機が勝手に動き出した。
紙が一枚、吐き出される。
山崎がそれを取った。
そこには、写真が印刷されていた。
暗い部屋。 椅子に縛られた男。 男の口には透明なマスクが装着され、背後には巨大な銀色の脱臭装置が唸っている。
写真の下には文字。
第一臭源、稼働中。制限時間、四時間。臭気指数を読め。
女はもういなかった。
扉の外には、濡れた廊下だけがあった。 足跡も、傘の水滴も、何も残っていなかった。
*
警察に通報した後も、山崎は封筒の書類を読み続けた。
「普通じゃありません」
まどかが震える声で言った。
「この臭気指数、数字が変です。敷地境界で十、排出口で二十六、処理後で四、二十、三……実測値としては不自然です」
「暗号か」
「たぶん」
まどかは紙を並べた。 数字だけを抜き出す。
10、26、4、20、3、1、19、1、23、1。
山崎は古い六法の余白に数字を書き写した。
「五十音か、アルファベットか」
まどかが唇を噛んだ。
「アルファベットなら、J Z D T C A S A W A。意味がない」
「じゃあ逆か」
山崎は数字をひっくり返した。
1、23、1、19、1、3、20、4、26、10。
まどかの目が細くなる。
「A W A S A C T D Z J……違う」
その時、山崎は申請書の余白にある不自然な点に気づいた。
各ページの右上に、小さな汚れがある。インクの滲みのように見えるが、どれも場所が微妙に違う。山崎はページを重ね、窓にかざした。
点が、地図になった。
静岡市の地図。 点が示しているのは、葵区清沢の廃校ではなかった。
「清水区袖師町……冷凍倉庫街だ」
まどかの顔が変わった。
「写真の男、見覚えがあります。橋爪勝彦。元環境保全課の係長です」
「君の上司だったのか」
「はい。五年前、退職しました。苦情処理を握り潰すのがうまい人でした」
山崎は上着を取った。
「警察を待つより早い」
「山崎先生」
「行くぞ」
まどかは一瞬だけ迷い、それから鞄を掴んだ。
「私も行きます」
*
清水区袖師町の倉庫街には、雨が横殴りに降っていた。
夜の駿河湾は黒い。コンテナの赤いランプが水たまりに揺れ、海鳥の声が壊れた警報機のように響く。
指定された倉庫は、外から見る限り無人だった。
だが近づいた瞬間、まどかが口元を押さえた。
「臭い……」
山崎には何も感じなかった。
「どんな匂いだ」
「腐った蜜柑と、消毒液と、焦げた髪の毛が混ざったような」
倉庫の扉は開いていた。
中に入ると、空気が異様に冷たい。奥に透明なビニールで仕切られた小部屋があり、写真と同じ男が椅子に縛られていた。橋爪勝彦。白髪交じりの男が、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして叫んでいる。
「止めろ! 止めてくれ! もう嗅ぎたくない!」
背後の装置から、一定間隔で白い蒸気が噴き出していた。
まどかが操作盤に駆け寄る。
「脱臭装置じゃない。逆です。匂いを発生させてる」
山崎は椅子の縄を切った。
橋爪は床に崩れ、山崎の袖に縋った。
「俺じゃない……俺だけじゃない……測定値を変えろと言われたんだ。全部、榊原が……」
「榊原?」
「榊原ケミカルだよ! 十年前の羽鳥堆肥化センターだ! 苦情は本当だった。臭かったんだ。あの女は何度も訴えた。子どもが咳をしてるって。でも、俺たちは基準内にした。書類の上では、何もなかったことにした!」
まどかが固まった。
「羽鳥堆肥化センター……」
山崎もその名を知っていた。
十年前、静岡市郊外で操業していた産業廃棄物処理施設。近隣から悪臭苦情が相次いだが、測定値は基準内とされ、行政指導だけで終わった。その後、施設内で火災が起き、従業員一名と近隣住民一名が死亡した。
山崎はその施設の開業時、許認可関係の書類作成に関わっていた。
妻の由希が死んだ年だった。
橋爪が震える指で壁を指した。
そこに、赤いスプレーで文字が書かれていた。
第二臭源は、先生の過去にあります。
その下に、また数字が並んでいた。
8、1、20、15、18、9。
まどかが呟いた。
「HATORI」
羽鳥。
山崎の胸の奥で、十年前の煙が蘇った。
*
警察が倉庫に到着した時、橋爪は救急車に運ばれた。
県警捜査一課の藤堂刑事は、山崎を見るなり苦い顔をした。
「行政書士が現場に突っ込むな。死にたいのか」
「人が縛られていました」
「だから警察を呼べ」
「呼びました」
「呼んでから行くな」
まどかが小さく頭を下げた。
「すみません。でも犯人は、たぶんこちらの動きも読んでいます」
藤堂が目を細める。
「根拠は」
まどかは壁の数字を指した。
「暗号が単純すぎます。読ませるための暗号です。本当に隠したい情報は別にある」
「別?」
山崎は床を見た。
倉庫のコンクリートに、うっすらと白い粉が撒かれている。足跡がいくつも残っていた。だが奇妙なことに、犯人らしき足跡は扉に向かっていない。
壁際の古い排水溝で途切れている。
「逃げたんじゃない」
山崎は言った。
「最初からここにいなかった」
藤堂が眉をひそめる。
「遠隔操作か」
「それだけじゃない。この匂いの装置も、橋爪の拘束も、倉庫の鍵も、誰かが現場で準備したはずです。でも犯人は足跡を残していない」
「透明人間だとでも?」
「いいえ」
まどかが言った。
「残らない足跡の人です」
全員が彼女を見る。
「子どもなら、排水溝の上を歩けます。体重が軽ければ、粉に跡を残しにくい」
山崎の背筋に冷たいものが走った。
黒い傘の女。 無臭の女。 大人の声。 だが、顔は深い帽子とマスクで隠れていた。
「犯人は子どもかもしれない」
藤堂が吐き捨てるように言った。
「子どもがこんな装置を組めるか」
その時、山崎のスマートフォンが鳴った。
非通知。
山崎は出た。
スピーカーから、少女とも少年ともつかない声が流れた。
「橋爪さんは、吐きましたか」
藤堂が合図し、捜査員が録音を始める。
山崎は静かに答えた。
「ああ」
「では第二臭源へ進んでください」
「君は誰だ」
「まだ生まれていない者です」
「ふざけるな」
「山崎先生」
声は少しだけ柔らかくなった。
「十年前、あなたは母の手紙を読みましたか」
山崎の喉が鳴った。
「母?」
「羽鳥堆肥化センターの悪臭苦情。七瀬灯子。あなたの事務所にも内容証明を相談しに来たはずです」
記憶が、鋭い刃のように蘇った。
痩せた若い女性。 抱かれた幼い子。 事務所の古いソファ。 咳き込む子ども。 そして妻の由希が、その子に飴を渡していた。
山崎は言葉を失った。
「先生は忙しいと言いました」
声は淡々としていた。
「正式な依頼でなければ動けない。証拠が足りない。行政に相談してください。そう言いました」
「……覚えている」
「母はその夜、施設へ行きました。においの証拠を録るために。火災が起き、母は死んだことになりました」
「なった?」
電話の向こうで、かすかに笑う音がした。
「第二臭源は、丸子の茶工場跡です。二時間後。遅れれば、榊原の舌が焼けます」
通話は切れた。
藤堂が怒鳴った。
「榊原というのは?」
山崎は答えた。
「榊原宗一郎。羽鳥堆肥化センターを運営していた会社の社長です」
「住所は」
「今は、静岡市駿河区丸子にある旧茶工場を倉庫にしているはずです」
まどかが山崎を見た。
「先生……七瀬灯子さんの娘さんは?」
山崎はゆっくり首を振った。
「火災の後、母子ともに死亡と聞いた」
「でも、犯人は言いました。母は死んだことになった、と」
山崎の胸の奥で、見えない届出書が音を立てて開いていく。
死亡届。 出生届。 存在を証明する紙。
誰かが、紙の上で消されている。
*
丸子の旧茶工場は、闇の中で巨大な腹を空かせていた。
中に入ると、茶葉の香りがした。 だがそれは穏やかな香りではない。焦げた茶葉、湿った畳、古い血のような鉄臭さ。
奥の乾燥室に、榊原宗一郎はいた。
六十を過ぎても艶のある髪を撫でつけた男。だが今は、裸足で床に座り込んでいた。舌は焼けていなかった。ただし、彼の前には赤熱した鉄板があり、その上に一枚の紙が置かれていた。
山崎が近づく。
紙は、古い苦情申立書だった。
施設からの甘く腐ったような臭気により、幼児の咳、嘔吐、皮膚症状が続いています。どうか調査をお願いします。七瀬灯子
榊原が顔を上げた。
「助けてくれ……あいつは化け物だ。全部知っている。俺の暗証番号も、昔の帳簿も、処理槽の温度まで……」
山崎は低く言った。
「七瀬灯子さんに何をした」
「事故だ」
「何をした」
「火をつけたのは俺じゃない!」
榊原は泣きながら叫んだ。
「あの女が勝手に施設に入った。録音機を持って、臭いの証拠を取るって。俺は止めようとした。揉み合いになって、薬品棚が倒れて、火が……」
「子どもは?」
「知らない」
その瞬間、スピーカーから声が響いた。
「嘘」
乾燥室の壁に設置された古いラジオからだった。
「榊原さん。あなたは母を焼いた後、私を見た」
榊原の顔が灰色になった。
「違う」
「私は処理槽の裏にいました。熱くて、臭くて、息ができなくて。でも、あなたを見ていた」
「違う!」
「あなたは言いました。『この子は届出がない。最初からいなかったことにできる』」
山崎の手が震えた。
まどかが口を押さえる。
戸籍にない子。
出生届が出されていない子。
紙の上では、生まれていない子。
「君は……七瀬灯子さんの娘か」
山崎が言った。
ラジオの声は答えなかった。
代わりに、乾燥室のシャッターが下り始めた。
藤堂が叫んだ。
「全員出ろ!」
だが榊原の足首には鎖がつながれていた。
山崎は駆け寄り、鍵を探す。榊原が泣き叫ぶ。まどかが工具箱をひっくり返す。シャッターは半分まで下りている。
焦げた茶葉の匂いが濃くなる。
山崎は十年前の妻の声を聞いた気がした。
――怜司さん、においの訴えを馬鹿にしないで。――あの人たちは、証拠がないんじゃない。――証拠の出し方を知らないだけ。
山崎は鎖を掴んだ。
「藤堂さん、鉄筋カッター!」
「間に合わん!」
まどかが突然、床に這いつくばった。
「先生、こっち!」
鎖は壁ではなく、床下の古い茶葉搬送レールにつながれていた。まどかは小さな固定ピンを見つけ、ペンチで引き抜いた。
鎖が外れた。
山崎は榊原を引きずり、まどかを抱えるようにしてシャッターの下をくぐった。
背後で熱風が噴き上がった。
しかし、火は燃え広がらなかった。 鉄板の上の紙だけが、静かに灰になっていた。
藤堂が唇を噛む。
「殺す気はないのか」
山崎は灰を見つめた。
「いや」
彼は言った。
「殺すより残酷なことをしている。記憶を嗅がせている」
*
山崎行政書士事務所に戻ったのは、午前二時を過ぎていた。
警察は榊原を保護し、橋爪の証言と合わせて十年前の事件を再捜査することになった。だが犯人の所在は掴めない。
黒い傘の女。 無臭の依頼人。 子どもの足跡。 遠隔装置を操る知能。 十年前の火災を知る、戸籍にない子。
まどかは机に突っ伏し、疲れた目で書類を見つめていた。
「先生」
「なんだ」
「この最初の届出書、まだ解けていない部分があります」
彼女は臭気指数の一覧を指した。
「数字をアルファベットにすると意味がない。でも五十音でもない。これ、悪臭防止法の特定悪臭物質の番号順に対応させているんです」
山崎は息を止めた。
まどかは、物質名の頭文字を拾っていく。
アンモニア。メチルメルカプタン。硫化水素。硫化メチル。二硫化メチル……。
そこからさらに、申請書に記載された排出口番号を組み合わせる。
まどかの指が震えた。
「文章になります」
山崎は読み上げた。
「こ、の、じ、む、しょ、に、い、る」
この事務所にいる。
その瞬間、奥の資料室から物音がした。
山崎は立ち上がった。
藤堂に電話をかけようとしたが、スマートフォンは圏外になっている。まどかのものも同じだった。事務所の固定電話も、受話器を上げると無音だった。
窓の外、七間町の街灯が一つずつ消えていく。
山崎は資料室の扉を開けた。
中には、古い段ボールが積まれている。十年前の業務ファイル。廃業した会社の定款。産廃施設の許認可控え。羽鳥堆肥化センターの申請資料。
その一番奥に、小さな人影が座っていた。
黒い傘の女ではなかった。
十二、三歳にしか見えない少女だった。
痩せた肩。 白い肌。 短く切った髪。 そして、感情を閉じ込めたような透明な瞳。
少女は膝の上にノートパソコンを置いていた。
「こんばんは、山崎先生」
その声は、電話の声と同じだった。
山崎は動けなかった。
「君が……」
「七瀬真白」
少女は言った。
「でも、その名前はどこにもありません。出生届が出されていないので」
まどかが一歩前に出た。
「あなた、ずっとここにいたの?」
「最初からではありません。先生たちが清水へ向かった後、入りました。鍵は簡単でした。山崎先生は、十年前から同じ場所にスペアキーを置いています」
山崎は苦く笑いそうになった。
郵便受けの裏。 妻に何度も怒られた癖。
「橋爪と榊原を襲ったのは君か」
「襲ってはいません。嗅がせただけです」
「十分、犯罪だ」
「はい」
少女は素直に頷いた。
「知っています。未成年でも、存在しなくても、罪は罪です」
まどかが静かに言った。
「どうして殺さなかったの」
真白は少しだけ首を傾けた。
「殺したら、あの人たちは被害者になります。私は、あの人たちを証人にしたかった」
山崎の胸が痛んだ。
この子は、恐ろしいほど頭がいい。
装置を作り、暗号を組み、警察と山崎の動きを読み、十年前の関係者の罪悪感を正確に突いた。犯人としては異常なほど冷静で、まるで人間の心の臭気指数を測る計器のようだった。
だが、その膝の上の手は、小刻みに震えていた。
「君は、山崎事務所に何をしに来た」
山崎が尋ねる。
真白は資料室の棚から一冊のファイルを取り出した。
羽鳥堆肥化センター関係綴り。
「母はここへ来ました。あなたは母を追い返した。でも、奥さんは違った」
山崎の心臓が跳ねた。
「由希が?」
真白はファイルを開いた。
中には、山崎が知らない封筒が挟まれていた。由希の字で、こう書かれていた。
七瀬灯子様相談記録急ぎ対応すること子どもの安全確認
山崎は震える手で封筒を開いた。
中には、十年前の写真があった。
事務所のソファ。 若い母親。 咳き込む幼い女の子。 その女の子に飴を渡している由希。
写真の裏には、由希の字。
この子には、まだ出生届が出ていない。事情あり。怜司さんに相談する。絶対に放っておかない。
山崎の視界が滲んだ。
由希は十年前、事故で死んだ。 羽鳥の火災から三日後、現場調査へ向かう途中、雨の国道でトラックに追突された。
山崎はずっと思っていた。 妻は自分の仕事とは関係ない事故で死んだのだと。
だが違った。
由希は、真白を助けようとしていた。
「奥さんは、私を見つけました」
真白の声が、初めて揺れた。
「火事の後、私は施設の裏山に逃げました。臭くて、怖くて、声が出なくて。奥さんは私を抱きしめてくれました。『もう大丈夫』って。でも、次の日から来なくなった」
山崎は目を閉じた。
由希の匂いを思い出そうとした。 石鹸。紙。少しだけ甘い金木犀。
「私はずっと待っていました」
真白は言った。
「誰かが、私を届け出てくれるのを」
まどかが泣いていた。
山崎はゆっくり膝をついた。
「すまなかった」
「謝罪はいりません」
「それでも、すまなかった」
「山崎先生」
真白はパソコンを閉じた。
「最後の届出をお願いします」
彼女は一枚の紙を差し出した。
山崎はそれを受け取った。
悪臭防止法に基づく届出ではなかった。
出生届だった。
届出人欄は空白。 出生年月日は十七年前。 父の欄も空白。 母の欄には、七瀬灯子。
名前の欄には、七瀬真白。
山崎は紙を見つめた。
「これは、簡単じゃない。家庭裁判所、戸籍、行政手続き、証拠資料……時間がかかる」
「知っています」
「それに君は、罪を犯した」
「知っています」
「逃げる気はないのか」
真白は静かに首を振った。
「もう、存在しないまま逃げるのは嫌です」
山崎は立ち上がった。
その時、資料室の換気口から白い煙が漏れ出した。
まどかが叫ぶ。
「先生!」
藤堂たち警察が踏み込んできたのは、その直後だった。
煙は毒ではなかった。
金木犀の香りだった。
事務所いっぱいに、由希が好きだった花の匂いが満ちていく。
真白は両手を上げた。
「警察への通報は、私がしました。山崎先生がここまで辿り着かなかった場合は、私の負けでした」
藤堂が彼女に手錠をかけようとして、一瞬ためらった。
少女は小さすぎた。
しかし罪は現実だった。橋爪も榊原も死ななかったが、監禁、脅迫、器物損壊、違法な装置の設置。彼女は裁かれる。
山崎は言った。
「藤堂さん」
「なんだ」
「この子は逃げません。だから、せめて名前で呼んでやってください」
藤堂は真白を見た。
長い沈黙の後、低く言った。
「七瀬真白さん。署で話を聞かせてもらう」
その瞬間、真白の顔が崩れた。
泣くのをこらえる子どもの顔だった。
知能指数も、暗号も、装置も、復讐も、全部剥がれ落ちた。
そこにいたのは、十七年間、誰にも名前を呼ばれなかった少女だった。
*
三か月後。
山崎行政書士事務所の窓辺には、金木犀の小さな鉢植えが置かれていた。
橋爪と榊原の証言により、羽鳥堆肥化センターの火災は再捜査され、隠蔽に関わった複数の人物が書類送検された。七瀬灯子の死因も見直され、事件性が認められた。
真白は家庭裁判所と児童相談所、警察、弁護士の間を行き来していた。彼女の罪が消えることはない。けれど、彼女の存在もまた、消されることはなかった。
山崎は、真白の就籍手続きに関する書類の束を前に、老眼鏡をかけ直した。
まどかが湯呑みを置く。
「先生、差し入れです。階下の喫茶店から」
「また、ほうじ茶か」
「今日はおまけで羊羹も」
山崎は小さく笑った。
その時、郵便受けが鳴った。
まどかが封筒を持ってくる。
差出人は、七瀬真白。
中には、便箋が一枚。
山崎先生私はまだ、自分が許されるとは思っていません。でも、名前を呼ばれると、少し息がしやすいです。においは、そこにあったものを消せない。けれど、人は、そこになかったものを作れるのだと思います。家族とか、居場所とか。いつか事務所に戻って、今度は正式に依頼します。私が生きていることの証明を、最後まで手伝ってください。七瀬真白
山崎は便箋を畳んだ。
窓の外では、静岡の街が夕日に染まっていた。 遠くに見える富士山の稜線は、信じられないほど静かだった。
まどかが言った。
「先生」
「なんだ」
「最初の依頼、結局なんだったんでしょうね。悪臭防止法に基づく届出なんて」
山崎は机の上の出生届を見た。
そして、ゆっくり答えた。
「悪臭の届出だったんだよ」
「え?」
「十七年間、誰も嗅ごうとしなかった悪臭だ。嘘と隠蔽と無関心の匂い。真白はそれを、俺たちに届け出た」
まどかは黙って頷いた。
山崎は窓を開けた。
雨上がりの街から、ほうじ茶と潮風と金木犀の匂いが流れ込んでくる。
その中に、ほんの少しだけ、紙の匂いが混ざっていた。
新しい届出書の匂い。
誰かがこの世界に、ようやく生まれる匂いだった。







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