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悪臭届――犯人は、まだ生まれていない

 静岡市葵区、七間町の外れ。 古いビルの二階にある山崎行政書士事務所には、雨の日だけ少しだけ茶葉の匂いがした。

 階下の喫茶店が焙じるほうじ茶の香り。 向かいの花屋から漂う濡れた菊の匂い。 そして、開け放した窓の向こう、遠くの駿河湾から風に乗ってくる、塩と鉄の匂い。

 山崎怜司は、その匂いが好きだった。

 匂いは、嘘をつかない。

 妻を亡くしてから十年、山崎はそう信じるようになった。書類は嘘をつく。印鑑も、署名も、証言も、金を積めばいくらでも歪む。けれど匂いだけは、そこにあったものを消せない。

 だからその日、事務所の扉が開いた瞬間、山崎は顔を上げた。

 雨の匂いがしなかった。

 黒い傘を閉じた女は、濡れているはずなのに、まるで真空から出てきたように無臭だった。

「悪臭防止法に基づく届出をお願いしたいんです」

 女はそう言って、白い封筒をカウンターに置いた。

 山崎の補助者、青井まどかが椅子から立ち上がる。二十七歳。元市役所の環境保全課職員で、笑うと目尻が下がる。だがこの瞬間、彼女の表情から血の気が引いた。

「……届出、ですか。事業場の設置か、変更か、廃止か、どちらでしょう」

「全部です」

 女は微笑んだ。

「これから設置され、すでに変更され、今夜廃止される施設です」

 その声は静かだった。 静かすぎた。

 山崎は封筒を開いた。

 中には、見慣れた様式の申請書類が入っていた。事業場名は「清沢バイオ脱臭研究所」。所在地は静岡市葵区の山あい、廃校になった小学校跡地。発生源は堆肥化施設。臭気指数、排出口、敷地境界線、作業時間、脱臭装置の仕様。

 きちんと整っている。

 整いすぎている。

 そして最後のページに、赤いインクで一文だけ書かれていた。

山崎怜司様あなたの事務所は、本日二十一時に悪臭発生源となります。

 まどかが小さく息を呑んだ。

 山崎は女を見た。

「これは、脅迫ですか」

「いいえ」

 女は首を横に振った。

「届出です。においは、誰かが受け取らなければ、ただの空気ですから」

 その瞬間、事務所の奥にある古い複合機が勝手に動き出した。

 紙が一枚、吐き出される。

 山崎がそれを取った。

 そこには、写真が印刷されていた。

 暗い部屋。 椅子に縛られた男。 男の口には透明なマスクが装着され、背後には巨大な銀色の脱臭装置が唸っている。

 写真の下には文字。

第一臭源、稼働中。制限時間、四時間。臭気指数を読め。

 女はもういなかった。

 扉の外には、濡れた廊下だけがあった。 足跡も、傘の水滴も、何も残っていなかった。

     *

 警察に通報した後も、山崎は封筒の書類を読み続けた。

「普通じゃありません」

 まどかが震える声で言った。

「この臭気指数、数字が変です。敷地境界で十、排出口で二十六、処理後で四、二十、三……実測値としては不自然です」

「暗号か」

「たぶん」

 まどかは紙を並べた。 数字だけを抜き出す。

 10、26、4、20、3、1、19、1、23、1。

 山崎は古い六法の余白に数字を書き写した。

「五十音か、アルファベットか」

 まどかが唇を噛んだ。

「アルファベットなら、J Z D T C A S A W A。意味がない」

「じゃあ逆か」

 山崎は数字をひっくり返した。

 1、23、1、19、1、3、20、4、26、10。

 まどかの目が細くなる。

「A W A S A C T D Z J……違う」

 その時、山崎は申請書の余白にある不自然な点に気づいた。

 各ページの右上に、小さな汚れがある。インクの滲みのように見えるが、どれも場所が微妙に違う。山崎はページを重ね、窓にかざした。

 点が、地図になった。

 静岡市の地図。 点が示しているのは、葵区清沢の廃校ではなかった。

「清水区袖師町……冷凍倉庫街だ」

 まどかの顔が変わった。

「写真の男、見覚えがあります。橋爪勝彦。元環境保全課の係長です」

「君の上司だったのか」

「はい。五年前、退職しました。苦情処理を握り潰すのがうまい人でした」

 山崎は上着を取った。

「警察を待つより早い」

「山崎先生」

「行くぞ」

 まどかは一瞬だけ迷い、それから鞄を掴んだ。

「私も行きます」

     *

 清水区袖師町の倉庫街には、雨が横殴りに降っていた。

 夜の駿河湾は黒い。コンテナの赤いランプが水たまりに揺れ、海鳥の声が壊れた警報機のように響く。

 指定された倉庫は、外から見る限り無人だった。

 だが近づいた瞬間、まどかが口元を押さえた。

「臭い……」

 山崎には何も感じなかった。

「どんな匂いだ」

「腐った蜜柑と、消毒液と、焦げた髪の毛が混ざったような」

 倉庫の扉は開いていた。

 中に入ると、空気が異様に冷たい。奥に透明なビニールで仕切られた小部屋があり、写真と同じ男が椅子に縛られていた。橋爪勝彦。白髪交じりの男が、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして叫んでいる。

「止めろ! 止めてくれ! もう嗅ぎたくない!」

 背後の装置から、一定間隔で白い蒸気が噴き出していた。

 まどかが操作盤に駆け寄る。

「脱臭装置じゃない。逆です。匂いを発生させてる」

 山崎は椅子の縄を切った。

 橋爪は床に崩れ、山崎の袖に縋った。

「俺じゃない……俺だけじゃない……測定値を変えろと言われたんだ。全部、榊原が……」

「榊原?」

「榊原ケミカルだよ! 十年前の羽鳥堆肥化センターだ! 苦情は本当だった。臭かったんだ。あの女は何度も訴えた。子どもが咳をしてるって。でも、俺たちは基準内にした。書類の上では、何もなかったことにした!」

 まどかが固まった。

「羽鳥堆肥化センター……」

 山崎もその名を知っていた。

 十年前、静岡市郊外で操業していた産業廃棄物処理施設。近隣から悪臭苦情が相次いだが、測定値は基準内とされ、行政指導だけで終わった。その後、施設内で火災が起き、従業員一名と近隣住民一名が死亡した。

 山崎はその施設の開業時、許認可関係の書類作成に関わっていた。

 妻の由希が死んだ年だった。

 橋爪が震える指で壁を指した。

 そこに、赤いスプレーで文字が書かれていた。

第二臭源は、先生の過去にあります。

 その下に、また数字が並んでいた。

 8、1、20、15、18、9。

 まどかが呟いた。

「HATORI」

 羽鳥。

 山崎の胸の奥で、十年前の煙が蘇った。

     *

 警察が倉庫に到着した時、橋爪は救急車に運ばれた。

 県警捜査一課の藤堂刑事は、山崎を見るなり苦い顔をした。

「行政書士が現場に突っ込むな。死にたいのか」

「人が縛られていました」

「だから警察を呼べ」

「呼びました」

「呼んでから行くな」

 まどかが小さく頭を下げた。

「すみません。でも犯人は、たぶんこちらの動きも読んでいます」

 藤堂が目を細める。

「根拠は」

 まどかは壁の数字を指した。

「暗号が単純すぎます。読ませるための暗号です。本当に隠したい情報は別にある」

「別?」

 山崎は床を見た。

 倉庫のコンクリートに、うっすらと白い粉が撒かれている。足跡がいくつも残っていた。だが奇妙なことに、犯人らしき足跡は扉に向かっていない。

 壁際の古い排水溝で途切れている。

「逃げたんじゃない」

 山崎は言った。

「最初からここにいなかった」

 藤堂が眉をひそめる。

「遠隔操作か」

「それだけじゃない。この匂いの装置も、橋爪の拘束も、倉庫の鍵も、誰かが現場で準備したはずです。でも犯人は足跡を残していない」

「透明人間だとでも?」

「いいえ」

 まどかが言った。

「残らない足跡の人です」

 全員が彼女を見る。

「子どもなら、排水溝の上を歩けます。体重が軽ければ、粉に跡を残しにくい」

 山崎の背筋に冷たいものが走った。

 黒い傘の女。 無臭の女。 大人の声。 だが、顔は深い帽子とマスクで隠れていた。

「犯人は子どもかもしれない」

 藤堂が吐き捨てるように言った。

「子どもがこんな装置を組めるか」

 その時、山崎のスマートフォンが鳴った。

 非通知。

 山崎は出た。

 スピーカーから、少女とも少年ともつかない声が流れた。

「橋爪さんは、吐きましたか」

 藤堂が合図し、捜査員が録音を始める。

 山崎は静かに答えた。

「ああ」

「では第二臭源へ進んでください」

「君は誰だ」

「まだ生まれていない者です」

「ふざけるな」

「山崎先生」

 声は少しだけ柔らかくなった。

「十年前、あなたは母の手紙を読みましたか」

 山崎の喉が鳴った。

「母?」

「羽鳥堆肥化センターの悪臭苦情。七瀬灯子。あなたの事務所にも内容証明を相談しに来たはずです」

 記憶が、鋭い刃のように蘇った。

 痩せた若い女性。 抱かれた幼い子。 事務所の古いソファ。 咳き込む子ども。 そして妻の由希が、その子に飴を渡していた。

 山崎は言葉を失った。

「先生は忙しいと言いました」

 声は淡々としていた。

「正式な依頼でなければ動けない。証拠が足りない。行政に相談してください。そう言いました」

「……覚えている」

「母はその夜、施設へ行きました。においの証拠を録るために。火災が起き、母は死んだことになりました」

「なった?」

 電話の向こうで、かすかに笑う音がした。

「第二臭源は、丸子の茶工場跡です。二時間後。遅れれば、榊原の舌が焼けます」

 通話は切れた。

 藤堂が怒鳴った。

「榊原というのは?」

 山崎は答えた。

「榊原宗一郎。羽鳥堆肥化センターを運営していた会社の社長です」

「住所は」

「今は、静岡市駿河区丸子にある旧茶工場を倉庫にしているはずです」

 まどかが山崎を見た。

「先生……七瀬灯子さんの娘さんは?」

 山崎はゆっくり首を振った。

「火災の後、母子ともに死亡と聞いた」

「でも、犯人は言いました。母は死んだことになった、と」

 山崎の胸の奥で、見えない届出書が音を立てて開いていく。

 死亡届。 出生届。 存在を証明する紙。

 誰かが、紙の上で消されている。

     *

 丸子の旧茶工場は、闇の中で巨大な腹を空かせていた。

 中に入ると、茶葉の香りがした。 だがそれは穏やかな香りではない。焦げた茶葉、湿った畳、古い血のような鉄臭さ。

 奥の乾燥室に、榊原宗一郎はいた。

 六十を過ぎても艶のある髪を撫でつけた男。だが今は、裸足で床に座り込んでいた。舌は焼けていなかった。ただし、彼の前には赤熱した鉄板があり、その上に一枚の紙が置かれていた。

 山崎が近づく。

 紙は、古い苦情申立書だった。

施設からの甘く腐ったような臭気により、幼児の咳、嘔吐、皮膚症状が続いています。どうか調査をお願いします。七瀬灯子

 榊原が顔を上げた。

「助けてくれ……あいつは化け物だ。全部知っている。俺の暗証番号も、昔の帳簿も、処理槽の温度まで……」

 山崎は低く言った。

「七瀬灯子さんに何をした」

「事故だ」

「何をした」

「火をつけたのは俺じゃない!」

 榊原は泣きながら叫んだ。

「あの女が勝手に施設に入った。録音機を持って、臭いの証拠を取るって。俺は止めようとした。揉み合いになって、薬品棚が倒れて、火が……」

「子どもは?」

「知らない」

 その瞬間、スピーカーから声が響いた。

「嘘」

 乾燥室の壁に設置された古いラジオからだった。

「榊原さん。あなたは母を焼いた後、私を見た」

 榊原の顔が灰色になった。

「違う」

「私は処理槽の裏にいました。熱くて、臭くて、息ができなくて。でも、あなたを見ていた」

「違う!」

「あなたは言いました。『この子は届出がない。最初からいなかったことにできる』」

 山崎の手が震えた。

 まどかが口を押さえる。

 戸籍にない子。

 出生届が出されていない子。

 紙の上では、生まれていない子。

「君は……七瀬灯子さんの娘か」

 山崎が言った。

 ラジオの声は答えなかった。

 代わりに、乾燥室のシャッターが下り始めた。

 藤堂が叫んだ。

「全員出ろ!」

 だが榊原の足首には鎖がつながれていた。

 山崎は駆け寄り、鍵を探す。榊原が泣き叫ぶ。まどかが工具箱をひっくり返す。シャッターは半分まで下りている。

 焦げた茶葉の匂いが濃くなる。

 山崎は十年前の妻の声を聞いた気がした。

――怜司さん、においの訴えを馬鹿にしないで。――あの人たちは、証拠がないんじゃない。――証拠の出し方を知らないだけ。

 山崎は鎖を掴んだ。

「藤堂さん、鉄筋カッター!」

「間に合わん!」

 まどかが突然、床に這いつくばった。

「先生、こっち!」

 鎖は壁ではなく、床下の古い茶葉搬送レールにつながれていた。まどかは小さな固定ピンを見つけ、ペンチで引き抜いた。

 鎖が外れた。

 山崎は榊原を引きずり、まどかを抱えるようにしてシャッターの下をくぐった。

 背後で熱風が噴き上がった。

 しかし、火は燃え広がらなかった。 鉄板の上の紙だけが、静かに灰になっていた。

 藤堂が唇を噛む。

「殺す気はないのか」

 山崎は灰を見つめた。

「いや」

 彼は言った。

「殺すより残酷なことをしている。記憶を嗅がせている」

     *

 山崎行政書士事務所に戻ったのは、午前二時を過ぎていた。

 警察は榊原を保護し、橋爪の証言と合わせて十年前の事件を再捜査することになった。だが犯人の所在は掴めない。

 黒い傘の女。 無臭の依頼人。 子どもの足跡。 遠隔装置を操る知能。 十年前の火災を知る、戸籍にない子。

 まどかは机に突っ伏し、疲れた目で書類を見つめていた。

「先生」

「なんだ」

「この最初の届出書、まだ解けていない部分があります」

 彼女は臭気指数の一覧を指した。

「数字をアルファベットにすると意味がない。でも五十音でもない。これ、悪臭防止法の特定悪臭物質の番号順に対応させているんです」

 山崎は息を止めた。

 まどかは、物質名の頭文字を拾っていく。

 アンモニア。メチルメルカプタン。硫化水素。硫化メチル。二硫化メチル……。

 そこからさらに、申請書に記載された排出口番号を組み合わせる。

 まどかの指が震えた。

「文章になります」

 山崎は読み上げた。

「こ、の、じ、む、しょ、に、い、る」

 この事務所にいる。

 その瞬間、奥の資料室から物音がした。

 山崎は立ち上がった。

 藤堂に電話をかけようとしたが、スマートフォンは圏外になっている。まどかのものも同じだった。事務所の固定電話も、受話器を上げると無音だった。

 窓の外、七間町の街灯が一つずつ消えていく。

 山崎は資料室の扉を開けた。

 中には、古い段ボールが積まれている。十年前の業務ファイル。廃業した会社の定款。産廃施設の許認可控え。羽鳥堆肥化センターの申請資料。

 その一番奥に、小さな人影が座っていた。

 黒い傘の女ではなかった。

 十二、三歳にしか見えない少女だった。

 痩せた肩。 白い肌。 短く切った髪。 そして、感情を閉じ込めたような透明な瞳。

 少女は膝の上にノートパソコンを置いていた。

「こんばんは、山崎先生」

 その声は、電話の声と同じだった。

 山崎は動けなかった。

「君が……」

「七瀬真白」

 少女は言った。

「でも、その名前はどこにもありません。出生届が出されていないので」

 まどかが一歩前に出た。

「あなた、ずっとここにいたの?」

「最初からではありません。先生たちが清水へ向かった後、入りました。鍵は簡単でした。山崎先生は、十年前から同じ場所にスペアキーを置いています」

 山崎は苦く笑いそうになった。

 郵便受けの裏。 妻に何度も怒られた癖。

「橋爪と榊原を襲ったのは君か」

「襲ってはいません。嗅がせただけです」

「十分、犯罪だ」

「はい」

 少女は素直に頷いた。

「知っています。未成年でも、存在しなくても、罪は罪です」

 まどかが静かに言った。

「どうして殺さなかったの」

 真白は少しだけ首を傾けた。

「殺したら、あの人たちは被害者になります。私は、あの人たちを証人にしたかった」

 山崎の胸が痛んだ。

 この子は、恐ろしいほど頭がいい。

 装置を作り、暗号を組み、警察と山崎の動きを読み、十年前の関係者の罪悪感を正確に突いた。犯人としては異常なほど冷静で、まるで人間の心の臭気指数を測る計器のようだった。

 だが、その膝の上の手は、小刻みに震えていた。

「君は、山崎事務所に何をしに来た」

 山崎が尋ねる。

 真白は資料室の棚から一冊のファイルを取り出した。

 羽鳥堆肥化センター関係綴り。

「母はここへ来ました。あなたは母を追い返した。でも、奥さんは違った」

 山崎の心臓が跳ねた。

「由希が?」

 真白はファイルを開いた。

 中には、山崎が知らない封筒が挟まれていた。由希の字で、こう書かれていた。

七瀬灯子様相談記録急ぎ対応すること子どもの安全確認

 山崎は震える手で封筒を開いた。

 中には、十年前の写真があった。

 事務所のソファ。 若い母親。 咳き込む幼い女の子。 その女の子に飴を渡している由希。

 写真の裏には、由希の字。

この子には、まだ出生届が出ていない。事情あり。怜司さんに相談する。絶対に放っておかない。

 山崎の視界が滲んだ。

 由希は十年前、事故で死んだ。 羽鳥の火災から三日後、現場調査へ向かう途中、雨の国道でトラックに追突された。

 山崎はずっと思っていた。 妻は自分の仕事とは関係ない事故で死んだのだと。

 だが違った。

 由希は、真白を助けようとしていた。

「奥さんは、私を見つけました」

 真白の声が、初めて揺れた。

「火事の後、私は施設の裏山に逃げました。臭くて、怖くて、声が出なくて。奥さんは私を抱きしめてくれました。『もう大丈夫』って。でも、次の日から来なくなった」

 山崎は目を閉じた。

 由希の匂いを思い出そうとした。 石鹸。紙。少しだけ甘い金木犀。

「私はずっと待っていました」

 真白は言った。

「誰かが、私を届け出てくれるのを」

 まどかが泣いていた。

 山崎はゆっくり膝をついた。

「すまなかった」

「謝罪はいりません」

「それでも、すまなかった」

「山崎先生」

 真白はパソコンを閉じた。

「最後の届出をお願いします」

 彼女は一枚の紙を差し出した。

 山崎はそれを受け取った。

 悪臭防止法に基づく届出ではなかった。

 出生届だった。

 届出人欄は空白。 出生年月日は十七年前。 父の欄も空白。 母の欄には、七瀬灯子。

 名前の欄には、七瀬真白。

 山崎は紙を見つめた。

「これは、簡単じゃない。家庭裁判所、戸籍、行政手続き、証拠資料……時間がかかる」

「知っています」

「それに君は、罪を犯した」

「知っています」

「逃げる気はないのか」

 真白は静かに首を振った。

「もう、存在しないまま逃げるのは嫌です」

 山崎は立ち上がった。

 その時、資料室の換気口から白い煙が漏れ出した。

 まどかが叫ぶ。

「先生!」

 藤堂たち警察が踏み込んできたのは、その直後だった。

 煙は毒ではなかった。

 金木犀の香りだった。

 事務所いっぱいに、由希が好きだった花の匂いが満ちていく。

 真白は両手を上げた。

「警察への通報は、私がしました。山崎先生がここまで辿り着かなかった場合は、私の負けでした」

 藤堂が彼女に手錠をかけようとして、一瞬ためらった。

 少女は小さすぎた。

 しかし罪は現実だった。橋爪も榊原も死ななかったが、監禁、脅迫、器物損壊、違法な装置の設置。彼女は裁かれる。

 山崎は言った。

「藤堂さん」

「なんだ」

「この子は逃げません。だから、せめて名前で呼んでやってください」

 藤堂は真白を見た。

 長い沈黙の後、低く言った。

「七瀬真白さん。署で話を聞かせてもらう」

 その瞬間、真白の顔が崩れた。

 泣くのをこらえる子どもの顔だった。

 知能指数も、暗号も、装置も、復讐も、全部剥がれ落ちた。

 そこにいたのは、十七年間、誰にも名前を呼ばれなかった少女だった。

     *

 三か月後。

 山崎行政書士事務所の窓辺には、金木犀の小さな鉢植えが置かれていた。

 橋爪と榊原の証言により、羽鳥堆肥化センターの火災は再捜査され、隠蔽に関わった複数の人物が書類送検された。七瀬灯子の死因も見直され、事件性が認められた。

 真白は家庭裁判所と児童相談所、警察、弁護士の間を行き来していた。彼女の罪が消えることはない。けれど、彼女の存在もまた、消されることはなかった。

 山崎は、真白の就籍手続きに関する書類の束を前に、老眼鏡をかけ直した。

 まどかが湯呑みを置く。

「先生、差し入れです。階下の喫茶店から」

「また、ほうじ茶か」

「今日はおまけで羊羹も」

 山崎は小さく笑った。

 その時、郵便受けが鳴った。

 まどかが封筒を持ってくる。

 差出人は、七瀬真白。

 中には、便箋が一枚。

山崎先生私はまだ、自分が許されるとは思っていません。でも、名前を呼ばれると、少し息がしやすいです。においは、そこにあったものを消せない。けれど、人は、そこになかったものを作れるのだと思います。家族とか、居場所とか。いつか事務所に戻って、今度は正式に依頼します。私が生きていることの証明を、最後まで手伝ってください。七瀬真白

 山崎は便箋を畳んだ。

 窓の外では、静岡の街が夕日に染まっていた。 遠くに見える富士山の稜線は、信じられないほど静かだった。

 まどかが言った。

「先生」

「なんだ」

「最初の依頼、結局なんだったんでしょうね。悪臭防止法に基づく届出なんて」

 山崎は机の上の出生届を見た。

 そして、ゆっくり答えた。

「悪臭の届出だったんだよ」

「え?」

「十七年間、誰も嗅ごうとしなかった悪臭だ。嘘と隠蔽と無関心の匂い。真白はそれを、俺たちに届け出た」

 まどかは黙って頷いた。

 山崎は窓を開けた。

 雨上がりの街から、ほうじ茶と潮風と金木犀の匂いが流れ込んでくる。

 その中に、ほんの少しだけ、紙の匂いが混ざっていた。

 新しい届出書の匂い。

 誰かがこの世界に、ようやく生まれる匂いだった。

 
 
 

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