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戸籍謄本の行方

  • 山崎行政書士事務所
  • 1月10日
  • 読了時間: 4分




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 その書類は、あまりに小さく、またあまりに薄っぺらい。戸籍謄本と呼ばれるそれが、やがて一人の人間の心を剥き出しにすることになろうとは、誰が想像しただろうか。 私が行政書士としてその謄本を追い求める羽目になったのは、ある日の曇り空の下、薄い雨がぱらつく朝のことだった。外の道は雨に洗われ、アスファルトが黒く深く反射していた。まるでそこに小さな暗い湖がぽつりと広がっているようにも見えた。

 依頼主は、**上田(うえだ)**と名乗る中年の女性。小柄で、控えめな笑みを湛えながら「家族の歴史を知りたいんです」と語った。 雨で湿った彼女の髪先には、微かに冷たい滴がついていて、室内の灯りを受けて淡く光る。私が机に向かい「戸籍謄本の取り寄せですか?」と問い返すと、上田は少し視線を逸らしながら頷いた。 「ええ、古い戸籍までさかのぼりたいんです。祖母や曾祖父のことを調べてみたいと……」 その声は、遠く響く蝉の声が薄暗い神社の境内に重なるように、小さく震えていた。

 雨の勢いが少し弱まった昼下がり、私は役所に足を運ぶ。古い戸籍を辿るには、幾つもの書類を渡り歩かねばならない。窓口の係員が煩雑そうにファイルを開き閉じする様子を眺めながら、私は**「家族の歴史」とは何なのか**をぼんやり考えていた。 ふと視線を窓の外に向ければ、灰色の雲が低く垂れ込め、しかしその向こうに微かな青空の断片がのぞいている。まるで秘密の一端が隙間から覗いているように、私の心にも奇妙なざわめきが広がる。

 戸籍謄本を一つ、また一つと取り寄せるうち、私は奇妙な足跡を見つけてしまった。そこには、何やら姓が繋がらぬままの出生届け、あるいは時期が不自然な婚姻と離婚の記録が錯綜している。「どうやら上田が語った“祖母や曾祖父”の話は、純粋な系譜調査ではないらしい……」 翌日、再び私の事務所を訪れた上田に控えめに尋ねると、「実は父の遺産について、親戚同士で揉めそうなんです」と白状した。 それだけならまだしも、不倫の痕跡まで浮かんでくると知ったとき、私は言いようのない不快感に襲われた。濡れた曇天から、濃い霧が立ち込めてくるような心持ち。 あの小さな紙一枚が、人々の欲望や嘘を、するすると引きずり出してしまうのか。

 そして、上田の家族の関係が崩れゆく予兆が見え始めたのは、私がさらに古い戸籍を掘り当てたときだ。その紙に刻まれた名前の一部に、不自然な二重線が走る。改姓の記録が無数に記され、日付が前後する。 彼女の叔母が誰と結婚していたか、祖父がどの家に籍を入れていたか――それらが芋づる式に露わとなるにつれ、上田の顔には苦渋の色が浮かぶようになった。 「私、ただ祖母の本当の姓を知りたかっただけなのに……こんな不倫騒動があったなんて……」 その言葉に応える私も、内心の動揺を隠せない。まるで曇り空の下、濁った水面に見え隠れする醜い魚の影を見るようで、神経が疼く。

 ある夕刻、私が再度古い戸籍を参照しているとき、外では雨がやみ、雲の合間から一条の夕陽が差し込んだ。オレンジ色に染まる窓辺を見つめながら、私はふと物思いに耽る。 「この小さな戸籍謄本がなければ、誰も知らずにすんだ秘密。だが、もう後戻りはできない……」 私の胸中で、薄ら寒い風が吹き抜ける。外を見れば、桜の葉がすでに色を失いかけ、ただ黙々と枝にしがみついているのが見える。人生の無常を表すがごとく、季節は移ろい、人の絆もまた脆いものである。

七(結末)

 最終的に、上田は遺産相続の争いに巻き込まれ、戸籍上の事実が公になる。かつての不倫や隠された出自が明るみに出て、家族はその醜さを見せ合う形となった。私が用意した書類は、むしろ一家をばらばらにする呼び水となり、上田は呆然と肩を落とす。 「こんなはずじゃなかった……」――そう呟く上田の声に、私は返す言葉を持たない。書類という無機質なものが、人の感情をこれほどまでに狂わせるとは。 夕暮れの空気は冷え込み、一日の終わりを知らせるように町の灯が点々とともり始める。私は黙って表に出て、空を見上げる。雲間からかすかな月光が覗いている。波打つ心を抑えきれずに、**「戸籍謄本……ただそれだけで、家族が破綻するとは……」**と、胸の奥でつぶやいた。 遠くから秋風が吹き寄せ、木の葉を揺らす音が耳を刺すように響く。それはまるで、人間の奥底にある欲望と偽りの倫理を、いともあっさり暴き立てる“書類”という存在の無情を暗示しているかのようであった。

 
 
 

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