折り畳まれた声
- 山崎行政書士事務所
- 2月1日
- 読了時間: 8分

翌日、町の空気はまだ「ただいま」の余韻を引きずっていた。 笑い声が昨日より少し近く、足音が昨日より少し軽い。道端ですれ違う人の目が、ほんの少しだけ明るい。明るいのに、明るさがどこか怖い。明るさは、影を濃くするからだ。
幹夫は、朝から鉛筆を握りたかった。 竹を継いだあの鉛筆。短い芯の黒。握ると、胸の中が少しだけ整う。整うと、見えるものが増える。増えると、困ることも増える。困るのに、握りたい。
台所では祖母が鍋を洗っていた。 水の音がいつもより大きく聞こえる。音が大きいのは、水が増えたからじゃない。言葉が少ないからだ。
母は、朝から戸口のほうを何度も見た。 見て、何も来ないのを確認して、また見た。確認の動きは、待っている動きに似ている。
「川端んとこ、祝いで忙しいら」
祖母が言った。 母は「そう」とだけ返した。返し方が、昨日よりさらに短い。短い返事は、飲み込んだぶんだけ短い。
昼前、戸を叩く音がした。
とん、とん。
その音の間隔が、きちんとしていた。酔っている人の叩き方じゃない。急いでいる人の叩き方でもない。礼を知っている人の叩き方だった。
祖母が「はいよ」と立ち上がり、戸を開けた。
そこに立っていたのは、昨日「ただいま」と言った男だった。 川端の旦那。帽子を手に持って、少し背を丸くしている。丸さは疲れの丸さじゃなく、照れの丸さだった。戻ってきた人の体には、戻ったあとの照れが残る。
「……昨日は、騒がしくてな。こっちにも、挨拶しとこうと思って」
男の声は、まだ町の外の声だった。 外の声は、家の中で少し浮く。浮くのに、ちゃんと届く。
男は包みを差し出した。 乾いた魚の匂い。小さな干物だ。匂いだけで、ごちそうの顔をする。
「ほんの、これだけ」
祖母が「まあ」と言って受け取った。受け取り方が丁寧だった。丁寧に受け取ると、相手の照れが少し薄まる。
母も座敷から出てきて、男に頭を下げた。 頭の下げ方が、昨日より丁寧だった。丁寧さが、距離になる。
「お帰りなさい」
母が言った。 その「お帰りなさい」は、男に向けたのに、幹夫には別の方向へ飛んだように聞こえた。誰にも届かない方向へ。
男は「ただいま」と言いかけて、少し困った顔をした。 言っていいのか迷う顔。言うと、誰かの胸を刺すかもしれないと分かっている顔。
「……お世話んなった」
男は言い換えた。 言い換えは、優しさの形だと幹夫は思った。優しさは、時々言葉を折り畳む。
祖母は座敷に通そうとしたが、男は戸口のところで止まったまま、帽子を胸に抱えていた。
「みんな、浮かれてるで……すまんね」
男はそう言って笑った。笑い方は明るいのに、目が少しだけ濁っている。濁りは、帰ってきた人だけが持つ濁りだ。濁りの中に、見てきたものが沈んでいる。
母は小さく首を振った。
「ええですよ」
ええですよ、という言い方が、幹夫には少し痛かった。 ええ、の中に、ええじゃない、が隠れているように聞こえたからだ。
男はそれ以上踏み込まないように、話題を変えた。
「駅の紙……まだ、出とる?」
母のまぶたが、ほんの少し強くなった。 祖母が代わりに答えた。
「出とる。出とるで、増えるばっかだら」
「……そうか」
男は頷いた。 頷き方が、昨日「ただいま」と言った頷き方じゃなかった。帰ってきた人の頷きから、帰ってこない人の影が立ち上がる頷きだった。
男は一度だけ母を見た。見て、すぐに目を逸らした。 母の胸の中を、見ないようにした目だった。
「……うちもな、紙の前でずっと立っとった人、よう見た。あれは……」
男は言いかけて、口を閉じた。 言葉を続けたら、優しさじゃなくなると知っている閉じ方だった。
沈黙が落ちる前に、祖母が干物の包みを持ち上げた。
「ありがと。晩に焼くで」
祖母の声が、生活の声で場を支えた。 男はほっとしたみたいに息を吐いて、もう一度頭を下げた。
「……じゃあ」
男が帰ろうとしたとき、幹夫は一歩だけ前に出た。 出たのは、胸の中の小さな警報が押したからだ。押されると、足が勝手に出る。
「おじさん」
幹夫が呼ぶと、男は振り返った。 振り返る目が優しい。優しい目は、時々、怖い。怖いのに、見てしまう。
「なあに」
幹夫は言葉を探した。 探している間に、「父」という言葉が喉の奥で膨らんだ。膨らんだまま、出てこない。出したら、母の喉が動くのが分かってしまうからだ。
幹夫は代わりに、もっと小さい言葉を出した。
「……また、かえってくる?」
男の目が、一瞬だけ遠くを見た。 遠くを見る目は、海を見る目と似ている。答えの代わりに、広さを持ってくる目だ。
「……来る人も、おる」
男はそう言った。 来る、と言ってから、すぐに言い足した。
「来ん人も、おる」
言い足し方が、丁寧だった。 丁寧に言われるほど、幹夫の胸の奥が冷たくなる。
男は幹夫の頭に手を置こうとして、途中で止めた。 止めた手は、空を撫でるみたいにふわっと戻った。戻ったところに、言えないものが残った。
「……坊やは、よう目ぇ開いとるで。目ぇ開いとる子は、苦しいけど……大丈夫だ」
大丈夫、という言葉は、時々、何も保証しない。 保証しないのに、言わなきゃいけないときがある。男の大丈夫は、その種類だった。
男が去っていくと、戸口の光だけが残った。 光は何事もなかった顔で、畳を照らす。照らすほど、影がはっきりする。
母は、しばらく戸口を見ていた。 見ているのに、見ていないみたいだった。
「……晩、干物、焼こ」
祖母が言うと、母は「うん」とだけ答えた。 「うん」の中に、昨日の「ただいま」がまだ残っている気がした。
夜。干物の匂いが、家の中を満たした。 匂いは豊かなのに、食卓は静かだった。祖母は「うまいら」と言い、母は「そうかね」と言った。言葉はそれだけで、あとは箸の音と、湯気の音だけが続いた。
幹夫は、自分の皿の干物を小さくほぐした。 白い身が出る。白い身は、昨日の白い石に似ている。似ているのに、これは食べる白だ。食べる白はなくなる白だ。なくなる白を見ていると、胸の中の警報が小さく鳴る。
食べ終わって、母が片づけを始めたころ、祖母がふと押し入れの奥を見た。
「……布、出すかね」
祖母の言葉に、母の手が止まった。 止まったのは、器じゃない。母の肩だ。
「……出さんでいい」
母はそう言った。 出さんでいい、という声は、固い。固い声は、触れると手が切れる。
祖母はそれ以上言わずに、台所へ戻った。 戻る背中は、いつもより少し小さかった。
幹夫は、そのやり取りを見てしまって、息の仕方が分からなくなった。 分からないとき、幹夫の手は何かを探す。探して、鉛筆に触れたくなる。硬さがほしい。
夜更け。家が眠った気配のあとで、幹夫はそっと布団を抜け出した。 足の裏で畳の目を辿る。音を立てないように。音を立てると、言えないものが言葉になってしまう気がする。
居間の隅の押し入れ。 そこから、紙の擦れる音がした。
幹夫は立ち止まった。 立ち止まると、心臓がうるさい。うるさい心臓を押さえるように、幹夫は胸の内ポケットに指を入れた。鉛筆の硬さ。竹の継ぎ目。硬さは、音を丸くする。
押し入れの襖が、ほんの少し開いていた。 隙間から、母の背中が見えた。
母は箱を開けていた。 箱の中には布があり、布の中には紙があった。紙の端が何度も折り畳まれている。折り畳まれた紙は、声を畳んだ形だ。
母はその紙を広げずに、指で端をなぞった。 なぞり方が、白い石を確かめる指に似ていた。確かめる指は、震えない。震えないことで、震えを隠している。
母は、紙を胸に当てた。 当てたまま、目を閉じた。閉じた目の向こうで、何かが動いているのが分かる。動いているのに、音はしない。音がしない涙がある。
幹夫は、喉の奥が熱くなった。 熱くなったのに、声は出せなかった。声が出たら、母の紙が破れてしまう気がしたからだ。折り畳まれた声は、広げると風に飛ぶ。
母は、箱の中から小さな写真を出した。 写真の男は軍服を着て、少し笑っていた。笑いは硬い。硬い笑いは、写真の中でしか見たことがない笑いだった。
幹夫は、その顔が誰なのか分かった。 分かった瞬間、分かりたくなかった気持ちが胸に来た。分かってしまうと、父が「いる」みたいになる。「いる」みたいになると、「いない」がもっと痛くなる。
母は写真を見つめて、指で写真の端を少しだけこすった。 こすり方は、貝殻の欠けを砂で丸めたときの幹夫の指に似ていた。刺さらないように。刺さっても、血が出ないように。
母は写真を布で包み、箱に戻した。 戻す動きが丁寧だった。丁寧に戻すと、今夜の自分が壊れないで済む。
襖が、そっと閉まった。 母は立ち上がって、何もなかったように布団の部屋へ戻っていった。戻り方が静かすぎて、幹夫は息をするのを忘れた。
幹夫は、しばらくそこに立っていた。 立っているうちに、胸の中の警報が小さく鳴った。鳴り方が、いつもより優しい。優しい鳴り方は、「何かしろ」ではなく「ここにいろ」と言うときの鳴り方だ。
幹夫は自分の布団に戻った。 戻っても眠れなかった。眠れないまま、鉛筆を取り出して、新聞紙の裏を広げた。
幹夫は、書こうとした。 「父」と。
浜で口にできなかった言葉。 駅の紙の前で飲み込んだ言葉。 今夜、押し入れの隙間から見てしまった写真の言葉。
幹夫は鉛筆を置いた。 一画目。 そして、止まった。
「父」という字は、思ったより簡単な形をしているのに、幹夫には難しかった。 簡単なのに難しいものが、この家には多い。 ただいま。おかえり。大丈夫。 みんな短いのに、胸の奥で重い。
幹夫は息を吐いて、まず「帰」を書いた。 昨日母が教えた字。母の声がついている字。 声がついている字は、怖くても書ける。
次に、もう一度「父」に戻った。 線を引く。 引くと、黒が残る。
残った黒が、父の形になるかどうかは分からない。 分からないけれど、幹夫は書いた。 書き直して、また書いた。
「父」の形が、少しだけ「父」になったところで、幹夫は鉛筆を置いた。 紙を折り畳んだ。丁寧に。 丁寧に折り畳むと、紙の中に声がしまえる気がした。
幹夫はその小さな四角を、仏壇の前の小皿の横にそっと置いた。 角砂糖の白い欠片が、まだ少し残っている。 白の隣に、黒い字の紙。白と黒が並ぶと、夜と朝が隣にいるみたいだった。
幹夫は手を合わせた。 祈り方は知らない。 知らないから、ただ手を合わせた。
蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど、折り畳まれた声は、この家の中でまだ生きていた。 生きている声のそばで、幹夫は今日も、書けない字を少しずつ書こうとしている。 それが優しさなのか、ただの怖がりなのか、幹夫にはまだ分からないままだった。





コメント