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拳を握る理由

 ジムの空気には、汗とゴムと、消毒液の匂いが混じっていた。どれも肉体に属する匂いでありながら、どこか「管理された」匂いである。暴力がここでは、あらかじめ許可された運動にまで薄められているのが、幹夫にはかえって不気味だった。壁際に吊るされたサンドバッグは、黒い胴体の列となって、沈黙のまま揺れている。彼らは殴られるために存在し、殴られても決して抗議しない。倫理的な相手だった。

 幹夫は手首にバンテージを巻いた。白い布が、骨と腱を締め上げる感触は、どこか包帯に似ていた。包帯は傷を隠すものだが、ここでは傷を未然に防ぐ。暴力を行うために、暴力の痕跡を残さぬようにする――その倒錯を、幹夫は笑い飛ばせなかった。生きるための汚れすら、現代は先回りして拭き取ろうとする。清潔は美の仮面であると同時に、臆病の証拠でもある。

 拳を握ると、指の関節が白くなる。皮膚の下の骨が、初めて言葉を持つようにせり出してくる。握った拳は小さな凶器であり、凶器は目的を欲しがる。目的がない凶器ほど、醜く、卑しく、そして軽薄だ。

 幹夫はサンドバッグの前に立ち、拳の影を見た。蛍光灯の下で、その影は薄い。薄い影は、現実よりも嘘に近い。彼は一歩踏み込み、左を放った。布と革と砂の重いものが、低い音を立てて揺れた。反動が腕から肩へ伝わり、肩甲骨の奥がじんと痺れる。痛みは確かだ。痛みだけが、彼をこの場所に繋ぎ止める。

 二発、三発。拳は温まっていく。体温が上がると、精神は遅れて追いつこうとする。だが精神は、いつも遅い。遅いからこそ、倫理が生まれる。倫理とは、身体の即断を遅らせる装置なのだ、と幹夫は考えた。身体がすぐに結果へ飛びつけば、そこにはただの衝動しか残らない。衝動は善悪を知らない。善悪を知らぬものが人間の形を取ったとき、それは美ではなく、ただの獣になる。

 サンドバッグは、殴られても血を流さない。ここにあるのは音と揺れと汗だけだ。幹夫はそれを物足りないと思い、すぐに自分の物足りなさに嫌悪した。血を望む自分は、何を望んでいるのか。相手の苦痛か、自分の実在か。それとも、白いものを汚す快感か。

 ふと、静岡駅のコンコースが脳裏をよぎった。白いシャツの群れ。潔癖な襟。汚されるべきでありながら、汚されぬことを誇る肌。彼は、あの白を憎んだ。憎んだのは白そのものではない。白に守られて生きていける世界の薄さを、憎んだのだ。剣を持たず、殴る必要もなく、そしてその代わりに、殴りたい衝動だけが内側で腐る。

 幹夫は右を打った。拳が当たった瞬間、サンドバッグはわずかにひしゃげ、すぐに元へ戻った。元へ戻ることが、彼を苛立たせた。現実が元へ戻るのは、免罪符のように見える。何をしても帳消しになる世界ほど、暴力を腐らせるものはない。腐った暴力は、正義の形を借りてでも噴き出す。目的を失った力は、行き先を見失った蒸気のように、どこかの隙間で爆ぜる。

 彼は打つ手を止め、呼吸を整えた。胸が上下する。汗が鎖骨の溝に溜まる。肉体は確かなのに、その確かさが、なぜこんなにも不安を呼ぶのか。確かであるがゆえに、使い道が問われるからだ。刀は斬るために存在し、斬るために美しい。では拳はどうか。殴るために美しくなるのか。殴らぬために美しくなるのか。

 彼は自分の拳を見つめた。握り締めれば締めるほど、掌の皺が深くなる。皺は、人生の地図のようでいて、目的地を示さない。目的地のない地図ほど、残酷なものはない。

 幹夫は、もう一度拳を握った。だが今度は、殴るためではない。握り締めることでしか、内側の濁りを形にできないからだ。形にしない限り、濁りは濁りのまま、言葉にも倫理にもならず、ただ胸の底で腐っていく。

 握った拳は、サンドバッグの前で宙に止まった。

 殴れば音がする。殴らねば沈黙がする。

 どちらも美しくなり得る。だが目的を失った殴打は、音だけを残して魂を置き去りにする。魂を置き去りにした力は、最も醜い。

 幹夫は拳をゆっくり開いた。血が指先へ戻り、皮膚の白さが薄れる。開いた手は、武器ではない。ただの手だ。そのただの手を、彼はしばらく見ていた。

 ――拳を握る理由は、殴るためではない。殴りたい衝動に、目的という名を探すためだ。

 そう思った瞬間、彼は少しだけ救われ、同時に少しだけ絶望した。目的が見つからない限り、拳はいつでも美しくも醜くもなれる。美と醜の境界が、筋肉の線よりも曖昧であることを、幹夫は知ってしまったからである。

 
 
 

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