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断崖のページをめくる日――ヴィクトリアフォールズの峡谷で

朝のゲートでチケットを受け取ると、レンジャーが空を指して言った。「今日はスプレー(しぶき)が少ない日。滝よりも崖が主役だよ」なるほど、目の前には霧の幕より、黒い玄武岩の壁がどっしりと立ち、切れ目から白い水が糸の束みたいに落ちていた。ザンベジが刻んだ峡谷は、分厚い本のように縞を重ね、風がページを繰るたび、音が低くめくれた。

最初の“やらかし”は、最初の展望台で起きた。カメラを構えた瞬間、ストラップの金具がゆるんで、ぶらりと危うい角度に。心臓が変な位置へ落ちる。隣で観光客の安全確認をしていたガイドのメモリーが、笑いも慌てもせずにポケットから小さなキーリングを取り出し、ストラップの穴に通して八の字でひとひねり。「ここでは結び目が命綱」と指で軽く弾いた。金属の輪が小さく鳴って、私の呼吸も元の位置へ戻る。

崖の縁へ進むと、乾いた風が谷底から逆流してきた。滝の音は鼓膜ではなく胸骨で聴くタイプの低音。メモリーは岩の縞を指さし、「これは火の階段。ずっと昔の溶岩の層だ」と言う。霧が少ないおかげで、普段は隠れている皺や傷がよく見える。私は思わず声を下げた。ここでは小声の方が景色に似合う。

次の角で二度目の“やらかし”。帽子が風でふわりと浮き、棘のある灌木へ突っ込みそうになる。走って追う私より早く、メモリーが細いシューレースを取り出して、さっとあご紐を作ってくれた。「今日は風が監督だからね」。しっかり結び直された帽子は、それから一度も逃げようとしなかった。

峡谷をのぞき込む遊歩道の段差で、私は小さく滑って膝をすりむいた。メモリーは水筒の水で傷を洗い、腰のポーチから透明のジェルを少量。「ここでは汗だけ置いていきな」と、軽口と一緒に塗ってくれる。たったそれだけで、崖の大きさが少し味方になった。

休憩所の影で、彼はマプティ(ふわっと軽いポップコーン)の袋を開け、私の掌へひと握り。「Half for luck」と言うので、私はポケットから出したのど飴を半分に割って返す。乾季の峡谷は虹の代わりに地層を見せてくれるらしい。メモリーは「雨季は霧の劇場、今日は岩の図書館」と肩をすくめた。どちらもこの場所の正しい顔だ。

帰り道、若いカップルがベビーカーの日よけが緩んで困っていた。私はさっきメモリーに教わったばかりの八の字のひと結びで、布の端をフレームに固定する。メモリーが親指を立て、彼らは「Thank you!」と笑う。峡谷の縁で、見知らぬ者同士の小さな直し方が、景色に負けない音を立てた気がした。

最後の展望台に立つと、川は鍋の底(ボイリング・ポット)で渦を巻き、その泡立ちが遠いのに手触りを持って迫ってくる。私は帽子の結び目を指でさわり、カメラのキーリングを一度だけカチリと確かめた。今日起きたこと――緩んだ金具、あご紐のひと結び、ジェルの冷たさ、半分このマプティ、即席の日よけ――そのどれもが、滝の大きさの横で人の速度を取り戻してくれた。

ゲートへ戻る頃、メモリーが笑って言う。「滝は大きい。でも人の手は近い。覚えておくといい」私はうなずき、彼の手から細いシューレースの余りを小さな輪にして受け取った。バッグのファスナーに結んでおくと、歩くたびにかすかな音がした。谷風がその輪を揺らし、私は何度も振り返る。断崖は相変わらず大きいが、怖さより先に、あの結び目の確かさが胸に残る。

次にまたここを訪れるときも、私はきっと最初に結び目をつくる。風の監督に挨拶して、岩のページを一枚ずつめくるために。

 
 
 

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