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新宿三丁目、始発までに死んでくれ

※登場する時刻・駅構内描写・運用は物語上の架空設定です。

新宿三丁目駅は、夜になると巨大な心臓のように脈を打つ。

丸ノ内線の赤い光。副都心線へ沈む長い階段。都営新宿線へ続く冷たい通路。発車ベル、足音、改札機の電子音、広告の明滅。地上では歌舞伎町のネオンが眠らないが、地下では別の都市が息をしている。

その夜、二十三時十七分。

駅員がE出口方面の連絡通路で男を見つけた。スーツ姿の男は壁にもたれかかるように座り、目を開けたまま動かなかった。そばに落ちていたスマートフォンの画面には、停止した動画が映っていた。

《23:17》

その数字の下で、犯人らしき声が笑っていた。

「刑事さん、時刻表は嘘をつかない。嘘をつくのは、いつも人間だ」

遺体の胸ポケットには、白いカードが差し込まれていた。

M線 二十三時十七分発死は定刻に到着した警察、遅延中 —MAX

警視庁捜査一課の朝倉烈は、現場に着いた瞬間、拳を握りしめた。

「ふざけやがって」

烈は熱血で知られていた。怒鳴る。走る。眠らない。事件の被害者の名前を、必ず手帳の最初のページに書く。相棒の水瀬梢は、その真逆だった。

白い手袋。冷静な目。細い声。警察学校を首席で出て、知能検査では上限値を叩き出した女。一課では冗談交じりに“氷の秒針”と呼ばれていた。

梢は遺体のそばに膝をつき、スマートフォンの動画を確認した。

「死亡推定時刻は、二十三時十七分前後。動画の音声には丸ノ内線ホームの発車ベル。背景の案内表示にも同じ時刻が映っています」

「犯人は?」

「直前に防犯カメラに映っています。白いコートの男。けれど二十三時十六分には丸ノ内線の車両に乗り込んでいます。二十三時十七分には電車の中です」

烈は舌打ちした。

「駅にいない人間が、駅で人を殺せるわけがない」

梢は静かに言った。

「だから犯人は、そう見せたいんです」

その言葉が、のちに烈の胸を刺すことになる。

最初の被害者は赤澤康介。都市開発会社の専務。新宿三丁目周辺の再開発に関わっていた男だった。

二日後、第二の殺人が起きた。

午前零時四分。副都心線へ向かう連絡階段の踊り場で、灰谷仁という男が死んでいた。彼はかつて地下街の防災設備会社に勤めていた。

またカードが残されていた。

F線 零時四分発乗り換え時間は三分命の残り時間は二分 —MAX

その直後、警察の代表番号に電話が入った。

「朝倉烈刑事」

合成されたような声だった。

「次はもっと美しく殺す。警察が走れば走るほど、時刻表は正確になる」

烈は受話器を握り潰しそうになった。

「てめえ、どこにいる」

「新宿三丁目駅にいるよ。いないとも言える。時刻表の中にいる」

「出てこい。俺がぶん殴ってやる」

電話の向こうで、笑い声がした。

「熱血刑事。君の心臓は何分発だ?」

電話は切れた。

捜査本部は震えた。犯人MAXは、殺人を楽しんでいた。警察の配置を読み、防犯カメラの死角を読み、列車の発車時刻を読み、被害者の足取りまで分刻みで操っていた。

マスコミは“時刻表殺人鬼”と呼び始めた。

烈は呼び名を聞くたび、腹の底が煮えた。

被害者の遺族に会うたび、事件は数字ではなくなった。赤澤康介の娘は言った。

「父は、立派な人じゃなかったかもしれません。でも、朝はいつも私に卵焼きを作ってくれました。死んでいい人なんかじゃないです」

灰谷仁の妻は、涙も出ない顔で言った。

「夫は怖がりでした。暗い地下道なんて、一人では歩けない人でした。どうして、そんな場所で」

烈は返す言葉がなかった。

人は、新聞の見出しになった瞬間、悪人か善人かに切り分けられる。けれど実際の人間は、そのどちらでもない。卵焼きを作る手で、誰かを裏切ることもある。臆病な背中で、罪から逃げることもある。

烈はそれを知っていた。だからこそ、殺して裁く者を許せなかった。

三人目の予告は、始発前に届いた。

S線 五時四分発朝倉烈君の心臓を止める —MAX

捜査本部は騒然となった。

「朝倉、お前は本部に残れ」

上司が命じた。

烈は首を振った。

「犯人は俺を呼んでる。逃げたら、誰かが代わりに死ぬ」

梢が静かに言った。

「罠です」

「ああ」

「それでも行くんですね」

「罠なら食い破る」

烈は駅へ走った。

午前四時過ぎの新宿三丁目駅は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。清掃員のカートが遠くで軋み、シャッターの隙間から冷たい風が流れてくる。

烈は構内図を広げた。三つの路線。複数の出口。無数の階段。犯人は毎回、発車時刻を指定している。

だが、何かがおかしい。

烈は第一の事件の動画を何度も見返した。画面の端に、案内表示が映っている。

《23:17発》

確かに時刻は合っている。しかし烈は、ふと気づいた。

「梢」

「はい」

「この発車ベル、丸ノ内線じゃねえ」

梢の目がわずかに細くなった。

「どういう意味です」

「現場は丸ノ内線の通路。だが音は副都心線側のベルに似てる。しかも、案内表示の反射が変だ。あれは電光掲示板じゃない。ガラスに映ったポスターだ」

烈は構内の壁面広告を指さした。そこには、数日前まで貼られていた臨時ダイヤ告知の跡があった。

「動画の時刻は、現在時刻じゃなかった。発車予定時刻の数字を映していただけだ」

梢は黙っていた。

烈の背筋に冷たいものが走った。

「死亡推定時刻を、俺たちは動画に引っ張られた。犯人が二十三時十七分に殺したと思い込んだ。だが本当は、もっと前に殺されていた」

彼は第二の事件の資料をめくった。

「灰谷の事件も同じだ。零時四分に死んだんじゃない。殺害後、動画と音声だけが零時四分に届いた。だから犯人は、その時刻には別の場所にいられる」

梢は低く言った。

「つまり、時刻表アリバイの正体は、死亡時刻の偽装」

「違う」

烈は梢を見た。

「それだけじゃない。これは犯人自身のアリバイじゃない。警察の中にいる人間のアリバイだ」

梢の表情は変わらなかった。

烈は続けた。

「毎回、死亡推定時刻を最初に絞ったのはお前だ。水瀬梢。お前は俺たちに“その時刻”を信じさせた。その時刻、お前は必ず捜査員の前にいた。完璧なアリバイを持つためにな」

静寂が落ちた。

遠くで始発準備のアナウンスが流れた。無機質な声が、地下の空気を震わせる。

梢はゆっくりと手袋を外した。

「烈さんは、いつも最後に感情で正解へ来る」

「なぜだ」

烈の声はかすれていた。

「なぜ殺した」

梢は笑った。烈が初めて見る笑顔だった。美しく、冷たく、底のない笑顔だった。

「八年前、この駅の地下通路で事故がありました。覚えていますか」

烈は息を止めた。

八年前。再開発工事中の避難誘導ミス。公式発表では、偶発的な転倒事故。死者一名。

「死んだのは、私の弟です」

梢の声は震えていなかった。

「本当は誘導計画に不備があった。避難時刻表は改ざんされ、通路の閉鎖予定も隠された。赤澤は責任を逃れ、灰谷はデータを消した。三人目の男は、今夜ここに来る予定でした」

「だから殺したのか」

「最初は、正義のつもりでした」

梢は視線を落とした。

「でも、一人目を殺した時、わかったんです。人が時間どおりに恐怖へ落ちていく瞬間は、驚くほど静かで、美しい」

烈の拳が震えた。

「ふざけるな」

「ふざけてなんかいません。私は本気で警察を試しました。怒鳴る人間、泣く人間、祈る人間、みんな時刻表の前では無力だった。烈さん、あなた以外は」

その瞬間、梢は走った。

烈も走った。

改札を越え、閉じかけたシャッターをくぐり、地下へ降りる。階段の蛍光灯が点滅し、二人の影が壁に裂けるように伸びた。

梢は駅構内を知り尽くしていた。どの通路が開き、どの扉が閉まり、どのカメラがどこを映すか。彼女は時刻表だけではなく、駅そのものを記憶していた。

烈は追いながら叫んだ。

「水瀬!」

「来ないでください」

「まだ止まれる!」

「止まれません。私の時刻表は、もう最後まで書いてあります」

都営新宿線へ続く階段の途中で、梢は最後の標的を連れていた。八年前の事故調査を握り潰した元責任者。男は縛られ、恐怖で声も出ない。

梢は小さな端末を掲げた。

「五時四分。始発の時刻に、この人は死ぬ。そしてあなたは私を撃つ。熱血刑事が、復讐者を処刑する。最高の結末です」

烈は銃を構えなかった。

「撃たねえ」

「撃たなければ、この人が死ぬ」

「死なせねえ。お前もだ」

「甘い」

「甘くて結構だ」

烈は踏み込んだ。

梢が振り払う。烈は肩に衝撃を受け、壁に叩きつけられた。それでも倒れなかった。彼は立ち上がり、再び向かった。

二人は階段を転げるように下りた。始発前のホームに、空の列車が遠くから近づく音が響く。風が吹き、梢の髪が乱れた。

彼女は標的を引きずり、ホーム端へ向かった。

「私を止めたければ、殺すしかありません」

烈は叫んだ。

「お前は弟のために始めたんだろ! だったら弟を殺人の理由にするな!」

梢の足が一瞬止まった。

その一瞬で、烈は飛び込んだ。標的の男を突き飛ばして安全な位置へ転がし、梢の腕をつかむ。

梢は抵抗した。列車のライトが近づく。警笛が地下を裂いた。

「離して!」

「離さねえ!」

「私を生かして、何になるんです!」

烈は歯を食いしばった。

「罪を背負って生きろ。それが、お前の時刻表にない罰だ」

列車がホームに滑り込む直前、烈は梢を引き戻した。二人は床に倒れ込んだ。

五時四分。

始発は、何事もなかったように到着した。

梢は烈の腕の中で笑った。今度の笑いは、壊れた子どもの泣き声に似ていた。

「私、負けたんですね」

烈は手錠をかけながら言った。

「人間は電車じゃない。時刻表どおりに終われると思うな」

梢は天井を見つめた。

「朝日は、きれいですか」

烈は答えなかった。

彼には、きれいだと言う資格がない気がした。

事件は終わった。

MAXの正体は水瀬梢。警視庁の天才捜査官。犯人は外から警察を笑っていたのではない。最初から、警察の内側で笑っていた。

時刻表アリバイトリックは、列車の移動ではなく、死亡時刻そのものを偽る仕掛けだった。動画に映った時刻は現在時刻ではなく、発車予定時刻。音声は現場の音ではなく、別の場所の音。死者の最後の瞬間だと信じたものは、犯人が用意した“時刻表の芝居”だった。

そして最大の盲点は、誰も相棒のアリバイを疑わなかったことだった。

朝、地上へ出ると、新宿の空は薄い灰色だった。ビルの隙間から、弱々しい光が差していた。

烈は缶コーヒーを握っていた。駅の清掃員の老女が、何も言わずに渡してくれたものだった。

「刑事さん」

老女は言った。

「電車は遅れたら謝ります。でも人間は、遅れても会いに行けます。間違えても、手を伸ばせます」

烈は缶を見つめた。

温かかった。

被害者は戻らない。梢の弟も戻らない。罪を暴いても、過去は修正されない。正義はいつも遅れてくる。遅れてきた正義は、ときどき誰も救えない。

それでも、烈は歩き出した。

新宿三丁目駅の入口から、人々が地下へ降りていく。会社へ向かう者。学校へ向かう者。誰かに会いに行く者。誰も、昨日の地下に死がいたことを知らない。

世界は残酷なほど平然と、次の朝を始める。

烈は空を見上げた。

むなしさと絶望の底で、それでも陽はまた昇る。

 
 
 

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