新茶と銀河のあいだ
- 山崎行政書士事務所
- 5月7日
- 読了時間: 17分

五月の夜には、見えない橋がかかる。
幹夫は、そう思っていた。
昼のあいだ茶畑に満ちていた光は、夕暮れになると葉の奥へ静かにしまわれる。山の端が茜色に燃え、それが少しずつ薄紫へ変わり、やがて夜が降りてくるころ、茶畑は昼とは別の声で息をしはじめる。
その息は、新茶の香りをしていた。
青く、甘く、ほんの少し苦い。摘まれた若葉の匂いと、蒸された葉の湯気と、夜露を含んだ土の匂いが混じり合って、村の細い道をゆっくり流れていく。その香りを吸い込むと、幹夫の胸の奥に、まだ言葉になる前の気持ちが灯った。
それは、嬉しさに似ていた。 それは、寂しさに似ていた。 それは、誰かに呼ばれているようでもあり、誰にも届かない場所へひとり立っているようでもあった。
幹夫は十二歳だった。
茶畑の村で生まれ、茶畑の風を吸って育った少年だった。けれど父のように、葉の色を見て肥料の加減を考えたり、祖母のように、茶の湯気だけで湯冷ましの頃合いを知ったりすることは、まだできなかった。
幹夫に分かるのは、もっと形のないものだった。
雨の前に、草が少し低く黙ること。 夕焼けが濃すぎる日は、人の声まで赤く聞こえること。 誰かが笑っていても、その笑いの底に小さな寂しさが沈んでいること。
そんなことばかりが、幹夫の胸には入ってきた。
学校では、それをうまく言えなかった。言おうとすると、言葉はいつも小さくなりすぎた。感じているものは水のように広がっているのに、口から出ると、たった一粒の雫になってしまう。
「幹夫は、気にしすぎる」
父は時々そう言った。
その言葉に悪意がないことを、幹夫は知っていた。父は幹夫を叱りたいのではなく、困っているのだった。傷つきやすい息子を、どう扱えばいいのか分からない。厚い手のひらで薄い茶の若葉に触れるように、父はいつも少し不器用だった。
けれど幹夫は、その言葉を聞くたび、自分の心が人より頼りないものに思えた。
茶の若葉のように薄く、風にすぐ揺れ、指先で少し強く触れられただけで傷ついてしまう心。
その日の夕方、父は製茶場から戻ると、幹夫に小さな茶缶を渡した。
「初摘みの新茶だ」
茶缶はまだほのかに温かかった。幹夫が両手で受け取ると、金属の薄い蓋の向こうから、青い香りがかすかに漏れてきた。
「今夜、星野先生のところへ届けてこい」
「星野先生?」
「ああ。去年、足を悪くしてから畑へ来られんだろう。毎年、初物を楽しみにしている」
星野先生は、村の小学校で長く理科を教えていた老人だった。今は退職して、茶畑の上の坂道を少し上ったところに一人で住んでいる。庭には古い望遠鏡があり、晴れた夜には星を見ているのだと、祖母から聞いたことがあった。
「ひとりで?」
「もう暗くなる。気をつけて行け」
父はそれだけ言って、作業着の袖をまくり、台所の方へ行った。
幹夫は茶缶を胸に抱いた。
缶の中に、五月が入っているようだった。摘まれたばかりの若葉が、火と湯気と人の手を通って、こんな小さな器に収まっている。茶畑の広さも、朝露も、摘む人たちの息づかいも、全部が香りになってここに閉じ込められている。
幹夫は靴を履き、外へ出た。
空はもう暮れかけていた。
西の山際に、最後の光が細く残っている。茶畑はその光を受けて、深い緑の影となっていた。畝の曲線は、夜へ向かって静かに流れる波のようだった。遠くの製茶場からは、まだ機械の低い音が聞こえている。
坂道を上るにつれて、家々の明かりが少なくなった。幹夫の足元で、小石が小さく鳴った。草むらでは虫が鳴きはじめている。茶缶を抱く胸に、新茶の香りがじわじわと沁みてきた。
途中、幹夫は一度立ち止まった。
茶畑の向こうに、星がひとつ出ていた。
まだ空は完全な夜ではない。けれど、その星だけは早くも現れて、薄い藍色の中に小さく光っていた。幹夫にはそれが、茶畑から立ちのぼった香りの行き先のように思えた。
新茶は地上の春。 星は遠い空の火。 そのあいだを、香りが渡っている。
幹夫は、胸の中でそんなことを思った。
けれど、すぐに父の声がよみがえった。
気にしすぎる。
幹夫は唇を結んだ。
自分はまた、余計なことを考えているのだろうか。茶缶を届けるだけでいいのに。星を見て、香りを思って、胸が痛くなって、そういうことばかりに足を止めてしまう。
幹夫はもう一度歩き出した。
星野先生の家は、坂の上にあった。
古い木造の家で、庭には低い柿の木と、白い花をつけた小さな木があった。縁側のそばには、黒い筒のような望遠鏡が夜空へ向けられていた。玄関の戸を叩くと、しばらくして中からゆっくり足音が近づいた。
「はい」
戸が開き、星野先生が顔を出した。
白い髪は柔らかく乱れ、眼鏡の奥の目は、夜でも不思議に明るかった。
「おお、幹夫くんか」
「父が、これを」
幹夫は茶缶を差し出した。
「今年の初摘みです」
星野先生は両手で受け取った。
「ありがたいなあ」
蓋を少しだけ開け、香りを吸い込む。先生の目が細くなった。
「いい香りだ。五月がまっすぐ入っている」
その言い方に、幹夫は少し胸が温かくなった。
五月が入っている。
自分が思ったことと、少し似ていた。
「ちょうど今、星を見ようとしていたところなんだ」
星野先生は庭の望遠鏡を振り返った。
「幹夫くんも見ていくかい」
幹夫は迷った。
帰りが遅くなれば、父に叱られるかもしれない。けれど庭の望遠鏡は、夜空へ小さな窓を開けているように見えた。そこから何が見えるのか、どうしても知りたかった。
「少しだけなら」
幹夫が言うと、星野先生は微笑んだ。
「少しだけでいい。星は、少し見るだけでも長い時間をくれる」
先生は茶缶を縁側に置き、庭へ出た。
幹夫も後に続いた。草にはもう夜露が降りていて、靴の縁が冷たく濡れた。空はさっきより深くなっていた。茶畑の上に、星がいくつも灯っている。東の空には、淡い星の川のようなものが見えはじめていた。
「銀河だよ」
星野先生が言った。
「まだ薄いが、よく晴れた夜には見える」
「銀河」
幹夫はその言葉を口の中で繰り返した。
銀河。
それは、遠い響きのする言葉だった。茶畑の土の匂いからは、あまりにも遠い。けれど今、その銀河は茶畑の真上にあった。地上の緑と、空の白い川が、夜の中で向かい合っている。
星野先生は望遠鏡の向きを調整した。
「のぞいてごらん」
幹夫はそっと目を近づけた。
丸い暗闇の中に、星があった。
肉眼で見るよりずっと鋭く、小さく、そして孤独だった。幹夫は思わず息を止めた。星はただの点ではなかった。遠くから来た光だった。何年も、何十年も、あるいはもっと長い時間を旅して、今この小さな望遠鏡の中へ届いている。
目を離したあとも、その光が瞼の裏に残っていた。
「星の光はね」
先生が静かに言った。
「今ここで生まれたものではない。長い旅をして、ようやく目に届く」
幹夫は茶缶の方を見た。
「新茶の香りは、今日の春なのに」
「そうだね」
先生は頷いた。
「新茶は今年の五月。銀河は遠い昔の光。けれど、今夜、どちらもここにある」
幹夫の胸が、かすかに震えた。
今年の五月と、遠い昔の光。
新茶と銀河。
まるで違うものが、同じ夜に息をしている。
「先生」
「なんだい」
「そのあいだには、何があるんですか」
言ってから、幹夫は恥ずかしくなった。
変な質問だと思った。新茶と銀河のあいだ。そんなものに答えなどあるはずがない。けれど星野先生は笑わなかった。
先生は茶畑の方を見た。
闇の中で、畝の形だけがうっすらと分かる。風が吹くと、見えない葉が擦れ合う音がした。
「幹夫くんは、何があると思う?」
問い返され、幹夫は黙った。
何があるのだろう。
新茶は近すぎるほど近い。茶缶を開ければ香りが立つ。掌で包めば温かい。畑へ行けば、葉に触れられる。
銀河は遠すぎる。手を伸ばしても届かない。声をかけても返事はない。見えているのに、触れられない。
そのあいだに、自分がいる。
幹夫はそう思った。
新茶の香りに胸を痛め、銀河の光に息を止め、そのどちらにも完全にはなれず、ただ感じている自分。地上のものにも、空のものにも心を奪われて、いつもどこか落ち着かない自分。
「人の心、でしょうか」
幹夫は小さく言った。
星野先生は黙っていた。
「新茶は近くて、銀河は遠いです。でも、どっちも胸の中に入ってくるから。そのあいだに、心があるのかなって」
言い終えると、幹夫の頬が熱くなった。
また変なことを言った。父なら困った顔をするだろう。友だちなら笑うかもしれない。
けれど星野先生は、ゆっくり頷いた。
「いい答えだ」
幹夫は顔を上げた。
「心は、近いものと遠いものを同じ場所に置ける。今日の香りと、遠い星の光を一緒に抱ける。考えてみれば、不思議な器だね」
「器」
「湯呑みのようなものだ」
先生は縁側の茶缶を見た。
「湯呑みは小さいけれど、茶を注げば畑の春が入る。心も小さいようで、銀河まで入ることがある」
幹夫は自分の胸に手を当てた。
そこに本当に銀河が入るのだろうか。こんなにすぐ痛くなる胸に。誰かの言葉で曇り、夕暮れで苦しくなり、母のことを思い出すと涙がこみあげる胸に。
母は、去年の冬に亡くなった。
そのことを思うと、幹夫の胸は今でも冷たくなる。母がいないという事実は、夜の底にある深い水のようだった。昼間は見えなくても、ふとした時に足元から冷えが上ってくる。
母は新茶の季節が好きだった。
茶畑で働きながら、よく空を見上げていた。幹夫が幼いころ、母は若葉を一枚掌にのせて言った。
「この葉っぱにはね、空の光が畳まれているの」
幹夫はその言葉を今も覚えている。
空の光が畳まれている。
それなら、今日の新茶の香りの中にも、空は少し入っているのだろうか。母が見上げた空も、母が摘んだ若葉も、母の笑った声も、どこかで香りになって残っているのだろうか。
幹夫は星空を見上げた。
銀河は淡く、あまりにも遠かった。けれどその遠さは、母の遠さに似ていた。手は届かない。声も届かない。けれど、そこにあった光は、まだ自分へ届き続けている。
「先生」
「うん」
「亡くなった人も、星みたいですか」
星野先生はすぐには答えなかった。
庭の草が風に揺れた。遠くの製茶場の音が、夜の底で低く続いている。
「星そのものになるかどうかは、私には分からない」
先生は静かに言った。
「けれど、人が残したものは、星の光に似ていると思うことがあるよ」
「どうして」
「その人がいなくなったあとも、言葉や仕草や温もりが、遅れて届くことがあるからだ」
幹夫は息を止めた。
「お母さんの言葉も?」
「君が覚えているなら、届いているんだよ」
その瞬間、幹夫の目に涙が浮かんだ。
泣くつもりはなかった。けれど涙は勝手に出てきた。星の光が瞳の中で滲み、銀河が少し広がって見えた。幹夫は慌てて袖で拭おうとした。
星野先生は何も言わなかった。
黙って、縁側へ戻り、急須を用意した。湯を少し冷まし、茶缶から新茶を入れる。その動作はとても静かだった。茶葉に湯が注がれると、夜の空気の中に、ふわりと鮮やかな香りが広がった。
幹夫は涙を拭きながら、その香りを吸い込んだ。
新茶の香りは、不思議だった。
悲しい胸にも入ってくる。泣いている目の奥にも、そっと届く。そして苦しさを消すのではなく、そのそばに座ってくれる。まるで、泣いている子どもの隣に黙って腰を下ろす人のように。
「飲んでいきなさい」
先生が湯呑みを差し出した。
幹夫は両手で受け取った。
湯呑みの中の茶は、淡い緑色をしていた。そこに庭の灯りが小さく揺れている。幹夫は一口飲んだ。
最初に、若い苦みが舌に触れた。
そのあと、やわらかな甘みが戻ってきた。
幹夫は目を閉じた。
茶畑が浮かんだ。朝露の若葉。母の手ぬぐい。父の大きな手。祖母の白い髪。製茶場の湯気。坂道の夕暮れ。そして、さっき望遠鏡で見た星の光。
それらがみんな、湯呑みの中で一つになっていた。
新茶と銀河のあいだにあるもの。
それは心だけではないのかもしれない。
記憶がある。 香りがある。 言葉にならない悲しみがある。 遠いものを近く感じようとする、静かな願いがある。
幹夫は湯呑みを見つめた。
「僕の心は、小さすぎる気がします」
ぽつりと言った。
「すぐいっぱいになって、すぐ苦しくなります」
星野先生は、湯呑みを手にしたまま幹夫を見た。
「湯呑みも、小さいよ」
「でも」
「小さいから、両手で包める」
先生の声は、夜の風のように穏やかだった。
「大きすぎる器は、抱きしめられない。小さい心だからこそ、一つの香りや一つの光を、こぼさないように大事にできるのかもしれない」
幹夫は黙った。
自分の心が小さいこと、傷つきやすいこと、すぐ震えること。それらはずっと、幹夫にとって恥ずかしいことだった。もっと平気でいられたらいい。もっと強く笑えたらいい。もっと父のように、黙って働ける人になれたらいい。
けれど、小さいから包めるものがある。
そう考えたことはなかった。
夜は深まっていった。
幹夫は先生と並んで縁側に座り、茶を飲みながら星を見た。二人はあまり話さなかった。けれど沈黙は重くなかった。新茶の香りが間にあり、銀河の光が頭上にあった。
しばらくして、坂の下から足音が聞こえた。
父だった。
作業着のまま、少し息を切らして坂を上ってきた。幹夫は叱られると思って立ち上がった。
「遅いから見に来た」
父はそう言った。
「ごめんなさい」
幹夫はうつむいた。
星野先生が穏やかに言った。
「私が引き止めてしまったんです。新茶をいただきながら、星を見ていました」
父は望遠鏡を見た。
それから、幹夫の手の中の湯呑みを見た。
「そうですか」
父は少し気まずそうに頭を下げた。
星野先生は父にも茶を淹れた。
「せっかくですから、一杯どうぞ」
父は遠慮しかけたが、結局、縁側に腰を下ろした。大きな手で湯呑みを受け取ると、しばらく香りを嗅いだ。
「今年のは、どうですか」
父が尋ねた。
「いいお茶です」
先生は微笑んだ。
「地上の五月が、よく出ています」
父は少し困ったような顔をした。
幹夫は、その顔を見て、思わず小さく笑いそうになった。父には「地上の五月」という言い方が大げさに聞こえたのだろう。けれど嫌がっているわけではなかった。ただ、どう受け止めればいいか分からない顔だった。
その表情が、幹夫には少し愛しく見えた。
父もまた、不器用な器なのだ。
大きく見えるけれど、その中にしまっているものを、うまく言葉にできない。
星野先生が望遠鏡を指した。
「お父さんも、少し見ていかれますか」
「いや、私は」
父は断りかけた。
けれど幹夫が小さく言った。
「見てみて」
父は幹夫を見た。
その目には、驚きと、少しの迷いがあった。幹夫がこんなふうに何かを勧めることは、あまりなかったからだ。
父は湯呑みを置き、望遠鏡の前に立った。
大きな体を少しかがめ、片目を細める。その姿は、畑で葉の様子を確かめている時と少し似ていた。父はしばらく黙っていた。
「見える?」
幹夫が尋ねた。
「ああ」
父は低く答えた。
「小さいな」
星野先生が笑った。
「小さく見えますが、実際はとても大きい」
父は望遠鏡から目を離した。
「遠すぎるものは、小さく見えるんですね」
「ええ」
父は何かを考えるように、空を見上げた。
「近すぎるものは、逆に見えないことがあります」
ぽつりと、父が言った。
幹夫は父を見た。
父は幹夫の方を見なかった。けれど、その言葉が自分へ向けられているような気がした。
近すぎるもの。
家族。 茶畑。 母の不在。 父の沈黙。 幹夫の震える心。
近すぎて、父にも見えなかったものがあるのかもしれない。幹夫が父の重さを全部分からないように、父も幹夫の痛みを全部分からない。けれど、見ようとすれば、少しは見えるのかもしれない。
望遠鏡のようなものがあれば。
言葉や、香りや、同じ夜に並んで座る時間が、その望遠鏡になるのかもしれない。
帰り道、父と幹夫は並んで坂を下りた。
星野先生の家の灯りが背後で小さくなっていく。茶畑は闇の中で静かに広がっていた。空には銀河が淡く流れている。父はしばらく黙って歩いていた。
やがて、言った。
「母さんも、よく星を見ていた」
幹夫は足を止めそうになった。
父が母の話をすることは少なかった。母の名を口にすると、家の中の空気が深く沈むからだ。父はその沈み方を恐れているように見えた。
「茶摘みのあと、疲れているのに外へ出てな」
父は続けた。
「星を見るんだと言っていた。俺には、何がそんなに面白いのか分からなかった」
「お母さん、何か言ってた?」
「星の光は、遅れて届くんだと」
父の声は低かった。
「今日の寂しさも、いつか別の光になるかもしれない、と言っていた」
幹夫は胸が苦しくなった。
それは母らしい言葉だった。幹夫が好きだった、少し不思議で、けれど本当のことのように響く言葉。
「お父さんは、それを覚えてたの?」
「忘れたと思っていた」
父は茶畑の方を見た。
「でも、さっき星を見たら思い出した」
幹夫は黙って歩いた。
星の光のように、母の言葉も遅れて届く。父の胸にも、幹夫の胸にも。亡くなったあとで、年月を越えて、ふいに戻ってくる。
それなら、母は完全に遠くへ行ってしまったわけではないのかもしれない。
新茶の香りの中に。 星の光の中に。 父の思い出した言葉の中に。 幹夫の涙の中に。
家の明かりが見えてきたころ、父が言った。
「幹夫」
「うん」
「お前は、いろいろ感じすぎて大変だろう」
幹夫は返事に迷った。
「うん」
正直に頷くと、父は少し苦い顔をした。
「そうか」
それだけだった。
けれど、その「そうか」は、いつもの「気にしすぎる」とは違っていた。直せと言っているのではなかった。ただ、幹夫の大変さを、少しだけそこに置かせてくれる言葉だった。
幹夫は胸が温かくなった。
「でも」
幹夫は言った。
「今日、少しだけよかったと思った」
「何が」
「感じすぎること」
父は黙っていた。
「新茶の香りも、銀河の光も、どっちも胸に入ってきたから」
父は少しだけ笑った。
「欲張りだな」
「そうかな」
「地上のものも、空のものも入れるんだから」
幹夫も小さく笑った。
その笑いは、夜の茶畑に吸い込まれていった。大きな声ではなかった。けれど幹夫には、その小さな笑いが、父との間に初めてかかった細い橋のように思えた。
家に戻ると、祖母がまだ起きていた。
「遅かったね」
「星を見ていた」
父が答えた。
祖母は少し驚いたように父を見て、それから静かに笑った。
「いい夜だったんだね」
「まあな」
父は照れたように台所へ行った。
幹夫は自分の部屋へ戻り、机に向かった。
眠る前に、どうしても書きたいことがあった。町へ引っ越した沙耶へでも、亡くなった母へでも、未来の自分へでもない。誰に宛てるのか分からない手紙だった。
白い便箋を出し、鉛筆を握った。
字は少し震えた。
けれど幹夫は、その震えをそのままにした。
――今夜、僕は新茶と銀河のあいだにいました。
そこまで書いて、幹夫は窓を開けた。
夜の香りが入ってきた。家の向こうに茶畑は見えないが、新茶の匂いだけは確かにあった。空には、雲の切れ間から星がいくつか見えた。
幹夫は続きを書いた。
――新茶は今年の五月の香りで、銀河は遠い昔の光でした。 ――どちらも全然違うのに、同じ夜に僕の胸へ入ってきました。 ――僕の心は小さくて、すぐいっぱいになります。 ――でも、小さい湯呑みにも畑の春が入るように、小さい心にも銀河が入ることがあると知りました。
鉛筆の先が、紙の上で静かに音を立てた。
――お母さんの言葉も、星の光みたいに遅れて届きました。 ――お父さんも、それを覚えていました。 ――近すぎて見えなかったものが、遠い星を見たら少し見えました。 ――新茶の香りは、泣いている胸のそばに座ってくれました。 ――銀河の光は、遠くにあるものも消えたわけではないと教えてくれました。
幹夫は一度手を止めた。
目の奥が熱くなっていた。けれど今夜の涙は、苦しいだけではなかった。涙の中に、星の光が混じっているような気がした。
最後に、幹夫はこう書いた。
――新茶と銀河のあいだには、人の心があります。 ――香りを受け取り、光を受け取り、悲しみを少しずつ甘みに変えていく場所です。 ――僕はまだ、その場所でうまく立てません。 ――でも、今夜はそこにいてもいいのだと思いました。
書き終えると、幹夫は便箋を畳まなかった。
そのまま机の上に置いた。誰かに送るかどうかは、まだ分からなかった。けれど、それでよかった。手紙は、必ず誰かに届く前に、まず自分の胸へ届くものなのかもしれない。
幹夫は灯りを消し、布団に入った。
窓の外では、茶畑が見えないまま香っていた。空の遠くでは、銀河が見えないところまで続いていた。幹夫はそのあいだに、自分の小さな心が浮かんでいるのを感じた。
弱く、薄く、すぐ震える心。
けれどそこには、今夜の新茶の香りがあった。 遠い星の光があった。 母の言葉があった。 父の不器用な「そうか」があった。
幹夫は目を閉じた。
眠りに落ちる少し前、彼は思った。
明日になれば、また朝が来る。 銀河は見えなくなり、新茶の香りも少し薄くなる。 父とはまた、うまく話せないことがあるかもしれない。 悲しみも、寂しさも、完全になくなるわけではない。
それでも、今夜のことは胸に残る。
湯呑みに残る最後の香りのように。 夜明け前の空に残る星の名残のように。
新茶と銀河のあいだ。
そこに、幹夫はたしかに立っていた。
そしてその場所は、遠い空でも、近い畑でもなく、幹夫自身の心のいちばん静かなところに、いつまでも淡く香り続けるのだった。





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