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新茶と銀河のあいだ


五月の夜には、見えない橋がかかる。

 幹夫は、そう思っていた。

 昼のあいだ茶畑に満ちていた光は、夕暮れになると葉の奥へ静かにしまわれる。山の端が茜色に燃え、それが少しずつ薄紫へ変わり、やがて夜が降りてくるころ、茶畑は昼とは別の声で息をしはじめる。

 その息は、新茶の香りをしていた。

 青く、甘く、ほんの少し苦い。摘まれた若葉の匂いと、蒸された葉の湯気と、夜露を含んだ土の匂いが混じり合って、村の細い道をゆっくり流れていく。その香りを吸い込むと、幹夫の胸の奥に、まだ言葉になる前の気持ちが灯った。

 それは、嬉しさに似ていた。 それは、寂しさに似ていた。 それは、誰かに呼ばれているようでもあり、誰にも届かない場所へひとり立っているようでもあった。

 幹夫は十二歳だった。

 茶畑の村で生まれ、茶畑の風を吸って育った少年だった。けれど父のように、葉の色を見て肥料の加減を考えたり、祖母のように、茶の湯気だけで湯冷ましの頃合いを知ったりすることは、まだできなかった。

 幹夫に分かるのは、もっと形のないものだった。

 雨の前に、草が少し低く黙ること。 夕焼けが濃すぎる日は、人の声まで赤く聞こえること。 誰かが笑っていても、その笑いの底に小さな寂しさが沈んでいること。

 そんなことばかりが、幹夫の胸には入ってきた。

 学校では、それをうまく言えなかった。言おうとすると、言葉はいつも小さくなりすぎた。感じているものは水のように広がっているのに、口から出ると、たった一粒の雫になってしまう。

「幹夫は、気にしすぎる」

 父は時々そう言った。

 その言葉に悪意がないことを、幹夫は知っていた。父は幹夫を叱りたいのではなく、困っているのだった。傷つきやすい息子を、どう扱えばいいのか分からない。厚い手のひらで薄い茶の若葉に触れるように、父はいつも少し不器用だった。

 けれど幹夫は、その言葉を聞くたび、自分の心が人より頼りないものに思えた。

 茶の若葉のように薄く、風にすぐ揺れ、指先で少し強く触れられただけで傷ついてしまう心。

 その日の夕方、父は製茶場から戻ると、幹夫に小さな茶缶を渡した。

「初摘みの新茶だ」

 茶缶はまだほのかに温かかった。幹夫が両手で受け取ると、金属の薄い蓋の向こうから、青い香りがかすかに漏れてきた。

「今夜、星野先生のところへ届けてこい」

「星野先生?」

「ああ。去年、足を悪くしてから畑へ来られんだろう。毎年、初物を楽しみにしている」

 星野先生は、村の小学校で長く理科を教えていた老人だった。今は退職して、茶畑の上の坂道を少し上ったところに一人で住んでいる。庭には古い望遠鏡があり、晴れた夜には星を見ているのだと、祖母から聞いたことがあった。

「ひとりで?」

「もう暗くなる。気をつけて行け」

 父はそれだけ言って、作業着の袖をまくり、台所の方へ行った。

 幹夫は茶缶を胸に抱いた。

 缶の中に、五月が入っているようだった。摘まれたばかりの若葉が、火と湯気と人の手を通って、こんな小さな器に収まっている。茶畑の広さも、朝露も、摘む人たちの息づかいも、全部が香りになってここに閉じ込められている。

 幹夫は靴を履き、外へ出た。

 空はもう暮れかけていた。

 西の山際に、最後の光が細く残っている。茶畑はその光を受けて、深い緑の影となっていた。畝の曲線は、夜へ向かって静かに流れる波のようだった。遠くの製茶場からは、まだ機械の低い音が聞こえている。

 坂道を上るにつれて、家々の明かりが少なくなった。幹夫の足元で、小石が小さく鳴った。草むらでは虫が鳴きはじめている。茶缶を抱く胸に、新茶の香りがじわじわと沁みてきた。

 途中、幹夫は一度立ち止まった。

 茶畑の向こうに、星がひとつ出ていた。

 まだ空は完全な夜ではない。けれど、その星だけは早くも現れて、薄い藍色の中に小さく光っていた。幹夫にはそれが、茶畑から立ちのぼった香りの行き先のように思えた。

 新茶は地上の春。 星は遠い空の火。 そのあいだを、香りが渡っている。

 幹夫は、胸の中でそんなことを思った。

 けれど、すぐに父の声がよみがえった。

 気にしすぎる。

 幹夫は唇を結んだ。

 自分はまた、余計なことを考えているのだろうか。茶缶を届けるだけでいいのに。星を見て、香りを思って、胸が痛くなって、そういうことばかりに足を止めてしまう。

 幹夫はもう一度歩き出した。

 星野先生の家は、坂の上にあった。

 古い木造の家で、庭には低い柿の木と、白い花をつけた小さな木があった。縁側のそばには、黒い筒のような望遠鏡が夜空へ向けられていた。玄関の戸を叩くと、しばらくして中からゆっくり足音が近づいた。

「はい」

 戸が開き、星野先生が顔を出した。

 白い髪は柔らかく乱れ、眼鏡の奥の目は、夜でも不思議に明るかった。

「おお、幹夫くんか」

「父が、これを」

 幹夫は茶缶を差し出した。

「今年の初摘みです」

 星野先生は両手で受け取った。

「ありがたいなあ」

 蓋を少しだけ開け、香りを吸い込む。先生の目が細くなった。

「いい香りだ。五月がまっすぐ入っている」

 その言い方に、幹夫は少し胸が温かくなった。

 五月が入っている。

 自分が思ったことと、少し似ていた。

「ちょうど今、星を見ようとしていたところなんだ」

 星野先生は庭の望遠鏡を振り返った。

「幹夫くんも見ていくかい」

 幹夫は迷った。

 帰りが遅くなれば、父に叱られるかもしれない。けれど庭の望遠鏡は、夜空へ小さな窓を開けているように見えた。そこから何が見えるのか、どうしても知りたかった。

「少しだけなら」

 幹夫が言うと、星野先生は微笑んだ。

「少しだけでいい。星は、少し見るだけでも長い時間をくれる」

 先生は茶缶を縁側に置き、庭へ出た。

 幹夫も後に続いた。草にはもう夜露が降りていて、靴の縁が冷たく濡れた。空はさっきより深くなっていた。茶畑の上に、星がいくつも灯っている。東の空には、淡い星の川のようなものが見えはじめていた。

「銀河だよ」

 星野先生が言った。

「まだ薄いが、よく晴れた夜には見える」

「銀河」

 幹夫はその言葉を口の中で繰り返した。

 銀河。

 それは、遠い響きのする言葉だった。茶畑の土の匂いからは、あまりにも遠い。けれど今、その銀河は茶畑の真上にあった。地上の緑と、空の白い川が、夜の中で向かい合っている。

 星野先生は望遠鏡の向きを調整した。

「のぞいてごらん」

 幹夫はそっと目を近づけた。

 丸い暗闇の中に、星があった。

 肉眼で見るよりずっと鋭く、小さく、そして孤独だった。幹夫は思わず息を止めた。星はただの点ではなかった。遠くから来た光だった。何年も、何十年も、あるいはもっと長い時間を旅して、今この小さな望遠鏡の中へ届いている。

 目を離したあとも、その光が瞼の裏に残っていた。

「星の光はね」

 先生が静かに言った。

「今ここで生まれたものではない。長い旅をして、ようやく目に届く」

 幹夫は茶缶の方を見た。

「新茶の香りは、今日の春なのに」

「そうだね」

 先生は頷いた。

「新茶は今年の五月。銀河は遠い昔の光。けれど、今夜、どちらもここにある」

 幹夫の胸が、かすかに震えた。

 今年の五月と、遠い昔の光。

 新茶と銀河。

 まるで違うものが、同じ夜に息をしている。

「先生」

「なんだい」

「そのあいだには、何があるんですか」

 言ってから、幹夫は恥ずかしくなった。

 変な質問だと思った。新茶と銀河のあいだ。そんなものに答えなどあるはずがない。けれど星野先生は笑わなかった。

 先生は茶畑の方を見た。

 闇の中で、畝の形だけがうっすらと分かる。風が吹くと、見えない葉が擦れ合う音がした。

「幹夫くんは、何があると思う?」

 問い返され、幹夫は黙った。

 何があるのだろう。

 新茶は近すぎるほど近い。茶缶を開ければ香りが立つ。掌で包めば温かい。畑へ行けば、葉に触れられる。

 銀河は遠すぎる。手を伸ばしても届かない。声をかけても返事はない。見えているのに、触れられない。

 そのあいだに、自分がいる。

 幹夫はそう思った。

 新茶の香りに胸を痛め、銀河の光に息を止め、そのどちらにも完全にはなれず、ただ感じている自分。地上のものにも、空のものにも心を奪われて、いつもどこか落ち着かない自分。

「人の心、でしょうか」

 幹夫は小さく言った。

 星野先生は黙っていた。

「新茶は近くて、銀河は遠いです。でも、どっちも胸の中に入ってくるから。そのあいだに、心があるのかなって」

 言い終えると、幹夫の頬が熱くなった。

 また変なことを言った。父なら困った顔をするだろう。友だちなら笑うかもしれない。

 けれど星野先生は、ゆっくり頷いた。

「いい答えだ」

 幹夫は顔を上げた。

「心は、近いものと遠いものを同じ場所に置ける。今日の香りと、遠い星の光を一緒に抱ける。考えてみれば、不思議な器だね」

「器」

「湯呑みのようなものだ」

 先生は縁側の茶缶を見た。

「湯呑みは小さいけれど、茶を注げば畑の春が入る。心も小さいようで、銀河まで入ることがある」

 幹夫は自分の胸に手を当てた。

 そこに本当に銀河が入るのだろうか。こんなにすぐ痛くなる胸に。誰かの言葉で曇り、夕暮れで苦しくなり、母のことを思い出すと涙がこみあげる胸に。

 母は、去年の冬に亡くなった。

 そのことを思うと、幹夫の胸は今でも冷たくなる。母がいないという事実は、夜の底にある深い水のようだった。昼間は見えなくても、ふとした時に足元から冷えが上ってくる。

 母は新茶の季節が好きだった。

 茶畑で働きながら、よく空を見上げていた。幹夫が幼いころ、母は若葉を一枚掌にのせて言った。

「この葉っぱにはね、空の光が畳まれているの」

 幹夫はその言葉を今も覚えている。

 空の光が畳まれている。

 それなら、今日の新茶の香りの中にも、空は少し入っているのだろうか。母が見上げた空も、母が摘んだ若葉も、母の笑った声も、どこかで香りになって残っているのだろうか。

 幹夫は星空を見上げた。

 銀河は淡く、あまりにも遠かった。けれどその遠さは、母の遠さに似ていた。手は届かない。声も届かない。けれど、そこにあった光は、まだ自分へ届き続けている。

「先生」

「うん」

「亡くなった人も、星みたいですか」

 星野先生はすぐには答えなかった。

 庭の草が風に揺れた。遠くの製茶場の音が、夜の底で低く続いている。

「星そのものになるかどうかは、私には分からない」

 先生は静かに言った。

「けれど、人が残したものは、星の光に似ていると思うことがあるよ」

「どうして」

「その人がいなくなったあとも、言葉や仕草や温もりが、遅れて届くことがあるからだ」

 幹夫は息を止めた。

「お母さんの言葉も?」

「君が覚えているなら、届いているんだよ」

 その瞬間、幹夫の目に涙が浮かんだ。

 泣くつもりはなかった。けれど涙は勝手に出てきた。星の光が瞳の中で滲み、銀河が少し広がって見えた。幹夫は慌てて袖で拭おうとした。

 星野先生は何も言わなかった。

 黙って、縁側へ戻り、急須を用意した。湯を少し冷まし、茶缶から新茶を入れる。その動作はとても静かだった。茶葉に湯が注がれると、夜の空気の中に、ふわりと鮮やかな香りが広がった。

 幹夫は涙を拭きながら、その香りを吸い込んだ。

 新茶の香りは、不思議だった。

 悲しい胸にも入ってくる。泣いている目の奥にも、そっと届く。そして苦しさを消すのではなく、そのそばに座ってくれる。まるで、泣いている子どもの隣に黙って腰を下ろす人のように。

「飲んでいきなさい」

 先生が湯呑みを差し出した。

 幹夫は両手で受け取った。

 湯呑みの中の茶は、淡い緑色をしていた。そこに庭の灯りが小さく揺れている。幹夫は一口飲んだ。

 最初に、若い苦みが舌に触れた。

 そのあと、やわらかな甘みが戻ってきた。

 幹夫は目を閉じた。

 茶畑が浮かんだ。朝露の若葉。母の手ぬぐい。父の大きな手。祖母の白い髪。製茶場の湯気。坂道の夕暮れ。そして、さっき望遠鏡で見た星の光。

 それらがみんな、湯呑みの中で一つになっていた。

 新茶と銀河のあいだにあるもの。

 それは心だけではないのかもしれない。

 記憶がある。 香りがある。 言葉にならない悲しみがある。 遠いものを近く感じようとする、静かな願いがある。

 幹夫は湯呑みを見つめた。

「僕の心は、小さすぎる気がします」

 ぽつりと言った。

「すぐいっぱいになって、すぐ苦しくなります」

 星野先生は、湯呑みを手にしたまま幹夫を見た。

「湯呑みも、小さいよ」

「でも」

「小さいから、両手で包める」

 先生の声は、夜の風のように穏やかだった。

「大きすぎる器は、抱きしめられない。小さい心だからこそ、一つの香りや一つの光を、こぼさないように大事にできるのかもしれない」

 幹夫は黙った。

 自分の心が小さいこと、傷つきやすいこと、すぐ震えること。それらはずっと、幹夫にとって恥ずかしいことだった。もっと平気でいられたらいい。もっと強く笑えたらいい。もっと父のように、黙って働ける人になれたらいい。

 けれど、小さいから包めるものがある。

 そう考えたことはなかった。

 夜は深まっていった。

 幹夫は先生と並んで縁側に座り、茶を飲みながら星を見た。二人はあまり話さなかった。けれど沈黙は重くなかった。新茶の香りが間にあり、銀河の光が頭上にあった。

 しばらくして、坂の下から足音が聞こえた。

 父だった。

 作業着のまま、少し息を切らして坂を上ってきた。幹夫は叱られると思って立ち上がった。

「遅いから見に来た」

 父はそう言った。

「ごめんなさい」

 幹夫はうつむいた。

 星野先生が穏やかに言った。

「私が引き止めてしまったんです。新茶をいただきながら、星を見ていました」

 父は望遠鏡を見た。

 それから、幹夫の手の中の湯呑みを見た。

「そうですか」

 父は少し気まずそうに頭を下げた。

 星野先生は父にも茶を淹れた。

「せっかくですから、一杯どうぞ」

 父は遠慮しかけたが、結局、縁側に腰を下ろした。大きな手で湯呑みを受け取ると、しばらく香りを嗅いだ。

「今年のは、どうですか」

 父が尋ねた。

「いいお茶です」

 先生は微笑んだ。

「地上の五月が、よく出ています」

 父は少し困ったような顔をした。

 幹夫は、その顔を見て、思わず小さく笑いそうになった。父には「地上の五月」という言い方が大げさに聞こえたのだろう。けれど嫌がっているわけではなかった。ただ、どう受け止めればいいか分からない顔だった。

 その表情が、幹夫には少し愛しく見えた。

 父もまた、不器用な器なのだ。

 大きく見えるけれど、その中にしまっているものを、うまく言葉にできない。

 星野先生が望遠鏡を指した。

「お父さんも、少し見ていかれますか」

「いや、私は」

 父は断りかけた。

 けれど幹夫が小さく言った。

「見てみて」

 父は幹夫を見た。

 その目には、驚きと、少しの迷いがあった。幹夫がこんなふうに何かを勧めることは、あまりなかったからだ。

 父は湯呑みを置き、望遠鏡の前に立った。

 大きな体を少しかがめ、片目を細める。その姿は、畑で葉の様子を確かめている時と少し似ていた。父はしばらく黙っていた。

「見える?」

 幹夫が尋ねた。

「ああ」

 父は低く答えた。

「小さいな」

 星野先生が笑った。

「小さく見えますが、実際はとても大きい」

 父は望遠鏡から目を離した。

「遠すぎるものは、小さく見えるんですね」

「ええ」

 父は何かを考えるように、空を見上げた。

「近すぎるものは、逆に見えないことがあります」

 ぽつりと、父が言った。

 幹夫は父を見た。

 父は幹夫の方を見なかった。けれど、その言葉が自分へ向けられているような気がした。

 近すぎるもの。

 家族。 茶畑。 母の不在。 父の沈黙。 幹夫の震える心。

 近すぎて、父にも見えなかったものがあるのかもしれない。幹夫が父の重さを全部分からないように、父も幹夫の痛みを全部分からない。けれど、見ようとすれば、少しは見えるのかもしれない。

 望遠鏡のようなものがあれば。

 言葉や、香りや、同じ夜に並んで座る時間が、その望遠鏡になるのかもしれない。

 帰り道、父と幹夫は並んで坂を下りた。

 星野先生の家の灯りが背後で小さくなっていく。茶畑は闇の中で静かに広がっていた。空には銀河が淡く流れている。父はしばらく黙って歩いていた。

 やがて、言った。

「母さんも、よく星を見ていた」

 幹夫は足を止めそうになった。

 父が母の話をすることは少なかった。母の名を口にすると、家の中の空気が深く沈むからだ。父はその沈み方を恐れているように見えた。

「茶摘みのあと、疲れているのに外へ出てな」

 父は続けた。

「星を見るんだと言っていた。俺には、何がそんなに面白いのか分からなかった」

「お母さん、何か言ってた?」

「星の光は、遅れて届くんだと」

 父の声は低かった。

「今日の寂しさも、いつか別の光になるかもしれない、と言っていた」

 幹夫は胸が苦しくなった。

 それは母らしい言葉だった。幹夫が好きだった、少し不思議で、けれど本当のことのように響く言葉。

「お父さんは、それを覚えてたの?」

「忘れたと思っていた」

 父は茶畑の方を見た。

「でも、さっき星を見たら思い出した」

 幹夫は黙って歩いた。

 星の光のように、母の言葉も遅れて届く。父の胸にも、幹夫の胸にも。亡くなったあとで、年月を越えて、ふいに戻ってくる。

 それなら、母は完全に遠くへ行ってしまったわけではないのかもしれない。

 新茶の香りの中に。 星の光の中に。 父の思い出した言葉の中に。 幹夫の涙の中に。

 家の明かりが見えてきたころ、父が言った。

「幹夫」

「うん」

「お前は、いろいろ感じすぎて大変だろう」

 幹夫は返事に迷った。

「うん」

 正直に頷くと、父は少し苦い顔をした。

「そうか」

 それだけだった。

 けれど、その「そうか」は、いつもの「気にしすぎる」とは違っていた。直せと言っているのではなかった。ただ、幹夫の大変さを、少しだけそこに置かせてくれる言葉だった。

 幹夫は胸が温かくなった。

「でも」

 幹夫は言った。

「今日、少しだけよかったと思った」

「何が」

「感じすぎること」

 父は黙っていた。

「新茶の香りも、銀河の光も、どっちも胸に入ってきたから」

 父は少しだけ笑った。

「欲張りだな」

「そうかな」

「地上のものも、空のものも入れるんだから」

 幹夫も小さく笑った。

 その笑いは、夜の茶畑に吸い込まれていった。大きな声ではなかった。けれど幹夫には、その小さな笑いが、父との間に初めてかかった細い橋のように思えた。

 家に戻ると、祖母がまだ起きていた。

「遅かったね」

「星を見ていた」

 父が答えた。

 祖母は少し驚いたように父を見て、それから静かに笑った。

「いい夜だったんだね」

「まあな」

 父は照れたように台所へ行った。

 幹夫は自分の部屋へ戻り、机に向かった。

 眠る前に、どうしても書きたいことがあった。町へ引っ越した沙耶へでも、亡くなった母へでも、未来の自分へでもない。誰に宛てるのか分からない手紙だった。

 白い便箋を出し、鉛筆を握った。

 字は少し震えた。

 けれど幹夫は、その震えをそのままにした。

 ――今夜、僕は新茶と銀河のあいだにいました。

 そこまで書いて、幹夫は窓を開けた。

 夜の香りが入ってきた。家の向こうに茶畑は見えないが、新茶の匂いだけは確かにあった。空には、雲の切れ間から星がいくつか見えた。

 幹夫は続きを書いた。

 ――新茶は今年の五月の香りで、銀河は遠い昔の光でした。 ――どちらも全然違うのに、同じ夜に僕の胸へ入ってきました。 ――僕の心は小さくて、すぐいっぱいになります。 ――でも、小さい湯呑みにも畑の春が入るように、小さい心にも銀河が入ることがあると知りました。

 鉛筆の先が、紙の上で静かに音を立てた。

 ――お母さんの言葉も、星の光みたいに遅れて届きました。 ――お父さんも、それを覚えていました。 ――近すぎて見えなかったものが、遠い星を見たら少し見えました。 ――新茶の香りは、泣いている胸のそばに座ってくれました。 ――銀河の光は、遠くにあるものも消えたわけではないと教えてくれました。

 幹夫は一度手を止めた。

 目の奥が熱くなっていた。けれど今夜の涙は、苦しいだけではなかった。涙の中に、星の光が混じっているような気がした。

 最後に、幹夫はこう書いた。

 ――新茶と銀河のあいだには、人の心があります。 ――香りを受け取り、光を受け取り、悲しみを少しずつ甘みに変えていく場所です。 ――僕はまだ、その場所でうまく立てません。 ――でも、今夜はそこにいてもいいのだと思いました。

 書き終えると、幹夫は便箋を畳まなかった。

 そのまま机の上に置いた。誰かに送るかどうかは、まだ分からなかった。けれど、それでよかった。手紙は、必ず誰かに届く前に、まず自分の胸へ届くものなのかもしれない。

 幹夫は灯りを消し、布団に入った。

 窓の外では、茶畑が見えないまま香っていた。空の遠くでは、銀河が見えないところまで続いていた。幹夫はそのあいだに、自分の小さな心が浮かんでいるのを感じた。

 弱く、薄く、すぐ震える心。

 けれどそこには、今夜の新茶の香りがあった。 遠い星の光があった。 母の言葉があった。 父の不器用な「そうか」があった。

 幹夫は目を閉じた。

 眠りに落ちる少し前、彼は思った。

 明日になれば、また朝が来る。 銀河は見えなくなり、新茶の香りも少し薄くなる。 父とはまた、うまく話せないことがあるかもしれない。 悲しみも、寂しさも、完全になくなるわけではない。

 それでも、今夜のことは胸に残る。

 湯呑みに残る最後の香りのように。 夜明け前の空に残る星の名残のように。

 新茶と銀河のあいだ。

 そこに、幹夫はたしかに立っていた。

 そしてその場所は、遠い空でも、近い畑でもなく、幹夫自身の心のいちばん静かなところに、いつまでも淡く香り続けるのだった。

 
 
 

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