新茶の丘に星が降る
- 山崎行政書士事務所
- 5月7日
- 読了時間: 10分

五月の夜の丘には、まだ昼の若い匂いが残っていた。
幹夫少年は、茶畑の細い農道に立ち、ゆっくり息を吸った。新茶の季節の茶葉は、ほかの季節の葉よりも、どこか幼い香りがする。青く、みずみずしく、けれど少しだけ苦みを含んだ香りだった。
丘の斜面には、茶の畝が幾筋も並んでいた。
昼間は、新芽のやわらかな緑がまぶしいほどだった。摘まれたばかりの畝もあり、まだ小さな葉を残している畝もある。どの茶の木も、冬を越えてようやく目をひらいたばかりのように見えた。
けれど夜になると、茶畑は静かだった。
風が吹くたびに、茶葉が低く鳴る。
さわ。 さわ。
その音は、まだ眠れない子どもが、布団の中で小さく寝返りを打つ音に似ていた。
幹夫は、その音を聞きながら、胸の中に残っている言葉を思い出していた。
その日、学校で新しい班が決まった。
新しい席。 新しい係。 新しい話し相手。 五月の教室は、少し落ち着いたようでいて、まだどこかぎこちなかった。
幹夫の隣の席になったのは、春に転校してきたばかりの女の子だった。名前は佐和子さんといった。声は小さく、返事をする時、少しだけ目を伏せる。けれど、ノートの字はとても丁寧で、休み時間には窓の外の木をよく見ていた。
その日、佐和子さんが筆箱を落とした。
中から鉛筆や消しゴムが転がった。幹夫はすぐ拾った。佐和子さんは小さく「ありがとう」と言った。
幹夫は、その時、本当は言いたかった。
「この学校に、もう少し慣れた?」
でも、言えなかった。
もし余計なお世話だったら。 もし「まだ慣れていない」と言わせてしまったら。 もし聞かれたくないことだったら。
そう考えているうちに、言葉は胸の奥で固まってしまった。
幹夫はただ、
「どういたしまして」
とだけ言った。
間違った言葉ではない。けれど、幹夫の胸には、言えなかった一言が残った。
新しい場所にいる人の心は、五月の新芽に似ているのかもしれない。柔らかくて、少しの風にも揺れる。だからこそ、触れる手がむずかしい。
強く聞けば傷つける。 聞かなければ、ひとりにしてしまうかもしれない。
幹夫は、その加減がわからなかった。
だから夜になって、茶畑の丘へ来たのだった。
新茶の丘なら、始まったばかりのものの気持ちが少しわかる気がした。
空には星が出ていた。
月は細く、町の明かりは遠かった。丘の上から見える夜空は、家の窓から見る空よりも深かった。星はたくさんあるのに、どれも急いで光っていない。ただ、それぞれの場所で静かにまたたいている。
その時、空の高いところで、ひとつの星が揺れた。
幹夫は顔を上げた。
流れ星だと思った。けれど、その星はすぐには消えなかった。白い尾を引くこともなく、ゆっくり、ゆっくり、茶畑のほうへ降りてきた。
続いて、またひとつ。
またひとつ。
星が降っていた。
雨のように激しくはない。 雪のように重くもない。 光の粒が、息をひそめて降りてくる。
星は茶葉の先に触れると、小さなしずくになった。新茶の若い葉の上で、星のしずくが丸くなり、かすかに震えた。茶畑の畝が、ひとすじ、またひとすじと、銀色に浮かび上がっていく。
幹夫は声を失った。
新茶の丘に、星が降っている。
その光景は、美しいというより、切なかった。あまりに小さな星たちが、やわらかな茶葉に受け止められている。茶葉のほうも、星の重さに少し震えながら、それでもこぼさず抱いている。
「今夜は、はじまり星の夜だよ」
声がした。
幹夫は振り向いた。
茶畑の畝のあいだに、一人の少年が立っていた。
幹夫と同じくらいの年に見えた。けれど、その姿は少し透き通っていた。着ている服は茶葉の若い緑色で、髪には夜露のような光がついている。手には、小さな白い茶碗を持っていた。
「はじまり星?」
幹夫が聞くと、少年はうなずいた。
「新茶の丘には、五月になると降るんだ。まだ言葉になっていない始まりの気持ちが、星になって」
「始まりの気持ち……」
「新しい席。新しい友だち。新しい道。新しい自分になりたいけれど、まだ怖い気持ち。そういうものは、昼間の胸にしまわれると重くなる。だから夜、空へ上って、星になって、茶葉へ降りる」
幹夫は、茶葉の上の星を見た。
しずくの中には、小さな景色が映っていた。
新しい教室。 新しい靴。 新しいノート。 新しい名前を呼ばれる時の、少しの緊張。
少年は言った。
「ぼくは、新茶の丘の星番」
「星番?」
「降ってきたはじまり星を、新茶の葉へ入れる手伝いをする。読まれた星は茶葉の中に入り、いつかお茶の香りになる。読まれなかった星は、朝になるとただの露になってしまう」
幹夫は胸に手を当てた。
そこには、今日言えなかった一言がまだあった。
この学校に、もう少し慣れた?
その言葉も、はじまり星になったのだろうか。
星番は、幹夫の気持ちを知っているように、茶畑の奥を指さした。
「幹夫の星も、あそこにあるよ」
幹夫は、星番について畝のあいだを歩いた。
茶葉を踏まないように。 星のしずくを落とさないように。 五月の夜の静けさを壊さないように。
新茶の葉は柔らかかった。
大人の葉のように厚くはない。星を受け止めるたび、少しだけ身を震わせる。それでも、葉の先はしっかりとしずくを抱いていた。
幹夫は思った。
柔らかいものは、弱いだけではない。 柔らかいから、こぼれそうなものを受け止められるのかもしれない。
やがて、畑の中ほどにある一枚の新芽の前で、星番は立ち止まった。
そこに宿った星は、淡い青色をしていた。
幹夫が覗き込むと、中に佐和子さんの机が映った。
落ちた筆箱。 転がった鉛筆。 拾う幹夫の手。 小さく「ありがとう」と言った佐和子さんの声。 そのあと、言葉を飲み込んだ自分。
幹夫の胸が痛んだ。
「これが、ぼくの星?」
「うん」
星番は言った。
「聞きたかったけれど、聞けなかった言葉の星」
幹夫は、しずくを見つめた。
「ぼく、怖かった」
声にすると、少しだけ胸が震えた。
「佐和子さんが、新しい教室で寂しいかもしれないって思った。でも、それを聞いたら、もっと寂しくさせるかもしれないと思った。だから何も言えなかった」
青い星が、かすかに光った。
幹夫は続けた。
「でも、何も言わなかったことで、ひとりにしてしまったかもしれない」
星番は黙っていた。
茶葉が、さわ、と鳴った。
それは責める音ではなかった。
ただ、聞いている音だった。
星番は言った。
「はじまりの言葉は、強すぎると相手をびっくりさせる。弱すぎると届かない。だから、新茶の香りに似ているんだ」
「新茶の香り?」
「若くて、少し苦くて、でも奥に甘みがある。はじまりの言葉も、そういうものがいい」
幹夫は、青い星の中の佐和子さんを見た。
「じゃあ、何て言えばよかったんだろう」
星番は、すぐには答えなかった。
「それを幹夫が見つけるんだよ。星は答えをくれるわけじゃない。胸の中にある言葉の芽を見せてくれるだけ」
幹夫は、しずくの中をじっと見つめた。
すると、言葉が少しずつ形になった。
この学校に慣れた? それは少し大きすぎる。
寂しくない? それも、相手の胸を急に開けようとするようで怖い。
何か困ったら言ってね。 それは悪くないけれど、少し遠い。
幹夫は、茶葉の揺れを見ながら、もっと小さな言葉を探した。
やがて、ひとつの言葉が胸に浮かんだ。
「この学校の図書室、静かでいいよ」
幹夫は小さく言った。
星番が微笑んだ。
「それは、いいはじまりだね」
「それだけでいいの?」
「それだけだから、いいこともある」
青い星は、少しずつ明るくなった。
幹夫は続けた。
「佐和子さん、窓の外をよく見ているから。本が好きかどうかはわからないけど、図書室なら、無理に話さなくても同じ場所にいられる気がする」
星のしずくは、茶葉の中へゆっくり沈んでいった。
新芽の葉脈が、淡く青く光った。
「これは、どんな香りになるの?」
幹夫が聞くと、星番は答えた。
「誰かに近づく時、急に心の扉を開けようとしなくてもいいと思える香り」
幹夫は、胸が少し温かくなった。
そういう香りなら、幹夫自身にも必要だった。
星番は、また歩き出した。
新茶の丘には、ほかにもたくさんの星が降っていた。
ある星には、新しいランドセルを背負った一年生が映っていた。
――重いけれど、うれしい。 ――うれしいけれど、少し怖い。
幹夫は、その星に言った。
「重いって思っていいよ。うれしいと怖いは、一緒にいてもいいよ」
星は茶葉へ沈んだ。
ある星には、部活に初めて入った子が映っていた。
――できないことが多くて、笑ってごまかした。
幹夫は言った。
「できない最初の日も、あとから大切な日になるかもしれない」
星は少し濁ったまま、茶葉へ入った。
星番は言った。
「濁った星も入れるんだよ。はじまりは、きれいな気持ちだけではないから」
幹夫はうなずいた。
はじまりは、明るいだけではない。
不安もある。 恥ずかしさもある。 比べてしまう気持ちもある。 戻りたいと思う日もある。
けれど、それでも始まっている。
新茶の葉が、冬の寒さと春の雨を抱えたまま伸びるように。
丘のいちばん高いところへ来ると、ひときわ大きな星が一枚の若葉に宿っていた。
その星は、白でも青でもなく、ほとんど透明だった。
中には、茶畑全体が映っていた。
新芽。 古い葉。 摘む人の手。 朝露。 富士山の遠い影。 駿河湾の光。 そして、これからお茶を飲むたくさんの人の湯呑み。
星番は静かに言った。
「これは、新茶の丘自身の星」
幹夫は、その星を見つめた。
丘の声が聞こえた。
――新しい葉ばかり見られる季節にも、古い根を忘れないでください。
その声は、土の奥から上ってくるようだった。
――はじまりは、何もないところから始まるのではありません。去年の落ち葉、冬の眠り、春の雨、待っていた手、言えなかった言葉。それらが土になって、新しい芽を支えます。
幹夫は、足もとの土を見た。
黒く、湿っていて、目立たない。
けれど、新芽はそこから立っている。
幹夫の新しい言葉も、今日突然生まれたものではないのかもしれない。これまで言えなかったこと、傷ついたこと、考えすぎた夜、茶畑で聞いた風の音。それらが土になって、ようやく小さな言葉の芽を出す。
幹夫は、透明な星に言った。
「はじまりの下に、待っていた時間があることを覚えます」
星は深く光った。
そして、若葉の中へ沈んだ。
茶畑全体が、さわ、と鳴った。
夜明けが近づいていた。
東の空が青白くなり、星は少しずつ薄れている。茶葉の上のはじまり星も、読まれたものから順に新芽へ入り、見えなくなっていった。
星番の姿も、朝の光に薄れていく。
「もう行くの?」
幹夫が聞くと、星番はうなずいた。
「朝になると、星は香りの中に隠れる」
「また会える?」
「新茶の丘に星が降る夜なら」
「どうしたら、降るってわかる?」
星番は少し笑った。
「はじまりたいけれど怖い気持ちを、なかったことにしないで茶畑へ持ってきたら」
幹夫は、胸に手を当てた。
そこには、まだ少し不安があった。
明日、佐和子さんに言葉をかけられるかどうかわからない。言っても、うまく会話にならないかもしれない。気まずくなるかもしれない。
でも、言葉の芽はあった。
星番は最後に言った。
「小さな言葉でいいんだよ。新芽も、小さいところから始まるから」
そうして、星番は新茶の香りの中へ溶けた。
朝が来た。
新茶の丘は、いつもの茶畑に戻っていた。
けれど幹夫には、新芽の葉脈の中に、星の光がまだ少し残っているように見えた。
家に帰ると、母が朝のお茶を淹れていた。
「新茶よ」
そう言って、湯呑みを幹夫に渡した。
幹夫は両手で包んだ。
湯気の香りは若かった。青く、少し苦く、奥に甘みがある。さっき星番が言った通り、はじまりの言葉に似た香りだった。
幹夫は、ゆっくり飲んだ。
胸の中の言葉の芽が、少しだけ水をもらった気がした。
学校へ行くと、佐和子さんはいつものように席に座り、ノートを開いていた。窓の外の木を、ちらりと見ている。
幹夫は、胸がどきどきした。
何か言わなければ。 でも、強すぎてはいけない。 弱すぎても届かない。
幹夫は、新茶の香りを思い出した。
若い苦み。 奥にある甘み。 小さな新芽。
そして、言った。
「この学校の図書室、静かでいいよ」
佐和子さんは、少し驚いたように幹夫を見た。
幹夫は続けた。
「窓のところに、木が見える席がある」
佐和子さんは、目を伏せて、それから小さく笑った。
「そうなんだ」
しばらくして、彼女は言った。
「今度、行ってみる」
それだけだった。
でも幹夫の胸には、茶葉の上の星がひと粒、新芽へ入っていくような静かな明るさが広がった。
大きな会話ではない。
でも、始まりだった。
新茶の丘に降った星は、幹夫の言葉の中で、ほんの少し香っていた。







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