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新茶の丘に星が降る

 五月の夜の丘には、まだ昼の若い匂いが残っていた。

 幹夫少年は、茶畑の細い農道に立ち、ゆっくり息を吸った。新茶の季節の茶葉は、ほかの季節の葉よりも、どこか幼い香りがする。青く、みずみずしく、けれど少しだけ苦みを含んだ香りだった。

 丘の斜面には、茶の畝が幾筋も並んでいた。

 昼間は、新芽のやわらかな緑がまぶしいほどだった。摘まれたばかりの畝もあり、まだ小さな葉を残している畝もある。どの茶の木も、冬を越えてようやく目をひらいたばかりのように見えた。

 けれど夜になると、茶畑は静かだった。

 風が吹くたびに、茶葉が低く鳴る。

 さわ。 さわ。

 その音は、まだ眠れない子どもが、布団の中で小さく寝返りを打つ音に似ていた。

 幹夫は、その音を聞きながら、胸の中に残っている言葉を思い出していた。

 その日、学校で新しい班が決まった。

 新しい席。 新しい係。 新しい話し相手。 五月の教室は、少し落ち着いたようでいて、まだどこかぎこちなかった。

 幹夫の隣の席になったのは、春に転校してきたばかりの女の子だった。名前は佐和子さんといった。声は小さく、返事をする時、少しだけ目を伏せる。けれど、ノートの字はとても丁寧で、休み時間には窓の外の木をよく見ていた。

 その日、佐和子さんが筆箱を落とした。

 中から鉛筆や消しゴムが転がった。幹夫はすぐ拾った。佐和子さんは小さく「ありがとう」と言った。

 幹夫は、その時、本当は言いたかった。

 「この学校に、もう少し慣れた?」

 でも、言えなかった。

 もし余計なお世話だったら。 もし「まだ慣れていない」と言わせてしまったら。 もし聞かれたくないことだったら。

 そう考えているうちに、言葉は胸の奥で固まってしまった。

 幹夫はただ、

 「どういたしまして」

 とだけ言った。

 間違った言葉ではない。けれど、幹夫の胸には、言えなかった一言が残った。

 新しい場所にいる人の心は、五月の新芽に似ているのかもしれない。柔らかくて、少しの風にも揺れる。だからこそ、触れる手がむずかしい。

 強く聞けば傷つける。 聞かなければ、ひとりにしてしまうかもしれない。

 幹夫は、その加減がわからなかった。

 だから夜になって、茶畑の丘へ来たのだった。

 新茶の丘なら、始まったばかりのものの気持ちが少しわかる気がした。

 空には星が出ていた。

 月は細く、町の明かりは遠かった。丘の上から見える夜空は、家の窓から見る空よりも深かった。星はたくさんあるのに、どれも急いで光っていない。ただ、それぞれの場所で静かにまたたいている。

 その時、空の高いところで、ひとつの星が揺れた。

 幹夫は顔を上げた。

 流れ星だと思った。けれど、その星はすぐには消えなかった。白い尾を引くこともなく、ゆっくり、ゆっくり、茶畑のほうへ降りてきた。

 続いて、またひとつ。

 またひとつ。

 星が降っていた。

 雨のように激しくはない。 雪のように重くもない。 光の粒が、息をひそめて降りてくる。

 星は茶葉の先に触れると、小さなしずくになった。新茶の若い葉の上で、星のしずくが丸くなり、かすかに震えた。茶畑の畝が、ひとすじ、またひとすじと、銀色に浮かび上がっていく。

 幹夫は声を失った。

 新茶の丘に、星が降っている。

 その光景は、美しいというより、切なかった。あまりに小さな星たちが、やわらかな茶葉に受け止められている。茶葉のほうも、星の重さに少し震えながら、それでもこぼさず抱いている。

 「今夜は、はじまり星の夜だよ」

 声がした。

 幹夫は振り向いた。

 茶畑の畝のあいだに、一人の少年が立っていた。

 幹夫と同じくらいの年に見えた。けれど、その姿は少し透き通っていた。着ている服は茶葉の若い緑色で、髪には夜露のような光がついている。手には、小さな白い茶碗を持っていた。

 「はじまり星?」

 幹夫が聞くと、少年はうなずいた。

 「新茶の丘には、五月になると降るんだ。まだ言葉になっていない始まりの気持ちが、星になって」

 「始まりの気持ち……」

 「新しい席。新しい友だち。新しい道。新しい自分になりたいけれど、まだ怖い気持ち。そういうものは、昼間の胸にしまわれると重くなる。だから夜、空へ上って、星になって、茶葉へ降りる」

 幹夫は、茶葉の上の星を見た。

 しずくの中には、小さな景色が映っていた。

 新しい教室。 新しい靴。 新しいノート。 新しい名前を呼ばれる時の、少しの緊張。

 少年は言った。

 「ぼくは、新茶の丘の星番」

 「星番?」

 「降ってきたはじまり星を、新茶の葉へ入れる手伝いをする。読まれた星は茶葉の中に入り、いつかお茶の香りになる。読まれなかった星は、朝になるとただの露になってしまう」

 幹夫は胸に手を当てた。

 そこには、今日言えなかった一言がまだあった。

 この学校に、もう少し慣れた?

 その言葉も、はじまり星になったのだろうか。

 星番は、幹夫の気持ちを知っているように、茶畑の奥を指さした。

 「幹夫の星も、あそこにあるよ」

 幹夫は、星番について畝のあいだを歩いた。

 茶葉を踏まないように。 星のしずくを落とさないように。 五月の夜の静けさを壊さないように。

 新茶の葉は柔らかかった。

 大人の葉のように厚くはない。星を受け止めるたび、少しだけ身を震わせる。それでも、葉の先はしっかりとしずくを抱いていた。

 幹夫は思った。

 柔らかいものは、弱いだけではない。 柔らかいから、こぼれそうなものを受け止められるのかもしれない。

 やがて、畑の中ほどにある一枚の新芽の前で、星番は立ち止まった。

 そこに宿った星は、淡い青色をしていた。

 幹夫が覗き込むと、中に佐和子さんの机が映った。

 落ちた筆箱。 転がった鉛筆。 拾う幹夫の手。 小さく「ありがとう」と言った佐和子さんの声。 そのあと、言葉を飲み込んだ自分。

 幹夫の胸が痛んだ。

 「これが、ぼくの星?」

 「うん」

 星番は言った。

 「聞きたかったけれど、聞けなかった言葉の星」

 幹夫は、しずくを見つめた。

 「ぼく、怖かった」

 声にすると、少しだけ胸が震えた。

 「佐和子さんが、新しい教室で寂しいかもしれないって思った。でも、それを聞いたら、もっと寂しくさせるかもしれないと思った。だから何も言えなかった」

 青い星が、かすかに光った。

 幹夫は続けた。

 「でも、何も言わなかったことで、ひとりにしてしまったかもしれない」

 星番は黙っていた。

 茶葉が、さわ、と鳴った。

 それは責める音ではなかった。

 ただ、聞いている音だった。

 星番は言った。

 「はじまりの言葉は、強すぎると相手をびっくりさせる。弱すぎると届かない。だから、新茶の香りに似ているんだ」

 「新茶の香り?」

 「若くて、少し苦くて、でも奥に甘みがある。はじまりの言葉も、そういうものがいい」

 幹夫は、青い星の中の佐和子さんを見た。

 「じゃあ、何て言えばよかったんだろう」

 星番は、すぐには答えなかった。

 「それを幹夫が見つけるんだよ。星は答えをくれるわけじゃない。胸の中にある言葉の芽を見せてくれるだけ」

 幹夫は、しずくの中をじっと見つめた。

 すると、言葉が少しずつ形になった。

 この学校に慣れた? それは少し大きすぎる。

 寂しくない? それも、相手の胸を急に開けようとするようで怖い。

 何か困ったら言ってね。 それは悪くないけれど、少し遠い。

 幹夫は、茶葉の揺れを見ながら、もっと小さな言葉を探した。

 やがて、ひとつの言葉が胸に浮かんだ。

 「この学校の図書室、静かでいいよ」

 幹夫は小さく言った。

 星番が微笑んだ。

 「それは、いいはじまりだね」

 「それだけでいいの?」

 「それだけだから、いいこともある」

 青い星は、少しずつ明るくなった。

 幹夫は続けた。

 「佐和子さん、窓の外をよく見ているから。本が好きかどうかはわからないけど、図書室なら、無理に話さなくても同じ場所にいられる気がする」

 星のしずくは、茶葉の中へゆっくり沈んでいった。

 新芽の葉脈が、淡く青く光った。

 「これは、どんな香りになるの?」

 幹夫が聞くと、星番は答えた。

 「誰かに近づく時、急に心の扉を開けようとしなくてもいいと思える香り」

 幹夫は、胸が少し温かくなった。

 そういう香りなら、幹夫自身にも必要だった。

 星番は、また歩き出した。

 新茶の丘には、ほかにもたくさんの星が降っていた。

 ある星には、新しいランドセルを背負った一年生が映っていた。

 ――重いけれど、うれしい。 ――うれしいけれど、少し怖い。

 幹夫は、その星に言った。

 「重いって思っていいよ。うれしいと怖いは、一緒にいてもいいよ」

 星は茶葉へ沈んだ。

 ある星には、部活に初めて入った子が映っていた。

 ――できないことが多くて、笑ってごまかした。

 幹夫は言った。

 「できない最初の日も、あとから大切な日になるかもしれない」

 星は少し濁ったまま、茶葉へ入った。

 星番は言った。

 「濁った星も入れるんだよ。はじまりは、きれいな気持ちだけではないから」

 幹夫はうなずいた。

 はじまりは、明るいだけではない。

 不安もある。 恥ずかしさもある。 比べてしまう気持ちもある。 戻りたいと思う日もある。

 けれど、それでも始まっている。

 新茶の葉が、冬の寒さと春の雨を抱えたまま伸びるように。

 丘のいちばん高いところへ来ると、ひときわ大きな星が一枚の若葉に宿っていた。

 その星は、白でも青でもなく、ほとんど透明だった。

 中には、茶畑全体が映っていた。

 新芽。 古い葉。 摘む人の手。 朝露。 富士山の遠い影。 駿河湾の光。 そして、これからお茶を飲むたくさんの人の湯呑み。

 星番は静かに言った。

 「これは、新茶の丘自身の星」

 幹夫は、その星を見つめた。

 丘の声が聞こえた。

 ――新しい葉ばかり見られる季節にも、古い根を忘れないでください。

 その声は、土の奥から上ってくるようだった。

 ――はじまりは、何もないところから始まるのではありません。去年の落ち葉、冬の眠り、春の雨、待っていた手、言えなかった言葉。それらが土になって、新しい芽を支えます。

 幹夫は、足もとの土を見た。

 黒く、湿っていて、目立たない。

 けれど、新芽はそこから立っている。

 幹夫の新しい言葉も、今日突然生まれたものではないのかもしれない。これまで言えなかったこと、傷ついたこと、考えすぎた夜、茶畑で聞いた風の音。それらが土になって、ようやく小さな言葉の芽を出す。

 幹夫は、透明な星に言った。

 「はじまりの下に、待っていた時間があることを覚えます」

 星は深く光った。

 そして、若葉の中へ沈んだ。

 茶畑全体が、さわ、と鳴った。

 夜明けが近づいていた。

 東の空が青白くなり、星は少しずつ薄れている。茶葉の上のはじまり星も、読まれたものから順に新芽へ入り、見えなくなっていった。

 星番の姿も、朝の光に薄れていく。

 「もう行くの?」

 幹夫が聞くと、星番はうなずいた。

 「朝になると、星は香りの中に隠れる」

 「また会える?」

 「新茶の丘に星が降る夜なら」

 「どうしたら、降るってわかる?」

 星番は少し笑った。

 「はじまりたいけれど怖い気持ちを、なかったことにしないで茶畑へ持ってきたら」

 幹夫は、胸に手を当てた。

 そこには、まだ少し不安があった。

 明日、佐和子さんに言葉をかけられるかどうかわからない。言っても、うまく会話にならないかもしれない。気まずくなるかもしれない。

 でも、言葉の芽はあった。

 星番は最後に言った。

 「小さな言葉でいいんだよ。新芽も、小さいところから始まるから」

 そうして、星番は新茶の香りの中へ溶けた。

 朝が来た。

 新茶の丘は、いつもの茶畑に戻っていた。

 けれど幹夫には、新芽の葉脈の中に、星の光がまだ少し残っているように見えた。

 家に帰ると、母が朝のお茶を淹れていた。

 「新茶よ」

 そう言って、湯呑みを幹夫に渡した。

 幹夫は両手で包んだ。

 湯気の香りは若かった。青く、少し苦く、奥に甘みがある。さっき星番が言った通り、はじまりの言葉に似た香りだった。

 幹夫は、ゆっくり飲んだ。

 胸の中の言葉の芽が、少しだけ水をもらった気がした。

 学校へ行くと、佐和子さんはいつものように席に座り、ノートを開いていた。窓の外の木を、ちらりと見ている。

 幹夫は、胸がどきどきした。

 何か言わなければ。 でも、強すぎてはいけない。 弱すぎても届かない。

 幹夫は、新茶の香りを思い出した。

 若い苦み。 奥にある甘み。 小さな新芽。

 そして、言った。

 「この学校の図書室、静かでいいよ」

 佐和子さんは、少し驚いたように幹夫を見た。

 幹夫は続けた。

 「窓のところに、木が見える席がある」

 佐和子さんは、目を伏せて、それから小さく笑った。

 「そうなんだ」

 しばらくして、彼女は言った。

 「今度、行ってみる」

 それだけだった。

 でも幹夫の胸には、茶葉の上の星がひと粒、新芽へ入っていくような静かな明るさが広がった。

 大きな会話ではない。

 でも、始まりだった。

 新茶の丘に降った星は、幹夫の言葉の中で、ほんの少し香っていた。


 
 
 

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