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新茶の催し、湯気の中で名を名乗る

 幹夫青年が「名を名乗る」といふことに、いつからか妙な気恥づかしさを覚えるやうになつたのは、立派な理由があつたわけではない。 ただ、名を名乗れば、その次に何かを言はねばならぬ気がする。何かを言へば、何かを約束したやうな気がする。約束したやうな気がすると、もう逃げ道がなくなる。――と、幹夫の頭の中では、いつも話が勝手に大きく育つてしまふのである。

 だから彼は、挨拶だけで済ませる癖を持つた。 「こんにちは」と言つて、笑つて、すぐ引く。 「すみません」と言つて、頭を下げて、すぐ退く。 名を名乗らぬままなら、誰の人生にも深く関はらずに済む。深く関はらぬままなら、深く傷つかない――幹夫はさう思ひ込んでゐた。けれど、深く関はらぬままでも、人は案外、薄く傷つく。薄い傷は、毎日増えて、いつの間にか一枚の重たい皮になる。

 その重たい皮を、今日は少しだけ剥がしたくなつた。 剥がしたくなつた理由は、立派ではない。五月の静岡の町が、あまりに茶の匂ひをさせるからである。

 駅前へ出れば、売店の棚に「新茶」が並ぶ。 呉服町の角を曲がれば、茶菓子の店の戸口から、青い香が洩れる。 青葉の並木を歩けば、どこかの店先で湯気が立ち、その湯気の中に茶の甘さが混じる。 匂ひは人間の言ひ訳を聞かぬ。匂ひは「行け」と言ふ。行けと言はれて行けば、それはもう立派な用事である。

 幹夫は、昼のうちに街へ出た。 駿府の方へ向ふ通りに、いつもより幟が多い。紙の旗が風にぱたぱた鳴り、そこに大きく「新茶」と書いてある。書いてあるだけで、胸が少し明るくなるのが不思議だ。 会場は、駅から歩ける範囲の小さな広場で、仮設のテントが並び、試飲の紙コップが山のやうに積まれてゐた。人は多いが、祭りほど浮かれてゐない。縁日ほど賑はず、映画会ほど静かでもない。――ちやうど「生活が少しだけ晴れた顔」をしてゐる。

 幹夫は、例によつて外側から入つた。 輪の中へ飛び込む勇気はない。けれど、輪の外で斜に構へてゐるのも、今日は少し冷える。青葉の夜市で「負けてもいい手」を覚え、浅間さんの縁日で「気分が当たり」を聞いた。ならば、茶の催しでは何を覚えるのか――そんなことを、少しだけ期待してゐる自分が、幹夫には可笑しかつた。

 試飲の列の一番端に、湯気がよく立つてゐる屋台があつた。 大きな急須が二つ三つ並び、湯呑ではなく紙コップで、次々に茶が注がれる。注がれるたび、香が立つ。香が立つた瞬間、周りの人の顔が一様に柔らかくなる。茶は、人間の顔をほどくのが上手い。

「どうぞ。新茶、できたて。熱いのと、少しぬるめ、どつちもあるよ」

 売り子の男は年配で、手の甲が日に焼けてゐた。声は大きいのに、押しつけがましくない。商売の声といふより、「飲んでけ」といふ生活の声である。

 幹夫は、列へ並びながら、また例の癖が出かけた。 ――飲んだら、何か言はねばならぬのか。 ――うまいと言へば、うまいの説明を求められないか。 ――説明をすれば、知つたかぶりになるのではないか。 くだらない裁判が、湯気の中で開廷しかける。

 ――難しくすると冷める。 どこかで聞いた言葉が、湯気の向うから顔を出した。

 幹夫は、前の人が紙コップを受け取つて離れた瞬間、先に言つてしまつた。

「こんにちは」

 自分の口から出た「こんにちは」が、意外に明るい。 茶の香が、声に混ざつて軽くなる。

「こんにちは。いいねえ。……じゃ、どつち飲む? ぬるめは香が立つ。熱いのは、胸が立つ」

 胸が立つ。 幹夫はその言ひ方が好きだつた。茶は舌より先に、胸へ届く――さう言はれてゐるやうである。

「……ぬるめ、お願いします」

「はいよ」

 男が注いだ茶は、色が淡い。淡いのに、香は濃い。 幹夫がひと口含むと、青い香が鼻へ抜け、舌の上に甘さが先に来て、遅れて苦みが追ひかけて来る。追ひかけて来る苦みは、叱る苦みではない。目を覚ます苦みである。 幹夫は、思はず言つた。

「……うまいです」

 男は、わざと得意顔をせずに、ただ頷いた。

「うまいでしょ。うまいものは、うまいでいい。――で、お兄さん、どこから?」

 来た。 ここで名を名乗らず「近くです」と逃げるのが、いつもの幹夫である。近くです、と言へば、相手の記憶に残らぬ。残らぬなら、こちらも責任を負はぬ。 だが、茶の香が鼻の奥でまだ鳴つてゐる。鳴つてゐるうちに、少しだけ勝手になつてみたくなつた。

「……幹夫です。静岡の方から来ました」

 名を言つてしまつた。 言つた瞬間、胸がきゆつとなり、次に、ふつとほどけた。名を名乗ると、逆に息が楽になる――幹夫はその不思議を、今日初めて味はつた。

 男は、にやりともせず、ただ「幹夫さん」と言つた。

「幹夫さんね。いい名だね。幹の字は、ぶれない。……新茶も同じだよ。ぶれない香りが、今年の勝ち」

 ぶれない。 幹夫は、「ぶれない」といふ言葉を、これまで何度も広告で見て、そのたびに鼻白んで来た。ぶれないなんて、偉さの看板みたいで、こちらを小さくする。 ところが港の手を持つた男が「ぶれない」と言ふと、偉さではなく、手つきの話になる。手つきの話なら、こちらも半歩ぐらゐ近づける。

「……名を言ふの、苦手で」

 幹夫が、つい零すと、男は笑つた。

「苦手でいいよ。名を名乗るのは、偉く見せるためじゃない。こつちが“入れる器”を作るためだ。器があると、香が逃げねえ」

 器。 香が逃げねえ。 茶の話のやうで、生活の話でもある。幹夫は、その二重底が好きだつた。説教ではなく、湯気の言葉として胸へ落ちるからだ。

 男は紙コップをもう一つ差し出した。

「次、これ。少し火を強くしてある。香が立つと、元気が立つ」

 幹夫は、受け取つて飲んだ。 確かに香が立つ。香が立つと、背筋が一寸だけ伸びる。伸びるが、立派な顔をしなくて済む伸び方である。茶は、背筋を叱つて伸ばさない。湯気でそつと押す。

 屋台の脇に、小さな札が立ててあつた。

  「名を名乗れば、香も名乗る。」

「これ、誰が書いたんですか」

 幹夫が聞くと、男は肩をすくめた。

「さあね。うちの娘かもしれねえし、隣の屋台かもしれねえ。こういう催しは、みんな勝手にいいこと書くんだ」

 勝手にいいこと。 それが、静岡の町の得意技であるらしい。

 幹夫が紙コップを捨てに行かうとすると、会場の中央で小さな声がした。

「利き茶、やりませんかー。香り当て。参加無料。名札書いてくださーい」

 利き茶。 香り当て。 そして、名札。 幹夫は一瞬、逃げたくなつた。名札は、名を胸に貼る。胸に貼れば、名が自分の外へ出る。外へ出れば、誰かに呼ばれる。呼ばれれば、返事をせねばならぬ。返事をせねばならぬと考へただけで、幹夫の肩は固くなる。

 だが、さつき「幹夫さん」と呼ばれて、案外、胸が楽だつたのを思ひ出した。 呼ばれるのが怖いのではない。呼ばれて返事が出来ない自分が怖いのだ。ならば、返事の稽古をすればよい。拍手を先にした午後と同じである。先に返事を出す稽古。

 幹夫は、利き茶の列に並び、机の上の紙にペンで書いた。

  幹夫

 書くとき、手が少し震へた。 震へたが、書けた。書ければ勝ちである。大勝ちではないが、小勝ちは長持ちする。

 利き茶は、三つの紙コップの香りを嗅いで、番号を当てるだけの遊びであつた。 会場の係の若い女が、明るい声で言ふ。

「正解した方には、茶飴ひとつ。外れても、拍手をあげます」

 外れても拍手。 それが、今日の催しの良さだ。 幹夫は、香りを嗅いだ。ひとつは青く、ひとつは少し焙じた甘さ、ひとつは草のやうな若さ。若さの香は、胸の奥をくすぐる。

 幹夫は、番号を書いた。 正解かどうかは分からぬ。分からぬが、書けたことが、すでに半分の勝ちだ。

 やがて、係の女が小さな箱を持ち、紙を一枚引いた。

「それでは、抽選で……ええと……幹夫さん?」

 幹夫、と呼ばれた。 会場の人がちらりとこちらを見る。見るが、責める目ではない。湯気の場の目は、だいたい柔らかい。

 幹夫は立ち上がつて言つた。

「はい。幹夫です」

 「です」を付けたのが、自分でも可笑しかつた。 だが「です」を付けると、自分が自分の名を抱へる形になる。抱へる形になれば、名は急に怖くなくなる。

 係の女が、茶飴の小袋を差し出した。

「おめでとうございます。名札、書いてくれたから当たりましたね」

 名札を書いてくれたから当たりました。 当たり前のことを言つてゐるのに、幹夫には妙に響いた。名を出せば、当たることもある。名を出さねば、当たりは永遠にこちらへ来ない。 当たり外れは運だが、名札を書くかどうかは自分の手である。自分の手で出来ることがあると分かると、人は少し前向きになる。

 幹夫が席へ戻ると、隣にゐた年配の女が、小さく笑つて言つた。

「いい返事でしたねえ。“幹夫です”って。すつとしました」

 すつとしました。 幹夫は照れたが、今日は照れを急いで消さなかつた。照れを消すと、せつかく立つた湯気が冷める。湯気は守る方がいい。

「……ありがとうございます」

「茶飴、ひとつしかないなら、半分こしましょ」

 女はさう言つて、自分の袋から飴をもう一つ出し、幹夫に渡した。 交換でもない。見返りでもない。 ただ、湯気の中の勝手な親切である。 幹夫は、その勝手な親切を、今度は逃げずに受け取つた。

 催しを出るころ、幹夫の手には新茶の小袋が一つ増えてゐた。 袋の口から、青い香が洩れる。洩れる香が、胸の内の薄い傷の上に、そつと湿り気を与へるやうに感じられた。乾いた傷は痛むが、湿つた傷は治りやすい。茶の香は、説教をしない治療である。

 帰り道、幹夫はスマホを取り出した。 長文は書かない。長文は言ひ訳の巣になる。 今日は名を名乗つた日である。名を名乗るなら、短くてよい。短くても、ちゃんと届く。

 彼は打つた。

 ――「こんにちは。幹夫です。新茶の催しに行った。湯気の中で名を名乗ったら、少し楽だった。今夜、話す。」

 送信すると、胸の奥が一寸だけ軽くなつた。 軽くなつたところで、人生はすぐに変らない。けれど、名を名乗るだけで、世界が一寸だけこちらへ寄つて来る。寄つて来る世界は、歩きやすい。

 家へ帰つて、幹夫は小さな急須で新茶を淹れた。 湯を少し冷まし、葉を入れ、待つ。待つ間に湯気が立ち、香が部屋に広がる。 部屋の空気が、いつもより明るい。 明るいのは照明のせゐではない。名を名乗つた分だけ、部屋が「幹夫の部屋」になつたのである。

 幹夫青年は、新茶の湯気の中で、名を名乗る稽古をひとつ覚えた。 立派な変身ではない。 けれど、明日を少し上等にするには、十分な香であつた。

 
 
 

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