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新茶の記憶




第一章 初夏の訪れ

静岡市の山あいにある小さな集落、すっかり初夏を迎えた茶畑のあちこちからは、若々しい青い香りが立ちのぼっていた。七歳の幹夫は、朝露に輝く茶の畝(うね)の向こうに目をやりながら、胸の奥がそわそわしている。今朝、祖母から「今年の新茶ができあがったよ」と声をかけられ、いても立ってもいられなくなったのだ。実はこの春、幹夫は不思議な体験をしていた。茶畑の精や、龍神をめぐる見果てぬ幻想のような旅――それはまるで遠い夢だったが、その名残りは今も彼の心の中で、静かに香り続けていた。

「あれは本当に夢だったのかな……」幹夫はそう呟きながら、家の縁側に腰を下ろす。祖母が差し出してくれた急須からは、蒸したばかりの煎茶が立ちのぼり、部屋中をほのかに染めていく。湯飲みに注がれた新茶の色は、去年よりもさらに淡く澄んで見えた。

「どうだい、今年の新茶は。」祖母に促され、幹夫は両手で湯飲みを包むようにして一口含む。すると、爽やかな渋みとともに丸い甘さがじんわりと舌先に広がり、体がふわりと軽くなるような心地よさに包まれた。

「うん、おいしい! でも、なんだか……去年ともまたちょっと違う味がする。」「ふふ、そうさね。土も天気も毎年変わる。茶畑だって生き物だもの、同じ味は出ないのさ。」

祖母はそう言いながら、縁側の戸袋から木製の小さな茶さじを取り出した。手触りのよい竹のスプーン状のもので、先端がほんの少しくぼんでいる。そのくぼみに茶葉をふわっと乗せて香りを確かめる道具だ。幹夫が見たことのない、その不思議な形に目を丸くしていると、祖母はにっこり笑って言った。

「これはね、昔、おばあちゃんが茶問屋で使っていた“茶さじ”なんだよ。最近は金属やプラスチック製が多いけど、竹の茶さじを使うと、茶葉そのものの薫りをより素直に感じられるっていうからね。」「あ……いい匂い。」幹夫は祖母の手を借りながら、さじに乗せたばかりの煎茶の葉を覗き込む。少し艶のある針のような形状をした茶葉たちが、朝の光を受けて深い緑の色合いを放っていた。「まるで、葉っぱが生きてるみたい……」ふっとそう感じた瞬間、遠い記憶の底で、茶畑の精霊たちの賑やかな笑い声が蘇る気がした。

第二章 香りの向こうに

それから数日後、幹夫は再び茶畑の奥へと足を運んだ。周囲には、摘み取りを終えた茶の木が整然と並び、浅い緑から濃い緑へと移りゆく葉の色彩が一面を覆っている。すでに春の忙しさもひと段落し、畑には穏やかな風だけが通り抜けていた。幹夫は祖母から借りた竹の茶さじをポケットに忍ばせ、時折取り出しては茶葉の匂いをそっと嗅いでいる。まだ子どもだから、背の低い茶の枝の間を軽やかにくぐり抜けることができるのだ。

「このへんは、こないだの雨で土がやわらかいな……」そんなことを感じながら奥へ進んでいくと、畑の端に苔むした祠(ほこら)が見えてきた。幹夫が“あの春”に訪れた場所と同じ祠だ。いまだに遠目に見るだけでも胸がざわめくけれど、なぜか足は勝手にそちらへ向かってしまう。

祠の前まで来ると、空気が少しひんやり変わった。幹夫はそっと手を合わせ、「今年もお茶をありがとう」と心の中で呟く。すると、どこからか微かな笛の音のような響きが聞こえた気がした。幹夫は「……また聞こえた」と思わず振り向く。竹藪へ続く細い道には、さざめくような風の音がするだけ。でも、耳を凝らせば笛の旋律が風に溶けているような――いや、気のせいかもしれない。それでも幹夫の胸は高鳴り、ポケットの茶さじを握りしめた。

「あのときみたいに、またみんなに会えるかな……」誰に聞かせるでもなく呟くと、竹藪の奥から淡い光がちらりと揺れたように見えた。幹夫はどきりとしながら、一歩を踏み出す。竹林の中は朝の陽射しが屈折して入り込み、地面にはまだ濃い影が長く伸びている。

やがて藪を抜ける頃、目の前が急に明るく開け、やわらかな風が頬を撫でた。そこに広がっていたのは、前に見た幻想的な夕景……ではなく、清々しい昼下がりの茶畑――でも何かが違う。光の粒がそこかしこに揺れていて、茶葉の上を滑るように流れている。

幹夫は目を見張った。空中に、ほんのり金色が混じった光の帯が舞い、どこからか囁き声のような、鈴のような音がかすかに聞こえてくる。彼は自然と笑みを浮かべ、懐から茶さじを取り出した。

「そっと……この香りに、乗せてみよう。」ポケットから小さな包みに入れた煎茶の葉を取り出し、茶さじに一掴み乗せて鼻を近づける。すると――葉先がひそひそと話し始めたように感じられる。幹夫はドキリとして周囲を見回すが、人の気配はない。あるのは緑と風、それから金色の光の帯だけだ。

その光の帯が、茶さじの上の葉を包み込むようにゆらゆらと揺れた。幹夫は息を呑んだ。それはまるで、葉っぱと光が会話しているかのようだった。前に見た不思議な世界とはまた違う静かな広がりを感じ、それが幹夫の胸をぽっと温かくした。

第三章 スプーンと茶葉の紡ぎ出すもの

「いらっしゃい……」ふいに、かすれた柔らかい声がした。幹夫は振り返ったが、誰もいない。ただ、畝の向こうに人影らしきものが揺れている。

そちらへ近づいてみると、やはり誰もいない。ただ一条の風が吹き抜け、畝の間を流れていく。そこにはざわざわと葉の擦れる音が残るだけ。けれど幹夫は確かに聞こえたのだ。「いらっしゃい」と、誰かが呼んでくれた気がする。

スプーン――竹の茶さじを見つめると、微かな光沢を帯びていた。幹夫はそれを茶の葉にかざしてみる。するとまたふわりと光の帯が集まり、茶葉から爽やかな甘みのある香りが立ち上る。まるで、このさじこそが“入口”の鍵なのかもしれない。そんな不思議な感覚が胸に広がった。

すると、竹林の向こうから、きれいな銀鈴の音が聞こえた。前作の幻想で耳にした笛や鈴の音に似ているが、もっと優しく、夢うつつの響きだ。幹夫は思わず茶さじを握りしめ、そちらへ駆け出した。「まって、行かないで!」木漏れ日が交錯する道を走り抜けると、またしても景色が切り替わった――いや、幹夫の心のありようでそう見えただけかもしれない。でも、足もとの土の色からして明らかにさっきとは違う。苔に覆われた小高い丘がそびえ、頂には太い幹を持つ茶の古木がたたずんでいた。

「ここ……あの木かも……」春の嵐の日、幹夫が不思議な老婆と会話した場所。夢か幻かわからない体験が蘇り、彼は胸を高鳴らせる。そんな幹夫のもとへ、こつん、と何かが足元に転がってきた。見ると、それは小さな木の実のように見えるが、実際は茶の古木の種だろうか。まだ青い殻を割って、中にまあるい種が見え隠れしている。

幹夫がそれを拾い上げると、種はほのかな緑光を放ち、「パリン……」と音を立てて二つに割れた。そこから湧き出るように金色の粒が舞い上がり、さっきの茶さじの上にふわふわと降りかかる。幹夫は目を丸くした。茶の木の種から、こんな光が生まれるだなんて。

「そっか、これがこの木の命……?」幹夫はその輝きに見惚れ、茶さじを差し出したまま呆然と立ち尽くす。すると、上空から涼しい風が降りてきて、茶さじの上に集まった金色の粒と煎茶の葉がくるりと混ざり合った。風の渦のようなものが、幹夫の腕をそっと包み込む。

「まるで、小さな魔法みたい……」幹夫がそうつぶやいたとき、脳裏にあの老婆の声が響いた気がした。——茶の芽を大事に思う心があれば、自然はきっと応えてくれるよ……。

第四章 芽吹きの痕跡

どれほどそうしていただろう。気づけば風の渦は消え、茶さじの上にあった金色の粒も姿を失っていた。ただ緑の煎茶の葉だけが、先ほどと変わらぬ形で残っている。でも幹夫は、その葉の中に何か温かなものが溶け込んでいるような、不思議な感触を確かに覚えた。

「大事に持って帰ろう……」幹夫は茶葉を包みに戻し、竹の茶さじをポケットに仕舞う。そして古木の周りをぐるりと一回りしてみたが、あの老婆も、精霊たちも見当たらない。どこからか笑い声が聞こえたような気がしたが、確かめる間もなく、ふいに強い日差しが差し込んできた。

眩しさに思わず目を細めると、いつの間にか先ほどの苔むした丘は消え、普通の茶畑の端に立っている自分に気づいた。さっきまでの光景は夢だったのかもしれない。でも、ポケットの中の茶さじは、ほんのりと暖かさを帯びている。そこに閉じ込められた香りを思うと、胸がきゅんと熱くなるのだった。

第五章 茶さじの贈り物

夕暮れ、幹夫は家に帰り着くと、さっそく祖母の前でポケットから竹の茶さじを取り出した。「おばあちゃん、これ……なんだかすごいものを見ちゃったんだ……」幹夫はあの不思議な出来事をどう話せばいいのかわからないながら、なるべくありのまま伝えようとした。古木や種が光ったこと、金色の粒が舞い上がり、茶の葉と合わさって風に乗ったこと――。祖母は驚く様子もなく、にこにこと聞いてくれる。

「そうかい、そりゃあ面白い体験をしたねえ。」「うん、……でも、やっぱり夢みたいな気もして……」幹夫が俯くと、祖母は優しく茶さじを手に取り、鼻先までかざして香りを確かめる仕草をした。

「あら、なるほど。確かにいつもより、ずっと芳(かんば)しいわ。」祖母が微笑むと、幹夫は思わず「えっ、わかるの?」と身を乗り出す。すると祖母はおどけるように目を細め、「さあ、わたしには分からないけど、なんだか“いい香り”がするような気がするんだよ。」と答えた。

その言葉に、幹夫の胸はぽっと温かくなった。もしかして祖母にも、少しは伝わっているのかもしれない。この茶さじが運んできた不思議な気配を。

第六章 静かな約束

その晩、幹夫は茶の間の小さなテーブルに竹の茶さじを置き、家族みんなの湯飲みに新茶を淹れた。急須に湯を注ぎながら、さじから移した茶葉を家族に見せ、「今年は特別にいい香りがするんだよ!」と誇らしげに話す。両親は「幹夫が淹れたお茶、どんな味だろうね」と嬉しそうに笑い、祖母は静かに微笑み返している。幹夫が湯呑みを一人ひとりに手渡すと、部屋の中に新鮮な青い香りが満ちた。はじめに口をつけた母が、「うん、いい苦みと甘さだね」と目を輝かせる。続いて父は、「こりゃ、香りがいつもより濃い。いいお茶だなあ」とご満悦だ。

そして祖母は、まるで神聖な儀式のように一口含んでから、「ほんに、ありがたいもんだねえ」としみじみ言った。幹夫はその姿を見守りながら、あの古木や種、舞い散る金の粒をふと思い出し、「自然から与えられるって、本当にすごいことなんだな……」と心の中で思う。自分たちが普段飲んでいる煎茶の一杯にも、たくさんの命や不思議な力が溶け込んでいるのだ。

その夜遅く、幹夫が布団に入る前に茶さじを見つめると、少しだけ光っているように感じられた。星明かりが差し込む窓辺で、彼はそっとお礼を言う。「またいつか、精霊のみんなに会えるかな……その時は、もっと上手に摘んだ葉でお茶を淹れたいんだ。」誰にともなくつぶやくと、遠くから微かな風の音が返事するように聞こえた。きっと精霊たちは今も茶畑のどこかで笑い合い、夜風に乗って新芽を揺らしているのかもしれない。幹夫は薄目を開けたまま、そんな想像をしながらすやすやと眠りにつく。

 
 
 

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