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日本平、富士を見に行って見ないで帰る


私は、富士山が怖い。 こう書くと、まるで私が何か大それた感受性でも持っているみたいで腹が立つが、事実だから仕方がない。富士山が怖いというより、「富士山を見てしまった自分」が怖いのだ。見て、感動して、心が洗われたような顔をして、そのまま少しだけ立派になったつもりで帰ってくる――そういう私の姿を想像すると、気味が悪くて鳥肌が立つ。私は立派になりたくない。なれないから。なれないのに、なりたがるから、余計に嫌になる。

 それでも、その日私は日本平へ行ったのである。 行ってしまった。自分からわざわざ、怖いものの前へ出向く。私は自分のことを臆病だと思っているが、臆病というのは案外、危険なことをする。危険なことをして、そこで怖がっている自分を確認したいのだ。確認したいのは、つまり「私はちゃんと傷つく人間だ」と自分に言い聞かせたいからだろう。これもまた、卑怯な自己証明である。

 静岡駅のバス乗り場で、日本平行きの表示を見たとき、私はもう半分帰りたくなっていた。 帰りたいのに、乗る。乗ったら、車内が妙に明るい。昼間のバスというのは、いつも遠足の空気がある。私は遠足が苦手だった。皆が同じ方向へ向いて、同じ景色を見る。景色を見て「わあ」と言う。私は「わあ」が言えない。言うと嘘になる。嘘にならない「わあ」など、私の人生にはない。

 バスは市街を抜け、茶畑のほうへ上がっていく。窓の外の緑が、だんだん整っていく。整っていく景色を見ると、私の胸の中の散らかったものが、余計に散らかって見える。世界が整っていればいるほど、私は乱れていることがばれる。ばれたところで誰も気にしないのに、私は勝手に怯える。怯える相手は、他人ではない。私自身の「ちゃんとしろ」という声だ。私は自分に命令されるのがいちばん嫌いだ。命令してくるのが自分だから、逃げ場がない。

 日本平の展望台のあたりで降りると、空が広かった。 広い空の下で私は、まずスマホを見た。 こういうとき私は必ずスマホを見る。見ても何もない。何もないのに見る。つまり、景色を見る代わりに「見ているふり」をするのだ。見ているふりは私の得意技で、人生の半分はそれで切り抜けてきた。切り抜けてきたのに、切り抜けた先に何もない。だからまたスマホを見る。悪循環である。

 展望台へ向かう道に、売店があった。ソフトクリームの旗がひらひらしていて、家族連れが写真を撮っている。私はその「写真を撮る」という行為が苦手だ。写真というものは、幸福の証拠を残す。証拠を残すほど、幸福を信用していないのだろう。私は幸福を信用していないくせに、幸福の証拠が欲しい。だから写真が苦手だ。苦手だから、私は人の写真を撮る係に回る。

 案の定、私は声をかけられた。

「すみません、写真お願いできますか」

 若い夫婦と、小さな子ども。子どもは帽子をかぶって、手にお菓子を持っている。帽子のつばが風で少し揺れて、子どもはそれを押さえている。私はその「押さえる手」に弱い。私も昔、何かを押さえてばかりいた気がするからだ。何を押さえていたのかは、覚えていない。覚えていないほど、くだらないことだったのだろう。

「はい」

 私はスマホを受け取った。 夫婦は展望台の柵の前へ立った。子どもを真ん中にして、笑う。笑いが自然である。自然な笑いは、私にとって不自然だ。私は笑うとき、必ず自分の笑いを見張っている。見張りながら笑う笑いは、いつも遅れる。遅れるから、変な顔になる。変な顔になるのが怖いから、私はますます笑えなくなる。

「撮りますね」

 私は画面を覗いた。 その瞬間、私は見てしまった。 スマホの画面の中に、富士山がいた。

 白い。 あまりに整った三角形で、あまりに「富士山」で、まるで教科書の挿絵みたいだった。私はそれを、直接見るのが怖かったくせに、ガラスの向こうの縮小された富士なら見られる。私は最低である。私は本物が怖い。だから、写りのいい嘘を愛する。

 私はフレームを整えた。夫婦の頭が切れないように、子どもの帽子が飛ばない瞬間を待って、シャッターを押した。 カシャ。 音は小さいのに、胸が大きく揺れた。 私が撮ったのは、夫婦と子どもではない。富士山と、そこに立っている「幸福の形」だった。私は自分がその形の外側にいることを、わざわざ確認してしまった。確認して、そして、羨ましかった。羨ましいのに、羨ましいと言うのは負けみたいで、私はまた意地を張る。意地は私の最後の財産だ。財産が意地だけの人間は、だいたい貧しい。

「ありがとうございます!」

 夫婦が礼を言い、去っていった。 私はその背中に向かって、妙に丁寧に頭を下げた。丁寧に頭を下げると、少しだけ「いい人」になった気がする。いい人になった気がすると、すぐに「いい人ごっこ」をしている自分が気持ち悪くなる。私は、いちいち自分の感情にカビが生えるような男である。

 さて、展望台だ。 展望台の柵の向こうは、駿河湾が広がり、三保の松原が薄く見え、そして、富士山がどん、といる――はずだった。

 だが私は、柵の前に立ちながら、富士山を見なかった。 見なかったというのは、目はそちらへ向いているのに、焦点を合わせない、という意味だ。私はそれができる。自意識の技術である。焦点を合わせなければ、景色は景色のまま、意味を持たない。意味を持たないものなら、私も傷つかない。私はいつも、意味を避けて生きている。意味は重い。重いものを持つと、私は転ぶ。だから持たない。持たないまま歩いて、歩けたことを誇る。誇るほど、みじめなことはない。

 私は柵に肘をつき、スマホを開いた。 天気アプリを見る。 地図を見る。 何の通知も来ていないSNSを見る。 私は富士山の前で、富士山を見ないために文明を総動員している。文明の勝利である。こんな勝利は、いらない。

 隣で、誰かが言った。

「うわあ、きれいだねえ」

 私は「そうですね」と言った。 見ていないのに。 見ていないのに相槌を打てる私は、世渡りが上手いのかもしれない。世渡りが上手い人間が、こんなところで一人で富士山を避けているはずがない。私は世渡りが下手なのに、相槌だけは上手い。相槌だけ上手い人間は、だいたい誰にも信用されない。信用されないのに、嫌われもしない。つまり、存在が薄い。私はその薄さで生き延びてきた。

 私は、富士山を見てしまうのが怖かった。 見てしまうと、私はたぶん、泣く。 泣いて、そして「こんなに美しいものがあるのだから生きよう」みたいな、立派な決意をしてしまうかもしれない。決意はいつも危険だ。決意した翌朝、私は必ず決意を裏切る。裏切ると、決意したぶんだけ自己嫌悪が増える。私は自己嫌悪を増やす趣味があるが、富士山級の決意は、さすがに重すぎる。私は、富士山ほど重いものを背負いたくない。背負えないから。

 だから私は、見ない。 見ないで帰る。 それが私の小さな節度だ、と言い張りたい。言い張りたいが、ただの臆病である。

 売店に入った。 売店には富士山の絵葉書が山ほどあった。富士山の置物もある。富士山の形の饅頭もある。私はそれらに安心した。本物より、商品になった富士のほうが、私には扱いやすい。扱いやすいものにしか手を出せない。私は恋愛も、仕事も、だいたいそうだった。扱いやすい人を選び、扱いやすい言葉を選び、扱いやすい失敗をする。扱いやすい失敗ばかりしていると、人生はいつまでも本番にならない。本番にならないのに、終わりだけは来る。私はその事実を、夜になると急に思い出して怖くなる。

 店員が言った。

「今日は富士山、いいですよ」

 私は、また「そうですね」と言った。 見ていないのに。 店員は「見てないな」と思っただろうか。思ったところで、店員は優しいから、何も言わない。言われないと、私は余計に恥ずかしい。私は、叱られたい。叱られると、自分の惨めさに理由がつくからだ。理由がつくと、安心する。私は安心のために恥を欲しがる。変態である。

 私は、富士山の絵葉書を一枚買った。 買うとき、私はなぜだか「買ってしまった」と思った。富士山を見ないで帰るつもりなのに、富士山を持ち帰る。矛盾である。矛盾が私の骨格だ。

 店を出ると、風が強くなっていた。 柵の向こうで、みんながまだ富士山を見ている。私は、その輪から少し離れて、ベンチに座った。座って、絵葉書を眺めた。絵葉書の富士は、完璧だった。完璧すぎて、嘘くさい。嘘くさいのに、美しい。私は美しい嘘が好きだ。嘘のほうが私に優しいからだ。真実はいつも、私に冷たい。

 私は鉛筆を取り出し、絵葉書の裏に、誰宛でもない言葉を書こうとした。 書こうとして、書けなかった。 私はいつも、肝心なところで言葉が出ない。言葉が出ないくせに、こうして文章を書いている。これは矛盾ではない。私の文章は、肝心でないところだけがよく出るのだ。

 そのとき、ベンチの下に、子どもの帽子が落ちているのに気づいた。 さっき写真を撮ってやった子の帽子ではない。別の帽子だ。小さなチェック柄の、軽い帽子。風で飛ばされたのだろう。私は帽子を拾った。拾って、あたりを見回した。

 少し離れたところで、小さな女の子が泣きそうな顔をしている。母親が必死に探している。私は帽子を掲げて歩き寄った。

「これ、落としました?」

 母親がぱっと振り向いて、帽子を見て、ほっとした顔になった。

「ああ! すみません、ありがとうございます!」

 女の子が帽子を受け取って、ぎゅっと抱えた。 その抱え方が、妙に真剣だった。帽子ひとつで世界が崩れる年齢。私はその年齢が羨ましい。帽子ひとつで世界が崩れるなら、帽子ひとつで世界も戻る。私の世界は、何を拾っても戻らない。戻らないのに、私は帽子を拾う。拾うと、少しだけ戻る気がするからだ。

 母親と女の子は、何度も頭を下げて去っていった。 私はまた、照れくさくなった。照れくさいのは、善行の気持ちよさを自分が知ってしまうからだ。気持ちよさを知ると、私はそれを道具にする。道具にすると、善行は汚れる。汚れるのが嫌で、私はまた善行を避ける。馬鹿である。

 私は、もう帰ろうと思った。 富士山を見に来たのに、富士山を見ないで帰る。滑稽な話だ。だが、私は滑稽で生きてきた。滑稽で生きる以外の方法を知らない。

 バス停へ向かう道の途中で、ふと、ガラス張りの案内板があった。 案内板には、展望図が描かれていて、「富士山→」と矢印が書いてある。私はその矢印だけ見て、実物を見ないまま通り過ぎようとした。

 ところが、その案内板のガラスに、何かが映っていた。 私は一瞬、立ち止まってしまった。

 ガラスの反射の中に、富士山が、うっすら映っていたのである。 私は直接見ていない。 だが、見えてしまった。 しかも、反射の富士は、絵葉書みたいに完璧ではなかった。輪郭が少し揺れて、空の青が薄く滲んで、雲がかかりかけている。つまり、反射の富士は、ちょっとだけ不完全だった。不完全だから、私は耐えられた。不完全だから、私の人生に似ていて、急に親しみが湧いた。

 私は、その反射の富士を、二秒だけ見た。 二秒で十分だった。 それ以上見たら、私はまた立派な決意をしてしまう。二秒なら、決意に育たない。ただの「見てしまった」で終わる。私は「見てしまった」程度の人生が、いちばん性に合っている。

 バスが来た。 私は乗り込んだ。窓際に座った。バスが動き出すと、展望台は小さくなり、人々の「うわあ」は遠ざかった。私は絵葉書をポケットに入れた。ポケットの中で富士山が紙になっている。紙になった富士なら、私も持てる。私はその卑怯さを、ちゃんと自覚していた。自覚しているぶんだけ、私はまだ救われない。救われないが、少しだけ正気だ。

 帰り道、窓の外に、茶畑が流れた。 緑の列が、黙って続く。続く列を見て、私はふと思った。富士山を見なくても、私は歩いている。歩いているだけで、今日は終わる。終わるなら、それでいい。私は立派にならなくてもいい。立派にならない代わりに、帽子ぐらい拾えた。帽子ぐらい拾えて、絵葉書ぐらい買えた。二秒だけ富士を見てしまった。二秒分の人生で、今日は十分だ。

 家に帰ったら、絵葉書の裏に、何か書いてみよう。 書けないかもしれない。書けないなら、それも私だ。 私は富士を見に行って、見ないで帰った。 その情けなさを、どうせ私はまた文章にして誤魔化すだろう。 誤魔化すだろうが、それでも、あの反射の富士の揺れだけは、本当だった。 揺れていたのは富士ではない。私の焦点だ。 焦点が揺れる人間でも、二秒だけなら見られる。 そういう二秒を、私はもう少し集めて生きていくしかない。

 
 
 

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