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日本平、新茶の夜


 日本平の夜は、海よりも空に近い匂いがした。

 五月の終わり、摘みたての新茶が村じゅうに青い香りを満たすころ、幹夫は父と祖母に連れられて、日本平へ上った。昼間の暑さがまだ道路の石に残っているのに、山へ近づくにつれて風は少しずつ冷たくなった。車の窓を開けると、闇の中から茶畑の匂いが流れ込んできた。

 青く、甘く、どこかしら苦い匂い。

 幹夫はその匂いを吸い込むたび、胸の奥に小さな鈴が鳴るような気がした。

 それはうれしさの音に似ていた。けれど、うれしさだけではなかった。懐かしさでもあり、寂しさでもあり、まだ名前のついていない心の揺れでもあった。

 幹夫は十二歳だった。

 人より少しだけ、いろいろなものを感じすぎる少年だった。風の向きが変わっただけで、誰かの言葉の調子が少し沈んだだけで、胸の中の水面が揺れた。学校では、友だちが何気なく笑った声の中に、小さな刺を見つけてしまうことがあった。夕方、校庭の隅に忘れられたボールを見るだけで、誰にも迎えに来てもらえないものの寂しさを思ってしまった。

 父はそんな幹夫に、ときどき言った。

「もう少し、気を楽にしろ」

 父の言葉は叱っているのではなかった。けれど幹夫には、気を楽にするということがよく分からなかった。心は、自分で固くしたり柔らかくしたりできるものではない。風に触れれば揺れるし、光に触れれば透ける。痛みに触れれば、痛む。

 自分の心は、茶の若葉に似ているのかもしれないと、幹夫は思うことがあった。

 薄くて、柔らかくて、すぐ傷つく。けれど、春をいちばん早く抱いている。

 その夜、父が急に言ったのだった。

「日本平へ行くか」

 夕飯のあとだった。祖母が淹れた新茶の香りが、まだ畳の上に静かに残っていた。幹夫は湯呑みを両手で包んだまま、父を見た。

「今から?」

「ああ。天気がいい。富士山は見えんかもしれんが、夜景は見える」

 祖母が横から笑った。

「新茶のころの日本平は、夜もいいよ。昼の茶畑が眠りながら香っているからね」

 昼の茶畑が眠りながら香る。

 その言い方が、幹夫の心にそっと触れた。

 祖母は、幹夫の感じ方を笑わない人だった。茶の湯気を見て「白い鳥みたいだ」と言っても、雨の後の畑を見て「土が泣いたあとみたいだ」と言っても、祖母はただ「そうかい」と言って、同じ方を見てくれる。

 その「そうかい」に、幹夫は何度も救われていた。

 車はゆるやかに山道を上っていった。

 窓の外には、茶畑が黒い波のように続いていた。昼間なら鮮やかな緑に見える畝も、夜には深い影となり、ところどころに街の灯を受けて銀色の縁を持っている。幹夫は窓に額を近づけた。夜の茶畑は、昼よりもずっと内気に見えた。たくさんのことを知っているのに、黙っている人のようだった。

「寒くないか」

 父が運転席から尋ねた。

「大丈夫」

 幹夫は答えた。

 本当は少し寒かった。けれど窓を閉めたくなかった。閉めれば、新茶の香りまで外へ置いてきてしまう気がした。

 祖母は後ろの席で、小さな包みを膝に置いていた。和紙に包んだ新茶だった。日本平で飲むのだという。魔法瓶には、少し冷ました湯が入っている。

「夜にお茶を飲むと眠れなくなるよ」

 幹夫が言うと、祖母はくすりと笑った。

「眠れなくてもいい夜があるんだよ」

「どんな夜?」

「忘れたくない夜さ」

 幹夫はそれ以上聞かなかった。

 忘れたくない夜。

 そう言われた瞬間、胸の中にいくつかの夜が浮かんだ。母がまだ元気だったころ、縁側で花火をした夏の夜。沙耶が村を出ていく前に、茶畑で星を見た夜。ひとりで泣いた冬の夜。どの夜も、もう戻らない。けれど戻らないからこそ、心の中に深く沈んでいる。

 日本平の展望台に着くころ、空はすっかり濃い藍色になっていた。

 車を降りると、風が幹夫の頬を撫でた。下の町より冷たく、澄んだ風だった。その中に、新茶の香りがあった。はっきりとした香りではない。昼間に蒸された茶葉の甘さが、夜の空気の中で薄くほどけ、草の匂いと土の匂いと一緒に漂っている。

 幹夫は思わず立ち止まった。

 日本平の夜は、耳よりも先に胸へ入ってくる。

 展望台へ歩くと、眼下に清水の灯が広がっていた。港の明かりは水の上に滲み、道路の光は細い糸のように町を縫っている。遠くの駿河湾は黒く沈み、その奥に、海と空の境目がほとんど分からないまま続いていた。

 富士山は、夜の中に大きな沈黙として立っていた。

 はっきり見えるわけではなかった。けれど、そこにあることだけは分かった。闇より少し深い闇として、空の一部を静かに支えている。幹夫には、それが眠っている巨人の背中のように見えた。

「富士山、見えるか」

 父が聞いた。

「見える」

「本当か。俺には、ほとんど分からん」

「分かるよ。あそこだけ、夜が重たい」

 そう言ってから、幹夫は少し恥ずかしくなった。夜が重たい、などという言い方は、父に笑われるかもしれないと思った。

 けれど父は笑わなかった。

「そうか」

 それだけ言って、同じ方を見た。

 幹夫は父の横顔をそっと見上げた。父の顔は夜景の光を受けて、片側だけ薄く明るくなっていた。仕事で日に焼けた頬、少し疲れた目、強そうに結ばれた口元。幹夫には、父もまた何かを見ようとしているように思えた。幹夫の言葉の意味を、分からないなりに手探りしているようだった。

 祖母はベンチに腰を下ろし、持ってきた包みを開いた。

「せっかくだから、ここで飲もう」

 和紙の中から、新茶が少し現れた。細く撚られた茶葉は、夜でも深い緑を宿していた。祖母が小さな急須に茶葉を入れると、ふわりと香りが立った。

 幹夫は、その香りに胸をつかまれた。

 茶畑にいるときの若葉の匂いとは違う。摘まれ、蒸され、揉まれ、乾かされて、姿を変えた葉の匂いだった。青さの中に火の記憶があり、甘さの奥に微かな苦みがある。

 それは、人の心に似ていると思った。

 生まれたままの気持ちは柔らかすぎて、そのままでは誰にも渡せない。けれど時間や痛みや沈黙に揉まれて、少し形を変えたとき、ようやく香りとして誰かに届くのかもしれない。

 祖母が湯を注いだ。

 急須の中で、茶葉がゆっくり開いていく気配がした。目には見えないのに、幹夫には分かった。固く撚られていた葉が、湯の中で少しずつほどけている。長い旅から帰ってきた人が、肩の荷を下ろすように。

「幹夫」

 祖母が湯呑みを差し出した。

 幹夫は両手で受け取った。湯呑みの温かさが、冷えた指に染みた。湯気は夜風に揺れ、すぐに形を失っていく。その白い筋の向こうに、町の灯が揺れて見えた。

 一口飲むと、舌の上に淡い苦みが広がった。すぐあとから、柔らかな甘みが戻ってきた。幹夫は目を閉じた。

 その味は、昼の茶畑ではなかった。

 夜の茶畑だった。

 星の光を浴びた若葉。眠りかけた土。遠くの港の灯。見えない富士山の沈黙。車の中で聞いた祖母の声。父が笑わずに「そうか」と言った、その短い返事。

 それらが全部、湯呑みの中へ静かに沈んでいるようだった。

「おいしいか」

 父が聞いた。

「うん」

 幹夫は答えた。

「夜の味がする」

 父は少しだけ笑った。

「また変わったことを言うな」

 けれど、その声はやわらかかった。幹夫はそれだけで胸が温かくなった。父に全部分かってもらえなくてもいいのだと思った。少し笑われても、拒まれなければそれでいい。心の言葉は、ときどき不器用なまま外へ出て、それでも誰かのそばに置かれることがある。

 幹夫は湯呑みを持ったまま、夜景を眺めた。

 町の灯は、無数の小さな星のようだった。空にも星があり、地上にも星がある。海には港の灯が滲み、山には茶畑が眠っている。幹夫には、日本平全体が大きな急須のように思えた。山も海も町も星も、その中でゆっくり蒸され、五月の夜の香りを立てている。

 ふと、幹夫は沙耶のことを思い出した。

 沙耶は町へ引っ越してから、時々手紙をくれた。町の空のこと、学校の廊下の匂い、窓から見える小さな星のこと。幹夫も返事を書いた。茶畑の露のこと、雨上がりの葉の色、夕方の富士山の影。

 けれど最近、少し返事が遅れていた。

 書きたいことはたくさんあるのに、書こうとすると言葉が逃げた。沙耶の町での生活が、少しずつ幹夫の知らないものになっていくのが怖かった。新しい友だちの名前、新しい道、新しい空。手紙を読むたびに、沙耶が遠くで確かに生きていることが分かり、それが嬉しくもあり、少し寂しくもあった。

 幹夫はその寂しさを、自分勝手なもののように感じていた。

 沙耶が元気でいるのはいいことなのに。新しい場所で笑えるのは、きっと大事なことなのに。なのに、どうして胸の奥が少し冷えるのだろう。

 幹夫は湯呑みの中を見つめた。

 茶の水面に、町の灯が小さく映っていた。揺れるたび、光は伸びたり縮んだりした。はっきりした形を持たないのに、確かにそこにある。

 寂しさも、そうなのかもしれない。

 はっきり悪いものではない。ただ、大切だった場所に光が映って揺れているだけなのかもしれない。

「どうした」

 父が尋ねた。

 幹夫は少し迷った。

 父に沙耶のことを話すのは照れくさかった。けれど、この夜なら話せる気がした。新茶の香りが、言葉の角を少し丸くしてくれるようだった。

「手紙、書かなきゃと思って」

「沙耶ちゃんにか」

「うん」

「書けばいい」

「でも、何を書けばいいか分からない」

 父は夜景を見たまま黙っていた。

 しばらくして、ぽつりと言った。

「見たものを書けばいいんじゃないか」

「見たもの?」

「今、見ているものだ。日本平の夜とか、新茶の匂いとか。そういうのは、ここに来なきゃ分からんだろう」

 幹夫は父を見た。

 父の言葉はいつも短い。けれど、その短さの中に、時々まっすぐな道がある。

「気持ちは書かなくてもいいの?」

「気持ちは、見たものに混じるんじゃないか」

 父は少し照れたように咳払いをした。

「俺にはよく分からんがな」

 幹夫は湯呑みを握りしめた。

 気持ちは、見たものに混じる。

 それは、祖母の言葉とは違う形をしていたが、同じ場所へ向かっているように思えた。心そのものを無理に取り出さなくてもいい。夜景を書けば、夜景の中に幹夫の寂しさや嬉しさが滲む。新茶の香りを書けば、その香りの中に、沙耶へ届けたい思いが少し移る。

 幹夫は空を見上げた。

 星は少なかった。町の灯が明るいせいで、村の茶畑から見る空ほど深くはない。けれど、その少なさがかえって一つ一つの星を大切に見せていた。幹夫は思った。沙耶の町の星も、こんなふうかもしれない。少なくて、遠慮がちで、それでもちゃんと光っている。

 そのとき、祖母が言った。

「幹夫、耳を澄ませてごらん」

 幹夫は目を閉じた。

 最初に聞こえたのは、風の音だった。展望台の柵を抜け、木々の葉を揺らし、茶畑の方から上ってくる音。次に、遠くの車の音。かすかな人の声。港の方から、低く響く機械の音のようなものも聞こえた。

 そして、その奥に、もっと小さな音があった。

 茶葉の触れ合う音。

 聞こえた気がしただけかもしれない。けれど幹夫には、闇の中で茶畑が静かに息をしているように思えた。昼のあいだ陽を浴び、人の手に摘まれ、機械の音に包まれた茶の木たちが、夜になってようやく自分たちだけの言葉を交わしている。

「聞こえるかい」

 祖母が尋ねた。

「うん」

「何が聞こえる」

「茶畑が、眠る前に話してる」

 祖母は微笑んだ。

「そうかい」

 父は何も言わなかった。けれど、幹夫が目を開けると、父も耳を澄ませていた。父の大きな肩が、夜の風の中で少しだけ小さく見えた。

 幹夫はその姿を見て、胸が静かに痛んだ。

 父もきっと、いろいろなものを背負っている。家のこと、畑のこと、祖母のこと、亡くなった母のこと、そして幹夫のこと。けれど父は、幹夫のように言葉にしない。言葉にしないから、感じていないわけではない。黙っている人の胸の中にも、夜の茶畑のように、聞こえない音がある。

「お父さん」

「なんだ」

「お父さんにも、茶畑の声、聞こえる?」

 父は少し困った顔をした。

「声は聞こえん」

「そっか」

「でも」

 父は展望台の下に広がる闇を見た。

「今年もよく育ったな、とは思う」

 幹夫は頷いた。

 それは父にとっての、茶畑の声なのかもしれなかった。幹夫には葉のささやきのように聞こえるものが、父には育ち具合や土の湿り気や新芽の色として届く。同じものを前にしていても、人はそれぞれ違う入口から世界に触れている。

 違っていても、同じ夜に立つことはできる。

 そのことが、幹夫にはうれしかった。

 帰る前に、祖母は空になった湯呑みを布で拭き、急須をしまった。幹夫はもう一度展望台の柵のそばへ行った。夜景は変わらず光っていた。港の灯、町の灯、道路の灯。遠くに沈む海。闇の中の富士山。眠る茶畑。

 幹夫は心の中で、沙耶への手紙を書き始めた。

 ――今夜、日本平へ行きました。 ――新茶の香りが、山の風に混じっていました。 ――下には町の灯があって、上には少しだけ星がありました。 ――富士山は見えないのに、そこにいることが分かりました。 ――見えないものでも、確かにあるものはあるのだと思いました。

 そこまで考えて、幹夫は胸が少し熱くなった。

 沙耶との距離も、そうなのかもしれない。会えなくても、見えなくても、そこにいることが分かる。手紙がしばらく来なくても、同じ空の下にいる。遠さは、ないことではない。遠さは、遠くにあるという確かさなのだ。

 車に戻るとき、幹夫は茶畑の方を振り返った。

 夜の中で、畝はほとんど見えなかった。ただ、香りだけがあった。姿を隠したものほど、匂いで存在を知らせるのだと思った。母もそうだった。沙耶もそうだった。言葉にできない気持ちも、いつもどこかで香っている。

 家へ帰る道で、幹夫は眠らなかった。

 父の運転する車は、山道をゆっくり下っていった。窓の外では、茶畑の黒い波が後ろへ流れていく。祖母は隣でうとうとしていた。父は黙ってハンドルを握っていた。

 幹夫は膝の上で、見えない便箋を広げていた。

 手紙の続きが、少しずつ胸に浮かんできた。

 ――新茶は、昼の光を飲んで、夜に香るのだと思います。 ――人の気持ちも、言えなかった昼のことを、夜になって少しだけ香らせるのかもしれません。 ――僕は最近、沙耶ちゃんが遠くで元気にしていることが、うれしいのに寂しいです。 ――でも、今夜その寂しさは、悪いものではないと思いました。 ――茶の苦みのあとに甘みが戻るように、寂しさの奥にも、大事に思っている気持ちが残っているからです。

 幹夫は胸の中でその文を何度も繰り返した。

 忘れないように。

 家に着くと、夜はさらに深くなっていた。祖母は「先に休むよ」と言って部屋へ入った。父も湯を飲みに台所へ行った。幹夫は自分の部屋へ行き、机の灯りをつけた。

 白い便箋を出した。

 鉛筆を握ると、少し手が震えた。けれど幹夫は、その震えを嫌だと思わなかった。日本平の風がまだ指の中に残っているのだと思えばよかった。

 沙耶ちゃんへ。

 そう書いた。

 そして、夜景のことを書いた。見えない富士山のことを書いた。茶畑の声のことを書いた。父が「気持ちは見たものに混じる」と言ったことも書いた。

 書いているうちに、幹夫は不思議なことに気づいた。

 寂しい、と書くことが前ほど怖くなくなっていた。

 寂しいです、と書いても、その文字は沙耶を責めていなかった。ただ、幹夫の胸にある灯の影を映しているだけだった。そしてその影があるから、灯の明るさも分かるのだ。

 幹夫は最後に、こう書いた。

 ――日本平の新茶の夜は、町の灯と星の灯が、同じ茶碗の中に映っているようでした。 ――遠いものと近いものが、湯気の向こうで少しだけ重なっていました。 ――沙耶ちゃんの町の夜にも、そんな香りが届くといいです。 ――見えない富士山がそこにあったように、見えない友だちも、ちゃんと心の中にいるのだと思います。

 書き終えると、外ではもう虫の声も少なくなっていた。

 幹夫は便箋を読み返した。上手かどうかは分からなかった。ところどころ字が曲がり、消しゴムの跡もあった。けれど、そこには確かに日本平の風が残っていた。新茶の香りも、夜景の光も、父の沈黙も、祖母の微笑みも、少しずつ紙に移っている気がした。

 幹夫は机の引き出しから、小さな和紙を取り出した。

 祖母から少し分けてもらった新茶を、ほんの一つまみ包んだ。封筒の中に入れると、手紙全体がかすかに香った。

 封をする前に、幹夫は窓を開けた。

 夜の空気が入ってきた。家の向こうに広がる茶畑は見えなかったが、香りだけはまだあった。日本平で感じたものより淡く、家の匂いに近い新茶の香りだった。

「届きますように」

 幹夫は小さく言った。

 誰に向けて言ったのか、自分でもはっきりしなかった。沙耶に。町の夜に。見えない富士山に。眠っている茶畑に。それとも、いつも言葉に迷う自分自身に。

 翌朝、幹夫は登校前にポストへ手紙を入れた。

 赤いポストの口に封筒が消えると、胸の中が少し軽くなった。手紙はもう、自分だけのものではない。新茶の香りを抱いて、町へ向かう。幹夫の夜を少しだけ連れて、沙耶の朝へ届く。

 その日の夕方、茶畑には雨が降った。

 細かな雨だった。葉の上に小さな水玉が並び、畝全体が薄く光っていた。幹夫は傘を差して畑の端に立った。雨の中では、茶の香りが少し深くなる。青さの下から、土の温かさが立ちのぼってくる。

 幹夫は目を閉じた。

 日本平の夜景が、まぶたの裏に浮かんだ。町の灯。海の黒さ。見えない富士山。湯呑みの中に映った小さな光。父の言葉。祖母の手。新茶の湯気。

 それらはもう過ぎた夜だった。

 けれど、消えてはいなかった。幹夫の中で静かに香っていた。

 幹夫は思った。

 人は、過ぎた時間をそのまま持っていくことはできない。夜景を鞄に入れることも、風を瓶に詰めることも、星を封筒に貼ることもできない。けれど、香りだけは心に残る。言葉にすれば少し運べる。誰かと分け合えば、遠い場所でもう一度ひらくことがある。

 新茶の夜は、そのことを教えてくれた。

 雨が茶の葉を打つ音を聞きながら、幹夫は静かに息を吸った。胸の奥に、まだ日本平の風があった。繊細で、すぐに揺れてしまう自分の心の中に、あの夜の光が小さく灯っていた。

 揺れる心だからこそ、香りをこぼさず受け取れるのかもしれない。

 幹夫はそう思った。

 遠く、雲の向こうには富士山がある。今は見えない。けれど、そこにある。沙耶のいる町も、手紙の行方も、明日の自分の気持ちも、今は見えない。

 それでも、ある。

 見えないものを信じる力は、夜の茶畑の香りに少し似ている。目には映らないのに、確かに胸を満たす。

 幹夫は傘を少し上げ、雨に煙る茶畑を見渡した。

 若葉は濡れていた。

 けれど、その一枚一枚の内側に、五月の光がまだ眠っているようだった。新茶の夜に見た町の灯も、星の灯も、父の言葉も、祖母の微笑みも、沙耶へ向かう手紙も、みんなその緑の奥にしまわれている気がした。

 そして幹夫は、雨の中でそっと微笑んだ。

 日本平、新茶の夜。

 それはもう、ただの夜ではなかった。

 幹夫の胸の中で、これから何度も香り返す、ひとつの静かな灯になっていた。

 
 
 

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