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日本平と銀河のあいだ

日本平へ上る道は、夜になると、どこか空へ続いているように見えた。


 昼間なら、茶畑の緑も、蜜柑の木も、遠くに光る駿河湾も、はっきり目に入る。けれど夜には、それらはみな闇の中へ沈み、車の前照灯に照らされた道だけが、細く白く浮かび上がる。その白い道を辿っていくと、地上を離れて、少しずつ星に近づいているような気がするのだった。


 幹夫は後部座席の窓に額を寄せていた。


 五月の終わりだった。昼間の熱はもう薄れ、山道には冷えた風が流れていた。窓を少し開けると、茶の葉の青い匂いが入ってくる。新茶の季節を過ぎたばかりの山は、夜になってもまだ若葉の香りを抱いていた。


 その香りは、幹夫の胸に静かに触れた。


 触れられると、胸の奥に小さな波が立つ。


 幹夫は十二歳だった。人より少しだけ、いろいろなものを感じすぎる少年だった。誰かの言葉の端に隠れた寂しさ、夕暮れの空の赤すぎる痛み、雨上がりの草の震え。そういうものが、幹夫の中にはすぐ入ってきた。


 入ってきたものは、簡単には消えなかった。


 学校で友だちに笑われた一言も、父が疲れて黙っている背中も、祖母が仏壇の前で長く息をつく音も、幹夫の胸の中で露のように残った。朝日が当たれば消える露ならいい。けれど心の露は、時々いつまでも乾かず、冷たいまま光っていることがあった。


「寒くないか」


 運転席の父が言った。


「大丈夫」


 幹夫は答えた。


 本当は少し寒かった。けれど窓を閉めたくなかった。閉めれば、茶の香りも、山の風も、夜の気配も、外へ置いてきてしまう気がした。


 助手席には祖母が座っていた。膝の上に、小さな風呂敷包みを置いている。中には急須と湯呑みと、今年の新茶が少し入っているのだと、家を出る前に言っていた。


「日本平でお茶を飲むの?」


 幹夫が尋ねたとき、祖母は笑った。


「高いところで飲むお茶は、空の味が少し混じるからね」


 父はそれを聞いて、「また妙なことを」と言った。


 けれどその声は、いつもよりやわらかかった。


 日本平へ行こうと言い出したのは、父だった。


 夕飯のあと、幹夫が学校で描いた絵を見て、父はしばらく黙っていた。絵には、夜の日本平が描かれていた。下には港と町の灯。上には銀河。真ん中に、展望台の柵にもたれて空を見る小さな少年。


 その少年は、幹夫自身だった。


 けれど絵を描いたとき、幹夫はまだ日本平の夜を見たことがなかった。昼間に家族で行った記憶はある。青い海、遠くの富士山、観光客の声。けれど夜の日本平を、幹夫は想像だけで描いた。


 学校でその絵を見た健太が笑った。


「日本平の上に銀河なんか流れてるのかよ。町の明かりで見えないんじゃないの」


 幹夫は何も言い返せなかった。


 確かに、見たことはなかった。けれど幹夫には、どうしてもそこに銀河を描きたかった。日本平は、地上と空のあいだにある場所のように思えたからだ。


 下を見れば町があり、海があり、人の暮らしの灯がある。上を見れば空があり、星があり、遠い銀河がある。そのあいだに立つ人間は、どちらにも届かず、けれどどちらからも光を受けている。


 そう描きたかった。


 でも、笑われた。


 絵を持ち帰った幹夫は、夕飯のあとも口数が少なかった。祖母はすぐ気づいたが、父はしばらく気づかなかった。食後、父が湯呑みを置いたとき、絵が畳の上に伏せてあるのを見つけた。


「それは何だ」


「絵」


「見てもいいか」


 幹夫は迷った。


 けれど父に差し出した。


 父は絵を長いあいだ見ていた。


「日本平か」


「うん」


「夜か」


「うん」


「これは銀河か」


 幹夫は小さく頷いた。


 父はそれ以上何も言わなかった。幹夫は、変だと言われると思った。空想で描いたものは、やはり子どもの勝手な夢だと言われると思った。


 けれど父は絵を畳に置き、しばらくして言った。


「今から行くか」


「どこへ」


「日本平」


 幹夫は父を見た。


「今から?」


「ああ。見えるかどうかは知らん。だが、見たことがないものを笑われたなら、見に行けばいい」


 祖母が横で目を細めた。


「いいねえ。夜の日本平は、胸の中の風通しがよくなるよ」


 そうして三人は車に乗った。


 山道を上るにつれて、町の灯は少しずつ遠くなった。窓の外に広がる闇の中で、茶畑の畝だけが時々ぼんやり浮かぶ。幹夫はそれを見て、昼間の茶畑とは違う顔だと思った。


 夜の茶畑は、何かを隠している。


 けれど隠しているものは、嘘ではない。


 人の心もそうなのかもしれない。見せないものがあるからといって、空っぽなのではない。むしろ見せられないものほど、深いところで香っている。


 展望台に着いたとき、夜はすっかり降りていた。


 車を降りると、風が幹夫の頬を撫でた。下の町より冷たく、少し潮の匂いが混じっている。海から来た風と、山の茶の香りが、日本平の上で静かに出会っていた。


 幹夫は展望台の柵へ走り寄った。


 眼下には、町の灯が広がっていた。


 清水の港の灯は水の上に滲み、道路の光は細い糸のように町を縫っている。駿河湾は黒く、大きく、ただ灯を映すところだけが銀色に揺れていた。遠くに富士山があるはずだったが、夜の中でははっきり見えなかった。ただ、そこだけ闇が少し深く、空を支えているような気配があった。


「地上にも銀河があるみたい」


 幹夫は思わず言った。


 町の灯が、無数の星のようだった。家々の窓、港の照明、車の小さな光。ひとつひとつは誰かの暮らしの灯なのに、遠くから見ると、ひとつの大きな光の川になる。


 父が隣に立った。


「町の灯だ」


「うん」


「でも、銀河にも見えるか」


「見える」


 父は少しだけ黙った。


「そうか」


 その「そうか」は、いつものように困った声ではなかった。幹夫の見方を、父がそのまま受け取ってくれたように聞こえた。


 幹夫は空を見上げた。


 星は出ていた。


 けれど、思ったほど多くはなかった。町の灯が下から空を薄く照らしているせいか、村の茶畑で見る夜空より少し浅い。銀河も、はっきりした白い帯ではなかった。目を凝らすと、山の上の暗がりに淡い光のにじみがあるようにも見える。それが本当に銀河なのか、薄い雲なのか、幹夫には分からなかった。


 胸が少し沈んだ。


 やはり健太の言った通りなのだろうか。


 日本平の上に、銀河は見えないのだろうか。


 幹夫は絵の中の自分を思い出した。夜景と銀河のあいだに立つ少年。あの絵は、やはり嘘だったのだろうか。


「見えないかい」


 祖母が近くへ来て尋ねた。


「少しだけ」


「少し見えるなら、あるんだよ」


「でも、絵みたいじゃない」


 幹夫は小さく言った。


 祖母は笑わなかった。


「絵は、目だけで描くものじゃないからね」


 幹夫は祖母を見た。


「目で見たものに、胸で見たものが混じる。だから絵になるんだよ」


 父は柵にもたれ、町の灯を見ていた。


「見えないものを描くのも、嘘ではないかもしれんな」


 父がぽつりと言った。


 幹夫は驚いた。


「お父さん?」


「母さんも、そういうことを言っていた」


 母さん。


 その言葉が出ると、夜の風が少し深くなった気がした。


 幹夫の母は、去年の冬に亡くなった。病院の白い壁と、消毒液の匂いと、細くなった母の手。幹夫はその記憶を、胸の奥にしまっていた。取り出すと痛む。けれどしまいすぎると、母の声まで遠くなる。


 母は空を見るのが好きだった。


 茶畑で働いているときも、ふと手を止めて雲を見上げた。夜には縁側へ出て、幹夫と一緒に星を数えた。


「遠いものはね、幹夫」


 母は一度、言った。


「遠いからこそ、心に入るのかもしれないね」


 そのとき幹夫は意味がよく分からなかった。


 今も、全部は分からない。


 けれど日本平の展望台に立っていると、その言葉の輪郭が少し見える気がした。


 遠い町の灯。

 遠い星。

 遠くなった母。

 近くにいるのに、言葉が届きにくい父。


 それらはみんな、幹夫の胸の中で静かに光っていた。


 祖母がベンチに腰を下ろし、風呂敷包みを開いた。


「せっかくだから、お茶にしよう」


 急須と小さな湯呑みが出てきた。魔法瓶の湯は、少し冷ましてあるという。祖母は茶葉を急須へ入れた。五月の新茶だった。茶葉が入った瞬間、夜風の中に青い香りが立った。


 幹夫はその香りを吸い込んだ。


 日本平の上で嗅ぐ新茶は、家で嗅ぐものとは違っていた。海の匂い、山の匂い、町の灯の熱、星の遠さ。そういうものが香りに少し混じっているようだった。


 祖母が湯を注いだ。


 湯気が白く立ちのぼる。


 その湯気は、下の町の灯と上の星のあいだへ、細い橋のように消えていった。


「お茶の湯気も、銀河みたい」


 幹夫が言うと、祖母は嬉しそうに頷いた。


「そうだねえ。小さな急須から出る銀河だ」


 父は少し笑った。


「銀河だらけだな、今夜は」


 その声には、からかいよりも温かさがあった。


 幹夫は湯呑みを両手で受け取った。


 湯呑みの中の茶は、淡い緑色をしていた。そこに展望台の灯が小さく揺れている。幹夫はそっと口をつけた。


 初めに、若い苦みが舌に触れた。


 そのあと、甘みが戻ってきた。


 幹夫は目を閉じた。


 茶の中に、夜景が入っていた。下の町の灯、黒い海、見えない富士山、空の薄い星、祖母の手、父の低い声。見えない銀河までも、湯呑みの奥に沈んでいるようだった。


 小さな湯呑みなのに、こんなに広い夜が入る。


 幹夫は不思議だった。


 人の心も、湯呑みに似ているのだろうか。小さくて、すぐいっぱいになって、こぼれやすい。けれどそこに、夜景も、星も、亡くなった人の記憶も、父の言葉も、全部入ることがある。


「おいしいか」


 父が聞いた。


「うん」


「どんな味だ」


 父がそう尋ねるのは珍しかった。


 幹夫は少し考えた。


「下の町と、上の星のあいだの味」


 父は眉を寄せた。


「分かるような、分からんような」


 祖母が笑った。


「分からなくても、聞いているだけでいいんだよ」


 父は湯呑みを見つめた。


「そうか」


 父のその声が、幹夫には嬉しかった。


 父は何でも分かる人ではない。幹夫の見ているものを、全部同じように見ることはできない。けれど、分からないまま耳を傾けてくれることがある。


 それは、分かることよりも大切なときがあるのだと、幹夫は思った。


 お茶を飲み終えるころ、風が少し強くなった。


 祖母は持ってきた薄い肩掛けを幹夫にかけた。父は柵から少し離れ、展望台の端へ歩いていった。幹夫もついていく。


 そこからは、山の闇がよく見えた。


 日本平の茶畑は夜の中に沈んでいる。遠くの町の灯とは違い、茶畑は光を持たない。ただ香りだけがある。幹夫には、それが不思議だった。


 町は光で自分の存在を知らせる。

 茶畑は香りで知らせる。

 銀河は遠い光で知らせる。

 人の心は、何で知らせるのだろう。


 言葉だろうか。


 沈黙だろうか。


 涙だろうか。


 幹夫は父の横顔を見た。


 父は夜景を見ていなかった。空を見ていた。薄い星の方を、目を細めて見上げている。


「お父さん」


「なんだ」


「銀河、見える?」


「はっきりは見えん」


「僕も」


「でも、あるんだろう」


「うん」


 父は少し黙った。


「母さんも、見えないものの話をよくした」


「どんな?」


「俺には分からんことばかりだ。茶の葉が光を覚えているとか、湯気が春の手紙だとか」


 父の声は、少しだけ遠くを向いていた。


「昔は、よく分からんと思って聞き流していた」


「今は?」


 父は長く黙った。


 下の町の灯が、風に揺れるように滲んでいた。実際には揺れていないのかもしれない。幹夫の目が少し潤んでいたのかもしれない。


「今も全部は分からん」


 父は言った。


「でも、分からないままでも、もっと聞いておけばよかったと思う」


 その言葉は、幹夫の胸を静かに締めつけた。


 父の後悔。


 それは大きな声で泣く悲しみではなかった。茶畑の夜露のように、誰にも気づかれずに降りている悲しみだった。


「お父さんも、寂しい?」


 幹夫は小さく尋ねた。


 父はすぐには答えなかった。


 けれど、やがて短く言った。


「寂しい」


 幹夫は息を止めた。


 父の口から、そんなまっすぐな言葉を聞いたのは初めてだった。


 寂しい。


 たった三文字なのに、その中には冬の病室も、母のいない台所も、茶畑で一人立つ父の背中も、全部入っているようだった。


「でも」


 父は続けた。


「ここへ来ると、少し違う」


「どうして?」


「下を見ると、暮らしている人がいる。上を見ると、ずっと昔から光っている星がある。そのあいだに立つと、自分の寂しさだけが世界の全部ではないと思える」


 幹夫は父を見た。


 父の言葉は不器用だった。けれどその不器用さの奥に、幹夫が知らなかった父の心が少し見えた。


 日本平と銀河のあいだ。


 そこには、父の寂しさもあった。


 幹夫の絵だけの場所ではなかった。


「僕は」


 幹夫は言った。


「胸がすぐいっぱいになる」


「うん」


「町の灯を見ても、星を見ても、お茶を飲んでも、お母さんを思い出しても、全部入ってきて苦しくなる」


 父は黙って聞いていた。


 幹夫は続けた。


「でも、今日ここに来たら、いっぱいになるのが少し嫌じゃなかった」


「どうしてだ」


「下にも光があって、上にも光があって、そのあいだに立っているから。胸がいっぱいになるのは、いろんな光が入ってくるからかもしれないと思った」


 父は幹夫の方を見た。


 その目は、夜の中で静かだった。


「そうか」


 それだけだった。


 けれど幹夫には十分だった。


 父が答えを出してくれなくてもよかった。幹夫の言葉を直そうとしなかった。ただ、そこに置いてくれた。それだけで、胸の中の苦しさが少し柔らかくなった。


 しばらくして、空の雲がゆっくり流れた。


 その切れ間に、星が少し増えた。


 銀河らしい淡い白さが、さっきよりもはっきり見えた気がした。幹夫は息をのんだ。


「お父さん、見える」


 幹夫は指さした。


「あそこ」


 父は目を細めた。


「……少しな」


「本当?」


「ああ。雲ではなさそうだ」


 幹夫の胸が明るくなった。


 絵の中の銀河ほど大きくも、鮮やかでもない。けれど確かにあった。薄く、遠く、消えそうで、それでも夜の奥に流れている。


「僕の絵、嘘じゃなかった」


 幹夫が言うと、父は静かに言った。


「嘘ではなかったな」


 祖母が後ろから言った。


「目に見えるまで待った甲斐があったね」


 幹夫は空を見上げ続けた。


 銀河は、見ようとしなければ見えないほど淡かった。町の灯に負けそうで、雲に隠れそうで、少しでも目をそらせば消えてしまいそうだった。


 けれど、その弱い光が幹夫には美しかった。


 強く輝くものだけが、空を作っているのではない。かすかな光も、見えにくい光も、誰かが目を凝らして初めて気づく光も、銀河の一部なのだ。


 自分の心も、そうならいいと思った。


 弱く、揺れやすく、すぐに曇る心。


 けれどその心だからこそ、薄い銀河を見つけられるのかもしれない。


 帰り道、車の中で祖母は少し眠っていた。


 父は黙って運転していた。幹夫も黙って窓の外を見ていた。山道の暗がりに、ときどき茶畑の影が浮かぶ。さっき展望台から見た町の灯は、今は木々の間に隠れて見えない。銀河も、車の屋根の上にあるはずなのに見えない。


 けれど幹夫は不安ではなかった。


 見えないだけで、ある。


 茶畑の香りも、母の言葉も、父の寂しさも、幹夫の絵の銀河も。


 家に戻ると、夜は深かった。


 祖母は「先に休むよ」と言って部屋へ入った。父は台所で水を飲み、幹夫の絵をもう一度見た。畳の上に置かれた絵には、想像で描いた銀河が流れている。


 父は言った。


「明日、学校へ持っていくのか」


「うん」


「笑われたら、どうする」


 幹夫は少し考えた。


「見に行ったって言う」


「それでも笑われたら」


「少しは傷つくと思う」


 正直に言った。


 父は幹夫を見た。


「でも、絵は伏せない」


 幹夫は続けた。


「僕には、こう見えたから」


 父はゆっくり頷いた。


「それでいい」


 その言葉は、幹夫の胸に深く残った。


 それでいい。


 たったそれだけの言葉が、こんなに温かいことを、幹夫は初めて知った。


 その夜、幹夫は机に向かい、絵の裏に小さく文章を書いた。


 ――日本平は、地上と空のあいだにある場所でした。

 ――下には町の灯がありました。港も海も、人の暮らしもありました。

 ――上には銀河がありました。最初は見えませんでした。でも、雲が動くと少し見えました。

 ――見えないものは、ないものではありませんでした。

 ――見えるまで、待つことが必要なものもありました。


 幹夫は一度、鉛筆を止めた。


 窓の外から、かすかに茶の香りが入ってくる。日本平で飲んだ新茶の味が、まだ舌の奥に残っているようだった。


 続きを書いた。


 ――僕の胸は、すぐいっぱいになります。

 ――でも、今夜は、いっぱいになることが少しだけ嫌ではありませんでした。

 ――町の灯も、星の光も、父の寂しさも、母の言葉も、みんな胸に入ってきました。

 ――胸が小さいから苦しいのだと思っていたけれど、小さい湯呑みにも広い夜が入ることを知りました。


 最後に、こう書いた。


 ――日本平と銀河のあいだには、人の心があります。

 ――近いものと遠いものを、同じ場所で受け取る心です。

 ――そこに立つと、見えないものを待つことが、少しだけ怖くなくなります。


 書き終えると、幹夫は絵を机に立てかけた。


 絵の中の少年は、下の町と上の銀河のあいだに立っている。


 以前は、その少年が寂しそうに見えた。


 けれど今は、少し違って見えた。


 彼はひとりぼっちで挟まれているのではない。地上からも空からも、光を受け取っている。下からは暮らしの灯が、上からは遠い星の光が、そしてそのあいだを山の風と茶の香りが通っている。


 幹夫はそっと灯りを消した。


 布団に入ると、まぶたの裏に日本平の夜景が浮かんだ。町の灯。黒い海。見えない富士山。薄い銀河。祖母の湯気。父の「寂しい」という声。


 それらはもう過ぎた夜だった。


 けれど消えてはいなかった。


 幹夫の胸の中で、小さな銀河のように流れていた。


 明日、学校でまた笑われるかもしれない。父とはまた、うまく話せない日があるかもしれない。母の記憶は、時々遠くなり、時々近すぎて痛むだろう。


 それでも幹夫は、今夜見たものを失いたくないと思った。


 日本平と銀河のあいだ。


 そこは、ただ高い場所ではなかった。


 見えるものと見えないものが出会う場所。

 近い暮らしと遠い時間が、同じ風に触れる場所。

 寂しさが世界の全部ではないと、静かに教えてくれる場所。


 そして、幹夫の繊細な心が、弱さとしてではなく、光を受け取る器として、ほんの少しだけ自分を許せる場所だった。


 窓の外で、夜風が茶の葉を揺らした。


 幹夫は目を閉じた。


 遠く、日本平の上では、銀河がまだ淡く流れている気がした。

 下の町では、誰かの窓に小さな灯がともっている気がした。

 そのあいだで、自分の胸もまた、静かに光っている気がした。


 
 
 

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