日本平の新茶と星
- 山崎行政書士事務所
- 5月8日
- 読了時間: 12分

五月の夜、日本平へ上る道には、新茶の香りがした。
昼のあいだ陽にあたためられていた茶畑が、夕闇の中でゆっくり息を吐いているのだと、幹夫は思った。車の窓を少し開けると、山の斜面から青く澄んだ匂いが流れ込んでくる。摘みたての若葉の匂い。蒸された茶葉のほのかな甘さ。土に残った雨の気配。そこに、海の方から来る少し湿った風が混じっていた。
日本平の夜は、茶畑と海と空が、静かに一つの息をしているようだった。
幹夫は十二歳だった。
感じやすく、傷つきやすい少年だった。誰かが何気なく言った言葉が、夜になっても胸の中で小さく鳴りつづける。夕焼けがあまりに赤い日は、なぜだか泣きたくなる。茶の若葉に露が宿る朝には、その一粒の中に空が全部入っているように思えて、しばらく動けなくなる。
父はそんな幹夫を心配して、ときどき言った。
「お前は、何でも胸に入れすぎる」
幹夫は、そのたびにうつむいた。
胸に入れようとしているわけではない。入ってきてしまうのだ。風が窓の隙間から入るように。新茶の香りが服や髪にしみこむように。世界の小さな震えが、幹夫の心の薄いところへ触れてくる。
母が生きていたころは、そのことを少しも恥ずかしいと思わずにいられた。
母は幹夫の感じ方を笑わなかった。
「薄い心ほどね、幹夫」
母は茶畑でよく言った。
「光を通すのよ。茶の若葉みたいに」
母は去年の冬に亡くなった。
雪の降らない、ただ冷たいだけの日だった。病院の白い壁、消毒液の匂い、細くなった母の手。幹夫はその手を握っていたのに、言いたいことをほとんど言えなかった。
ありがとう。 行かないで。 また一緒に茶畑へ行こう。 新茶の匂いがしたら、お母さんを思い出してもいい?
どの言葉も、喉の奥で凍ってしまった。
五月になり、新茶の季節が来ると、母の不在はかえって濃くなった。茶畑は今年も若葉を出し、父は今年も無口に畑へ出て、祖母は今年も湯を冷まして新茶を淹れた。世界は何もなかったように五月になる。
そのことが、幹夫には少し残酷だった。
けれど同時に、新茶の香りは母の声を連れてくる。
母がいないことを知らせる匂いであり、母がいたことを知らせる匂いでもあった。
その夜、父が急に言った。
「日本平へ行くか」
夕飯のあとだった。祖母が新茶を淹れ、湯呑みから白い湯気が立っていた。仏壇の前にも、小さな湯呑みが置かれている。写真の中の母は、茶畑で笑っていた。
「今から?」
幹夫が尋ねると、父は頷いた。
「星が出ている。雲も少ない」
祖母が目を細めた。
「新茶のころの日本平は、夜がいいよ。下には町の灯、上には星、間には茶の香りがあるからね」
父は「また大げさなことを」と言ったが、その声はやわらかかった。
幹夫は何も言わず、外へ出る支度をした。
車は山道を上っていった。
日本平へ近づくにつれ、窓の外の闇は深くなった。昼間なら緑に輝く茶畑も、夜には黒い波のように見える。ところどころ、家の灯や車の光が斜面をかすめると、畝の曲線が一瞬だけ浮かび上がった。
幹夫は、その暗い茶畑を見つめていた。
闇に沈んでいても、茶畑はそこにある。見えなくても、香りで分かる。幹夫はふと思った。母も、そうなのだろうか。姿は見えない。声も聞こえない。けれど新茶の香りの中で、たしかに「いたこと」が胸へ戻ってくる。
日本平の展望台に着くと、風が幹夫の頬を撫でた。
下には町の灯が広がっていた。
清水の港の灯は水面に滲み、道路の光は細い糸のように夜を縫っている。黒い駿河湾の向こうには、海と空の境がほとんど分からないほど深い闇があった。富士山ははっきり見えなかったが、そこだけ夜が大きく息をひそめているような気配があった。
幹夫は柵に手を置いた。
「地上にも星があるみたい」
思わずそう言った。
父は隣に立ち、町の灯を見た。
「町の灯だ」
「うん。でも、星みたい」
父は少し黙った。
「そうか」
その「そうか」は、いつもの困ったような声ではなかった。幹夫の見方を、父がそのまま受け取ってくれたように聞こえた。
幹夫は空を見上げた。
星は出ていた。
けれど、思ったより少なかった。町の灯が明るいせいか、村の茶畑で見る空ほど深くない。銀河も、はっきりとは見えなかった。夜の奥に、白く薄い気配があるような、ないような。
幹夫の胸が少し沈んだ。
星を見に来たのに、星よりも町の灯の方が明るい。
それが何だか寂しかった。
すると祖母が、ベンチに風呂敷包みを広げた。
「せっかくだから、ここで飲もう」
中には小さな急須と湯呑み、それから和紙に包んだ新茶が入っていた。祖母は魔法瓶の湯を少し冷まし、急須に茶葉を入れた。
その瞬間、夜風の中に青い香りが立った。
幹夫は息を吸った。
家で飲む新茶とは、少し違う香りだった。山の風、海の湿り気、町の灯の熱、遠い星の冷たさ。そういうものが、新茶の青さに混じっているようだった。
祖母が湯を注ぐと、急須の中で茶葉がほどける気配がした。
幹夫にはそれが、眠っていた若葉がもう一度目を覚ます音のように思えた。
湯呑みに注がれた茶は、淡い緑色だった。
そこに展望台の灯が小さく揺れ、まるで茶の水面に町の星が沈んでいるように見えた。
「幹夫」
祖母が湯呑みを渡した。
幹夫は両手で包んだ。
冷えた指に、湯呑みの温かさがじんわり移った。
一口飲む。
最初に、若い苦みが舌に触れた。
それは、母を思い出すときの胸の痛みに似ていた。忘れたくないものが遠くなる怖さ。言えなかった言葉が今も喉の奥に残っている苦さ。
けれど、そのあと甘みが戻ってきた。
ゆっくりと、舌の奥から胸へ広がる。
幹夫は目を閉じた。
湯呑みの中に、茶畑があった。 朝露を抱いた若葉があった。 母の白い手ぬぐいがあった。 父の荒れた手があった。 祖母の湯を冷ます静かな手つきがあった。 日本平の夜景があり、星の少ない空があり、見えない銀河があった。
小さな湯呑みに、こんなにたくさんのものが入る。
幹夫は不思議だった。
人の胸も、湯呑みに似ているのかもしれない。小さくて、すぐいっぱいになってしまう。けれどそこに、新茶の丘も、町の灯も、遠い星も、亡くなった人の言葉も、入ることがある。
「おいしいか」
父が尋ねた。
「うん」
「どんな味だ」
父がそんなふうに聞くのは珍しかった。
幹夫は少し考えた。
「星が見えにくい夜の味」
父は眉を寄せた。
「それは、うまいのか」
「うん」
幹夫は湯呑みを見つめた。
「見えない星も、あるって分かる味」
父は何も言わなかった。
ただ、自分の湯呑みを見つめた。
その沈黙は、冷たくなかった。
しばらく三人は、展望台でお茶を飲んでいた。
下には町の灯がある。上には星がある。間を風が通る。新茶の香りが、その風に乗って静かに広がる。
幹夫は、母のことを思った。
母なら、何と言うだろう。
町の灯を見て、「地上の星ね」と言っただろうか。湯気を見て、「新茶が空へ手紙を出しているみたい」と言っただろうか。見えにくい銀河を見て、「見えないものほど、心で見るのよ」と笑っただろうか。
幹夫の胸が、また痛んだ。
けれどその痛みは、先ほどより少しやわらかかった。
「お父さん」
幹夫は小さく言った。
「お母さん、日本平へ来たことある?」
父は町の灯を見たまま、少しだけ頷いた。
「ある」
「いつ?」
「お前が生まれる前だ。新茶のころに、二人で来た」
幹夫は父を見た。
父が母の話をすることは多くない。話すと、家の中の空気が深くなるからだ。父はその深さを避けているように見えた。
けれど今夜の父は、ゆっくり言葉を続けた。
「母さんは、ここで茶を飲みたいと言った。まだ今みたいに祖母さんが道具を持ってきたわけじゃない。紙コップの茶だったがな」
「お母さん、何か言った?」
父は少し考えた。
「下の町の灯を見て、星が地上に降りているみたいだと言った」
幹夫の胸が鳴った。
自分と同じことを、母も言っていた。
「それから」
父は湯呑みを両手で持ったまま、少し遠い目をした。
「新茶の香りは、昼の光を夜へ運ぶのね、と言った」
幹夫はその言葉を胸の中で繰り返した。
新茶の香りは、昼の光を夜へ運ぶ。
母らしい言葉だった。
そして今、その言葉は父の中から出てきた。母の声は消えたのではなく、父の記憶の奥にしまわれていたのだ。
「お父さん、覚えてたんだね」
父は少し苦い顔をした。
「忘れたと思っていた」
「思い出したの?」
「ああ。ここの風と、茶の匂いで」
幹夫は湯呑みを見つめた。
新茶の香りは、母の言葉を父の中から連れてきた。
それは小さな奇跡のようだった。
祖母が静かに言った。
「香りは、鍵になることがあるからね」
「鍵?」
幹夫が尋ねると、祖母は頷いた。
「閉じたままになっていた記憶の戸を、そっと開ける鍵さ。無理にこじ開けるんじゃない。香りが来ると、戸の方から少し開く」
幹夫は、その言葉を聞いて胸が楽になった。
母を思い出そうとしても、うまく思い出せないことがある。そういうとき、幹夫は自分を責めていた。忘れてしまうのではないかと怖かった。
けれど、無理に開けなくてもいいのかもしれない。
新茶の香りが来る。 風が来る。 湯気が立つ。 父がふいに母の言葉を思い出す。
そういうとき、記憶の戸は少しずつ開く。
幹夫は空を見上げた。
星はやはり少なかった。
けれど目を凝らすと、見えなかったはずの小さな星が、ひとつ、またひとつ、夜の中に現れてくる。最初からなかったのではない。ただ、見る目が暗さに慣れるのを待っていたのだ。
幹夫は父に言った。
「お父さん」
「なんだ」
「星って、すぐには見えないことがあるんだね」
「ああ」
「でも、目が慣れると見えてくる」
「そうだな」
「お母さんのことも、そうかな」
父は黙った。
幹夫は続けた。
「最初は、いないことばかり見える。でも少し待つと、いたことも見えてくるのかな」
父は長い間、町の灯を見つめていた。
そして低い声で言った。
「そうかもしれん」
その声には、父自身もそのことを今考えているような響きがあった。
幹夫は、父もまた暗さに目を慣らしている途中なのだと思った。母のいない暗さに。新しい日々の暗さに。幹夫の揺れやすい心という、父にはまだよく見えない星に。
父も、すぐに見えないものを見ようとしている。
そう思うと、幹夫の胸が温かくなった。
風が少し強く吹いた。
祖母が肩掛けを幹夫の背中にかけた。
「寒いだろう」
「少し」
「新茶の夜は、体を冷やすといけない」
祖母の声は、湯呑みの温かさに似ていた。
幹夫は肩掛けを握った。
そのとき、空の雲がゆっくり動いた。
山の上の暗がりに、淡い白い筋が浮かんだ。
銀河だった。
はっきりとは見えない。絵本に出てくるような明るい天の川ではない。町の灯に薄められ、夜の闇に沈み、見ようとしなければ見落としてしまうほどの、かすかな白さだった。
けれど、確かにそこにあった。
「見える」
幹夫は小さく言った。
父も顔を上げた。
「どこだ」
「あそこ。山の上の、白くぼんやりしているところ」
父は目を細めた。
「雲じゃないのか」
「たぶん、銀河」
父はしばらく見ていた。
やがて、短く言った。
「少し、見える」
幹夫の胸が明るくなった。
父にも見えた。
少しだけでも。
同じ銀河を見ている。
そのことが、幹夫にはとても大切に思えた。
銀河は淡く、すぐ雲に隠れそうだった。けれどだからこそ美しかった。強い光ではない。見えにくい光。待たなければ見えない光。目を凝らし、暗さに慣れ、心を静かにして初めて現れる光。
幹夫は思った。
自分の心も、そんな光を探すために薄くできているのかもしれない。
すぐ痛む。 すぐ揺れる。 けれど、そのぶん見えにくい星に気づくことができる。
母の言葉。 父の寂しさ。 祖母の静かな祈り。 新茶の香りに隠れた昼の光。
そういうものに。
帰り道、車の中で祖母はうとうとしていた。
父は黙って運転していた。幹夫は窓の外を見ていた。山道の闇の中に、ときどき茶畑の影が浮かぶ。さっきまで見えていた町の灯も銀河も、今は木々に隠れて見えない。
けれど幹夫は、もう不安ではなかった。
見えないだけで、ある。
茶畑も。 星も。 母の声も。 父の中の記憶も。
家に戻ると、夜は深かった。
祖母は先に休み、父は台所で水を飲んだ。幹夫は自分の部屋へ行き、机に向かった。
白い紙を出した。
今日のことを書きたかった。
眠ってしまえば、夜の香りが薄れてしまう気がしたからだ。
幹夫は鉛筆を握った。
字は少し震えた。
けれどその震えを、今夜は嫌だと思わなかった。日本平の風がまだ指先に残っているのだと思えばよかった。
――今夜、日本平へ行きました。 ――新茶の香りが、山の風に混じっていました。 ――下には町の灯がありました。 ――上には星がありました。 ――銀河は最初、ほとんど見えませんでした。 ――でも、目が暗さに慣れると、少しだけ見えました。
幹夫は一度、手を止めた。
窓の外から、夜の茶畑の香りが入ってくる。
続きを書いた。
――母のことも、そうなのかもしれません。 ――いないことはすぐに見えます。 ――でも、いたことは、少し待たないと見えないことがあります。 ――新茶の香りは、そのための鍵みたいでした。 ――父は、母が日本平で言った言葉を思い出しました。 ――新茶の香りは、昼の光を夜へ運ぶのね、と母は言ったそうです。
幹夫の目に涙が浮かんだ。
けれど、その涙は紙に落ちなかった。目の縁で揺れ、机の灯を小さく映していた。
――僕の胸は、すぐいっぱいになります。 ――でも今夜、小さな湯呑みに広い夜が入ることを知りました。 ――新茶の一杯の中に、茶畑も、町の灯も、星も、見えにくい銀河も、母の言葉も、父の沈黙も入りました。 ――だから、僕の小さな胸にも、少しずつ入れていいのだと思いました。
最後に、こう書いた。
――日本平の新茶と星は、どちらも遠いものを近くしてくれました。 ――新茶は、母の言葉を連れてきました。 ――星は、見えないものを待つことを教えてくれました。 ――僕はまだ弱くて、すぐ揺れます。 ――でも、揺れる心だから、香りも光も受け取れるのかもしれません。
書き終えると、幹夫は紙を畳まずに机の上へ置いた。
窓を開けると、夜風が入ってきた。
茶畑の香りがした。
空には、家の屋根の上に星がいくつか見えた。日本平で見た銀河は、ここからは山に隠れて見えない。
けれど、幹夫には分かった。
見えないところで、銀河は流れている。
そして母の言葉も、幹夫の胸のどこかで、静かに流れている。
新茶の香りは、昼の光を夜へ運ぶ。
幹夫はその言葉を、何度も心の中で繰り返した。
やがて布団に入ると、まぶたの裏に日本平の夜景が浮かんだ。
下には町の灯。 上には見えにくい星。 間には新茶の香り。
そのあいだに、父と祖母と幹夫がいた。
そして見えないところに、母もいた。
姿はない。声もない。けれど、香りの鍵で少しだけ開いた記憶の戸の向こうに、母は静かに微笑んでいるようだった。
幹夫は目を閉じた。
胸の奥は、まだ少し痛かった。
けれどその痛みの中には、今夜の新茶の甘みと、淡い星の光が混じっていた。
そして幹夫は思った。
明日になれば、また星は見えなくなる。 新茶の香りも、少し薄くなる。 父とはまた、うまく話せない日があるかもしれない。 母の声も、思い出せない朝があるかもしれない。
それでも、なくなったわけではない。
見えないものを待つこと。
香りが戻るのを信じること。
暗さに目が慣れるまで、すぐにあきらめないこと。
日本平の新茶と星は、そのことを幹夫に教えてくれた。
夜の茶畑が、遠くでさわさわと揺れた。
それはまるで、見えない銀河が地上の若葉をそっと撫でている音のようだった。





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