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日本平の星の茶畑


 日本平の夜は、海から静かに上ってくる。

 昼間、遠くまで光っていた駿河湾は、日が沈むと青を失い、黒い絹のようにゆるやかに広がる。清水の港の灯りは水面に細く揺れ、町の窓明かりは、まるで地上に残った星のようにぽつりぽつりと瞬いていた。

 そして、その上に富士山があった。

 夜の富士は、昼間よりもずっと遠く見える。白い雪も、山肌の色も、ほとんど闇に溶けてしまうのに、輪郭だけは不思議とはっきりしていた。そこにある、というより、静けさそのものが山の形をして立っているようだった。

 幹夫少年は、日本平の茶畑の端に立っていた。

 足もとの土は、夜露を含んで少しやわらかい。茶の畝は、丘の斜面に沿って幾筋も並び、昼間の緑を夜の底へ沈めている。風が吹くたび、茶葉は低く鳴った。

 さわ。 さわ。

 その音は、たくさんの小さな声が、眠りながら互いの名前を呼び合っているようだった。

 幹夫は、その音に耳を澄ませた。

 その日、幹夫は学校で、少しだけ自分を嫌いになっていた。

 きっかけは、何でもないことだった。

 図工の時間、友だちが描いた富士山の絵に、ほんの小さな灰色の線があった。たぶん、消しゴムで消しきれなかった鉛筆の跡だった。けれど幹夫には、それが富士山の肩に残った雲の影のように見えた。

 「この線、きれいだね」

 幹夫はそう言った。

 友だちは笑った。

 「ただの消し残しだよ」

 それを聞いた周りの子も、少し笑った。

 悪気はなかった。 幹夫にも、それはわかっていた。

 でも、胸の中に小さな影が残った。

 自分だけが、ただの消し残しをきれいだと思った。 自分だけが、余計なものを見ていた。 自分だけが、みんなと違うところで立ち止まっていた。

 そう思うと、言葉が喉の奥へ引っ込んでしまった。

 帰り道、幹夫は何度もその灰色の線を思い出した。あの線は、やっぱり雲の影に見えた。富士山の白さを、少しだけ深くしているように見えた。

 けれど、それを誰かにもう一度言う勇気はなかった。

 だから夜になって、幹夫は日本平の茶畑まで来たのだった。

 ここなら、誰にも笑われずに、富士山を見られると思った。 ここなら、茶葉の露や、土の匂いや、空に残る弱い星を、急いで説明しなくてもいいと思った。

 幹夫は、茶畑の向こうに沈む富士山の影を見つめた。

 「ただの消し残しじゃなかったよ」

 小さくつぶやいた。

 その声は、夜の茶畑に吸いこまれた。

 しばらく何も起こらなかった。

 ただ、茶葉が風に揺れた。 遠くで車の音がした。 港の灯りが、海の上で細く震えた。

 その時、茶畑の奥で、ひとつの星が落ちた。

 流れ星ではなかった。

 空からすっと線を引いて消えるのではなく、小さな光の粒が、ゆっくり、ゆっくり、茶畑の上へ降りてきたのだ。それは一枚の茶葉の先に触れると、露のように丸くなった。

 次に、またひとつ。

 またひとつ。

 空から、星が降りはじめた。

 星は茶葉の上に落ちるたび、小さなしずくになった。茶畑の畝が、少しずつ銀色に光っていく。上には夜空の星。下には茶葉に宿る星。幹夫は、自分が空と地上のあいだに立っているのか、星の中に迷い込んだのかわからなくなった。

 「今夜は、星茶畑がひらく夜だよ」

 声がした。

 幹夫は振り向いた。

 茶の畝のあいだに、一人の子どもが立っていた。

 年は幹夫と同じくらいだろうか。けれど、その子の姿は人間だけのものではなかった。髪は茶の新芽のような淡い緑を帯び、着物は夜空の色をしていた。袖の先には星屑のような光がついている。手には、小さな茶摘み籠を持っていた。

 その子は、茶葉の上に降りた星のしずくを見つめていた。

 「星茶畑?」

 幹夫が聞くと、その子はうなずいた。

 「日本平の茶畑はね、年に何度か、星を受けるんだ。空の星だけじゃない。町で言えなかった言葉、海を見てこぼれたため息、富士山を見上げて胸に生まれた小さな願い。そういうものが、夜になると星になって、茶葉へ降りる」

 幹夫は、茶葉の上の光を見た。

 星のしずくは、ただ美しく光っているだけではなかった。ひとつひとつの中に、小さな景色があるように見えた。

 「きみは誰?」

 幹夫がたずねると、その子は少し考えた。

 「星茶畑の読み手」

 「読み手?」

 「茶葉に降りた星が、何を抱えているか読むの。読まれた星は茶葉の中へ入って、いつかお茶の香りになる。読まれなかった星は、朝になるとただの露になって消えてしまう」

 幹夫の胸が少し痛んだ。

 読まれなかったものが消える。

 それは、言えなかった言葉に似ていると思った。誰にも聞かれず、見られず、そのままなかったことになってしまうもの。

 読み手の子は、幹夫を見た。

 「幹夫も、読めるよ」

 「ぼくが?」

 「うん。小さなものの中に何かを見つける目を持っているから」

 幹夫は、うつむいた。

 「でも、それで笑われた」

 読み手の子は、すぐには答えなかった。

 茶畑の上を、夜風が渡った。

 さわ。 さわ。

 茶葉の音が、幹夫の言葉を受け止めるように広がった。

 やがて読み手の子は言った。

 「笑われると、目が閉じそうになるよね」

 幹夫は、胸を押さえた。

 その言い方が、とても正確だった。

 笑われたのは、たった一度の小さなことだった。けれどその瞬間、幹夫の中の何かが目を閉じようとした。もう見ないほうがいい。もう言わないほうがいい。自分が見つけた小さな美しさは、自分だけの中に閉じ込めてしまったほうがいい。

 そう思った。

 読み手の子は、茶葉のしずくをひとつ指さした。

 「でも、目を閉じる前に、あの星を読んでみて」

 幹夫は、その茶葉の前にしゃがんだ。

 星のしずくは、淡い灰色を帯びていた。

 その中に、昼間の図工室が映った。

 友だちの富士山の絵。 白い山肌。 その肩に残った、細い灰色の線。 幹夫が「きれいだね」と言った場面。 そして、笑い声。

 幹夫の胸が痛くなった。

 読み手の子はそばで静かに待っていた。

 幹夫は、しずくから目をそらさなかった。

 すると、灰色の線が少しずつ変わっていった。

 消し残しだった線は、富士山の肩にかかる雲になった。 雲は夕方の影を含み、山の白さをただ白いだけではないものにしていた。 その線があることで、富士山は遠く、静かで、少し寂しい山に見えた。

 幹夫は、小さな声で言った。

 「やっぱり、きれいだった」

 しずくが、かすかに光った。

 「ただの消し残しでも、きれいに見えることがある」

 そう言うと、しずくの中の灰色の線が、銀色に変わった。

 茶葉が、さわ、と鳴った。

 読み手の子は微笑んだ。

 「その星は、茶葉に入れる」

 星のしずくは、ゆっくり茶葉の中へ沈んでいった。消えたのではなく、葉脈へ入っていくようだった。茶葉の奥が、ほんの少し銀色に光った。

 「これは、どんな香りになるの?」

 幹夫が聞くと、読み手の子は答えた。

 「失敗や消し残しの中にも、景色があると思える香り」

 幹夫は、胸の奥が少しあたたかくなった。

 それは、自分がほしかった香りだった。

 読み手の子は、茶畑の奥へ歩き出した。

 「今夜は、まだたくさん降っている」

 幹夫は後を追った。

 茶畑は、いつの間にか広くなっていた。

 昼間の日本平の茶畑よりも、ずっと広い。畝は星明かりの中でゆるやかに続き、ところどころで富士山の影や駿河湾の光と重なって見えた。遠くの港の灯りも、茶葉の露の中に小さく映っている。

 ここでは、空も海も山も町も、みんな茶葉の上に宿っていた。

 次の星のしずくは、青かった。

 中には、清水の港の夜景が映っていた。船の灯り、倉庫の影、海面に揺れる光。そこに、誰かのため息が混じっていた。

 ――今日も疲れた。でも、明日の朝も灯をつける。

 それは、港で働く人の星だった。

 幹夫は、そのしずくに向かって言った。

 「おつかれさま」

 たったそれだけだった。

 けれど、青い星は静かに明るくなり、茶葉へ入っていった。

 読み手の子は言った。

 「これは、働いた日がただ疲れで終わらない香りになる」

 次の星のしずくは、金色だった。

 中には、家庭の食卓が映っていた。湯呑みを両手で包むおばあさん。何も言わずに湯気を見ている。窓の外には、夜の富士山があった。

 ――言えなかったありがとうが、湯気になれますように。

 幹夫は、そのしずくを見つめた。

 「ありがとうって、言えない時があるよね」

 そう言うと、金色の星は少し震えた。

 「でも、言えなかったありがとうも、消えてないよ」

 星は茶葉へ沈んだ。

 幹夫の胸にも、母へ言えなかった小さなありがとうが浮かんだ。毎朝お茶を淹れてくれること。何も聞かずにそばにいてくれること。心配しながらも、幹夫の沈黙を無理にこじ開けないでいてくれること。

 今度、言えるだろうか。

 まだわからなかった。

 でも、その言葉は幹夫の胸の中で、少しだけ湯気に近づいた。

 さらに奥へ進むと、茶畑の真ん中に小さな展望台のような場所があった。

 そこからは、富士山と駿河湾と茶畑が一度に見えた。

 夜の富士は静かに立ち、海は黒く広がり、町の灯りは地上の星のように瞬いている。そして足もとの茶畑には、空から降りた星が無数に宿っていた。

 読み手の子は言った。

 「ここが、日本平の星の茶畑の中心」

 幹夫は、息をのんだ。

 中心には、一枚の大きな茶葉があった。

 ほかの葉より少し古く、厚みがあり、夜露をいくつも抱いている。その中央に、ひときわ小さな星のしずくがあった。

 小さすぎて、見落としてしまいそうだった。

 けれど幹夫は、その星から目を離せなかった。

 「これは?」

 幹夫が聞くと、読み手の子は真剣な声で言った。

 「幹夫の星」

 幹夫は驚いた。

 「ぼくの?」

 「そう。笑われて目を閉じそうになった心の星」

 幹夫は、その小さなしずくの前にしゃがんだ。

 中には、何も映っていないように見えた。

 ただ、暗く、静かだった。

 「何も見えない」

 幹夫が言うと、読み手の子は首を横に振った。

 「まだ、幹夫が見ようとしていないから」

 幹夫は、胸が少し怖くなった。

 自分の心を見ることは、ほかの誰かの星を見るより難しかった。 人の痛みには立ち止まれるのに、自分の痛みにはすぐ蓋をしたくなる。

 それでも、幹夫はしずくを見つめた。

 すると、暗い中に小さな絵が浮かんだ。

 昼間の自分。 友だちの笑い声。 言えなくなった言葉。 そして、その奥に、もっと小さなものがあった。

 茶葉の露を見ている自分。 湯気を見ている自分。 灰色の線を雲の影だと思う自分。 誰かに笑われても、本当はそれらを嫌いになりたくない自分。

 幹夫の喉が熱くなった。

 「ぼくは」

 声が震えた。

 「見えるものを、すぐ捨てたくない」

 星のしずくが、かすかに光った。

 「小さいものでも、変なものでも、誰かに笑われるものでも、ぼくにはきれいに見える時がある。それを、なかったことにしたくない」

 涙がひと粒こぼれた。

 それは茶葉の上に落ち、小さな星のしずくと重なった。

 すると、暗かったしずくの中に、銀色の線が現れた。

 それは昼間の消し残しの線に似ていた。けれど今は、富士山の肩にかかる雲でもあり、茶畑の畝でもあり、銀河の端でもあった。

 幹夫は、涙を拭いた。

 「これが、ぼくの星?」

 読み手の子はうなずいた。

 「そう。小さなものを見続ける星」

 「でも、疲れる」

 「疲れるよ」

 読み手の子は正直に言った。

 「だから、全部を見なくていい。全部を抱えなくていい。ただ、どうしても目に入った光を、自分で踏みつけないこと」

 幹夫は、その言葉を深く受け止めた。

 自分の目に入った光を、自分で踏みつけない。

 それなら、できるかもしれない。

 小さな星のしずくは、茶葉の中へゆっくり沈んでいった。

 幹夫の胸の中にも、同じような光が静かに入った。

 東の空が少し白みはじめた。

 夜の終わりが近づいている。

 星の茶畑は、少しずつ普通の茶畑へ戻ろうとしていた。星のしずくは茶葉へ入り、露は透明な水へ変わり、遠くの港の灯りは朝の気配に薄れていく。

 読み手の子の姿も、少しずつ淡くなった。

 「もう行くの?」

 幹夫が聞くと、読み手の子は微笑んだ。

 「朝は、人間の目が強くなるから」

 「また会える?」

 「日本平の茶畑で、星が葉に降る夜なら」

 「いつ降るの?」

 「幹夫が、小さな光を踏みつけずに持って来た夜」

 そう言って、読み手の子は、茶葉の露の中へ溶けるように消えていった。

 朝が来た。

 日本平の茶畑は、いつもの緑を取り戻していた。

 富士山は朝の光を受けて白く浮かび、駿河湾は少しずつ青を取り戻している。茶葉の上には露が光っていたが、もう星のしずくではないように見えた。

 けれど幹夫にはわかっていた。

 星は消えたのではない。 茶葉の中へ入ったのだ。 いつかお茶の香りになって、誰かの胸を少しだけやわらげるのだ。

 家へ帰ると、母が台所でお茶を淹れていた。

 湯呑みから白い湯気が立っている。

 幹夫は、その湯気を見つめた。

 母が聞いた。

 「どうしたの?」

 幹夫は少し迷った。

 そして言った。

 「お茶って、星の匂いがする時があるね」

 母は目を丸くしたあと、少し笑った。

 「そう?」

 「うん」

 幹夫は湯呑みを両手で包んだ。

 温かかった。

 その温かさの中に、夜の日本平の茶畑と、富士山の影と、茶葉に降った星のしずくが残っているような気がした。

 学校へ行くと、図工の時間に、友だちが昨日の富士山の絵をまだ机に置いていた。

 灰色の線は、消されずに残っていた。

 幹夫は少し迷った。

 また笑われるかもしれない。

 でも、胸の中の小さな星が、静かに光った。

 幹夫は言った。

 「その線、やっぱり雲みたいに見える」

 友だちは、少し不思議そうに絵を見た。

 「そうかな」

 「うん。富士山が、少し遠く見える」

 友だちは、もう一度灰色の線を見た。

 しばらく黙ってから、消しゴムを持つ手を止めた。

 「じゃあ、残してみようかな」

 それだけだった。

 大きな出来事ではない。 誰も拍手しない。 教室はいつものようにざわざわしている。

 けれど幹夫には、その灰色の線が、少しだけ星のしずくを含んだように見えた。

 日本平の星の茶畑は、もう昼の中に隠れている。

 でも、幹夫の胸の奥には、あの夜の茶葉の光が残っていた。

 小さなものを、すぐにただのものと決めないこと。 見えた光を、自分で踏みつけないこと。 そして、誰かの消し残しの線にも、雲の影や銀河の端が隠れているかもしれないと、そっと信じてみること。

 幹夫少年は、窓の外を見た。

 遠くに富士山が見えた。

 その肩には、薄い雲がひとすじかかっていた。

 幹夫は、それを見て小さく笑った。

 
 
 

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