top of page

日本平の星時計

  • 山崎行政書士事務所
  • 1月13日
  • 読了時間: 6分

ree

 日本平の山頂近く、いまは廃(すた)れてしまった天文台の廃墟があります。古いコンクリート壁には苔(こけ)がむしろ一面を覆い、割れた窓からは遠く駿河湾(するがわん)が一望できました。空が濃紺(のうこん)から茜色(あかねいろ)へ、そして夜の帳(とばり)が降りるとき、その場所は静かな銀色の光に包まれます。だれもいないはずの天文台ですが、ときどき風に揺られたドアが軋(きし)む音だけが、かすかな合図のように聞こえるのです。

 その日、大学生の「僕」は古い資料を頼りに、日本平の廃墟を訪れました。昔、この天文台には星時計があったという言い伝えがあります。それは宇宙の運行を表す特別な時計で、夜空の星々が刻む規則正しいリズムをそのまま地上に映し出した装置だといいます。

 薄暗い天文台の隅で、「僕」は埃(ほこり)にまみれた小さな置時計を見つけました。ガラス板はひび割れ、中の歯車は錆(さび)ついているようです。そっと手に取ると、その文字盤には十二の星座とひとすじの銀河が描かれ、まるで宙(そら)から切り抜いたように美しくも儚(はかな)い姿をしていました。

「これが……星時計、なのか」

 心惹(ひ)かれるままに、僕は錆びた歯車に油を差し、一つひとつを丁寧に磨きあげました。すると、時計の針が淡い光を帯びはじめ、カチッ、カチッと、まるで小さな星が瞬くような響きがあたりに広がります。気がつけば夜は深まり、天文台の窓から見える静岡市の夜景が一面の宝石のようにきらめいていました。

 ところが、星時計の針がゆっくりと逆行するように動き出した瞬間、空気が急に冷たくなって、足元がぐにゃりとゆがんだ感覚に襲われます。あたりの風景がかすかに揺らいだかと思うと、突然、天文台の建物がきれいに整備された姿へと変わっていたのです。見知らぬ人々が行き交い、服装は昭和の面影を帯びています。

「ここは……。もしかして、昭和初期の……静岡?」

 呆然(ぼうぜん)としたまま、僕は外に出ました。そこにはまだ電灯(でんとう)がまばらな夜道と、柔らかい月明かりがありました。遠くで汽笛(きてき)のような音が聞こえ、昭和の香りがする街が広がっています。

 翌朝、街に下りてみると、至るところに小さな商店や茶を扱う問屋が立ち並び、通りにはお茶の香りが漂っています。その風景の中で、まだ若い女性が茶箱を運んでいました。黒髪をすっきりと結いあげ、着物の裾を少し端折(はしょ)って、てきぱきと茶の葉を仕分けています。彼女の名前は「美登里(みどり)」。地元の茶商人のひとりで、生家の仕事を手伝いながら、一人前を目指しているのだといいます。

 僕はこの不思議な時代に迷いこんでしまった事情を、正直に話すかどうか迷いました。しかし、ひとまず「東京の大学から来た、研究者のたまごです」とだけ告げると、美登里は安心したように微笑みました。

「日本平の天文台に星時計があるって、父がよく言ってました。夜には宇宙と話ができる不思議な時計だって。」

 その言葉を聞いて、僕ははっとしました。星時計はこの時代から未来に受け継がれるべき大切な存在なのでしょうか。しかし、今の天文台が未来では廃墟になってしまった事実を思うと、何かが変わってしまったのかもしれません。 さらに美登里の表情には、どこか憂いの色が混じっています。茶商人として生きる彼女は、やがて訪れる時代の荒波に巻き込まれてしまうのではないか――そんな予感が胸をかすめます。

 ある夜、僕は美登里とともに日本平の天文台へ行き、星時計を眺めました。そこでは、まだ廃墟ではない、立派なドームが星空に向かって開かれています。美登里は茶箱に入れられた小さな菓子と茶を持ち込み、簡単な夜食を用意してくれました。二人で月を見上げながら、一服の茶をすすると、まるで天と地がゆっくりと繋がっていくような不思議な気分になるのです。

「わたし……この街を守りたいんです。たとえ戦争や不況があったとしても、静岡の茶を絶やさずに続けていきたい。それがいつか、未来の人たちの笑顔に繋がると信じたいから……」

 美登里の言葉に、僕は強く胸を打たれました。遠い未来を知っている僕は、この先に来る激動の時代を想像せずにはいられません。なんとか彼女の願いを叶えるため、そして、星時計が未来に失われることのないよう、行動を起こさなければならない――僕の中には、そうした使命感が芽生えます。

 しかし、昭和の街はすでに大きな変化のさなかにありました。戦争の影が静かに忍び寄り、物資の統制の噂(うわさ)が広まりはじめ、人々の暮らしにも不穏な空気が漂います。茶の値段が乱高下し、商売もうまくいかなくなる。日本平の天文台にも、軍事目的で使われるのではないかという話が出はじめ、星時計を処分する案さえ囁(ささや)かれるのです。

 僕は、この時代にできることを探ろうと奔走します。茶商人の仲間たちに声をかけ、静岡の茶文化の大切さを訴え、星時計を守る方法を探し、なんとか廃棄を阻止しようと駆け回ります。美登里も必死に協力してくれますが、時代の大きな流れはそう簡単には変えられません。

 ある日、天文台から星時計が運び出されるかもしれない――という噂を聞きつけた僕と美登里は、夜更けの天文台に忍び込みました。そこで見たのは、大きな布で覆われた星時計を前に、途方に暮れている研究者の姿。彼は、その時計が宇宙や未来にとってどれほど重要な存在かを理解しているようでしたが、時代の要請に逆らえないともどかしさを抱えていたのです。

 そんな中、僕は懐に大事にしまっていた、未来から持ちこんだもう一つの「壊れた星時計」の歯車を取り出し、昭和の星時計の内部にそっとはめてみました。すると、星時計は微かな音をたてて動き出し、淡い青白い光が生まれます。まるで夜空いっぱいの星々が、ドームの中で語りかけるように瞬き、天文台の高い天井を一面の銀河へ変貌させました。

 次の瞬間、強い風が吹いたような気がして、僕は目を閉じ、気づけば廃墟の天文台の床に倒れこんでいました。周囲を見回すと、そこは令和の日本平。壊れたはずの星時計が、僕の足もとで穏やかな輝きを放っています。かすかに遠くから街のネオンが見え、夜の風が頬を撫でました。

 ――まるで長い夢を見ていたようだ。でも、僕の手の中には、美登里が使っていた茶箱にくくりつけられていた帯紐(おびひも)が一本だけ残っています。その柔らかな手触りが、彼女と過ごした時間が現実だったのだと物語っていました。

 外へ出ると、廃墟の様相ながらも、天文台のドームの一部が修復中のようです。貼り紙には「日本平星時計再生プロジェクト」の文字が。どうやらこの場所で、再び星を観測できるようにしようという試みが始まっているらしいのです。

 僕はその貼り紙を見て、小さく微笑みました。 ――きっと、美登里の願いは多くの人々の中に受け継がれ、どこかで形を変えながら未来へ紡(つむ)がれているにちがいない。茶商人としての彼女の想いは、国や時代を越えて、静岡の茶文化の一部となっているのかもしれません。そして、星時計はまた別の姿でここに残り、人々を宇宙と未来へ導いていくでしょう。

 青白い月光の下で、星時計の文字盤がそっと輝きます。 時間は前にも後ろにも流れながら、その真ん中で小さな光を放っています。僕はその光を見つめながら、いつかまた美登里に会えるような気がして、壊れた歯車をそっと胸のポケットにしまうのでした。

 ――夜の空を横切る星々は、ずっと僕らを導いている。  過去と未来が一瞬にして交錯するひかりの瞬(またた)きのなかで、  人と人のこころが通い合うかぎり、  どんな時代の闇も、きっと越えていける。

 
 
 

コメント


bottom of page