日本平銀河新茶園
- 山崎行政書士事務所
- 5月8日
- 読了時間: 13分

日本平銀河新茶園
その茶園には、ほんとうの名前がなかった。
村の人たちは、ただ「日本平の上の畑」と呼んでいた。父は帳面に「上段二号」と書いていたし、祖母は「あの風の強いところ」と言った。けれど幹夫は、そこに立つたび、そんな名前では足りないと思った。
五月の朝、その畑は海の方から上ってくる光を受けて、ほかの茶畑より少しだけ早く明るくなる。駿河湾はまだ薄い靄をまとい、清水の町は小さな箱庭のように眠っている。その向こうに富士が見える日もあれば、雲に隠れて、ただ白い気配だけが残る日もある。
そして夜になると、茶の畝の上に星が降りた。
もちろん、本当に星が落ちてくるわけではない。葉先の露が星明かりを映すだけだと、大人たちは言うだろう。けれど幹夫には、それがただの露には思えなかった。畝の曲線に沿って無数の光が並ぶと、茶畑は地上に広がる小さな銀河のように見えた。
だから幹夫は、心の中でその畑をこう呼んでいた。
日本平銀河新茶園。
その名前を、誰にも言ったことはなかった。
幹夫は十二歳だった。
人より少しだけ、胸の中が薄い硝子でできているような少年だった。友だちの冗談に笑いながら、その奥にあるほんの小さな冷たさを感じてしまう。父が黙っていると、その沈黙の重さまで自分の膝に乗ってくるように思う。雨上がりの茶の葉に触れれば、葉が夜じゅう抱えていた冷たさまで指先に移ってくる。
父は、そんな幹夫にときどき言った。
「お前は、何でも胸に入れすぎる」
叱っているわけではなかった。心配しているのだと、幹夫にも分かっていた。けれど幹夫には、入ってくるものを止める方法が分からなかった。
風が吹けば茶の葉は揺れる。
雨が降れば土は匂う。
人の声が沈めば、心はそれを聞いてしまう。
それは幹夫にとって、自分で選ぶことではなかった。
母が生きていたころ、幹夫はその感じ方を恥ずかしいと思わずにいられた。
母は、幹夫が「夜の茶畑は空みたい」と言っても笑わなかった。「富士山は何かをずっと我慢しているみたい」と言っても、ただ隣に立って、同じ方を見てくれた。
「幹夫の心は、茶の若葉みたいね」
母はよく言った。
「薄いってこと?」
「薄いのは悪いことじゃないわ。薄い葉ほど、光を通すのよ」
母は去年の冬に亡くなった。
雪の降らない、ただ冷たいだけの日だった。病室の白い壁。消毒液の匂い。窓辺の水仙。細くなった母の手。幹夫はその手を握っていたのに、言いたいことをほとんど言えなかった。
ありがとう。 行かないで。 五月になったら、また日本平へ行こう。 僕の見ているものを、もう一度聞いて。
どの言葉も、喉の奥で凍ってしまった。
母がいなくなってから、五月の新茶は少し痛い匂いになった。
茶畑は今年も若葉を出す。父は今年も無口に畑へ出る。祖母は今年も湯を冷まして新茶を淹れる。世界は何もなかったように五月になる。
それが幹夫には、悲しく、少しだけ腹立たしかった。
ある日、学校で「静岡の茶業を調べる」という宿題が出た。
先生は、地図を黒板に貼りながら言った。
「みんなの家の近くにも、茶畑がありますね。どんな場所で、どんなふうにお茶が作られているのか、調べて発表しましょう」
健太はすぐに「機械で摘むところを調べる」と言った。真紀は「祖母に昔の手摘みの話を聞く」と言った。幹夫は黙っていた。
日本平の上の畑のことを書きたいと思った。
けれど、「日本平銀河新茶園」と書いたら、きっと笑われる。茶畑は産業であり、作物であり、静岡の名産である。銀河などと書けば、また「幹夫は変なことを考える」と言われるだろう。
それでも、幹夫にはその畑が銀河に見えるのだった。
帰り道、幹夫は日本平へ上る坂道を歩いた。
五月の午後は、少し湿った風が吹いていた。駿河湾の方から上ってくる風が茶畑を渡り、若葉の匂いを運んでくる。道の脇では、摘まれたあとの畝から新しい芽が顔を出し始めていた。
上の畑に着くと、父が一人で作業をしていた。
父はかがんで茶の木の根元を見ていた。日に焼けた首筋、土のついた手、黙って動く背中。幹夫には、その背中がいつも少し遠く見えた。
「来たのか」
父は顔を上げずに言った。
「うん」
「学校は」
「終わった」
幹夫は畑の端に立った。
遠くに駿河湾が見えた。海は春の終わりの光を受けて、銀色に霞んでいた。雲の間から富士の裾が少しだけ見えている。上の畑は、静かだった。
「この畑のこと、調べてもいい?」
幹夫は言った。
父は少し意外そうに顔を上げた。
「宿題か」
「うん」
「好きにしろ」
それだけだった。
幹夫は少し迷ってから聞いた。
「この畑、名前あるの?」
「上段二号」
「そうじゃなくて」
父は眉を寄せた。
「畑の名前は、それで十分だ」
幹夫はうつむいた。
父にとって、畑の名前は管理のための記号なのだ。上段二号。下段一号。西の畑。風の強い畑。そうやって呼べば、仕事はできる。
けれど幹夫には、その畑が何かを黙って待っているように思えた。
父は作業を続けながら言った。
「昔、母さんが変な名前をつけようとしたことはある」
幹夫は息を止めた。
「お母さんが?」
「ああ」
「どんな名前?」
父は少し黙った。
それから、照れたように目をそらした。
「銀河新茶園、だったかな」
幹夫の胸が鳴った。
「銀河……」
「大げさだろう」
父は苦笑した。
「日本平の茶畑に星が降るから、とか何とか言っていた。俺にはよく分からんかった」
幹夫は畑を見た。
胸の奥に、母の声がよみがえる。
日本平銀河新茶園。
自分だけの名前だと思っていたものを、母も見ていた。
幹夫の目の奥が熱くなった。
「お母さんも、そう思ってたんだ」
「何を」
「ここが、銀河みたいだって」
父は返事をしなかった。
ただ、茶の木の根元を見つめていた。
夕方、幹夫は家に戻ると、祖母にその話をした。
「お母さんが、銀河新茶園って言ったんだって」
祖母は急須を拭く手を止めた。
「そうだよ」
「おばあちゃんも知ってたの?」
「知っていたとも。あの子は看板まで作ろうとしていたからね」
「看板?」
祖母は押し入れの奥から、古い薄い板を取り出した。
板は埃をかぶっていた。端は少し欠け、表面にはかすれた白い文字が残っていた。
――日本平銀河新茶園
幹夫は、その文字を見た瞬間、胸の中で何かがほどけるのを感じた。
母の字だった。
少し丸く、はらいが長く、ところどころ風に押されたように揺れている。けれど、丁寧な字だった。日本平。銀河。新茶園。その三つの言葉が、板の上で静かに光っているように見えた。
「どうして立てなかったの?」
「父さんが反対したんだよ」
祖母は悪く言うでもなく答えた。
「観光地みたいで恥ずかしい、とか、畑には普通の名前でいい、とか」
幹夫は父の顔を思い浮かべた。
父らしいと思った。
「お母さん、怒った?」
「少しね。でも、最後には笑っていたよ。『看板がなくても、見える人には見えるから』って」
見える人には見える。
幹夫は板を両手で持った。
母の字は、少しだけ手のひらに温かかった。
その夜、幹夫は眠れなかった。
宿題の原稿用紙を前に置いたが、何を書けばいいか分からなかった。茶の産地としての静岡。日本平の地形。駿河湾からの風。茶の栽培。そういうことも書けるかもしれない。
けれど、幹夫が本当に書きたいのは、母が名づけようとした畑のことだった。
日本平銀河新茶園。
その名前を紙に書くのは、少し怖かった。
笑われるかもしれない。父にまた困った顔をされるかもしれない。けれど、書かずにいると、母の字が胸の奥でまた遠くなる気がした。
幹夫は板を抱え、外へ出た。
夜の茶畑へ向かった。
坂道の草には露が降りていた。田んぼから蛙の声が聞こえる。遠くの町の灯が、駿河湾の方に小さく揺れている。空には星があり、山の上には銀河が薄く流れていた。
上の畑に着くと、幹夫は古い看板を畝の端に立てかけた。
――日本平銀河新茶園。
星明かりの下で、母の文字がよみがえるように白く見えた。
幹夫はその前に座った。
「お母さん」
小さく呼んだ。
返事はなかった。
けれど茶畑の風が吹いた。
若葉がさわさわと揺れた。
その音は、たくさんの小さなページがいっせいにめくられる音のようだった。
すると、畝の上の露が少しずつ光り始めた。
最初は星明かりを映しているだけだと思った。けれど、やがてその光は畝に沿って細い線になり、上の畑全体が白く淡く浮かび上がった。茶の畝が、まるで銀河の腕のようにゆるやかに曲がり、駿河湾の方へ流れていく。
幹夫は息をのんだ。
日本平銀河新茶園。
名前を置いた瞬間、畑はその名前を思い出したようだった。
風の中に、母の声がした気がした。
――見える人には、見えるのよ。
幹夫の涙がこぼれた。
母がいないことは変わらない。けれど母が見ていたものは、ここに残っていた。茶の葉の露に、駿河湾からの風に、銀河の光に、そして幹夫の心の中に。
そのとき、背後で足音がした。
父だった。
作業着の上に上着を羽織り、少し息を切らしている。幹夫を探しに来たのだろう。父は看板を見ると、立ち止まった。
「それを、出したのか」
幹夫はうなずいた。
「お母さんの字」
「ああ」
父は静かに言った。
幹夫は看板を抱えるように立った。
「勝手に持ってきて、ごめんなさい」
父は何も言わなかった。
夜風が二人の間を通った。茶の葉が光っている。銀河が空に流れている。古い看板の文字が、そのあいだに立っていた。
「僕、この名前で宿題を書きたい」
幹夫は言った。
「日本平銀河新茶園って」
父は眉を寄せた。
幹夫の胸が縮んだ。
「変だって思う?」
父は看板を見たまま、長く黙っていた。
その沈黙の長さに、幹夫は泣きそうになった。
けれど父は、やがて低い声で言った。
「変だと思っていた」
幹夫の胸が痛んだ。
父は続けた。
「母さんがこの名前を言ったとき、俺は笑った。畑にそんな名前をつけてどうするんだと言った」
父の声は、夜の土のように重かった。
「母さんは、少し寂しそうな顔をした」
幹夫は父を見た。
「お父さん」
「俺は、茶畑を仕事として見ていた。母さんは、もっと違うものも見ていた。俺にはそれが分からなかった」
父は看板に手を伸ばした。
母の字の上に、大きな指をそっと置いた。
「今も全部は分からん」
父は言った。
「だが、今夜は……少し見える気がする」
幹夫の胸が熱くなった。
「何が?」
父は茶畑を見渡した。
露の光が畝に沿って銀河のように続いている。遠くに駿河湾の灯があり、上には星がある。
「母さんが、この畑をどう見ていたか」
その言葉で、幹夫は涙をこらえられなかった。
父にも見えた。
少しだけでも。
父はそれを認めてくれた。
「宿題に書け」
父は言った。
「本当に?」
「ああ」
「笑われるかもしれない」
「そうかもしれん」
父は正直に言った。
「でも、お前に見えたものだ」
幹夫は看板を見た。
母の字が、星明かりに照らされていた。
父は少し照れたように咳払いをした。
「ただし、茶畑としてのことも書け。駿河湾からの風とか、斜面の日当たりとか、そういうこともな」
幹夫は涙の中で少し笑った。
「うん」
「銀河だけでは、茶は育たん」
「でも、銀河もある」
幹夫が言うと、父は少しだけ笑った。
「ああ。たぶん、ある」
その「たぶん」が、幹夫にはとても大切に思えた。
翌朝、祖母が畑の端で新茶を淹れてくれた。
古い看板は、仮に柿の木のそばへ立てかけてあった。昼の光の中では、夜ほど幻想的ではなかった。板は古く、文字はかすれ、ところどころ剥げている。
それでも、そこにあるだけで畑の空気が少し変わったように思えた。
日本平銀河新茶園。
母の見ていた名前。
父が少しだけ見ようとした名前。
幹夫が書こうとしている名前。
祖母は湯呑みを三つ並べ、母の分の小さな湯呑みも置いた。
急須から立つ湯気は、朝の光に白く浮かび、看板の文字の前をゆっくり通った。幹夫には、それが母の字へ捧げる小さな線香のようにも、茶畑から銀河へ上る手紙のようにも見えた。
幹夫は新茶を飲んだ。
最初に淡い苦みがあった。
母の名前を口にする怖さ。 父が昔その名を笑ったことの痛み。 自分の見方を人に見せる不安。
けれどそのあと、甘みが戻ってきた。
父が「少し見える」と言った声。 祖母の静かな微笑み。 夜の茶畑の銀河。 母の字が朝の中に立っていること。
幹夫は目を閉じた。
茶の中に、日本平があった。 駿河湾があった。 富士の気配があった。 新茶の香りがあった。 銀河があった。 そして母がいた。
姿ではなく、香りとして。
声ではなく、名前として。
その日、幹夫は宿題を書いた。
題は、「日本平銀河新茶園」。
原稿用紙の一行目にそう書くと、胸が震えた。けれどもう消さなかった。
――私の家の近くには、日本平の斜面に茶畑があります。 ――父はそこを上段二号と呼びます。 ――でも母は、生きていたころ、その畑に「日本平銀河新茶園」という名前をつけようとしました。 ――私は最初、その名前を母だけの夢だと思っていました。 ――けれど五月の夜、その畑に立つと、茶の葉の露が星を映し、畝が銀河のように光ります。
幹夫は続けた。
――日本平の茶畑は、駿河湾からの風を受けます。 ――朝には海の湿り気が上ってきて、昼には日が斜面をあたためます。 ――茶の若葉は、その光と風を受けて育ちます。 ――父は葉の色や土の様子を見ます。 ――祖母は湯の温度を見ます。 ――母は、その茶畑に銀河を見ました。
少し手が震えた。
それでも書いた。
――私は、母が亡くなってから、新茶の香りを嗅ぐのが少し苦しかったです。 ――香りは母を思い出させるからです。 ――でも、思い出すことは、母がいないことだけを知ることではありません。 ――母がいたことも、同時に知ることなのだと思いました。 ――夜の茶畑で父も少しだけ銀河を見ました。 ――そのとき、母の見ていたものが、父の中にも私の中にも少し残っていると感じました。
最後に、こう書いた。
――茶畑は仕事の場所です。 ――暮らしを支える場所です。 ――でも、それだけではありません。 ――風を受け、露を抱き、星を映し、人の思い出を香りに変える場所でもあります。 ――だから私は、この畑を「日本平銀河新茶園」と呼びたいです。 ――それは母が残した名前であり、私がこれから見つけていく名前です。
提出した作文を、先生はしばらく読んでいた。
そして言った。
「とてもいい名前ですね」
幹夫は顔が熱くなった。
健太が「銀河ってすごいな」と言った。
笑わなかった。
「今度、見られる?」
健太が尋ねた。
幹夫は少し驚いた。
「夜じゃないと、たぶん見えない」
「じゃあ、夜に見てみたい」
幹夫は胸の中で、母の言葉を思い出した。
見える人には、見えるから。
その夜、幹夫はまた日本平の上の畑へ行った。
父が一緒だった。
古い看板は、父が仮の支柱をつけて立て直してくれていた。まだ正式な看板ではない。けれど畑の端に立つその姿は、思ったよりしっくりしていた。
――日本平銀河新茶園。
星明かりの下で、母の字が静かに光っていた。
父は看板を見て言った。
「新しく作り直すか」
幹夫は驚いた。
「いいの?」
「古い板は、このままだと傷む。母さんの字を写して、新しい看板を作る。古い方は家にしまっておけばいい」
幹夫は看板を見た。
消えるのではない。
形を変えるのだ。
新茶の若葉が茶になり、香りになるように。
母の字も、新しい板へ移る。幹夫の胸にも移る。父の手にも移る。
「うん」
幹夫は頷いた。
「作りたい」
父は少し照れたように言った。
「字は、お前が写せ」
幹夫の胸が鳴った。
「僕が?」
「ああ。母さんの字をいちばんよく見ているのは、お前だろう」
幹夫は何も言えなかった。
夜の茶畑が、さわさわと揺れた。
空には銀河があった。 足元には新茶の香りがあった。 遠くには駿河湾の灯があった。
そのすべてのあいだで、幹夫は母の字を見つめていた。
日本平銀河新茶園。
それは、ただの畑の名前ではなかった。
父が少しずつ母の世界へ近づくための名前。 幹夫が自分の感じ方を恥じすぎずにいられるための名前。 茶畑が、仕事であり、暮らしであり、同時に星を映す場所でもあることを思い出すための名前。
風が吹いた。
茶の葉の露が小さく光った。
幹夫は思った。
お母さん、見えるよ。
ここは、やっぱり銀河新茶園だよ。
返事はなかった。
けれど、看板の白い文字が、星明かりの中でほんの少しだけ明るくなった気がした。





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