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日本平銀河新茶園

日本平銀河新茶園

 その茶園には、ほんとうの名前がなかった。

 村の人たちは、ただ「日本平の上の畑」と呼んでいた。父は帳面に「上段二号」と書いていたし、祖母は「あの風の強いところ」と言った。けれど幹夫は、そこに立つたび、そんな名前では足りないと思った。

 五月の朝、その畑は海の方から上ってくる光を受けて、ほかの茶畑より少しだけ早く明るくなる。駿河湾はまだ薄い靄をまとい、清水の町は小さな箱庭のように眠っている。その向こうに富士が見える日もあれば、雲に隠れて、ただ白い気配だけが残る日もある。

 そして夜になると、茶の畝の上に星が降りた。

 もちろん、本当に星が落ちてくるわけではない。葉先の露が星明かりを映すだけだと、大人たちは言うだろう。けれど幹夫には、それがただの露には思えなかった。畝の曲線に沿って無数の光が並ぶと、茶畑は地上に広がる小さな銀河のように見えた。

 だから幹夫は、心の中でその畑をこう呼んでいた。

 日本平銀河新茶園。

 その名前を、誰にも言ったことはなかった。

 幹夫は十二歳だった。

 人より少しだけ、胸の中が薄い硝子でできているような少年だった。友だちの冗談に笑いながら、その奥にあるほんの小さな冷たさを感じてしまう。父が黙っていると、その沈黙の重さまで自分の膝に乗ってくるように思う。雨上がりの茶の葉に触れれば、葉が夜じゅう抱えていた冷たさまで指先に移ってくる。

 父は、そんな幹夫にときどき言った。

「お前は、何でも胸に入れすぎる」

 叱っているわけではなかった。心配しているのだと、幹夫にも分かっていた。けれど幹夫には、入ってくるものを止める方法が分からなかった。

 風が吹けば茶の葉は揺れる。

 雨が降れば土は匂う。

 人の声が沈めば、心はそれを聞いてしまう。

 それは幹夫にとって、自分で選ぶことではなかった。

 母が生きていたころ、幹夫はその感じ方を恥ずかしいと思わずにいられた。

 母は、幹夫が「夜の茶畑は空みたい」と言っても笑わなかった。「富士山は何かをずっと我慢しているみたい」と言っても、ただ隣に立って、同じ方を見てくれた。

「幹夫の心は、茶の若葉みたいね」

 母はよく言った。

「薄いってこと?」

「薄いのは悪いことじゃないわ。薄い葉ほど、光を通すのよ」

 母は去年の冬に亡くなった。

 雪の降らない、ただ冷たいだけの日だった。病室の白い壁。消毒液の匂い。窓辺の水仙。細くなった母の手。幹夫はその手を握っていたのに、言いたいことをほとんど言えなかった。

 ありがとう。 行かないで。 五月になったら、また日本平へ行こう。 僕の見ているものを、もう一度聞いて。

 どの言葉も、喉の奥で凍ってしまった。

 母がいなくなってから、五月の新茶は少し痛い匂いになった。

 茶畑は今年も若葉を出す。父は今年も無口に畑へ出る。祖母は今年も湯を冷まして新茶を淹れる。世界は何もなかったように五月になる。

 それが幹夫には、悲しく、少しだけ腹立たしかった。

 ある日、学校で「静岡の茶業を調べる」という宿題が出た。

 先生は、地図を黒板に貼りながら言った。

「みんなの家の近くにも、茶畑がありますね。どんな場所で、どんなふうにお茶が作られているのか、調べて発表しましょう」

 健太はすぐに「機械で摘むところを調べる」と言った。真紀は「祖母に昔の手摘みの話を聞く」と言った。幹夫は黙っていた。

 日本平の上の畑のことを書きたいと思った。

 けれど、「日本平銀河新茶園」と書いたら、きっと笑われる。茶畑は産業であり、作物であり、静岡の名産である。銀河などと書けば、また「幹夫は変なことを考える」と言われるだろう。

 それでも、幹夫にはその畑が銀河に見えるのだった。

 帰り道、幹夫は日本平へ上る坂道を歩いた。

 五月の午後は、少し湿った風が吹いていた。駿河湾の方から上ってくる風が茶畑を渡り、若葉の匂いを運んでくる。道の脇では、摘まれたあとの畝から新しい芽が顔を出し始めていた。

 上の畑に着くと、父が一人で作業をしていた。

 父はかがんで茶の木の根元を見ていた。日に焼けた首筋、土のついた手、黙って動く背中。幹夫には、その背中がいつも少し遠く見えた。

「来たのか」

 父は顔を上げずに言った。

「うん」

「学校は」

「終わった」

 幹夫は畑の端に立った。

 遠くに駿河湾が見えた。海は春の終わりの光を受けて、銀色に霞んでいた。雲の間から富士の裾が少しだけ見えている。上の畑は、静かだった。

「この畑のこと、調べてもいい?」

 幹夫は言った。

 父は少し意外そうに顔を上げた。

「宿題か」

「うん」

「好きにしろ」

 それだけだった。

 幹夫は少し迷ってから聞いた。

「この畑、名前あるの?」

「上段二号」

「そうじゃなくて」

 父は眉を寄せた。

「畑の名前は、それで十分だ」

 幹夫はうつむいた。

 父にとって、畑の名前は管理のための記号なのだ。上段二号。下段一号。西の畑。風の強い畑。そうやって呼べば、仕事はできる。

 けれど幹夫には、その畑が何かを黙って待っているように思えた。

 父は作業を続けながら言った。

「昔、母さんが変な名前をつけようとしたことはある」

 幹夫は息を止めた。

「お母さんが?」

「ああ」

「どんな名前?」

 父は少し黙った。

 それから、照れたように目をそらした。

「銀河新茶園、だったかな」

 幹夫の胸が鳴った。

「銀河……」

「大げさだろう」

 父は苦笑した。

「日本平の茶畑に星が降るから、とか何とか言っていた。俺にはよく分からんかった」

 幹夫は畑を見た。

 胸の奥に、母の声がよみがえる。

 日本平銀河新茶園。

 自分だけの名前だと思っていたものを、母も見ていた。

 幹夫の目の奥が熱くなった。

「お母さんも、そう思ってたんだ」

「何を」

「ここが、銀河みたいだって」

 父は返事をしなかった。

 ただ、茶の木の根元を見つめていた。

 夕方、幹夫は家に戻ると、祖母にその話をした。

「お母さんが、銀河新茶園って言ったんだって」

 祖母は急須を拭く手を止めた。

「そうだよ」

「おばあちゃんも知ってたの?」

「知っていたとも。あの子は看板まで作ろうとしていたからね」

「看板?」

 祖母は押し入れの奥から、古い薄い板を取り出した。

 板は埃をかぶっていた。端は少し欠け、表面にはかすれた白い文字が残っていた。

 ――日本平銀河新茶園

 幹夫は、その文字を見た瞬間、胸の中で何かがほどけるのを感じた。

 母の字だった。

 少し丸く、はらいが長く、ところどころ風に押されたように揺れている。けれど、丁寧な字だった。日本平。銀河。新茶園。その三つの言葉が、板の上で静かに光っているように見えた。

「どうして立てなかったの?」

「父さんが反対したんだよ」

 祖母は悪く言うでもなく答えた。

「観光地みたいで恥ずかしい、とか、畑には普通の名前でいい、とか」

 幹夫は父の顔を思い浮かべた。

 父らしいと思った。

「お母さん、怒った?」

「少しね。でも、最後には笑っていたよ。『看板がなくても、見える人には見えるから』って」

 見える人には見える。

 幹夫は板を両手で持った。

 母の字は、少しだけ手のひらに温かかった。

 その夜、幹夫は眠れなかった。

 宿題の原稿用紙を前に置いたが、何を書けばいいか分からなかった。茶の産地としての静岡。日本平の地形。駿河湾からの風。茶の栽培。そういうことも書けるかもしれない。

 けれど、幹夫が本当に書きたいのは、母が名づけようとした畑のことだった。

 日本平銀河新茶園。

 その名前を紙に書くのは、少し怖かった。

 笑われるかもしれない。父にまた困った顔をされるかもしれない。けれど、書かずにいると、母の字が胸の奥でまた遠くなる気がした。

 幹夫は板を抱え、外へ出た。

 夜の茶畑へ向かった。

 坂道の草には露が降りていた。田んぼから蛙の声が聞こえる。遠くの町の灯が、駿河湾の方に小さく揺れている。空には星があり、山の上には銀河が薄く流れていた。

 上の畑に着くと、幹夫は古い看板を畝の端に立てかけた。

 ――日本平銀河新茶園。

 星明かりの下で、母の文字がよみがえるように白く見えた。

 幹夫はその前に座った。

「お母さん」

 小さく呼んだ。

 返事はなかった。

 けれど茶畑の風が吹いた。

 若葉がさわさわと揺れた。

 その音は、たくさんの小さなページがいっせいにめくられる音のようだった。

 すると、畝の上の露が少しずつ光り始めた。

 最初は星明かりを映しているだけだと思った。けれど、やがてその光は畝に沿って細い線になり、上の畑全体が白く淡く浮かび上がった。茶の畝が、まるで銀河の腕のようにゆるやかに曲がり、駿河湾の方へ流れていく。

 幹夫は息をのんだ。

 日本平銀河新茶園。

 名前を置いた瞬間、畑はその名前を思い出したようだった。

 風の中に、母の声がした気がした。

 ――見える人には、見えるのよ。

 幹夫の涙がこぼれた。

 母がいないことは変わらない。けれど母が見ていたものは、ここに残っていた。茶の葉の露に、駿河湾からの風に、銀河の光に、そして幹夫の心の中に。

 そのとき、背後で足音がした。

 父だった。

 作業着の上に上着を羽織り、少し息を切らしている。幹夫を探しに来たのだろう。父は看板を見ると、立ち止まった。

「それを、出したのか」

 幹夫はうなずいた。

「お母さんの字」

「ああ」

 父は静かに言った。

 幹夫は看板を抱えるように立った。

「勝手に持ってきて、ごめんなさい」

 父は何も言わなかった。

 夜風が二人の間を通った。茶の葉が光っている。銀河が空に流れている。古い看板の文字が、そのあいだに立っていた。

「僕、この名前で宿題を書きたい」

 幹夫は言った。

「日本平銀河新茶園って」

 父は眉を寄せた。

 幹夫の胸が縮んだ。

「変だって思う?」

 父は看板を見たまま、長く黙っていた。

 その沈黙の長さに、幹夫は泣きそうになった。

 けれど父は、やがて低い声で言った。

「変だと思っていた」

 幹夫の胸が痛んだ。

 父は続けた。

「母さんがこの名前を言ったとき、俺は笑った。畑にそんな名前をつけてどうするんだと言った」

 父の声は、夜の土のように重かった。

「母さんは、少し寂しそうな顔をした」

 幹夫は父を見た。

「お父さん」

「俺は、茶畑を仕事として見ていた。母さんは、もっと違うものも見ていた。俺にはそれが分からなかった」

 父は看板に手を伸ばした。

 母の字の上に、大きな指をそっと置いた。

「今も全部は分からん」

 父は言った。

「だが、今夜は……少し見える気がする」

 幹夫の胸が熱くなった。

「何が?」

 父は茶畑を見渡した。

 露の光が畝に沿って銀河のように続いている。遠くに駿河湾の灯があり、上には星がある。

「母さんが、この畑をどう見ていたか」

 その言葉で、幹夫は涙をこらえられなかった。

 父にも見えた。

 少しだけでも。

 父はそれを認めてくれた。

「宿題に書け」

 父は言った。

「本当に?」

「ああ」

「笑われるかもしれない」

「そうかもしれん」

 父は正直に言った。

「でも、お前に見えたものだ」

 幹夫は看板を見た。

 母の字が、星明かりに照らされていた。

 父は少し照れたように咳払いをした。

「ただし、茶畑としてのことも書け。駿河湾からの風とか、斜面の日当たりとか、そういうこともな」

 幹夫は涙の中で少し笑った。

「うん」

「銀河だけでは、茶は育たん」

「でも、銀河もある」

 幹夫が言うと、父は少しだけ笑った。

「ああ。たぶん、ある」

 その「たぶん」が、幹夫にはとても大切に思えた。

 翌朝、祖母が畑の端で新茶を淹れてくれた。

 古い看板は、仮に柿の木のそばへ立てかけてあった。昼の光の中では、夜ほど幻想的ではなかった。板は古く、文字はかすれ、ところどころ剥げている。

 それでも、そこにあるだけで畑の空気が少し変わったように思えた。

 日本平銀河新茶園。

 母の見ていた名前。

 父が少しだけ見ようとした名前。

 幹夫が書こうとしている名前。

 祖母は湯呑みを三つ並べ、母の分の小さな湯呑みも置いた。

 急須から立つ湯気は、朝の光に白く浮かび、看板の文字の前をゆっくり通った。幹夫には、それが母の字へ捧げる小さな線香のようにも、茶畑から銀河へ上る手紙のようにも見えた。

 幹夫は新茶を飲んだ。

 最初に淡い苦みがあった。

 母の名前を口にする怖さ。 父が昔その名を笑ったことの痛み。 自分の見方を人に見せる不安。

 けれどそのあと、甘みが戻ってきた。

 父が「少し見える」と言った声。 祖母の静かな微笑み。 夜の茶畑の銀河。 母の字が朝の中に立っていること。

 幹夫は目を閉じた。

 茶の中に、日本平があった。 駿河湾があった。 富士の気配があった。 新茶の香りがあった。 銀河があった。 そして母がいた。

 姿ではなく、香りとして。

 声ではなく、名前として。

 その日、幹夫は宿題を書いた。

 題は、「日本平銀河新茶園」。

 原稿用紙の一行目にそう書くと、胸が震えた。けれどもう消さなかった。

 ――私の家の近くには、日本平の斜面に茶畑があります。 ――父はそこを上段二号と呼びます。 ――でも母は、生きていたころ、その畑に「日本平銀河新茶園」という名前をつけようとしました。 ――私は最初、その名前を母だけの夢だと思っていました。 ――けれど五月の夜、その畑に立つと、茶の葉の露が星を映し、畝が銀河のように光ります。

 幹夫は続けた。

 ――日本平の茶畑は、駿河湾からの風を受けます。 ――朝には海の湿り気が上ってきて、昼には日が斜面をあたためます。 ――茶の若葉は、その光と風を受けて育ちます。 ――父は葉の色や土の様子を見ます。 ――祖母は湯の温度を見ます。 ――母は、その茶畑に銀河を見ました。

 少し手が震えた。

 それでも書いた。

 ――私は、母が亡くなってから、新茶の香りを嗅ぐのが少し苦しかったです。 ――香りは母を思い出させるからです。 ――でも、思い出すことは、母がいないことだけを知ることではありません。 ――母がいたことも、同時に知ることなのだと思いました。 ――夜の茶畑で父も少しだけ銀河を見ました。 ――そのとき、母の見ていたものが、父の中にも私の中にも少し残っていると感じました。

 最後に、こう書いた。

 ――茶畑は仕事の場所です。 ――暮らしを支える場所です。 ――でも、それだけではありません。 ――風を受け、露を抱き、星を映し、人の思い出を香りに変える場所でもあります。 ――だから私は、この畑を「日本平銀河新茶園」と呼びたいです。 ――それは母が残した名前であり、私がこれから見つけていく名前です。

 提出した作文を、先生はしばらく読んでいた。

 そして言った。

「とてもいい名前ですね」

 幹夫は顔が熱くなった。

 健太が「銀河ってすごいな」と言った。

 笑わなかった。

「今度、見られる?」

 健太が尋ねた。

 幹夫は少し驚いた。

「夜じゃないと、たぶん見えない」

「じゃあ、夜に見てみたい」

 幹夫は胸の中で、母の言葉を思い出した。

 見える人には、見えるから。

 その夜、幹夫はまた日本平の上の畑へ行った。

 父が一緒だった。

 古い看板は、父が仮の支柱をつけて立て直してくれていた。まだ正式な看板ではない。けれど畑の端に立つその姿は、思ったよりしっくりしていた。

 ――日本平銀河新茶園。

 星明かりの下で、母の字が静かに光っていた。

 父は看板を見て言った。

「新しく作り直すか」

 幹夫は驚いた。

「いいの?」

「古い板は、このままだと傷む。母さんの字を写して、新しい看板を作る。古い方は家にしまっておけばいい」

 幹夫は看板を見た。

 消えるのではない。

 形を変えるのだ。

 新茶の若葉が茶になり、香りになるように。

 母の字も、新しい板へ移る。幹夫の胸にも移る。父の手にも移る。

「うん」

 幹夫は頷いた。

「作りたい」

 父は少し照れたように言った。

「字は、お前が写せ」

 幹夫の胸が鳴った。

「僕が?」

「ああ。母さんの字をいちばんよく見ているのは、お前だろう」

 幹夫は何も言えなかった。

 夜の茶畑が、さわさわと揺れた。

 空には銀河があった。 足元には新茶の香りがあった。 遠くには駿河湾の灯があった。

 そのすべてのあいだで、幹夫は母の字を見つめていた。

 日本平銀河新茶園。

 それは、ただの畑の名前ではなかった。

 父が少しずつ母の世界へ近づくための名前。 幹夫が自分の感じ方を恥じすぎずにいられるための名前。 茶畑が、仕事であり、暮らしであり、同時に星を映す場所でもあることを思い出すための名前。

 風が吹いた。

 茶の葉の露が小さく光った。

 幹夫は思った。

 お母さん、見えるよ。

 ここは、やっぱり銀河新茶園だよ。

 返事はなかった。

 けれど、看板の白い文字が、星明かりの中でほんの少しだけ明るくなった気がした。


 
 
 

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