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星のしずくと茶の丘

 茶の丘には、夜がいちばん深くなるころ、星のしずくが降る。

 それを知っている人は、もうあまりいない。

 昼間の茶畑は、よく手入れされた緑の波として、人の目に映る。丸く刈られた畝が丘の斜面に沿って並び、風が渡ると、葉の表がいっせいに光を返す。遠くから見れば美しい景色であり、近くで見れば働く人の手の跡がある場所だった。

 けれど、夜の茶の丘は違う。

 畝の線は闇にほどけ、茶の葉は一枚一枚の境目を失い、丘全体が大きな眠りを抱いているように見える。その眠りの上へ、空から、ほんの小さな光が降ってくる。

 雨ではない。 雪でもない。 露よりも軽く、星よりも近いもの。

 星のしずく。

 幹夫少年がそれを見たのは、眠れない夜のことだった。

 その日、幹夫は学校で、うまく言えなかった。

 帰りの会で、先生が「今日うれしかったこと」を一人ずつ言いましょうと言った。友だちは、給食がおいしかったこと、休み時間に勝ったこと、図工の絵をほめられたことを話した。

 幹夫の番になった。

 本当は、言いたいことがあった。

 朝、校門のところで、一年生の子が靴ひもを結べずに困っていた。誰かが通り過ぎたあと、別の子がしゃがんで結んであげた。その子は何も大げさに言わず、結び終えるとすぐ走っていった。幹夫は、その後ろ姿を見て、胸が少し温かくなった。

 でも、いざ言おうとすると、言葉が出なかった。

 小さすぎる気がした。 みんなの前で言うほどのことではない気がした。 「そんなこと?」と笑われる気がした。

 だから幹夫は、別のことを言った。

 「給食のスープがおいしかったです」

 それも嘘ではなかった。

 けれど、席へ戻ると、胸の中で何かが小さくしぼんだ。

 本当に言いたかったことを、自分で置いてきてしまった。

 その気持ちは、夜になっても消えなかった。

 布団に入っても、校門の朝の光や、しゃがんだ子の背中や、結ばれた靴ひもの小さな輪が、何度も浮かんできた。幹夫は目を閉じるたびに、自分の胸の奥で、言えなかった言葉が小さく座りこんでいるように感じた。

 やがて、幹夫はそっと家を出た。

 行き先は、丘の上の茶畑だった。

 夜の空には、星が多かった。月は細く、町の灯りは遠くに沈んでいる。茶の丘へ上る道は暗かったが、不思議と怖くはなかった。足もとの土は昼の熱を失い、夜露を含んで少し柔らかかった。

 丘の上へ着くと、幹夫は息をのんだ。

 茶畑に、光が降っていた。

 空の星が、ほんの少しずつほどけて、細かな粒になり、茶葉の上へ静かに落ちてくる。光の粒は葉の先に触れると、丸いしずくになった。水のようで、水ではない。星のようで、星そのものでもない。

 茶の葉の縁に、ひと粒ずつ、淡い光が宿っていく。

 幹夫は、畝のそばにしゃがんだ。

 ひとつのしずくを見つめる。

 その中には、小さな景色が映っていた。

 校門。 朝の光。 一年生の子の靴。 しゃがみこんだ誰かの手。 結ばれる靴ひも。

 幹夫は思わず息を止めた。

 それは、今日、自分が言えなかったことだった。

 「見つけたのね」

 声がした。

 幹夫は振り向いた。

 茶の畝のあいだに、一人の小さな女の子が立っていた。幹夫より少し幼いようにも見え、ずっと年上のようにも見えた。髪は茶の新芽のようにやわらかく、着物は夜露を織ったような淡い青だった。手には、小さな竹の柄杓を持っている。

 女の子は、茶葉の上の星のしずくをそっと見た。

 「それは、言えなかったうれしさのしずく」

 「言えなかった……」

 幹夫は、自分の胸に手を当てた。

 「ぼくの?」

 女の子はうなずいた。

 「言葉にならなかったものは、夜になると空へ上がることがあるの。でも、全部が星になれるわけじゃない。まだ小さすぎるもの、誰かに聞いてほしかったもの、持ち主が忘れきれなかったものは、星のしずくになって茶の丘へ降りてくる」

 幹夫は、しずくの中の小さな景色を見た。

 昼間、自分の中でしぼんだと思っていたものは、消えていなかった。

 ここへ降りてきていた。

 茶葉の上で、静かに光っていた。

 「きみは誰?」

 幹夫がたずねると、女の子は柄杓を胸に抱いた。

 「しずく番」

 「しずく番?」

 「星のしずくが茶葉の上で迷わないように見ているの。朝日が出る前に、しずくの中の気持ちを茶の丘へ返してあげる。そうすると、それはいつかお茶の香りになる」

 「香りに?」

 「うん。誰かがお茶を飲んだ時、理由はわからないけれど、胸が少しやわらぐことがあるでしょう。あれは、星のしずくが少し香っているの」

 幹夫は、家で飲むお茶を思い出した。

 湯呑みから立つ白い湯気。 最初の苦み。 あとから来る、かすかな甘み。 胸の中にある硬いものが、すぐに消えるのではなく、少しだけ角を丸くするような温かさ。

 あの中に、言えなかったうれしさや、言えなかった悲しみが入っているのだろうか。

 しずく番は、幹夫のそばに来た。

 「今夜は、しずくが多いの」

 「どうして?」

 「昼間、たくさんの子どもが言葉を飲み込んだから」

 幹夫は黙った。

 茶畑を見渡すと、星のしずくはあちこちに降りていた。ひと粒ずつ、違う明るさで光っている。白いもの、青いもの、金色に近いもの、少し濁ったもの。

 「全部、誰かの言えなかったこと?」

 「そう。言えなかったうれしさ。言えなかったありがとう。言えなかったごめんね。言えなかったいやだ。言えなかったほんとうは」

 幹夫の胸が静かに痛んだ。

 言えなかった言葉は、自分だけのものではなかった。

 昼間の学校にも、町にも、家にも、きっとたくさんある。

 誰かが笑って飲み込んだ言葉。 平気な顔で隠した痛み。 言っても伝わらないと思ってあきらめた小さな願い。

 それらが夜、星のしずくになって茶の丘へ降る。

 そう思うと、茶畑の光が、とても尊いものに見えた。

 「手伝ってくれる?」

 しずく番が言った。

 幹夫は驚いた。

 「ぼくが?」

 「しずくを茶の丘へ返すには、誰かがその中身をひとつずつ見てあげないといけないの。見られたしずくは、安心して葉の中へ入れる。見られなかったしずくは、朝日に消えてしまう」

 幹夫は、少し怖くなった。

 誰かの言えなかった言葉を見ることは、軽いことではない。 見てしまったら、何かしなければならない気がする。 でも、自分には大きなことはできない。

 しずく番は、幹夫の不安を見たように言った。

 「全部を背負わなくていい。ただ、見て、聞いて、茶葉に返すだけ」

 「それだけでいいの?」

 「それだけが、必要な時もある」

 幹夫は、ゆっくりうなずいた。

 最初のしずくは、自分のものだった。

 幹夫は、それを両手で包むように見つめた。触れてはいない。けれど、心の中でそっと抱えるようにした。

 校門の朝の光が、しずくの中でまた揺れた。

 幹夫は小さく言った。

 「靴ひもを結んだ子のやさしさを、ぼくは見ていたよ」

 その言葉を聞いた瞬間、しずくは少し明るくなった。

 そして茶葉の表面へ静かに沈んでいった。

 消えたのではなかった。 葉の中へ入ったのだ。

 茶葉は、さわ、と小さく鳴った。

 しずく番が微笑んだ。

 「今のしずくは、やさしい苦みになる」

 「苦み?」

 「うん。お茶を飲んだ時に、誰かが『自分も小さな親切をしてみようかな』と思える苦み」

 幹夫は、胸が温かくなった。

 次のしずくは、青く光っていた。

 幹夫が覗き込むと、教室の隅が映った。誰かの机の下に落ちた折り紙。折りかけのまま、少し破れている。持ち主は、それを拾わずに帰ったらしい。

 しずくの中から声がした。

 ――ほんとうは、失敗したのを見られたくなかった。

 幹夫は息を止めた。

 折り紙を捨てた子の声だろうか。 きれいに折れなかったことを恥ずかしく思い、何でもないふりをして置いていったのかもしれない。

 幹夫は、青いしずくへ言った。

 「失敗した折り紙も、途中までがんばった跡だよ」

 しずくは震えた。

 「破れたところも、紙が折られた記憶だよ」

 青い光は、少しずつ澄んでいった。

 そして茶葉へ沈んだ。

 「これは、どんな香りになるの?」

 幹夫が聞くと、しずく番は答えた。

 「やり直してもいい、と思える香り」

 幹夫は、胸の奥で何かがほどけるのを感じた。

 自分にも、やり直したいことがたくさんある。

 言えなかった言葉。 ごまかした返事。 本当のうれしさを隠したあの一瞬。

 でも、それらも全部、終わりではないのかもしれない。

 次のしずくは、濁った銀色をしていた。

 中には、給食の時間が映った。誰かが「おかわりいらない」と言って笑っている。けれどその子の目は少し寂しそうだった。

 声がした。

 ――ほんとうは、お腹がすいていなかったんじゃない。胸がいっぱいで食べられなかった。

 幹夫は、自分にもそんな日があることを思い出した。

 悲しいことがあると、ご飯が喉を通らない。 でも、理由を聞かれると困る。 だから「いらない」と言ってしまう。

 幹夫は、しずくに言った。

 「食べられない日もあるよね」

 しずくは、かすかに揺れた。

 「でも、また食べられる日が来るまで、体を責めなくていいよ」

 濁りは完全には消えなかった。

 けれど、銀色の奥にやわらかな緑が混じった。

 茶葉へ入るとき、そのしずくは少し重そうだったが、葉はきちんと受け止めた。

 しずく番は言った。

 「これは、湯呑みを両手で包みたくなる香りになる」

 幹夫は、そういう香りを知っている気がした。

 茶畑の夜は、少しずつ深くなっていった。

 空には星があり、茶葉には星のしずくがある。

 幹夫としずく番は、畝のあいだを歩きながら、しずくをひとつずつ見ていった。

 ――ごめんねと言いたかった。 ――ありがとうと言われたかった。 ――本当は、仲間に入りたかった。 ――本当は、ひとりでいたかった。 ――強いふりをしたけれど、怖かった。 ――笑ったけれど、少し傷ついた。 ――気づいてくれた人がいて、うれしかった。

 しずくの声はどれも小さかった。

 でも、小さいから軽いわけではなかった。

 幹夫は、ひとつひとつ聞くたびに胸が痛くなった。けれど、不思議なことに、その痛みはいつものように自分を押しつぶすものではなかった。

 しずく番の言うとおり、全部を背負わなくてよかった。

 聞いて、見て、茶葉へ返す。

 すると、しずくは葉の中へ入っていく。

 幹夫の胸にも残るけれど、胸だけに閉じ込められない。茶の丘が一緒に受け止めてくれる。

 「茶の丘は、重くならないの?」

 幹夫は尋ねた。

 しずく番は、丘全体を見渡した。

 「重くなるよ」

 「それなのに、受け止めるの?」

 「茶の丘は、重さを香りに変える時間を知っているから」

 「時間?」

 「すぐには変わらない。夜を越えて、朝を受けて、雨を待って、手に摘まれて、火にかけられて、湯に開いて、ようやく香りになる。心も同じ。重さは、すぐ軽くしなくていい」

 幹夫は、その言葉を何度も心の中で繰り返した。

 重さは、すぐ軽くしなくていい。

 昼間の世界では、すぐ元気になることが求められる気がしていた。 すぐ忘れること。 すぐ笑うこと。 すぐ次へ進むこと。

 でも、茶の丘では違う。

 重さは、時間をかけて香りになる。

 そう思うと、幹夫は自分の胸の重さにも、少しだけ待つ場所を与えられる気がした。

 やがて、丘の一番上まで来た。

 そこには、古い茶の木が一本あった。ほかの茶の木より少し大きく、根元には丸い石が置かれていた。石の上には、ひときわ大きな星のしずくがのっていた。

 そのしずくは、何色とも言えなかった。

 白でも、青でも、金色でもない。 すべての色が混ざり、でも濁らず、深く静かに光っていた。

 しずく番は、いつもより慎重な顔になった。

 「これは、茶の丘自身のしずく」

 「丘の?」

 「うん。丘も、言えなかったことを持っている」

 幹夫は驚いた。

 丘が言葉を持つことは不思議ではなかった。これまで幹夫は、川や石や茶葉の声を聞いてきた。けれど、茶の丘全体が言えなかったことを持っていると思うと、胸が静かに震えた。

 「聞いてもいいの?」

 しずく番は、少し迷うようにしずくを見た。

 「幹夫が、聞けるなら」

 幹夫は深く息を吸った。

 茶葉の匂い。 土の匂い。 夜の匂い。

 その全部を胸に入れてから、しずくを見つめた。

 しずくの中に、長い時間が映った。

 茶の苗を植える人。 雨を待つ人。 霜を心配して畑を見回る人。 若い葉を摘む手。 年老いた人の背中。 子どもが農道で転んで泣く姿。 湯呑みから立つ無数の湯気。 茶畑を見て「きれい」と言う人。 何も言わず通り過ぎる人。 手入れされる日。 放っておかれる日。 風の日。 月の夜。 星のしずくが降る夜。

 そして、丘の声が聞こえた。

 ――わたしは、見上げられる山ではない。海のように広くもない。空の星ほど遠くもない。ただ、人の暮らしのそばで、葉を育ててきた丘。

 声は低く、土の中から来るようだった。

 ――けれど、ここに来る人の胸の小さな重さを、わたしはずっと受け止めてきた。湯呑みの中へ少しずつ返してきた。誰にも知られなくても、それでよかった。

 幹夫は、胸がいっぱいになった。

 丘の声は続いた。

 ――でも、ときどき思う。わたしが受け止めてきた小さなしずくたちを、誰かが覚えていてくれるだろうか、と。

 幹夫の目に涙が浮かんだ。

 茶の丘も、覚えていてほしかったのだ。

 誰かの胸を温めるお茶になる前の、無数のしずく。 言えなかった言葉。 小さなうれしさ。 小さな痛み。 それらを受け止めてきた丘の静かな働き。

 幹夫は、しずくに向かって言った。

 「ぼくが、覚えています」

 声は小さかった。

 でも、まっすぐだった。

 「全部は覚えられないかもしれません。でも、茶の丘がしずくを受け止めていることを、忘れすぎないようにします。お茶を飲む時、湯気を見る時、少し思い出します」

 大きなしずくが、静かに光った。

 その光は強くならなかった。 ただ、深くなった。

 まるで丘が、ようやく息を吐いたようだった。

 しずくは石の上から茶の木の根元へ流れ、土へ染み込んでいった。

 丘全体が、さわ、と鳴った。

 茶葉の音。 土の音。 根の音。 夜明け前の空気の音。

 それらが重なって、幹夫には一つの言葉に聞こえた。

 ――ありがとう。

 東の空が明るくなりはじめた。

 星のしずくは、ほとんど茶葉の中へ入っていた。残ったしずくも、朝の光を受けて静かに透明になっていく。

 しずく番の姿も少しずつ薄れていた。

 「行くの?」

 幹夫が聞くと、しずく番はうなずいた。

 「朝は、人間の時間だから」

 「また会える?」

 「星のしずくが降る夜に。言えなかったことを、消さずに持って来られたら」

 幹夫は、少し迷ってから言った。

 「ぼくは、昼間に言えるようになったほうがいいのかな」

 しずく番は、やわらかく笑った。

 「言える日もある。言えない日もある。どちらも幹夫だよ。でも、言えなかった言葉をなかったことにしなければ、いつか別の形で届くことがある」

 その言葉を残して、しずく番は朝の光に溶けていった。

 茶畑には、ただ露を含んだ緑の葉が広がっていた。

 幹夫は、農道を下った。

 胸の中には、昨日言えなかったうれしさがまだ残っていた。けれど、もうしぼんではいなかった。茶葉の中へ入り、いつか香りになるのを待っているようだった。

 家に帰ると、母が台所でお茶を淹れていた。

 湯呑みから、白い湯気が立っている。

 幹夫は、その湯気をいつもより長く見つめた。

 母が言った。

 「どうしたの」

 幹夫は、少し考えた。

 そして言った。

 「昨日ね、校門で一年生の靴ひもを結んであげてた子がいたんだ」

 母は湯呑みを置きながら、静かに聞いていた。

 「そうなの」

 「うん。ぼく、それがうれしかった。でも学校では言えなかった」

 母は、少しだけ微笑んだ。

 「今、言えたね」

 幹夫はうなずいた。

 胸の中で、星のしずくがひと粒、茶葉へ沈むような気がした。

 幹夫は湯呑みを両手で包み、お茶を飲んだ。

 少し苦かった。

 でも、そのあとに、やさしい甘みが来た。

 その香りの奥に、夜の茶の丘と、星のしずくと、言えなかったうれしさが静かに光っていた。

 
 
 

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