top of page

星の茶畑停留所


 茶畑の丘に、停留所があるはずはなかった。

 そこは町から少し離れた、日本平へ続く斜面の途中だった。昼間なら、丸く刈りこまれた茶の畝が幾筋も並び、緑の波の向こうに空が大きく開けている。道といえば、細い農道が一本あるだけで、バスが通るような幅もなかった。

 けれど、その夜、幹夫少年は確かに見た。

 茶畑の端に、小さな停留所が立っていた。

 古びた丸い標識。 星の形をした時刻表。 雨よけの屋根は、茶葉を重ねたような深い緑色をしている。

 標識には、銀色の文字でこう書かれていた。

 星の茶畑停留所

 幹夫は、農道の途中で足を止めた。

 その日、幹夫は学校からの帰り道、友だちの歩く速さについていけなかった。

 足が遅かったわけではない。けれど、道ばたに落ちていた小さな鳥の羽を見つけて、思わず立ち止まってしまったのだ。薄い灰色の羽で、先だけが白く、雨に少し濡れていた。誰の羽なのだろう。どこから来て、なぜここに落ちたのだろう。幹夫はそう思った。

 気づくと、友だちはずっと先を歩いていた。

 「幹夫、また止まってる」

 誰かが笑った。

 怒っている声ではなかった。けれど、その言葉は幹夫の胸に小さな影を落とした。

 また。

 その一文字が、夕方になっても残っていた。

 自分は、また止まってしまった。 みんなと同じ速さで歩けなかった。 小さな羽ひとつを通り過ぎられなかった。

 夜になっても、その羽のことが頭から離れなかった。

 だから幹夫は、眠れないまま外へ出た。

 茶畑の丘まで来ると、風が少し冷たかった。茶葉の匂いは夜露を含み、昼間より深く、青く、静かだった。空には星が出ていた。町の灯りから少し離れると、星は急に増える。幹夫は、上にも下にも光があるように感じた。

 茶葉の上には露が降りている。

 ひと粒ひと粒が星を映していた。

 その星の露の向こうに、見慣れない停留所が立っていたのだった。

 幹夫は、そっと近づいた。

 時刻表には、普通の数字は書かれていなかった。

 代わりに、こんな文字が並んでいる。

 言えなかった言葉 通過予定 迷子の星 停車 湯気行き 夜明け前発 小さな羽 臨時便

 幹夫は最後の文字を見て、胸がどきんとした。

 小さな羽。

 今日、道ばたで見つけた羽のことだろうか。

 そのとき、停留所のベンチから声がした。

 「今夜は、待つ子が来たね」

 幹夫は驚いて顔を上げた。

 ベンチに、小さな老人が座っていた。

 小さいといっても、子どもではない。背は幹夫の腰ほどしかないが、顔には深い皺があり、目は夜空を長く見てきたように澄んでいた。頭には茶葉で編んだ帽子をかぶり、膝の上には小さな切符ばさみを置いている。

 「あなたは、誰ですか」

 幹夫がたずねると、老人は帽子のつばを少し上げた。

 「停留所番だよ」

 「停留所番?」

 「ここで、星や言葉や小さな記憶を待っている。みんな、行き先をなくすことがあるからね」

 老人は茶畑を見渡した。

 「人間も同じだろう。歩いている途中で、心だけ置いていかれることがある」

 幹夫は、何も言えなかった。

 今日の帰り道、友だちは先へ行った。幹夫の足もそのあとを追った。けれど、心はあの小さな羽のそばに残っていた気がする。

 置いていかれたのは、自分だったのか。 それとも、置いてきたのは自分のほうだったのか。

 幹夫にはわからなかった。

 停留所番は、時刻表を見上げた。

 「もうすぐ来るよ」

 「何が?」

 「夜空の茶畑バス」

 幹夫は農道を見た。

 バスが通れる道などない。あるのは細い農道と、茶の畝と、夜露に光る葉だけだ。

 けれど、遠くから音がした。

 ぶうん、というエンジン音ではない。

 からん。 ことん。 からん。 ことん。

 古い湯呑みがゆっくり揺れるような音だった。

 茶畑の奥から、灯りが近づいてきた。

 それはバスだった。

 ただし、幹夫の知っているバスではなかった。

 車体は夜空の色をしていた。窓には星が映り、屋根には茶葉がいくつも重なっている。前面の行き先表示には、銀色の文字で「湯気行き」と書かれていた。タイヤは土に触れていない。茶葉の露の上を、すべるように走ってくる。

 バスは停留所の前で静かに止まった。

 扉が開いた。

 中から、温かいお茶の香りが流れてきた。

 「乗るかい」

 停留所番が言った。

 幹夫は迷った。

 「どこへ行くんですか」

 「行き先は、乗る子によって少し変わる。でも今夜の幹夫なら、置いてきたもののところへ行くだろうね」

 置いてきたもの。

 幹夫は、道ばたの羽を思い出した。

 そして、胸に残った「また止まってる」という声を思い出した。

 幹夫は小さくうなずき、バスに乗った。

 車内は、思ったより広かった。

 座席は古い茶箱でできていて、背もたれには柔らかい布がかかっている。天井には小さな星がいくつも下がり、車内灯の代わりに淡く光っていた。窓の外には茶畑が広がっているが、バスが動き出すと、その茶畑は少しずつ空に近づいていった。

 停留所番は、いつの間にか運転席に座っていた。

 「発車します」

 声が響いた。

 バスは音もなく動き出した。

 茶畑の畝のあいだを、葉を傷つけず、露をこぼさず、ゆっくり進む。窓の外で、茶葉の露が星のように流れていく。上の星と下の星が混じり合い、幹夫は自分がどちらへ向かっているのかわからなくなった。

 最初の停留所に着いた。

 そこには標識が立っていた。

 折れた羽入口

 バスの扉が開いた。

 幹夫が降りると、そこは昼間の帰り道だった。

 けれど、昼ではなかった。夜の茶畑の中に、昼間の道が透き通るように浮かんでいる。道ばたには、あの灰色の羽が落ちていた。

 幹夫は、羽の前にしゃがんだ。

 小さな羽は、雨に濡れたまま、まだそこにあった。けれど、昼間よりもはっきり光っている。羽の根元に、細い声が宿っていた。

 ――見つけてくれて、ありがとう。

 幹夫は息を止めた。

 羽が話しているのか。 羽を落とした鳥の記憶なのか。 それとも、自分の胸がそう聞いているのか。

 わからなかった。

 でも、確かに声はあった。

 「ぼくは、ただ立ち止まっただけだよ」

 幹夫は言った。

 「何もできなかった」

 羽は、かすかに震えた。

 ――立ち止まってくれた。

 その声は、とても小さかった。

 ――落ちたものは、踏まれて終わることもある。風に流されて、誰にも知られないこともある。でも、誰かが一度見てくれたなら、落ちたことにも少し場所ができる。

 幹夫の胸が熱くなった。

 立ち止まること。

 それは、遅れることだと思っていた。みんなから置いていかれること、自分だけが足を止めてしまうことだと思っていた。

 でも、落ちたものに場所を作ることでもあるのかもしれなかった。

 幹夫は、羽をそっと拾おうとした。

 しかし停留所番の声が聞こえた。

 「持ち帰らなくていい」

 「でも」

 「見たものを、全部手元に置く必要はないよ。胸の中に停留所を作ればいい」

 「胸の中に?」

 「そこへ一度、停めてあげる。ずっと抱えこむのではなく、通り過ぎる前に少し休ませる。それが見つめるということだ」

 幹夫は、羽を拾わず、その場にそっと置いたままにした。

 代わりに、小さく言った。

 「ここにいたんだね」

 羽は、淡く光った。

 そして、夜の道の中へ静かに溶けていった。

 バスに戻ると、胸の奥に小さなベンチができたような気がした。そこに灰色の羽が、ほんの少し休んでいる。重くはなかった。ただ、そこにいることを許されたように静かだった。

 次の停留所へ向かう途中、窓の外には茶畑の丘が広がっていた。

 茶葉の露が流れ、時々その中に、誰かの言葉のかけらが映った。

 「また止まってる」 「そんなこと気にするの」 「大丈夫?」 「なんでもない」

 言葉たちは、夜露の中で形を変えながら流れている。

 バスは次の停留所で止まった。

 追いつけなかった言葉前

 幹夫は、胸が少し重くなった。

 扉が開く。

 そこには、学校の帰り道の友だちの背中があった。みんな先を歩いている。幹夫は遅れている。誰かが振り向き、笑いながら言う。

 「幹夫、また止まってる」

 幹夫は、その場面を見て、肩をすくめた。

 声は軽い。 でも、胸に刺さった。

 停留所番が言った。

 「ここで降りるかい」

 幹夫は迷った。

 でも、降りた。

 道の上には、自分の言えなかった言葉が落ちていた。

 それは、白い小さな紙片の形をしていた。 風で少し折れ曲がり、文字は途中までしか書かれていない。

 ぼくは、ただ見ていたかっただけ

 幹夫は、その紙片を見つめた。

 本当は、そう言いたかったのだ。

 遅れたかったわけではない。 わざと皆を困らせたかったわけでもない。 ただ、羽を見ていたかった。 落ちたものにも、少しだけ時間をあげたかった。

 でも、それを言葉にできなかった。

 言えば、もっと笑われる気がした。 大げさだと思われる気がした。 だから黙ってしまった。

 幹夫は、紙片を拾った。

 今度は停留所番は止めなかった。

 「それは、どうするものですか」

 幹夫が聞くと、停留所番は答えた。

 「声にしてもいい。胸の停留所に貼ってもいい。相手に渡す必要があるかどうかは、朝になってから考えればいい」

 「今、決めなくていいの?」

 「夜の停留所では、すぐ発車しなくていいんだよ」

 幹夫は、紙片を胸に当てた。

 すると紙は小さな切符に変わった。

 そこには行き先が書かれていた。

 自分を責めすぎない町

 幹夫は、少し笑いそうになった。

 そんな町があるなら、行ってみたいと思った。

 バスに戻ると、車内の星が少し明るくなっていた。

 次の停留所は、茶畑の一番高いところにあった。

 標識にはこう書かれていた。

 星の茶畑停留所 終点ではありません

 幹夫は、その言葉を見て不思議に思った。

 終点ではありません。

 停留所なのに、終点ではない。

 バスを降りると、そこは茶畑の丘の頂だった。

 夜空が近かった。

 茶の畝は下へ向かって幾筋も流れ、露の光は地上の星座のように輝いている。空には本物の星があり、そのあいだに細い銀河が流れていた。

 停留所番は、幹夫の隣に立った。

 「停留所はね、終わりの場所ではないんだ」

 「待つ場所ですか」

 「そう。待つ場所。そして、乗るか乗らないかを選ぶ場所。降りて、少し休んで、また歩き出す場所」

 幹夫は、茶畑を見下ろした。

 自分は、よく止まる。

 でも、止まることは終わりではないのかもしれない。

 止まって、見て、少し待つ。 それからまた歩く。

 そういう場所が心の中にあれば、立ち止まる自分を少しだけ許せる気がした。

 「幹夫」

 停留所番が言った。

 「この停留所には、もうひとつ役目がある」

 「何ですか」

 「誰かの小さな光を、次の人へ渡すこと」

 老人が切符ばさみを鳴らした。

 ちん。

 茶畑の露が一斉に光った。

 すると幹夫の胸にあった灰色の羽と白い切符が、淡い光になって外へ出た。光は茶葉の上へ降り、露と混ざり、小さな星になった。

 「これは?」

 「幹夫が今夜受け止めたものだよ。全部を胸に持って帰らなくていい。少し茶畑に預けていきなさい。茶畑はそれを香りに変える。いつか誰かがお茶を飲んだ時、道ばたの小さな羽に気づくやさしさになるかもしれない」

 幹夫は、胸が軽くなるのを感じた。

 見たものを忘れるわけではない。 でも、全部をひとりで持たなくてもいい。

 茶畑が、少し持ってくれる。 星が、少し運んでくれる。 お茶の香りが、いつか誰かへ届けてくれる。

 それは、幹夫にとって大きな救いだった。

 やがて、東の空が白みはじめた。

 夜空の茶畑バスは、また停留所へ戻ってきた。

 停留所番は運転席へ乗り込んだ。

 「そろそろ、始発の朝が来る」

 「また、この停留所に来られますか」

 幹夫が聞くと、停留所番はうなずいた。

 「立ち止まった自分を責めすぎて、歩き出せなくなった夜にはね」

 「バスは、いつ来ますか」

 「待てる心がある時に来る」

 扉が閉まった。

 バスは茶葉の露の上を静かに走り出した。車体は少しずつ薄くなり、やがて星の光と朝霧に溶けて消えた。

 停留所の標識も、ゆっくり淡くなっていった。

 最後に、銀色の文字だけが残った。

 終点ではありません

 それも朝の光に溶けた。

 幹夫は、普通の茶畑の農道に立っていた。

 茶葉の露は、朝日を受けて透明に輝いている。鳥の声が聞こえ、町は少しずつ目を覚ましはじめていた。

 胸の中には、小さな停留所が残っていた。

 ベンチがひとつ。 時刻表がひとつ。 そして、白い切符が一枚。

 幹夫はその切符を心の中で読んだ。

 止まっても、また歩ける

 家に帰ると、母が台所でお茶を淹れていた。

 湯呑みから白い湯気が上っている。

 幹夫は、その湯気を見て、夜空の茶畑バスの排気のようだと思った。星と茶葉の匂いを含み、すぐに消えてしまうけれど、胸の奥には少し残る。

 「早いのね」

 母が言った。

 幹夫はうなずいた。

 「茶畑の停留所に行ってた」

 母は少し笑った。

 「バスでも来た?」

 幹夫は湯呑みを両手で包んだ。

 「うん。来たよ」

 母は不思議そうにしたが、何も言わなかった。

 幹夫はお茶を飲んだ。

 少し苦かった。

 でも、そのあとに、やさしい甘みがあった。

 学校へ行く途中、幹夫は昨日の道ばたを通った。

 羽はもうなかった。

 風で飛んだのか、誰かに踏まれたのか、わからない。

 けれど幹夫は、なくなったとは思わなかった。

 羽は、茶畑の星になった。 香りになって、いつか誰かの胸へ届く。

 そう思うと、少し安心した。

 友だちが前から歩いてきた。

 「おはよう、幹夫」

 いつもと同じ声だった。

 幹夫は一瞬、昨日の言葉を思い出した。

 また止まってる。

 胸が少しだけ痛んだ。

 けれど、今は心の中に停留所があった。

 痛みはそこで少し休んだ。

 幹夫は、いつもより少し落ち着いた声で言った。

 「おはよう」

 そして、歩き出した。

 途中、道ばたの葉に小さな露が残っていた。

 幹夫は一度だけ足を止めた。

 露の中に、朝の空が映っている。

 友だちは少し先へ進みかけたが、幹夫が止まったことに気づいて振り返った。

 幹夫は、少し迷った。

 それから言った。

 「これ、空が入ってる」

 友だちは、露を見た。

 「ほんとだ」

 短い返事だった。

 それだけだった。

 でも幹夫は、その一言を胸の停留所にそっと停めた。

 終点ではない。

 ここからまた、歩ける。

 茶畑の星の停留所は、もう見えない。

 けれど幹夫少年の心の中で、今日も小さな時刻表が静かに光っていた。

 
 
 

コメント


Instagram​​

Microsoft、Azure、Microsoft 365、Entra は米国 Microsoft Corporation の商標または登録商標です。
本ページは一般的な情報提供を目的とし、個別案件は状況に応じて整理手順が異なります。

※本ページに登場するイラストはイメージです。
Microsoft および Azure 公式キャラクターではありません。

Microsoft, Azure, and Microsoft 365 are trademarks of Microsoft Corporation.
We are an independent service provider.

​所在地:静岡市

©2024 山崎行政書士事務所。Wix.com で作成されました。

bottom of page