星を摘みにきた茶摘み人
- 山崎行政書士事務所
- 5月7日
- 読了時間: 16分

五月の茶畑には、星が降りる。
幹夫は、そう信じていた。
もちろん、大人たちは笑うだろう。星は空にあるものだ。茶畑にあるのは若葉で、露で、土で、風だ。けれど夜明け前の茶畑を見たことのある者なら、幹夫の言いたいことが少しは分かるはずだった。
まだ東の山が白まないころ、茶の畝は闇の中で静かにうねり、葉先には無数の露が宿っている。その露の一粒一粒に、消え残った星が映る。空を見上げれば銀河が淡く流れ、足元を見れば茶の若葉の上にも小さな銀河がある。
遠い星と、近い露。
そのあいだに立つと、幹夫の胸はいつも少し痛くなった。
美しいものを見ると胸が痛むのは、どうしてなのだろう。幹夫には分からなかった。うれしいはずなのに、泣きたくなる。きれいだと思うほど、そのきれいなものがいつか消えてしまうことまで一緒に感じてしまう。
父は、そんな幹夫を見て言った。
「幹夫は、何でも胸に入れすぎる」
父の声は責めているのではなく、心配している声だった。けれど幹夫には、胸に入ってくるものを止める方法が分からなかった。
風が吹けば若葉は揺れる。 雨が降れば土は匂う。 誰かの声が少し沈めば、心はそれを聞いてしまう。
それは、自分ではどうにもならないことだった。
母が生きていたころ、母は幹夫のそういう心を笑わなかった。
「星をたくさん入れられる胸なのよ」
母は茶畑でそう言ったことがある。
「でも、星を入れると痛いよ」
幼い幹夫がそう言うと、母は若葉に触れながら微笑んだ。
「星は遠くから来るものだからね。胸に入ると、少し冷たいの。でも、その冷たさを知っている人は、誰かの寂しさにも気づけるのよ」
母は去年の冬に亡くなった。
雪の降らない、ただ冷たいだけの日だった。病院の白い壁と、消毒液の匂いと、細くなった母の手。幹夫はその手を握っていたのに、最後までうまく泣けなかった。
泣けば、母が本当に遠くへ行ってしまう気がしたからだった。
五月になり、新茶の季節が来ると、母の不在はかえって濃くなった。茶畑の匂いが家の中へ流れ込むたび、母がいたころの朝がよみがえる。白い手ぬぐい。背負い籠。若葉に触れる指。茶摘み唄の低い鼻歌。
思い出せば温かい。
けれど、温かいからこそ痛かった。
その年の一番茶が終わった翌日の夜、幹夫は父と少しだけ言い合いになった。
父は夕飯のあと、湯呑みを置いて言った。
「今年はよく手伝った。だが、もう少し早く摘めるようにならんとな」
幹夫は黙った。
父の言うことは分かっていた。茶摘みは暮らしだ。仕事だ。丁寧なだけでは足りない。摘み時を逃せば、葉は硬くなる。人手も時間も限られている。
けれど幹夫には、早く摘むことが怖かった。
茶の若葉は、まだ柔らかい。露を抱き、光を待ち、風に震えている。その葉に指を伸ばすたび、幹夫は胸の中で小さく「ごめん」と言ってしまう。早く摘もうとすると、その「ごめん」さえ言えなくなる気がした。
「聞いているのか」
父が言った。
「うん」
「なら、返事をしろ」
「でも」
「でも、何だ」
幹夫は湯呑みの中を見た。淡い緑の水面に、台所の灯が揺れている。
「葉っぱが、まだ空を見ているみたいで」
言った瞬間、父の顔が少し困ったように固くなった。
「葉は葉だ」
父は低く言った。
「空を見るために育てているわけじゃない。茶になるために育てている」
その言葉に悪意はなかった。
けれど幹夫の胸には、鋭く刺さった。
葉は葉だ。
それは正しいのかもしれない。けれど幹夫には、若葉がただの葉には見えなかった。母が触れていた春のかけらであり、冬を越えてきた小さな命であり、露の中に星を映す薄い器だった。
幹夫は何も言えなくなった。
父もそれ以上言わなかった。
台所の沈黙に、新茶の香りだけが静かに漂っていた。
その夜、幹夫は眠れなかった。
布団に入っても、父の「葉は葉だ」という声が胸の中で繰り返された。父は間違っていない。けれど、幹夫の感じたことも嘘ではない。二つの本当が胸の中でぶつかり合い、幹夫は息がしづらくなった。
窓を開けると、夜の茶畑から青い香りが流れてきた。
空には星が出ていた。
山の上には銀河が淡く横たわり、月のない夜の深さを静かに支えている。幹夫は上着を羽織り、家の者を起こさないようにそっと玄関を出た。
茶畑へ続く坂道は、夜露に濡れていた。
草の先が靴に触れ、冷たい雫がしみた。田んぼでは蛙が鳴いている。遠くの製茶場はもう静かで、村は深い眠りの底に沈んでいるようだった。
茶畑に着くと、幹夫は畝の端に立った。
若葉は暗闇の中で色を失い、黒い波のように続いている。けれど葉先の露だけが、星明かりを受けて光っていた。空の星が地上へ降りて、ひと晩だけ茶の葉に宿っているようだった。
幹夫はしゃがみ込み、一粒の露を覗いた。
露の中に、星があった。
遠い銀河も、小さく映っていた。
「やっぱり、星がある」
幹夫は小さくつぶやいた。
そのときだった。
畝の向こうで、かすかな衣擦れの音がした。
幹夫は顔を上げた。
茶畑の奥に、人がいた。
白い手ぬぐいをかぶり、古い紺の着物に赤い襷をかけ、背中には茶摘み籠を背負っている。年寄りにも若い人にも見えなかった。星明かりのせいで、顔の輪郭は淡く、目だけが不思議に澄んでいた。
その人は、夜の茶畑で茶を摘んでいた。
けれど摘んでいるのは、茶の葉ではなかった。
指先が葉に触れるたび、露に映っていた星が、すうっと持ち上がる。小さな光の粒となって、その人の掌に集まる。掌から籠へ落ちると、籠の中で無数の星が音もなく瞬いた。
幹夫は息をのんだ。
「何をしているの」
声が震えた。
茶摘み人は手を止め、幹夫を見た。
「星を摘みに来た」
声は、夜の風のように低く、やわらかかった。
「星を?」
「そう。五月の茶畑には、星がよく降りるからね」
幹夫は籠の中を見た。
そこには、露から摘まれた小さな星たちが眠っていた。空の星より近く、蛍より静かで、新茶の香りをまとっている。
「星を摘んで、どうするの」
幹夫が尋ねると、茶摘み人は微笑んだ。
「空へ返す星もある。誰かの胸へ届ける星もある。地上で冷えてしまった星は、お茶にして温めることもある」
「星を、お茶に?」
「そう。星はそのままだと冷たすぎる。けれど茶の香りを通すと、人の胸にも入れるようになる」
幹夫は胸に手を当てた。
母が言っていたことを思い出した。
星をたくさん入れられる胸なのよ。
けれど星は、胸に入ると少し冷たいの。
「僕の胸にも、星が入っている?」
幹夫が尋ねると、茶摘み人はゆっくり頷いた。
「たくさん入っている。けれど、しまいすぎて少し冷えているね」
幹夫は何も言えなかった。
茶摘み人は、幹夫の隣にしゃがんだ。
「君は、茶の葉を摘むのが怖いのだろう」
「どうして分かるの」
「茶畑は知っている。君が葉に触れるたび、心の中で謝っていることも」
幹夫は顔が熱くなった。
誰にも言ったことのないことだった。
「葉っぱがかわいそうで」
「うん」
「せっかく伸びたのに、摘んでしまうから」
「うん」
「父さんは、茶になるために育てているって言った。それは本当だと思う。でも、葉っぱが空を見ているみたいなのも、本当だと思う」
言葉にすると、胸の中にあった痛みが少し形を持った。
茶摘み人は、若葉の先に残る露を見つめた。
「どちらも本当だよ」
「どちらも?」
「茶の葉は、茶になるために育つ。でもそれだけではない。光を受けるためにも、風を知るためにも、露に星を映すためにも育つ」
幹夫は息を止めた。
「摘むというのはね」
茶摘み人は続けた。
「空を見ていた葉を、空から引き離すことではない。その葉が受け取った空を、香りにして誰かへ渡すことだ」
「香りにして」
「そう。葉は空を見たままでは、一つの畑にしかいられない。摘まれて茶になると、遠くの湯呑みにまで空を運ぶ」
幹夫は茶畑を見渡した。
闇の中の畝は、静かに続いている。葉先の露には星が映っている。その星を受け取った茶の葉が、いつか誰かの湯呑みに入る。
父の手で摘まれた葉も。 祖母の手で淹れられた茶も。 母が愛した若葉も。
みんな、空を運んでいるのかもしれない。
「でも」
幹夫は言った。
「摘まれるとき、痛くないのかな」
茶摘み人は少し黙った。
「痛みはあるかもしれない」
幹夫の胸が縮んだ。
「でも、痛みがあるから悪いとは限らない。芽が開くときにも、冬を越えるときにも、別れのときにも、痛みはある」
茶摘み人は籠の中の星を一粒取り出した。
「大切なのは、痛みのあとに何を失わずにいるかだ」
「何を?」
「光だよ」
幹夫は星を見た。
小さな星は、茶摘み人の掌の上でかすかに震えていた。
「君のお母さんが亡くなったとき、君の胸は痛んだ」
茶摘み人の声が、少し遠くなった。
「その痛みは、消えないかもしれない。けれど、痛みの中には、お母さんが君に残した光もある。痛みを全部捨てようとすると、その光まで見えなくなる」
幹夫の目に涙が浮かんだ。
母の光。
それは、どこにあるのだろう。
母の声はもう聞こえない。手も握れない。茶畑で白い手ぬぐいを揺らす姿もない。けれど、若葉を傷つけないように触れたいと思う幹夫の指先には、母の言葉が残っている気がした。
薄い葉ほど、光をよく通すのよ。
「僕は、お母さんを忘れたくない」
幹夫は言った。
涙が頬を伝った。
「でも、思い出すと苦しい。だから思い出さないようにすると、お母さんが遠くなる」
茶摘み人は、幹夫の涙を見た。
「それも星だ」
「涙が?」
「涙は、胸の中で冷えた星が溶けたものだから」
幹夫は頬を拭わずにいた。
涙は顎から落ち、茶畑の土へ吸われた。
「土へ落ちた星は、どうなるの」
「根に届く」
茶摘み人は言った。
「そして、いつか葉へ上る。葉はその星を香りにする」
幹夫は足元の土を見た。
自分の涙が、いつか茶の葉に届く。そんなことは本当ではないかもしれない。でも、そう思うと、涙をこぼしたことが少しだけ怖くなくなった。
茶摘み人は立ち上がった。
「手伝うかい」
「何を?」
「星摘みを」
幹夫は驚いた。
「僕が?」
「星を摘む手は、茶を摘む手と似ている。乱暴ではいけない。怖がりすぎてもいけない。触れるか触れないかのところで、相手が渡してくれるものを受け取る」
茶摘み人は、幹夫に小さな籠を渡した。
籠は茶の枝で編まれていた。中は空だったが、底に星明かりが薄く溜まっている。
幹夫は一枚の若葉に近づいた。
葉先には露がある。その露の中に、小さな星が映っている。幹夫は指を伸ばした。摘もうとすると、露が震えた。
怖かった。
触れれば落ちてしまいそうだった。消えてしまいそうだった。
「急がなくていい」
茶摘み人が言った。
「まず、見る」
幹夫は露を見た。
露の中に、空があった。銀河があった。小さな自分の顔もあった。泣いた跡のある顔だった。
「次に、息を合わせる」
幹夫は静かに息を吸った。
茶の香りが胸に入る。
青く、甘く、少し苦い。
「それから、お願いする」
幹夫は心の中で言った。
来てください。
すると、露の中の星が、すうっと浮き上がった。
幹夫の指先に、小さな光が乗った。
軽かった。
けれど、胸に響く重さがあった。
幹夫はその星を籠へ入れた。
籠の底で、星は静かに光った。
「摘めた」
幹夫は思わず言った。
茶摘み人は頷いた。
「上手だ」
その言葉を聞いた瞬間、幹夫は父に初めて茶を摘んだとき「上手だ」と言われた朝を思い出した。父の言葉は短かった。けれど、あのとき胸の奥が温かくなった。
「父さんも」
幹夫は言った。
「星を摘んでいるのかな」
「もちろん」
茶摘み人は静かに答えた。
「茶を摘む人は、みんな少しずつ星を摘んでいる。本人が気づいているかどうかは別として」
「父さんは、気づいていないと思う」
「かもしれないね」
「父さんは、葉は葉だって言った」
「それも、父さんの本当だ」
茶摘み人は夜の茶畑を見た。
「人は、自分の見える星しか摘めない。君には露の星が見える。父さんには、葉の色や芽の具合や、明日の暮らしにつながる星が見えている」
「暮らしにつながる星?」
「そう。家族を食べさせる星。畑を守る星。黙って働く人の胸にだけ見える星」
幹夫は父の手を思い出した。
荒れた手。節の太い指。茶の葉に触れるときだけ、驚くほどやさしくなる手。
父の星は、空に光っていないのかもしれない。
土の中に光っているのかもしれない。
「僕、父さんの星を見てなかったのかな」
幹夫が言うと、茶摘み人は微笑んだ。
「近い星は、近すぎて見えにくい」
そのとき、茶畑の下の坂道から足音が聞こえた。
「幹夫!」
父の声だった。
幹夫は振り返った。
父が上ってくる。作業着の上に古い上着を羽織り、少し息を切らしている。顔には心配と、眠りを破られた苛立ちが混じっていた。
幹夫は茶摘み人の方を見た。
しかし、茶摘み人の姿は少しずつ薄くなっていた。星を入れた籠だけが、まだ淡く光っている。
「もう帰るの?」
幹夫は小さく尋ねた。
「夜が明けるからね」
「また会える?」
「五月の茶畑で、星を見ようとすれば」
茶摘み人は、幹夫の手元を見た。
「その籠は持っていけない。でも、摘んだ星は胸に残る」
幹夫が籠を見ると、そこにあった星は一粒ずつ薄れていった。消えたのではなく、幹夫の胸の中へ移っていくようだった。胸の奥が、少し冷たく、少し温かくなった。
「忘れないで」
茶摘み人は言った。
「星を摘むとは、奪うことではない。受け取って、返すことだ」
「どこへ返すの?」
「誰かの湯呑みへ。誰かの朝へ。君の言葉へ」
茶摘み人の姿は、茶畑の闇に溶けていった。
最後に、白い手ぬぐいだけが星明かりを受けて一瞬光り、それも消えた。
父が幹夫のそばに来た。
「こんな夜中に、何をしていた」
父の声は少し厳しかった。
けれど幹夫には、その奥にある心配が分かった。
「ごめんなさい」
幹夫は言った。
「眠れなくて」
父は幹夫の顔を見た。
「泣いたのか」
「うん」
父は困ったように息を吐いた。
幹夫は少し迷ってから、言った。
「星を摘んでた」
父は眉を寄せた。
「星?」
「茶畑の露に映った星」
父は何も言わなかった。
幹夫は続けた。
「茶摘み人が来て、星を摘んでた。茶を摘む人は、みんな星も摘んでいるって言ってた」
父は長く黙った。
笑われるかと思った。
また、考えすぎだと言われるかと思った。
けれど父は、茶畑を見渡した。
夜露の光る若葉。山の上の銀河。まだ暗い畝の波。
「星は分からんが」
父は低く言った。
「露は、よくついているな」
幹夫は父を見た。
「明日は晴れる」
父は続けた。
「露がこういうふうにつく朝は、だいたいよく晴れる」
幹夫は思った。
これが父の星なのだ。
父は露の中に銀河を見るわけではない。けれど露を見て天気を読む。天気を読んで、茶畑を守る。家族を守る。父には父の見方がある。
「お父さん」
「なんだ」
「葉は葉だって言ったでしょう」
「ああ」
「それ、たぶん本当だと思う」
父は幹夫を見た。
「でも、僕には葉っぱが星を抱いているようにも見える。それも、僕の本当なんだと思う」
声が震えた。
けれど幹夫は逃げなかった。
「どっちかだけじゃなくて、両方見たい」
父は黙っていた。
夜風が二人の間を通った。
やがて父は、ゆっくり言った。
「両方見るのは、疲れるぞ」
「うん」
「でも、お前には見えるんだな」
「うん」
父は茶の若葉に目を落とした。
「なら、見ろ」
幹夫は胸が熱くなった。
父は続けた。
「ただし、足元を忘れるな。星を見ながらでも、畝を踏み外すな」
幹夫は小さく笑った。
「うん」
父も、ほんの少しだけ笑った。
その笑いは、夜の茶畑に溶けるほど小さかった。けれど幹夫には、父との間に細い道ができたように思えた。星の道ではなく、土の道。けれどそこにも、確かに光があった。
東の空が少しずつ白んできた。
銀河は薄れていく。葉先の露も、朝の光を待っている。幹夫は茶摘み人が消えたあたりを見た。そこにはもう誰もいない。
けれど茶畑には、新茶の香りが満ちていた。
幹夫の胸にも、摘んだ星の冷たさがまだ少し残っていた。
家へ戻る途中、父が言った。
「幹夫」
「うん」
「明日、いや、もう今日か。茶を摘むとき、急がなくていい」
幹夫は父を見た。
「でも、遅いと」
「遅すぎるのは困る」
父は少しだけ苦笑した。
「だが、最初から早くなくていい。お前は、葉を傷つけない手を覚えろ」
幹夫は頷いた。
「うん」
「それと」
父は少し言いにくそうにした。
「星を見て摘むのも、まあ、悪くはないかもしれん」
幹夫は驚いて父を見た。
父は照れたように顔をそらした。
「ただし、手元も見ろ」
幹夫は今度こそ笑った。
「うん」
朝になり、祖母が新茶を淹れてくれた。
仏壇の母の写真の前にも、小さな湯呑みが置かれた。湯気が白く立ち上り、写真の母の顔をやわらかくぼかしている。
幹夫は湯呑みを両手で包んだ。
一口飲むと、淡い苦みが舌に触れた。
そのあと、甘みが戻ってきた。
夜の茶畑で摘んだ星の味がした。
冷たくて、温かい。 遠くて、近い。 少し苦くて、あとから甘い。
「おいしいかい」
祖母が尋ねた。
幹夫は頷いた。
「星を摘んだ味がする」
祖母は目を細めた。
「いい星を摘んだんだね」
父は湯呑みを見つめたまま、何も言わなかった。
けれど、少しだけ空の方を見た。
その日の夕方、幹夫は机に向かった。
白い紙を出し、鉛筆を握った。誰に宛てる手紙なのかは分からなかった。母へかもしれない。夜の茶摘み人へかもしれない。未来の自分へかもしれない。
幹夫は書き始めた。
――昨夜、星を摘みにきた茶摘み人に会いました。 ――その人は、茶の葉の露に映った星を摘んでいました。 ――星は冷たいので、茶の香りを通して人の胸へ届けるのだと言いました。 ――茶を摘むことは、空を見ていた葉を奪うことではなく、その葉が受け取った空を香りにして渡すことだと教えてくれました。
幹夫の字は少し震えていた。
けれど、その震えを消さなかった。
震える字には、夜露の光が入っている。茶摘み人の声が入っている。父に自分の本当を言ったときの怖さが入っている。
――僕は、葉っぱがかわいそうで摘むのが怖かったです。 ――でも、摘まれた葉は消えるのではなく、誰かの湯呑みに空を運ぶのかもしれないと思いました。 ――お父さんには、お父さんの星があることも知りました。 ――僕が露の中に銀河を見るように、お父さんは露の中に明日の天気を見ます。 ――それも、星を摘むことなのだと思います。
幹夫は窓の外を見た。
茶畑は夕暮れの光を受けて、緑の波になっていた。昼間の銀河のようだった。
続きを書いた。
――お母さんがいない痛みは、まだ消えません。 ――でも、その痛みの中には、お母さんが残した光もあると知りました。 ――涙は胸の中で冷えた星が溶けたものだと、茶摘み人は言いました。 ――僕の涙も、土に入って、いつか茶の葉にのぼり、香りになればいいと思います。
最後に、幹夫はこう書いた。
――星を摘むとは、奪うことではありません。 ――受け取って、返すことです。 ――僕もいつか、茶の葉を摘むように、誰かの寂しい星をそっと受け取り、少し温かい香りにして返せる人になりたいです。
書き終えると、幹夫は紙を畳まずに机の上へ置いた。
夜が来た。
窓を開けると、新茶の香りが流れ込んできた。空には星が一つ、また一つと現れはじめている。銀河はまだ見えない。けれど幹夫には、そこにあることが分かった。
茶畑の方から、さわさわと葉の音がした。
それは、夜の茶摘み人がまたどこかで星を摘みはじめた音かもしれなかった。
幹夫は胸に手を当てた。
胸の奥には、昨夜摘んだ小さな星がまだ光っている。
冷たいけれど、もう痛いだけではなかった。
新茶の香りをまとったその星は、幹夫の心の中で、静かに、ゆっくりと温まりはじめていた。





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