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星茶のふしぎな効きめ



 星茶のふしぎな効きめ幹夫少年は、その日、胸の奥に小さな石を入れたまま歩いているようだった。

 大きな悲しみではない。 誰かに叱られたわけでも、けんかをしたわけでもない。

 けれど、学校の帰り道からずっと、胸の内側にひとつ、硬いものが残っていた。

 昼休みのことだった。

 同じ組の子が、教室の後ろで絵を描いていた。休み時間が終わる少し前、その子は描きかけの絵を机の中へ急いでしまおうとして、画用紙の端を少し折ってしまった。

 それを見た別の子が、軽く笑った。

 「へんな折れ目ついたね」

 それだけだった。

 意地悪な言い方ではなかった。からかっただけなのかもしれない。けれど、絵を描いていた子の顔が、一瞬だけ曇った。

 本当に一瞬だった。

 すぐにその子は笑って、「まあいいや」と言った。 みんなもすぐ別の話へ移った。 授業が始まり、黒板に白い文字が並び、先生の声が教室を満たした。

 けれど幹夫は、その折れ目のことを忘れられなかった。

 画用紙の端についた、斜めの白い筋。 「まあいいや」と笑った子の声。 その声の下に隠れていた、ほんの小さな沈み。

 幹夫は、その時、何も言えなかった。

 「大丈夫?」と聞くには遅すぎた。 「そんなこと言わないで」と言うには、大げさな気がした。 黙っているうちに、時間だけが通り過ぎた。

 そして、その小さな折れ目は、幹夫の胸の中へ移ってきた。

 帰り道、幹夫は何度も思った。

 こんなことで苦しくなるのは、おかしいのだろうか。 自分の絵ではないのに。 自分が言われたわけでもないのに。

 それでも、胸の中の石は消えなかった。

 家へ帰ると、母が台所でお茶を淹れていた。

 湯呑みから白い湯気が立ちのぼっている。その湯気を見ると、幹夫は少しだけ安心する。湯気は、言葉を急がない。形を決めず、上へ上へとのぼりながら、途中でほどけていく。

 幹夫は湯呑みを両手で包んだ。

 お茶は温かかった。

 けれど、その日は、いつものお茶の苦みが少し強く感じられた。胸の石に触れて、苦みがそこへ染み込んでいくようだった。

 母が言った。

 「疲れた?」

 幹夫は首を横に振った。

 「ううん」

 そう答えたあとで、また少し胸が重くなった。

 本当は疲れていたのだ。

 でも、何に疲れているのか説明できなかった。説明できない疲れは、言葉にしようとすると、かえって小さく見えてしまう。だから幹夫は、黙って湯呑みを見つめた。

 その時、湯呑みの底で、小さな光が揺れた。

 幹夫は目を凝らした。

 お茶の表面ではなく、底の奥に、星のようなものが一粒沈んでいた。

 白く、淡く、けれど確かに光っている。

 「お母さん、このお茶……」

 幹夫が言いかけると、母は流しのほうを向いたまま言った。

 「いつものお茶よ」

 母には見えていないらしい。

 幹夫はもう一度、湯呑みを覗き込んだ。

 星は、まだ底にあった。

 そして、かすかに声がした。

 ――今夜、茶の丘へおいで。

 幹夫は、湯呑みを落としそうになった。

 声は、耳から聞こえたのではなかった。湯気が胸の内側に触れて、そこに言葉を残したような声だった。

 幹夫は、何も言えなかった。

 ただ、そのお茶を最後までゆっくり飲んだ。

 星は、飲み終わるころには見えなくなっていた。

 けれど胸の中に、白い小さな点がひとつ残った。

 夜になり、家の中が静かになってから、幹夫はそっと外へ出た。

 茶の丘へ向かう道は、昼間とは別の道のようだった。町の灯りは遠ざかり、足もとの土は夜露を含んでしっとりしている。草の陰では虫が鳴き、遠くの空にはいくつかの星が出ていた。

 丘の上の茶畑は、深い藍色の中に眠っていた。

 丸く並んだ畝は、夜の波のように静かに続いている。風が吹くと、茶葉がいっせいに身じろぎした。

 さわ。 さわ。

 その音は、眠っているものたちが、幹夫を迎えてくれているようでもあった。

 農道の端に、小さな灯りがともっていた。

 近づいてみると、そこに古い茶店のような小屋があった。昼間には見たことがない。木の柱は黒く、戸口には茶葉で編まれた暖簾がかかっている。中から、湯気の匂いと、星明かりのような冷たい香りが混じって流れてきた。

 幹夫が立ち止まっていると、暖簾の向こうから声がした。

 「入っておいで。星茶は、冷めると効きめが薄くなる」

 幹夫は、そっと戸を開けた。

 小屋の中には、一人の老人がいた。

 白い髭をたくわえ、深い緑色の作務衣を着ている。目は細く、笑っているようにも、泣いたあとを隠しているようにも見えた。老人の前には小さな炉があり、鉄瓶が静かに湯気を上げていた。

 棚には、たくさんの茶壺が並んでいた。

 どの茶壺にも、普通の名前ではない札がかかっている。

 「言えなかったありがとう」 「眠れない日の苦み」 「雨上がりの返事」 「折れたものの香り」 「星茶」

 幹夫は最後の札に目を留めた。

 星茶。

 老人は、その茶壺を手に取った。

 「今夜、君に必要なのはこれだね」

 幹夫は小さく聞いた。

 「星茶って、何ですか」

 老人は茶壺のふたを開けた。

 中には茶葉が入っていた。けれど、普通の茶葉ではなかった。深い緑の葉の中に、小さな銀色の粒が混じっている。星屑のように見えた。

 「星茶は、茶葉に降りた星のしずくを、夜明け前に摘んで作るお茶だ」

 老人は言った。

 「人間の胸に残った小さな痛みや、言えなかった言葉や、誰にも見えなかった折れ目は、夜になると星のしずくになることがある。そのしずくを茶葉が受け止める。そうして作られるのが星茶だよ」

 幹夫の胸が、少し強く鳴った。

 折れ目。

 昼間の画用紙の端が浮かんだ。

 老人は、急須に茶葉を入れた。

 鉄瓶から湯を注ぐ。

 その瞬間、急須の中で小さな星がいくつもまたたいた。湯気が上がる。白い湯気ではなく、少し銀色を帯びた湯気だった。

 小屋の中に、不思議な香りが広がった。

 最初は、いつものお茶の青い香り。 次に、夜露の冷たさ。 その奥に、紙の匂いがあった。画用紙を開いた時の、乾いた白い匂い。

 幹夫は思わず胸を押さえた。

 老人は湯呑みに星茶を注いだ。

 お茶の色は、淡い金色だった。けれど底のほうに銀の光が沈んでいる。幹夫が湯呑みを受け取ると、手のひらに温かさが伝わった。

 「星茶には、ふしぎな効きめがある」

 老人は言った。

 「飲むと、胸の痛みが消えるのですか」

 幹夫は聞いた。

 老人は首を横に振った。

 「消えない」

 幹夫は少し落胆した。

 けれど老人は、静かに続けた。

 「消すお茶ではない。見えるようにするお茶だ」

 「見えるように?」

 「痛みの形が見える。言えなかった言葉の行き先が見える。誰のものかわからず胸に入ってきた小さな悲しみが、どこから来たのか少しわかる」

 幹夫は、湯呑みを見つめた。

 消えない。

 でも、見えるようになる。

 それは怖かった。 けれど、今の胸の石が何なのか知りたい気持ちもあった。

 幹夫は、星茶をひと口飲んだ。

 苦みがあった。

 深い苦みだった。 茶葉の苦みだけではない。 言葉にならなかったものが、胸の奥からそっと湧き上がってくるような苦み。

 幹夫は目を閉じた。

 すると、小屋の壁が消えた。

 目の前に、昼間の教室が現れた。

 画用紙の端が折れる瞬間。 笑い声。 「へんな折れ目ついたね」という軽い声。 絵を描いていた子の、一瞬だけ曇った顔。 そのあと無理に浮かべた笑顔。 そして、それを見て何も言えなかった自分。

 幹夫は、胸が痛くなった。

 でも、いつもの痛みとは違った。

 痛みは、ただ黒い石のように胸にあるのではなく、折れ目の形をしていた。白い画用紙の端についた、細い斜めの線。その線が幹夫の胸の内側にも、同じようについていたのだ。

 「これが、ぼくの痛み……」

 幹夫がつぶやくと、老人の声がどこかから聞こえた。

 「よく見てごらん。その折れ目は、本当にただの傷かね」

 幹夫は、画用紙の折れ目を見つめた。

 すると、折れ目の内側に、小さな光があることに気づいた。

 折れたところは、紙が弱くなった場所だった。 けれどそこは、光を受ける角度が変わった場所でもあった。

 まっすぐな紙には見えなかった影と光が、折れ目によって浮かび上がっている。

 幹夫は、息をのんだ。

 その時、絵を描いていた子の心の声が、ほんの少し聞こえた。

 ――折れちゃった。 ――でも、本当はこの折れ目も、山の線みたいにできるかもしれない。 ――でも、笑われたから、もう見せたくない。

 幹夫の胸がきゅっとなった。

 その子は、折れ目を失敗としてだけ感じていたわけではなかった。 一瞬だけ、絵の中に生かせるかもしれないと思ったのだ。 でも、笑われたことで、その小さな芽が引っ込んでしまった。

 幹夫は、昼間それに気づけなかった。

 いや、少し気づいていた。 でも、どうすればいいかわからず、黙ってしまった。

 「星茶の効きめは、痛みを見せるだけではない」

 老人の声が続いた。

 「痛みの中に眠っていた、小さな道も見せる」

 幹夫は、折れ目を見つめた。

 画用紙の折れ目は、傷であり、道でもあった。

 絵の中で山の稜線にも、川の曲がりにも、遠くの道にもなれる線。

 幹夫の胸の折れ目も、もしかすると何かの道になるのだろうか。

 目を開けると、幹夫は再び茶小屋にいた。

 湯呑みの中の星茶は、まだ半分残っている。

 老人は穏やかに幹夫を見ていた。

 「どうだった」

 幹夫は、少し考えてから言った。

 「痛みは、折れ目でした」

 老人はうなずいた。

 「それで?」

 「折れ目は、傷だけじゃありませんでした。光の当たり方が変わるところでした」

 言葉にすると、幹夫の目に涙がにじんだ。

 自分の胸にも、たくさんの折れ目がある。

 言えなかった言葉の折れ目。 笑われて隠した好きなものの折れ目。 誰かの寂しさを拾ってできた折れ目。

 それらを全部、なかったことにする必要はないのかもしれない。

 痛い。 でも、そこから違う光が見えることもある。

 老人は、もう一度湯を注した。

 「星茶の二杯目は、少し効きめが変わる」

 「どう変わるんですか」

 「自分が明日できる、いちばん小さなことが見える」

 幹夫は驚いた。

 「大きなことではないんですか」

 「大きなことは、たいてい心を固くする。星茶は小さな効きめの茶だからね」

 老人は二杯目を幹夫へ差し出した。

 幹夫は湯呑みを受け取り、ゆっくり飲んだ。

 今度は、最初の苦みのあとに、かすかな甘みが早く来た。

 目を閉じると、明日の教室が見えた。

 絵を描いていた子が、机の中から画用紙を取り出している。折れ目はまだついている。その子は、それを隠そうとしている。

 そこへ幹夫が近づく。

 何か立派なことを言うわけではない。 大げさに慰めるわけでもない。

 ただ、折れ目を見て、小さく言う。

 「この線、山みたいにも見えるね」

 それだけだった。

 それが、明日できるいちばん小さなことだった。

 幹夫は目を開けた。

 「そんなことでいいのかな」

 思わず言った。

 老人は微笑んだ。

 「そんなこと、が星茶の効きめだよ」

 「それだけで、何か変わりますか」

 「変わらないかもしれない」

 老人は正直に言った。

 「その子が笑うとは限らない。何も言わないかもしれない。けれど、折れ目が失敗だけではないと、ほんの少しだけ別の道を持つかもしれない」

 幹夫は、湯呑みを両手で包んだ。

 胸の石は、まだ完全にはなくならなかった。

 けれど、石だと思っていたものに細い線が入った。 その線の向こうに、明日の小さな行動が見えた。

 それだけで、少し息がしやすかった。

 老人は、棚から小さな紙袋を取り出した。

 中には星茶の茶葉が少し入っていた。

 「持っていきなさい」

 「いいんですか」

 「ただし、星茶はむやみに飲むものではない」

 老人は言った。

 「胸の痛みを消したくて飲むと、苦すぎる。誰かの心を勝手にのぞこうとして飲むと、香りが閉じる。自分の痛みを見て、そこから小さな道を探したい時だけ、ほんの少し淹れる」

 幹夫は、紙袋を両手で受け取った。

 ほとんど重さはなかった。

 けれど、胸の中に小さな星を預かったような気がした。

 「ありがとうございます」

 幹夫が頭を下げると、老人は急須のふたを閉めた。

 「それから、もうひとつ」

 「はい」

 「星茶の本当の効きめは、飲んだ時ではなく、次の日に出る」

 幹夫は首をかしげた。

 「次の日?」

 「そう。小さな道を、本当に一歩歩けた時だ」

 そう言うと、茶小屋の灯りが少し揺れた。

 幹夫がまばたきをした次の瞬間、小屋は消えていた。

 幹夫は茶畑の農道に立っていた。

 手には、茶葉の入った小さな紙袋がある。

 空には星が出ている。 茶畑は静かに眠っている。 老人の姿も、茶小屋も、もうどこにもなかった。

 けれど幹夫の胸には、星茶の苦みと甘みが残っていた。

 翌朝、幹夫は学校へ行った。

 胸は少しどきどきしていた。

 教室に入ると、絵を描いていた子が机の中を見ていた。画用紙はまだそこにあった。折れ目も、昨日のままだった。

 幹夫は、その子の机のそばに立った。

 声が出るか不安だった。

 でも、星茶の湯気を思い出した。 折れ目は傷だけではなく、光の当たり方が変わる場所。

 幹夫は小さく言った。

 「その線、山の稜線みたいにも見えるね」

 その子は、驚いて幹夫を見た。

 幹夫は慌てて続けた。

 「変な意味じゃなくて。なんだか、絵の中に入れられそうだなって思った」

 少し沈黙があった。

 幹夫の胸は強く鳴った。

 その子は、画用紙の折れ目を見た。

 指でそっとなぞった。

 「……ほんとだ」

 小さな声だった。

 「山にできるかも」

 幹夫は、胸の中で何かがほどけるのを感じた。

 大きなことは何も起こらなかった。

 誰も拍手しない。 先生も気づかない。 教室の空気が劇的に変わったわけでもない。

 けれど、その子は折れ目を隠さなかった。

 画用紙を広げ、鉛筆で折れ目の上をなぞり、そこから山の線を描きはじめた。

 幹夫は、自分の席へ戻った。

 胸の中の石は、もう石ではなかった。

 そこには細い道があった。

 放課後、幹夫は家に帰り、机の引き出しから星茶の紙袋を取り出した。

 中の茶葉は、普通の茶葉に見えた。

 銀色の星屑も、もう見えない。

 けれど幹夫にはわかっていた。

 星茶のふしぎな効きめは、まだそこに眠っている。

 痛みを消すのではない。 痛みの形を見せる。 そして、その形の中にある小さな道を教えてくれる。

 幹夫は紙袋をそっと閉じた。

 毎日飲む必要はないと思った。

 今日の効きめは、もう出たのだから。

 夜、母がいつものお茶を淹れてくれた。

 幹夫は湯呑みを両手で包み、湯気を見た。

 普通のお茶だった。

 けれど、その湯気の中に、ほんの少しだけ星茶の香りが混じっているような気がした。

 幹夫はひと口飲んだ。

 苦みがあった。 甘みもあった。

 そして胸の奥に、折れ目から生まれた山の線が、静かに続いていた。

 
 
 

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