星茶のふしぎな効きめ
- 山崎行政書士事務所
- 5月6日
- 読了時間: 12分

星茶のふしぎな効きめ幹夫少年は、その日、胸の奥に小さな石を入れたまま歩いているようだった。
大きな悲しみではない。 誰かに叱られたわけでも、けんかをしたわけでもない。
けれど、学校の帰り道からずっと、胸の内側にひとつ、硬いものが残っていた。
昼休みのことだった。
同じ組の子が、教室の後ろで絵を描いていた。休み時間が終わる少し前、その子は描きかけの絵を机の中へ急いでしまおうとして、画用紙の端を少し折ってしまった。
それを見た別の子が、軽く笑った。
「へんな折れ目ついたね」
それだけだった。
意地悪な言い方ではなかった。からかっただけなのかもしれない。けれど、絵を描いていた子の顔が、一瞬だけ曇った。
本当に一瞬だった。
すぐにその子は笑って、「まあいいや」と言った。 みんなもすぐ別の話へ移った。 授業が始まり、黒板に白い文字が並び、先生の声が教室を満たした。
けれど幹夫は、その折れ目のことを忘れられなかった。
画用紙の端についた、斜めの白い筋。 「まあいいや」と笑った子の声。 その声の下に隠れていた、ほんの小さな沈み。
幹夫は、その時、何も言えなかった。
「大丈夫?」と聞くには遅すぎた。 「そんなこと言わないで」と言うには、大げさな気がした。 黙っているうちに、時間だけが通り過ぎた。
そして、その小さな折れ目は、幹夫の胸の中へ移ってきた。
帰り道、幹夫は何度も思った。
こんなことで苦しくなるのは、おかしいのだろうか。 自分の絵ではないのに。 自分が言われたわけでもないのに。
それでも、胸の中の石は消えなかった。
家へ帰ると、母が台所でお茶を淹れていた。
湯呑みから白い湯気が立ちのぼっている。その湯気を見ると、幹夫は少しだけ安心する。湯気は、言葉を急がない。形を決めず、上へ上へとのぼりながら、途中でほどけていく。
幹夫は湯呑みを両手で包んだ。
お茶は温かかった。
けれど、その日は、いつものお茶の苦みが少し強く感じられた。胸の石に触れて、苦みがそこへ染み込んでいくようだった。
母が言った。
「疲れた?」
幹夫は首を横に振った。
「ううん」
そう答えたあとで、また少し胸が重くなった。
本当は疲れていたのだ。
でも、何に疲れているのか説明できなかった。説明できない疲れは、言葉にしようとすると、かえって小さく見えてしまう。だから幹夫は、黙って湯呑みを見つめた。
その時、湯呑みの底で、小さな光が揺れた。
幹夫は目を凝らした。
お茶の表面ではなく、底の奥に、星のようなものが一粒沈んでいた。
白く、淡く、けれど確かに光っている。
「お母さん、このお茶……」
幹夫が言いかけると、母は流しのほうを向いたまま言った。
「いつものお茶よ」
母には見えていないらしい。
幹夫はもう一度、湯呑みを覗き込んだ。
星は、まだ底にあった。
そして、かすかに声がした。
――今夜、茶の丘へおいで。
幹夫は、湯呑みを落としそうになった。
声は、耳から聞こえたのではなかった。湯気が胸の内側に触れて、そこに言葉を残したような声だった。
幹夫は、何も言えなかった。
ただ、そのお茶を最後までゆっくり飲んだ。
星は、飲み終わるころには見えなくなっていた。
けれど胸の中に、白い小さな点がひとつ残った。
夜になり、家の中が静かになってから、幹夫はそっと外へ出た。
茶の丘へ向かう道は、昼間とは別の道のようだった。町の灯りは遠ざかり、足もとの土は夜露を含んでしっとりしている。草の陰では虫が鳴き、遠くの空にはいくつかの星が出ていた。
丘の上の茶畑は、深い藍色の中に眠っていた。
丸く並んだ畝は、夜の波のように静かに続いている。風が吹くと、茶葉がいっせいに身じろぎした。
さわ。 さわ。
その音は、眠っているものたちが、幹夫を迎えてくれているようでもあった。
農道の端に、小さな灯りがともっていた。
近づいてみると、そこに古い茶店のような小屋があった。昼間には見たことがない。木の柱は黒く、戸口には茶葉で編まれた暖簾がかかっている。中から、湯気の匂いと、星明かりのような冷たい香りが混じって流れてきた。
幹夫が立ち止まっていると、暖簾の向こうから声がした。
「入っておいで。星茶は、冷めると効きめが薄くなる」
幹夫は、そっと戸を開けた。
小屋の中には、一人の老人がいた。
白い髭をたくわえ、深い緑色の作務衣を着ている。目は細く、笑っているようにも、泣いたあとを隠しているようにも見えた。老人の前には小さな炉があり、鉄瓶が静かに湯気を上げていた。
棚には、たくさんの茶壺が並んでいた。
どの茶壺にも、普通の名前ではない札がかかっている。
「言えなかったありがとう」 「眠れない日の苦み」 「雨上がりの返事」 「折れたものの香り」 「星茶」
幹夫は最後の札に目を留めた。
星茶。
老人は、その茶壺を手に取った。
「今夜、君に必要なのはこれだね」
幹夫は小さく聞いた。
「星茶って、何ですか」
老人は茶壺のふたを開けた。
中には茶葉が入っていた。けれど、普通の茶葉ではなかった。深い緑の葉の中に、小さな銀色の粒が混じっている。星屑のように見えた。
「星茶は、茶葉に降りた星のしずくを、夜明け前に摘んで作るお茶だ」
老人は言った。
「人間の胸に残った小さな痛みや、言えなかった言葉や、誰にも見えなかった折れ目は、夜になると星のしずくになることがある。そのしずくを茶葉が受け止める。そうして作られるのが星茶だよ」
幹夫の胸が、少し強く鳴った。
折れ目。
昼間の画用紙の端が浮かんだ。
老人は、急須に茶葉を入れた。
鉄瓶から湯を注ぐ。
その瞬間、急須の中で小さな星がいくつもまたたいた。湯気が上がる。白い湯気ではなく、少し銀色を帯びた湯気だった。
小屋の中に、不思議な香りが広がった。
最初は、いつものお茶の青い香り。 次に、夜露の冷たさ。 その奥に、紙の匂いがあった。画用紙を開いた時の、乾いた白い匂い。
幹夫は思わず胸を押さえた。
老人は湯呑みに星茶を注いだ。
お茶の色は、淡い金色だった。けれど底のほうに銀の光が沈んでいる。幹夫が湯呑みを受け取ると、手のひらに温かさが伝わった。
「星茶には、ふしぎな効きめがある」
老人は言った。
「飲むと、胸の痛みが消えるのですか」
幹夫は聞いた。
老人は首を横に振った。
「消えない」
幹夫は少し落胆した。
けれど老人は、静かに続けた。
「消すお茶ではない。見えるようにするお茶だ」
「見えるように?」
「痛みの形が見える。言えなかった言葉の行き先が見える。誰のものかわからず胸に入ってきた小さな悲しみが、どこから来たのか少しわかる」
幹夫は、湯呑みを見つめた。
消えない。
でも、見えるようになる。
それは怖かった。 けれど、今の胸の石が何なのか知りたい気持ちもあった。
幹夫は、星茶をひと口飲んだ。
苦みがあった。
深い苦みだった。 茶葉の苦みだけではない。 言葉にならなかったものが、胸の奥からそっと湧き上がってくるような苦み。
幹夫は目を閉じた。
すると、小屋の壁が消えた。
目の前に、昼間の教室が現れた。
画用紙の端が折れる瞬間。 笑い声。 「へんな折れ目ついたね」という軽い声。 絵を描いていた子の、一瞬だけ曇った顔。 そのあと無理に浮かべた笑顔。 そして、それを見て何も言えなかった自分。
幹夫は、胸が痛くなった。
でも、いつもの痛みとは違った。
痛みは、ただ黒い石のように胸にあるのではなく、折れ目の形をしていた。白い画用紙の端についた、細い斜めの線。その線が幹夫の胸の内側にも、同じようについていたのだ。
「これが、ぼくの痛み……」
幹夫がつぶやくと、老人の声がどこかから聞こえた。
「よく見てごらん。その折れ目は、本当にただの傷かね」
幹夫は、画用紙の折れ目を見つめた。
すると、折れ目の内側に、小さな光があることに気づいた。
折れたところは、紙が弱くなった場所だった。 けれどそこは、光を受ける角度が変わった場所でもあった。
まっすぐな紙には見えなかった影と光が、折れ目によって浮かび上がっている。
幹夫は、息をのんだ。
その時、絵を描いていた子の心の声が、ほんの少し聞こえた。
――折れちゃった。 ――でも、本当はこの折れ目も、山の線みたいにできるかもしれない。 ――でも、笑われたから、もう見せたくない。
幹夫の胸がきゅっとなった。
その子は、折れ目を失敗としてだけ感じていたわけではなかった。 一瞬だけ、絵の中に生かせるかもしれないと思ったのだ。 でも、笑われたことで、その小さな芽が引っ込んでしまった。
幹夫は、昼間それに気づけなかった。
いや、少し気づいていた。 でも、どうすればいいかわからず、黙ってしまった。
「星茶の効きめは、痛みを見せるだけではない」
老人の声が続いた。
「痛みの中に眠っていた、小さな道も見せる」
幹夫は、折れ目を見つめた。
画用紙の折れ目は、傷であり、道でもあった。
絵の中で山の稜線にも、川の曲がりにも、遠くの道にもなれる線。
幹夫の胸の折れ目も、もしかすると何かの道になるのだろうか。
目を開けると、幹夫は再び茶小屋にいた。
湯呑みの中の星茶は、まだ半分残っている。
老人は穏やかに幹夫を見ていた。
「どうだった」
幹夫は、少し考えてから言った。
「痛みは、折れ目でした」
老人はうなずいた。
「それで?」
「折れ目は、傷だけじゃありませんでした。光の当たり方が変わるところでした」
言葉にすると、幹夫の目に涙がにじんだ。
自分の胸にも、たくさんの折れ目がある。
言えなかった言葉の折れ目。 笑われて隠した好きなものの折れ目。 誰かの寂しさを拾ってできた折れ目。
それらを全部、なかったことにする必要はないのかもしれない。
痛い。 でも、そこから違う光が見えることもある。
老人は、もう一度湯を注した。
「星茶の二杯目は、少し効きめが変わる」
「どう変わるんですか」
「自分が明日できる、いちばん小さなことが見える」
幹夫は驚いた。
「大きなことではないんですか」
「大きなことは、たいてい心を固くする。星茶は小さな効きめの茶だからね」
老人は二杯目を幹夫へ差し出した。
幹夫は湯呑みを受け取り、ゆっくり飲んだ。
今度は、最初の苦みのあとに、かすかな甘みが早く来た。
目を閉じると、明日の教室が見えた。
絵を描いていた子が、机の中から画用紙を取り出している。折れ目はまだついている。その子は、それを隠そうとしている。
そこへ幹夫が近づく。
何か立派なことを言うわけではない。 大げさに慰めるわけでもない。
ただ、折れ目を見て、小さく言う。
「この線、山みたいにも見えるね」
それだけだった。
それが、明日できるいちばん小さなことだった。
幹夫は目を開けた。
「そんなことでいいのかな」
思わず言った。
老人は微笑んだ。
「そんなこと、が星茶の効きめだよ」
「それだけで、何か変わりますか」
「変わらないかもしれない」
老人は正直に言った。
「その子が笑うとは限らない。何も言わないかもしれない。けれど、折れ目が失敗だけではないと、ほんの少しだけ別の道を持つかもしれない」
幹夫は、湯呑みを両手で包んだ。
胸の石は、まだ完全にはなくならなかった。
けれど、石だと思っていたものに細い線が入った。 その線の向こうに、明日の小さな行動が見えた。
それだけで、少し息がしやすかった。
老人は、棚から小さな紙袋を取り出した。
中には星茶の茶葉が少し入っていた。
「持っていきなさい」
「いいんですか」
「ただし、星茶はむやみに飲むものではない」
老人は言った。
「胸の痛みを消したくて飲むと、苦すぎる。誰かの心を勝手にのぞこうとして飲むと、香りが閉じる。自分の痛みを見て、そこから小さな道を探したい時だけ、ほんの少し淹れる」
幹夫は、紙袋を両手で受け取った。
ほとんど重さはなかった。
けれど、胸の中に小さな星を預かったような気がした。
「ありがとうございます」
幹夫が頭を下げると、老人は急須のふたを閉めた。
「それから、もうひとつ」
「はい」
「星茶の本当の効きめは、飲んだ時ではなく、次の日に出る」
幹夫は首をかしげた。
「次の日?」
「そう。小さな道を、本当に一歩歩けた時だ」
そう言うと、茶小屋の灯りが少し揺れた。
幹夫がまばたきをした次の瞬間、小屋は消えていた。
幹夫は茶畑の農道に立っていた。
手には、茶葉の入った小さな紙袋がある。
空には星が出ている。 茶畑は静かに眠っている。 老人の姿も、茶小屋も、もうどこにもなかった。
けれど幹夫の胸には、星茶の苦みと甘みが残っていた。
翌朝、幹夫は学校へ行った。
胸は少しどきどきしていた。
教室に入ると、絵を描いていた子が机の中を見ていた。画用紙はまだそこにあった。折れ目も、昨日のままだった。
幹夫は、その子の机のそばに立った。
声が出るか不安だった。
でも、星茶の湯気を思い出した。 折れ目は傷だけではなく、光の当たり方が変わる場所。
幹夫は小さく言った。
「その線、山の稜線みたいにも見えるね」
その子は、驚いて幹夫を見た。
幹夫は慌てて続けた。
「変な意味じゃなくて。なんだか、絵の中に入れられそうだなって思った」
少し沈黙があった。
幹夫の胸は強く鳴った。
その子は、画用紙の折れ目を見た。
指でそっとなぞった。
「……ほんとだ」
小さな声だった。
「山にできるかも」
幹夫は、胸の中で何かがほどけるのを感じた。
大きなことは何も起こらなかった。
誰も拍手しない。 先生も気づかない。 教室の空気が劇的に変わったわけでもない。
けれど、その子は折れ目を隠さなかった。
画用紙を広げ、鉛筆で折れ目の上をなぞり、そこから山の線を描きはじめた。
幹夫は、自分の席へ戻った。
胸の中の石は、もう石ではなかった。
そこには細い道があった。
放課後、幹夫は家に帰り、机の引き出しから星茶の紙袋を取り出した。
中の茶葉は、普通の茶葉に見えた。
銀色の星屑も、もう見えない。
けれど幹夫にはわかっていた。
星茶のふしぎな効きめは、まだそこに眠っている。
痛みを消すのではない。 痛みの形を見せる。 そして、その形の中にある小さな道を教えてくれる。
幹夫は紙袋をそっと閉じた。
毎日飲む必要はないと思った。
今日の効きめは、もう出たのだから。
夜、母がいつものお茶を淹れてくれた。
幹夫は湯呑みを両手で包み、湯気を見た。
普通のお茶だった。
けれど、その湯気の中に、ほんの少しだけ星茶の香りが混じっているような気がした。
幹夫はひと口飲んだ。
苦みがあった。 甘みもあった。
そして胸の奥に、折れ目から生まれた山の線が、静かに続いていた。







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