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昭和二十年代の蒲原町




潮の香がさやかに漂う海辺の道筋には、軒を連ねる瓦屋根の家々が続き、その上からは、遠く富士の山並みが淡い煙のように霞んで見えた。


 


少年・幹夫は、まだ朝露を帯びた家の縁側に腰かけ、膝の上の本をときどき指先で撫でながら、遠くの青空を仰いでいた。廊下の奥からは祖母が味噌汁をこしらえる音がかすかに聞こえ、その合間に縁側へ洩れる微かなラジオの声が混ざる。ほとんど消えてしまいそうな声を耳にしつつ、幹夫は静かにページを捲った。


 


ときおり風が吹いて、庭先の藤棚の花房がさわさわと鳴る。四月の終わりから五月にかけて、蒲原町の町並みにはそんな優しい風が絶えず流れていた。だが、畑道を少し海へ向かったあたりでは、朝から活気に満ちた漁師たちの掛け声が跳ね回り、幹夫の耳にもはっきり届いてきた。冬が遠のいたあともなお、潮風にはほんのわずかに冷たさが残るのだろうか――しかしその冷たさは、少年の胸をすっと透き通らせるようであった。


 


幹夫は母から「今日は鯉のぼりをあげるから、手伝っておくれ」と言いつけられている。端午の節句が近づくと、蒲原の町も急に色づいていく。軒先に干された洗濯物の向こうに、赤や黒の鯉のぼりがゆるゆると泳ぎはじめるのだ。まだ時間はある、と幹夫は玄関先に置かれた竹竿を横目に見つつ、本の続きをもう少し読んでいたい心持ちで、そっと背を丸める。


 


その頃には学校の校庭にも小さな風が吹いているはずだった。校庭の隅の雑草が揺れる様子や、ひび割れた地面を踏みしめて走る級友たちの姿がありありと浮かんでくる。幹夫は読書が好きとはいえ、身体を動かすことも人並み以上に得意だった。クラスのリレー選手に選ばれてからというもの、朝早くには学校の校庭で何周か走るのを日課にしていたのである。


 


「幹夫、もう揚げるよ」


母の声に、幹夫はそっと本を閉じ、縁側から立ち上がった。


玄関先に立てる竹竿には、黒の真鯉と赤い緋鯉、それから吹き流しがくくり付けられている。まだ布の裾がくたっと垂れ下がったままなので、幹夫は綿紐を確かめるように丁寧に結び直した。


「しっかり結んでおかないと、飛んでっちゃうかもしれないね」


隣で母が笑った。


幹夫は声には出さず、真鯉の布を指先でそっと撫でてみる。すると、潮騒の音か、それとも自分の胸の鼓動なのか、かすかな響きが耳の奥で震えた。


 


竹竿を立ててみると、まだ風が弱く、黒鯉の胴体は半分ほどしか膨らまなかった。少し拍子抜けしたように、幹夫は海のほうを見やる。


「これじゃ元気に泳げないね」


言葉をこぼすと、母は「もうすぐ吹いてくるよ、この町はいつだって海風が味方してくれるんだから」と優しく笑う。


 


それから幹夫は、家の裏手にまわって荷物の片づけをしていた父のもとへ走り寄り、竿をもう少し引き上げる手伝いを求めた。縄を一緒に引くと、竹竿はゆっくり傾き、遠くの青空を仰ぎ見るように伸びていった。父が「よっ」と声をかけて力をこめると、鯉のぼりは天に吸い寄せられたかのように、するすると高く舞い上がる。


 


その途端、さっきまでどこへ潜んでいたのか――浜辺から少し強めの風がふいに吹きはじめた。幹夫は驚いて顔を上げる。


見る間に黒鯉と赤鯉は、大きく膨らみ、悠々と泳ぎ出した。白い吹き流しはまるで天女の袖のようにゆらめいて、太陽の光をちらちらと反射している。


 


幹夫は心地よい海風に額の髪を撫でられながら、小さな胸を高鳴らせた。この鯉のぼりの姿を見つめるのは、子どもの頃からの、彼自身の初夏の儀式のようなものだった。隣家や向かいの家の鯉のぼりとどこが違うのか、どちらが勢いよく泳いでいるのか、小さなころはよく友達と比べあったものだ。


 


今、目を細めて鯉のぼりを見上げる幹夫は、胸の奥に静かな誇らしさを感じていた。真鯉は逞しい父のように、緋鯉は自分自身の魂を宿しているように思えてならない。春先に見た藤の薄紫色の花は、短い命を惜しみながら散ってしまったが、鯉のぼりはまだしばらくの間、家の軒下で幹夫の成長を見守ってくれるだろう――そんな淡い予感がする。


 


鯉のぼりのたてが、軒先を超えて空へ伸びた姿を、幹夫はいつまでも眺めていた。中空を泳ぐ二匹の鯉の先には、富士の稜線がぼんやりと霞み、駿河の海面がきらりきらりと光る。ページを捲るように、幹夫の頭の中ではさまざまな物語が浮かんでは消えてゆく。あの海の向こうには、誰も知らない世界が広がっているのだろうか。


 


少年はそっと瞼を閉じた。耳の奥で、鯉たちが吹き流しを揺らす音と、彼方の浜辺に響く網を引く掛け声が混ざり合う。やがて、行き交う人々の笑い声までが潮風に運ばれてきて、町全体が鯉のぼりに見守られているようにも感じられた。


 


いつの間にか幹夫の手には、さっき閉じたばかりの本が再び握られていた。軒下の豆炭炬燵で祖母が餅を焼いているらしい甘い香りが、ほんのり漂ってくる。少年はその香りに誘われるように立ち上がりかけ、けれどやはり名残り惜しく、もう一度、黒と赤の鯉を見上げる。


「行ってこい」――風にあおられた鯉のぼりがそう囁いているかのように、幹夫には聞こえた。


 


ひらひらと翻る緋鯉の腹のあたりが、一瞬だけ自分に似た横顔を見せたように思えて、彼は軽く笑った。きっと誰も気づかない、ほんのかすかな幻。少年の瞳は、そのまま空の青さのなかへ溶け込んでいった。

 
 
 

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