昭和11年
- 山崎行政書士事務所
- 5月6日
- 読了時間: 42分
序幕:新しい年の幕開け
昭和十年の大晦日をようやく切り抜け、印刷所の人々と、静岡で茶畑を守る父(明義)はともに波乱の一年を振り返りつつ、それぞれの土地で新年を迎えていた。 昭和十一年(1936年)の一月。下町の空にはしんしんと冷え込む冬の気配が漂い、年末まで民間仕事の納品に追われた職人たちは、ほんの数日の正月休みを味わっている。 しかし、軍や警察の影が消えたわけではなく、新しい年がどんな波乱をもたらすか――印刷所の人々は息をつく間もなく、その準備を整えねばならないのだった。
第一章:正月休み、職人たちの憩い
一月上旬、印刷所は短い新年休暇に入り、社長と戸田は「ここまでよく踏ん張ってきた」と職人全員をねぎらう。
職人のうち何人かは実家へ帰省し、家族と静かな正月を過ごす。幹夫も下宿で束の間の休日を味わい、年賀状を整理したり手紙を書く時間を持つ。
もっとも、印刷所の経理を担う堀内は在庫確認や昨年の帳簿整理が山積みで、正月返上で作業する姿もあった。彼は「今年こそ安定してやりたいが、軍がいつ動くか分からん」と口ごもりながら計算に追われている。
幹夫は夜になり、下宿の窓を開けて二つの風鈴を見やる。冬の乾いた風がわずかに**チリン…**と音を立て、「昭和十一年のはじまりか……父さんのところも、穏やかな正月だといいな」と思い巡らす。
第二章:静岡の父、年始の報告
一月中旬、幹夫のもとに父からの新年初の手紙が届く。
「無事に年越しができた。こちらも役場や農民と協力し、引き続き陳情を粛々と続ける方針。昨年は拡張がなかったが、今年も油断はしない」
「おまえの印刷所は昨年の夏が大変だったと聞いた。年末はどうにか平穏だったらしいが、いつ何が起きるか分からんから、身体に気をつけろ」
幹夫はそれを読み、「父さんもまだまだ安堵できないようだ。だけど、今年も最初はこうして平穏に動き出せている」と胸をなで下ろす。 「俺たちも印刷所で踏み止まってるんだ……父さんと同じ気持ちで今年をやり過ごそう」と、夜の下宿で茶をすする幹夫は小さくうなずく。
第三章:印刷所の新年仕事と警戒
一月下旬になると、印刷所も正月気分から切り替え、今年最初の仕事が動き始める。
民間の小口案件としては、学校関係の学年末行事パンフや、商店会の初春セールのチラシなどがやや遅めに舞い込む。
職人たちは「去年よりも早い段階から民間が動いている。これは良い兆候だね」と喜ぶが、戸田と社長は「年始めに軍が大口を出してこないか、まだ分からない」と身構える。
堀内は「警察の巡回は新年だというのに続いてる。去年と同じように、どこかでビラが動いているかもしれない」と警戒を隠さない。幹夫も「印刷所に直接影響がなければいいけど……」と思いつつ、日々の案件を淡々とこなす。
第四章:風鈴の揺れる夜
月末に近づくころ、東京の下町は寒さがいよいよ増し、夜には地面が凍るような冷気が漂う。
幹夫は遅めの帰宅で下宿へ入り、窓を開けると冷たい冬の風が吹き込む。二つの風鈴がかすかにチリンと合わさる音を立てる瞬間がある。
「昭和十一年の初めは静かだな……去年の今頃は軍の大仕事に追われていた気がする。父さんもまた穏やかに年を迎えたと言ってた。いつまで続くかは分からないけれど、この音がまだ繋げてくれるんだろうか……」と、幹夫はぼそりと呟く。
寒さに思わず肩をすくめながら窓を閉め、布団に潜り込む幹夫。そこには父の茶畑と印刷所の未来を同時に案じる気持ちが潜んでいる。だが、いまはただ無事に一月を切り抜けられたことにほのかな安堵を感じながら、瞳を閉じるのだった。
結び:冬の入り口、先の見えぬ道
昭和十一年一月、東京の印刷所は年末の忙しさを乗り越え、民間案件を再びこなしはじめる。軍の大口依頼も警察の大捜索もなく、穏やかな年始を迎えられた。静岡では父が茶畑を守り続け、拡張再開の動きがないまま新年を迎えていることが幹夫の心を支えとなる。だが戦意高揚の空気は相変わらず日本全体を覆いはじめ、ビラの動向や軍の動きも予断を許さない。下町の夜風が冷たく二つの風鈴を揺らし、チリンと短く重なる音が、東京と静岡のつかの間の平穏を象徴する――それは、いまだ先の見えぬ昭和という大河の流れの、ほんの一瞬の凪に過ぎないのかもしれない。
序幕:寒風のなかで揺れる決意
昭和十一年一月に、どうにか静かな正月を迎えた東京の印刷所。軍の大規模な依頼もなく、民間仕事を粛々とこなす日々が続いている。しかし、まだ年も明けたばかりで、警察の巡回や軍の動きがこれからどう変化するかは分からない。 下町の朝は相変わらず厳しい冷え込みで、幹夫は重ねたマフラーをぎこちなく巻きなおしながら出勤する。道端には凍てついた水たまりも見られ、職人仲間と「春はまだ遠いな」と苦笑し合う。そんななかで、今年こそ大きな嵐が訪れないよう祈る気持ちが、皆の胸にわだかまっていた。
第一章:民間仕事の余寒期
二月上旬、印刷所には年末年始に受けた民間の案件が一段落し、次の大きな発注を待つやや閑散とした時期に入る。
学校関係や商店会からは「次のイベントは春以降に本格化する」などと予告があり、大きな案件はまだ来ない状況。
職人たちは小口案件や定期的な印刷物を少しずつこなしつつ、在庫管理や機械のメンテナンスに時間を充て、戸田は「こういう落ち着いた時間こそ、営業ルートの拡大を図りたい」と動き回る。
一方、堀内は「警察がこの余裕期間に巡回してこなければいいが……」と気を張り、社長は「軍の依頼がないのはありがたい反面、収入源としては不安だな」と本音を漏らす。 幹夫はそんな微妙な空気を感じながらも、「今のうちに民間の評判を底上げしておけば、また大口が来ても何とか耐えられる」と前向きに考えている。
第二章:静岡の父、春への備え
二月中旬、幹夫の下宿に父(明義)からの手紙が届く。
「茶畑は厳冬を耐えて、そろそろ春に向けた芽生えの準備を始める時期。このところ町役場も大きな動きはなく、平穏を保っている。」
「戦意高揚は続くが、いまだ軍拡再開の話はなし。おまえも印刷所で体に気をつけろ」と結ばれている。
幹夫は「そちらも落ち着いているならよかった。こちらは仕事が閑散期とはいえ、まだ軍の大口がないだけましだ」と思い、夜に風鈴を眺めながら「どちらの土地も静かに冬をやり過ごせるのは、本当に幸運だ」と心を和ませる。 とはいえ、いつどうなるか分からない――その不安はやはり消せないままで、幹夫は「いまは二つの土地が繋がっているだけでも十分か」と小さくため息をつく。
第三章:警察の動向とビラの沈黙
二月下旬になる頃、町の噂では「ビラ勢力がすでに壊滅に近い状態」「警察も去年ほど力を入れておらず、小さい巡回を続けるだけ」と聞こえてくる。
職人たちはそれを耳にし、「印刷所がビラに紙を流すリスクも完全になくなったな……」と安堵しつつ、これまでの警戒心からまだ何となく疑り深い。
戸田は「そう簡単にビラ勢力が消えるものか? ただ潜っているだけかもしれない」と慎重な見方を崩さない。
堀内は少しやる気を取り戻し、「よし、いま警察が静かなうちに民間案件を集めまくろう。軍が動いていないなら、ここで印刷所の基盤を作るチャンスだ」と社長と相談。 幹夫は「確かに最近、警察がガサ入れする兆しもなく、軍の作戦も見えない。どうかこのまま暖かい春が来てほしい……」と内心で願う。
第四章:夜更けの風鈴、短く響く調べ
月の終わり近く、幹夫は下宿で帳簿の整理をしている。雨音が聞こえる寒い夜で、窓を開けると冬の名残りの風が吹き込み、二つの風鈴をかすかに揺らす。
チリン……という控えめな音が重なり、幹夫は「二月ももう終わりか……。父さんも春の芽吹きを待ってる頃だな。ここも、ちゃんと踏み止まれてるよ……」と思う。
布団に入り込むと、その日の疲れがどっと押し寄せるが、幹夫の胸には小さな幸福感があった。「軍がこのまま静かなら、三月はもっと民間仕事が広がるかも……」と期待を抱きながら瞳を閉じる。
結び:寒さの先にある希望
昭和十一年二月、東京の印刷所は軍からの大口仕事がなく、警察の巡回も大きな動きがないまま、冬の閑散期の民間仕事を粛々とこなす月となった。
職人たちは安堵と不安を半々に抱き、社長と戸田は「この空白期間こそ大事だ。民間印刷を伸ばし、軍に振り回されない足場を固めるんだ」と意欲を燃やす。
静岡では父が茶畑の厳冬を越えつつあり、陳情を細々と続けながら「まだ拡張の再開なし」と報告。幹夫は「今年こそ本当に安定するのか、それとも大きな波が来るのか……」と心を巡らせる。
こうして二月の寒さを乗り越えた東京と静岡が、それぞれの春へ向かって少しだけ前進する。「二つの風鈴」はまだ短くも確かな音を重ね合い、次の三月へと物語を繋ぎ続けていた。
序幕:春先の柔らかな陽射しと静かな警戒
二月の冬の閑散期を何とか乗り切った印刷所には、少しずつ春の陽射しが射し込み始めた。 下町の空気も、まだ冷たい風を含みつつ、日中は柔らかな光が通りを照らしている。 幹夫は出勤する道すがら、路地の梅の花が咲いているのを見かけ、思わず「今年こそ、軍の大口依頼に振り回されずに春を迎えたい」と胸を膨らませる。もっとも、警察の巡回と軍の沈黙はいまだ続き、心の底では不安が消えないままだ。
第一章:民間案件の春動き
三月上旬、印刷所には春先に向けた民間案件がぼちぼち増え始める。
町内会から「春祭り」や「花見案内」のチラシ、近隣の学校からは学年末行事に関するパンフの印刷相談など。
商店会も「新年度を迎える前にセールを打ちたい」との依頼を持ち込み、戸田や社長が積極的に対応に乗り出す。
職人たちは「やっと今年も、暖かい季節が見えてきたな」と口々に言いながら、まだ警戒は緩められないと心得ている。堀内は在庫管理や帳簿を警察の巡回に備えて整えつつ、「警官が最近あまりうろついてないけど、油断できんよ」と仲間に声をかける。 幹夫は「このまま何もなければ、父さんの静岡も落ち着いているだろうし……」とわずかな希望を感じる。
第二章:静岡の父、茶畑の春の芽
三月中旬、幹夫の元へ父(明義)からの手紙が届く。
「茶畑の春芽が動き始め、農民たちは忙しく畑を巡回している。去年と同じく、拡張の話はまったく出ていない。戦意高揚のニュースは相変わらずだが、陳情は無理なく続けている」
「おまえの印刷所はどうか。冬を越えたなら体調に気をつけて春を迎えよ」と結ばれている。
幹夫はそれを読んで、「父さんがこうして茶畑を守り続けられるのはありがたい。このまま軍の再拡張が起きなければいいんだけど……」と胸を撫でおろす。 夜には下宿で、二つの風鈴を見ながら「印刷所も安定して民間仕事ができてるし、父さんも茶畑が大丈夫そう――こんな春が訪れるなんて、思ってもみなかった」と少し微笑む。
第三章:警察の巡回、微かな噂
三月下旬、下町に「どこかでビラが少量見つかったらしい」という噂が流れ、再び警察が周辺を回っているという情報が職人たちの耳に届く。
幹夫は、以前ほど大々的な捜査にはなっていないらしく、印刷所への直接踏み込みもない。
戸田や堀内は「いま民間仕事が順調なときに警察が来て、書類をひっかき回すのは勘弁だ」と構えながらも、とりあえずは帳簿を再確認しておく程度でやり過ごす。
職人のひとりが「そもそもビラも少しだけらしいし、軍の動きはさっぱり聞かない。どうにも不思議だな……」と首を傾げるが、戸田は「沈黙してるだけかもしれない」と慎重な姿勢を崩さない。 幹夫は「あまり悩んでも仕方ないか。いまはまた徹夜になるような軍依頼がないだけ幸運だ」と、わずかに肩の力を抜く。
第四章:夜の風鈴、かすかな春風
月末、東京の下町には桜のつぼみがほころび始め、夕暮れに淡いピンクの色彩が見えはじめる。
幹夫は夜に下宿へ戻り、窓を開けて夜風を吸い込むと、僅かな春の香りに包まれる。
二つの風鈴がチリンと重なる音をほんの少し響かせ、「今年も桜が咲くんだな……。父さんは茶畑で芽吹きを見てるだろうし、俺もここでこの季節を迎えられそうだ」と微笑む。
長かった冬を越え、四月の始まりが目の前に迫る。一方で、軍や警察の大きな動きは依然として不透明だが、昭和十一年三月を穏やかに過ごせたことに幹夫は感謝を覚える。 「このまま春を迎えさせてほしい……」と心中で呟く幹夫。短い風が部屋を抜け、二つの風鈴はまた静かに沈黙した。
結び:春の入り口、次なるステップ
昭和十一年三月、東京の印刷所は大きな軍依頼も警察の踏み込みもなく、民間案件を安定してこなせた月となった。
そろそろ桜の開花が近づき、年明けから続いた落ち着きがこのまま春にも持続してくれそうな淡い期待を職人たちは抱く。
静岡では父が茶畑の春芽を忙しく見守りながら、拡張がないまま年を越せた幸運を噛みしめている。戦意高揚の空気が全土を覆うなか、この凪のような時間がどれほど続くかは分からない。
だが、二つの風鈴は確かにチリンと春風に揺らされ、遠い距離を隔てた東京と静岡の繋がりを象徴しているかのようだ。五月に向かう桜の季節を前に、幹夫たちは一歩ずつ次の動乱に備えつつ、このささやかな安寧を味わい続ける――。
序幕:桜が告げる新しい季節
三月を穏やかに乗り越えた東京の印刷所では、例年ならば緊張が解けない時期にもかかわらず、警察や軍の大きな動きがないまま、「このまま春が本格化してくれるのか」と職人たちは少しだけ期待をのぞかせる。 一方、町のあちらこちらでは桜のつぼみが徐々に花開き、下町の通りには薄紅色の彩りが広がってきた。幹夫は朝の通勤路で桜並木を見上げ、「今年は花見ぐらい楽しめるのだろうか」と、淡い期待を胸に抱いている。
第一章:民間案件、花見シーズン
四月上旬、印刷所には地元の町内会や商店会から「花見イベント」や「春祭り」のチラシ依頼がやってくる。
地域の集会所でのお楽しみ会や、商店街が合同で開催する“桜見物バスツアー”の案内など。
職人たちは、「戦意ポスターに追われる日々と違い、こういう季節感ある仕事は楽しいよな」と笑い合い、軽やかにデザインをまとめ、印刷に回す。
社長は「軍の大口依頼がない今こそ、民間の評判をさらに上げたい」と張り切るが、戸田は「警察も巡回を続けてるし、軍が急にポスターを増産しろと言ってくる可能性はある。油断は禁物」と釘を刺す。 幹夫や堀内も、それに同意しつつ、目の前の案件を丁寧に仕上げる姿勢を貫く。「こういうときこそ地道に稼ぎ、評判を固めたい……」と皆が思っていた。
第二章:静岡の父と花の便り
四月中旬、幹夫の下宿に父(明義)から手紙が届く。
「こちらも桜は咲き、茶畑に小さな花が風に揺れている。拡張の話はいまだ出ず、ここまで静かに年を越せたのは本当にありがたい。役場の陳情も継続中だ」
「おまえの印刷所は春の仕事が多いと聞いたが、軍が動いていないなら何より。ただ、戦意高揚の風が収まったわけではないから注意せよ」との文面。
幹夫は「父さんも桜を見ているんだな……。こちらもおかげで花見イベントの印刷をしてるよ」と想像し、夜には風鈴を軽く揺らしてみる。 桜咲く夜の冷たい風がチリンと音を運ぶと、幹夫は「いつか父さんとこの桜の話もゆっくりしたいな」と胸を熱くする。静岡と東京が同じ春を共有できるのが不思議であり、嬉しくもある。
第三章:警察巡回の警戒
四月下旬になると、また小さな噂が立ち、「どこかでビラが少し貼られた」という話が職人の耳に入る。
「警察が再び近隣の印刷所を見回るらしい」という情報が回り、社長が「今月末も巡回が来るかもしれん。軍の仕事がないのを逆に怪しまれないように」と在庫や帳簿の確認を指示。
幹夫や堀内は「ここ数ヶ月、ビラがほとんど姿を消している。地下勢力はどうしているのか……」と思いつつ、あれこれ悩んでも仕方がないと割り切る姿勢を見せる。
戸田は「この花見シーズンが終われば、次はどうなるか分からん。大規模な軍演習があるとの話も聞こえるし、急に依頼が来たらどう対応しよう……」とそわそわ。しかし今は、民間の花見行事の納品を最優先してこなす。
第四章:夜桜と風鈴の響き
月末に近づき、東京の桜も散り始める頃、幹夫は仕事を終えた後の夜に少しだけ遠回りして、下町の夜桜を眺めて帰る。
薄明かりに照らされる桜吹雪に見惚れ、「今年もこうして花を見られるなんて、少し信じられないな……」としみじみ感じる。
下宿に戻り、窓を開けると、夜風が二つの風鈴を軽く揺らし、チリンと短い重なりが響く。「父さんも、今夜は茶畑で夜桜か……いや、そちらは桜より茶芽の季節か」と、小さく笑う。
幹夫は布団に入って目を閉じる。警察や軍の動きに怯えつつも、今月は印刷所が危機を迎えずに済んだ。 「来月もどうなるか……でも、この桜の季節を平穏に過ごせたのは大きい。父さんもまだ大丈夫。二つの風鈴が続く限り、俺たちは繋がっているんだ」と心を安らかにして、眠りの中に溶け込んでいった。
結び:春の終わり、また次の一歩
昭和十一年四月、東京の印刷所は民間の花見行事や春祭りなどの仕事を無事こなし、警察の巡回に怯えながらも大きなトラブルなく月を終えた。軍からの大口依頼は来ず、ビラの噂も散発的で表面化せずに過ぎ、ある意味“拍子抜けするほど静かな春”といえた。静岡では父が茶畑の春芽を迎え、さらに拡張再開が起こらぬまま日々をこなし、幹夫はそんな父の報告に勇気を得る。花が散りゆく頃、夜風が二つの風鈴を揺らし、チリンとわずかな音を響かせる。東京と静岡、二つの土地がこの春を乗り越えた事実を噛みしめながら、彼らはまた五月へと足を進めるのだった。
序幕:薫風と淡い安らぎ
四月の桜が散り、東京の下町には薫風と呼べる清々しい風が吹きはじめた。 印刷所では、このところ大きな軍仕事も警察の大規模な踏み込みもなく、比較的平穏な日々が続いている。職人たちは春先の民間案件をこなし、一息ついては「今年の春はかなり安定してるな」と驚きの声を漏らし合う。 幹夫は、まだ桜の名残がある道を出勤しながら、「まさかこんなに穏やかに過ごせるなんて……ただ、いつ軍の波が来るか分からない」と警戒を解ききれずにいる。
第一章:民間仕事、初夏の催事
五月上旬、地域の商店会や町内会、また学校関係から、初夏に向けた催事の印刷依頼がちらほら舞い込む。
商店会が“五月セール”や“梅雨入り前の特売”を計画しており、チラシ印刷を希望。
学校は運動会や文化行事を今のうちから準備しているため、そのパンフや広報資料を依頼。
社長は「昨年の夏は軍の依頼で死にそうになったが、今年もそうなるかもしれん。いまのうちに稼ぎつつ、民間の信用を高めたい」と士気を高める。戸田も営業を強化し、職人たちは久々にやりがいのある仕事に打ち込める雰囲気。 堀内は在庫と帳簿を慎重に管理しながら、「警察の巡回がいつ強まるか分からん」と警戒を解かず、幹夫も「いまはとにかく踏ん張ろう」と集中する。
第二章:静岡の父、茶畑の初夏
五月中旬、幹夫の下宿には父(明義)から手紙が届く。
「こちらは初夏の陽射しが暖かく、茶の若芽も順調に育っている。軍拡再開も依然なし、今年はさらに収穫も見込めそうだ」
「戦意高揚の声は広まっているが、町役場は陳情を継続し、農民も落ち着いて畑に出ている。そっちはどうか?」
幹夫はその文面を読んで「父さんの町も今年は奇跡的に平和だな……」と胸を撫でおろす。下宿の窓辺から見える二つの風鈴を揺らしてみると、五月の柔らかな風がチリンと短く響き、「東京も今のところ軍の押し付けがないし、同じように落ち着いている」と心で父に返事をする。 しかし、「この安定がいつまで続くのか……」という漠然とした不安は消えず、幹夫はふっと溜め息をつきながら布団に身を沈めた。
第三章:警察巡回のささやきとビラの動向
五月下旬に差しかかる頃、またも「警察が印刷所を回ろうとしている」という噂が細く囁かれるが、実際には大きな動きにならず、小規模な見回り程度で終わる。
職人たちはホッとしつつ、「ビラが姿を消して久しい。警察も探しようがないのか?」と首をかしげる。
社長は「何もないに越したことはないが、軍の静けさも、警察の小さな巡回も、不気味といえば不気味だ……」と戸田にこぼす。戸田も「嵐の前の凪かも」とやや悲観的。
一方、幹夫は夜の作業を終えたあと下宿で風鈴に目をやり、「ビラ勢力が消えたのか潜んでるのか分からないけど、今はとにかく静かだ」と複雑な心境を抱える。**(これが長く続けばいいが……)という想いと、(もし軍が再び大口を出せば同じ苦しみの繰り返しだ)**という恐怖がせめぎ合うまま月末へと向かう。
第四章:初夏の風鈴、短い重なり
月の終わり、東京の下町は蒸し暑さが増してきて、職人たちは「もうすぐ梅雨か……」と呟く日々。民間仕事は順調にこなしつつ、夏に向けたイベント案件の相談も少しずつ来ている。
幹夫は夜遅くに下宿へ戻り、二つの風鈴がかすかにチリンと鳴るのを聞き、「もうすぐ六月になるのか。父さんの茶畑は今年も無事で、印刷所もこんなにも平穏だなんて……」と感慨を深める。
しかし、安堵と不安はやはり拮抗する。軍が本腰を入れればすべては一瞬で覆る――それは過去の徹夜作業や警察の巡回を経験してきた職人たち全員が知る事実だ。
幹夫は深呼吸して布団に倒れこみ、「父さんも同じ気持ちだろう。いつ嵐が来るか分からなくても、今年はここまで乗り切れてる……。いまはこの“穏やか”を受け止めよう」とつぶやく。夜の下町に沈む二つの風鈴が短くチリン……と合わさり、その音はすぐに静かに消えていった。
結び:五月の薫風と先の見えぬ道
昭和十一年五月、東京の印刷所は軍の依頼がないまま民間仕事を続け、警察の巡回も大きな波にならずに済んだという、意外なほど平穏な一か月を送ることができた。静岡では父が茶畑の初夏管理を粛々と進め、拡張の再開どころか何の動きもないまま、この年の前半を終えようとしている。だが、戦意高揚の空気が日本を覆い始めている現実は変わらず、ビラの動きが沈んだだけで反戦の声が消えたわけでもないだろう。下町の夜風が熱気を帯びつつも、二つの風鈴を淡く揺らし、チリンという短い合奏を繰り返す。幹夫はその一瞬の響きに、東京と静岡がまだ繋がっていると感じ取る――この五月が静かに幕を下ろす頃、既に六月の足音が忍び寄っていた。
序幕:梅雨の兆しと静けさの残り香
五月を乗り越え、東京の下町にはさらに蒸し暑さが漂いはじめる。6月の声を聞くころには、そろそろ梅雨入りの噂が立ち、印刷所の職人たちは「今年はどうなるんだろう」と口々にこぼす。 これまでの数ヶ月、軍の大口依頼もなく、警察の捜査も大きな波にならずに済んだため、印刷所は民間案件でそこそこ安定した収益を得ていた。しかし、この穏やかな日常がいつまで続くかは誰にも分からない――そんな疑念を抱えながら、幹夫や戸田、堀内、そして社長らは新たな月へと足を踏み出す。
第一章:民間仕事の合間
六月上旬、新学期から2か月が過ぎ、学校関連の急ぎの案件は少なくなっていた。
地域の商店会が梅雨前のセールを計画する程度で、案件自体はそれほど多くない。
職人たちは「ひとまず徹夜の心配がないのは助かる」と安堵しつつ、在庫調整や機械のメンテナンスなどを進める。
社長は「この落ち着きが逆に不気味だな」と漏らし、戸田も「軍が大掛かりな動きを見せないまま半年が過ぎようとしている。このまま何もなければいいが……」と首をかしげる。 幹夫は「静岡の父さんも同じように、今年は本当に穏やかだと手紙に書いていた。こんなに凪のような状態って……」と不思議な気分を覚える。
第二章:静岡の父、さらなる成果
六月中旬、幹夫の元に父(明義)からの手紙が届く。
「梅雨に入る前、茶畑の手入れを万全に整えている。昨年から引き続き拡張の話は一切出ず、農民は皆今年も豊作を期待している」
「相変わらず戦意高揚の報道は多いが、陳情も続け、軍の関心が他所に向いているうちに茶の生産を伸ばしていきたい。そちらも警戒しつつ頑張れ」と綴られている。
幹夫は読み終えると、「本当に静岡でも大きな動きがないんだな……。父さんが守り抜いてきた陳情がこのまま成功に繋がればいいんだけど」と胸を撫でおろす。 下宿の二つの風鈴を眺めながら、「この数ヶ月、父さんの報告はいつも“軍拡なし”“無事”ばかりだ。俺たちも似た状態……。どうしてこんなに上手くいってるんだろう?」と、逆に一抹の不安を抱きつつ、夜の窓を閉める。
第三章:警察巡回、わずかな影
六月下旬にさしかかると、「警察が夏前の巡回をするらしい」という話がまた職人たちの耳に入る。
幹夫は「今年も半分が過ぎるし、いま踏み込まれたらどうなる……」とビクビクし、堀内は在庫や帳簿を再確認して万全を期す。
社長や戸田も「いま民間案件が少ない合間だけど、怪しまれないよう、去年までの軍ポスターの実績資料をまとめておこう」と動き出す。
結局、警官は軽く在庫の様子を見てまわり、特に怪しい点はないと見てすぐに引き上げる。職人たちは「こんなにあっさりなのは珍しいな」と拍子抜けしつつも、「また本格的に捜索する機会をうかがっているだけかもしれない……」と安堵しきれない。
第四章:夜風と梅雨の気配、風鈴の音
月末になり、梅雨が本格化してくる。数日連続の雨が印刷所の屋根を叩き、職人たちは通勤で長靴を履く者もいる。
幹夫は帰宅時、傘を差しながら冷たい雨粒を感じ、「もう夏もすぐだ。去年の夏は軍のポスターで地獄を見たが、今年はどうなるんだ……」と振り返る。
下宿に戻って窓を開けると、湿った夜風が部屋へ吹き込み、二つの風鈴をかすかに揺らす。チリン……と控えめな音が重なった瞬間、幹夫は「静岡も雨の季節で父さんは畑の手入れが大変だろう」と想像する。
風鈴がやがて音を止め、幹夫は「今年ももう半分が過ぎた。いまのところ大嵐はないし、父さんの茶畑も安泰……。だが戦意高揚の報道は続いている。いつ軍が本腰を入れるか分からない。いまは民間の評判を維持しておくだけだ……」と、穏やかな揺らぎのなかで瞳を閉じる。
結び:半年を越えて続く凪
昭和十一年六月、東京の印刷所は大きな軍仕事の発注もなく、警察巡回こそあれど本格的な捜査には至らず、民間の仕事を地道にこなす“静かな梅雨の月”となった。
職人たちは夏本番を前に、去年と違い徹夜の連続に見舞われないことに驚きを抱きつつ、「この状態がいつまで続くか……」と気を引き締める。
静岡の父からは今年も茶畑が順調で軍拡再開の気配がないことを聞かされ、幹夫は「二つの土地が同じように凪を享受している」と感慨を深める。梅雨の雨が下町の舗装路をしっとり濡らす夜、二つの風鈴が短くチリンと合わさる。半年が終わり、昭和十一年の後半へと舞台は移りゆく。嵐が来ないまま過ぎるならそれに越したことはないが、果たして――物語は次の月へと続いていくのだった。
序幕:夏の気配と小さな胸騒ぎ
六月の梅雨が次第に明けていき、東京の下町にはまた暑い季節の匂いが立ちこめはじめる。 印刷所では、幹夫をはじめ、職人たちが前年の夏を思い出しながら「今年は軍の大口依頼、来るのか、どうか……」という漠然とした不安を抱えていた。 しかしながら、最近は大きな警察巡回も起こらず、民間案件もそこそこ回っている。いまのところは凪のような静けさのなか、昭和十一年(1936年)七月が幕を開ける。
第一章:民間印刷のちいさな盛り上がり
七月上旬、梅雨明けが近づき、地域の商店会や町内会が「夏の催し」や「夏祭り」などのチラシを印刷所へ発注してくる。
駅前の商店街では「納涼祭」や「夜店」の計画があり、その案内チラシのデザインが幹夫たちの手に託される。
小学校では夏休みの行事予定や、地域合同のラジオ体操会のポスターなどの印刷を依頼してきて、職人たちは意外なほど充実した表情を見せる。
社長は「前年の夏は軍ポスターで死ぬかと思ったが、今年はまだ軍の動きがない。今のうちに民間案件をしっかりこなしておこう」と士気を上げ、戸田と堀内は在庫を確保しながら慎重にスケジュールを組む。 幹夫は「こんな穏やかに夏を迎えられるなんて……」と胸をなでおろしつつ、「これが続けばいいが」と僅かな胸騒ぎも抱えている。
第二章:静岡の父、夏の陳情と警戒
七月中旬、幹夫の元へ父(明義)からの手紙が届く。
「こちらでも夏本番の暑さが到来したが、茶畑は今年もしっかり根を張り、拡張の噂も皆無。役場はさらなる陳情を表立たず進めつつ、戦意高揚に対して慎重な姿勢を取り続けている。」
「おまえの印刷所はどうか。大口軍仕事がなくて民間を大切にできるなら、これ以上の幸せはないが、いつ変わるか分からぬから用心せよ。」
幹夫はそれを読み、「父さんも相変わらず慎重だ。でも茶畑が守られているなら良かった……」と安堵しながら、「東京でも警察が大捜査する気配はないし、本当に今年は落ち着いてる」と苦笑まじりに手紙を読み返す。 夜に下宿で窓を開け、二つの風鈴に顔を向けてみるが、風がなく静まり返っている。チリンという音すら起こらず、幹夫は「まるで凪のような無音だ……この沈黙がいつ破られるか心配だな」とつぶやく。
第三章:警察巡回の小波
七月下旬、町には再び「どこかでビラが少量だけ貼られた」という噂が流れ、警察が軽く巡回を行う。
社長は職人たちに「万が一、踏み込まれても民間仕事を順調にこなしている事実を見せれば大丈夫。軍の資料も揃えてある」と念を押す。
戸田は「ビラが減ったとはいえ、警察が完全に手を引くことはない。用心はしておこう」と穏やかに話す。
結局、大掛かりな捜索には発展せず、職人たちは胸を撫でおろして作業に戻る。幹夫は「あまりにも平穏で逆に不安になる」と漏らすが、堀内は「目の前の仕事をこなすしかないだろう。いま踏み止まる、それしかない」と言い切る。 こうして再び大きな嵐は起きず、民間案件を着実に捌く日々が続く。
第四章:夏夜の風鈴、わずかな音色
月末、東京は連日30度を超える暑さとなり、職人たちは「去年の夏の徹夜は地獄だったが、今年はまだ大口がないだけましだ」と汗を拭い合う。
幹夫は夜遅くに下宿へ帰る道すがら、遠くで夏祭りの太鼓が鳴っているのを聞き、少しだけ心躍る感覚を覚える。
窓を開けると、湿り気を含んだ夜風が部屋へ入り、二つの風鈴がかすかにチリンと短い音を奏でる。幹夫は「静岡も暑いだろうな……それでも父さんが踏み止まっている。俺たちも同じだ」と微笑む。
ベッドに倒れ込むと、今年の夏がこれまでのところ穏やかなことが、逆に不安を掻き立てる。「このまま八月へ突入して、本当に大丈夫なのか?」――そんな疑問を抱きつつも、幹夫は体力を回復するように眠りへ落ちていく。
結び:夏本番直前の凪
昭和十一年七月は、東京の印刷所で軍の大口依頼もなく、警察の大がかりな動きもなく、民間仕事を粛々とこなす“意外な平穏”を保ち続けた月となった。
職人たちは去年との違いに驚きながらも、民間の評判を上げるチャンスとして捉えつつ、いつ起きるか分からない嵐に備えて警戒を緩めない。
静岡の父からは、今年も拡張の再開がなく、茶畑の夏管理を順調に進めていると報せが入り、幹夫はほっとする反面「なぜこんなにも穏やかなんだ……」と少し不気味に思っている。
真夏の夕暮れ、下町の夜空には遠い花火の音がときおり響く。しかし印刷所の裏では、職人たちが汗をぬぐいながら残業し、二つの風鈴が夜風にかすかなチリンを重ねている。この静寂が次の月、八月も続くのか、それとも大きな嵐が待っているのか――昭和十一年の盛夏は、まだ先の読めないまま進んでいく。
序幕:夏本番の熱気と静かな疑念
七月を穏やかに過ごし、警察や軍の大きな動きがないまま、東京の下町は昭和十一年(1936年)の八月を迎える。 街を行き交う人々は、去年ほど戦意ポスターに触れる機会が少ないのか、夏祭りや商店会のセールに熱中している様子。印刷所の職人たちも、昨年のような徹夜作業はなく、民間案件をこなす時間を得ている。 しかし、幹夫をはじめ、社長や戸田、堀内らは「この静けさがかえって不気味だ」と感じ、いつ警察の踏み込みや軍の大口依頼が起こるか分からないという疑念を拭えない。
第一章:民間案件の夏祭りラッシュ
八月上旬、地域では夏祭りや夜店、盆踊りなど、夏の行事がピークを迎え、印刷所にも下記のような発注がやってくる。
商店会の「盆踊り大会」ポスターや、「納涼祭」チラシ。
学校関連では夏休み行事の案内や、児童向けの小冊子など。
職人たちは暑さに汗をかきながらも「こういう祭りの仕事は楽しいな。軍の殺伐としたポスターよりずっと活気がある」と励まし合う。 社長は「ここまで大口軍依頼がないなんて珍しいが、このタイミングで稼げるならありがたい」とほくそ笑み、戸田は「警察巡回に備えて帳簿を整えつつ、新しい得意先を探したい」と意欲を見せる。 幹夫や堀内は「このまま夏が終わればいいが……」と語り合いながら、作業に集中する日々を送っていた。
第二章:静岡からの残暑便り
八月中旬、幹夫のもとには父(明義)から手紙が届く。
「こちらも猛暑が続くが、茶畑は順調で、収穫を終えた畑を整える作業が忙しい。町役場の陳情も表立った動きはないが、拡張再開の話がなかったのは何より。」
「戦意高揚の報道は相変わらずだが、農民は地道に暮らしている。そちらも身体に気をつけて踏み止まってくれ。」
幹夫はそれを読んで、「そちらも引き続き平穏なら何よりだ。去年の夏に比べれば、本当に不思議なくらいだ……」と、下宿で風鈴を見つめる。夜風がほとんどなく、部屋は蒸し暑いままだが、二つの風鈴がかすかにチリンと重なる音を作り出した。 「父さん……こっちもまだ軍の大口は来てないよ。二つの町が同じように安定しているのは幸運だろうけど、いつ崩れるか分からない。でも、今はこの音を感じていたい」と、幹夫はつぶやく。
第三章:警察巡回の噂と拍子抜け
八月下旬、町には「反戦ビラがちらほら姿を見せた」という噂が流れ、警察巡回が強化されるとの話が再び浮上する。
印刷所でも「踏み込みが来るかもしれない」と職人たちが緊張するが、結局、大きな騒ぎにはならず、軽い立ち寄り確認だけで済む。
社長は「こんなにあっさりなのは妙だが、まあ助かった。民間仕事がちゃんと回せてるし」と肩をすくめる。戸田も「ビラが本当に終息したのか、警察が探しきれないのか……」と疑問を抱く。
幹夫は「このまま何もなく過ぎるのか……」と少し呆然としながらも、同時にほっとした表情を見せる。
第四章:夜風と夏の終わり、風鈴の調べ
月末に近づくと下町もやや涼しい風が増え、夜には秋の気配がほんのり交じる。
幹夫は仕事を終え、暑さにぐったりしつつ下宿へ帰るが、昨年のような徹夜や大口依頼に追われない夏の終わりをしみじみと味わう。
窓を開けると、夜風が二つの風鈴を揺らし、チリン……と柔らかな合奏が短く響く。「本当にこれで夏が終わるのか?」と幹夫は少し不安げに思うが、今のところ何事も起こらない現実に胸を撫でおろす。
「父さんの茶畑も、今年の夏を乗り切ったんだろうな。軍が動かなかったなんて信じられないけど……いまはこの静けさに感謝しよう」と呟き、布団に横になる。「来月の秋も、このまま過ぎればいいが……」そんな祈りめいた気持ちを抱えながら、深い眠りへ落ちていく。
結び:夏の幕引き、次なる秋へ
昭和十一年八月、東京の印刷所は前年とは打って変わり、軍の大口依頼も警察の激しい動きもないまま、民間仕事をこなしつつ平穏に夏を越す。
職人たちは酷暑に苦しみながらも、徹夜地獄を免れ、「こんなに楽な夏は久々だ……」と安堵の息をこぼす。
静岡からは父が茶畑の安定を報せており、幹夫は二つの風鈴を揺らすたびに「今年こそ波乱なく終わるかも」と微かな光を感じる。
しかし、戦意高揚が全国的に進む風潮が消えたわけではない。軍や警察の沈黙はむしろ嵐の前の静寂なのかもしれない――そんな漠然とした不安が、夏の熱気とともに下町の夜空へ溶け込む。夜風がチリンと短く調べを重ね、二つの土地の平穏を儚げに見守るまま、八月は過ぎ、九月の入り口へと物語はつながっていく。
序幕:夏の終わりを見送りながら
八月を予想外の静けさで過ごした印刷所。夏休みや民間の夏祭り案件をこなしつつも、軍や警察の大規模な動きはなく、拍子抜けするほどの穏やかな時間が続いた。 九月に入り、東京の下町にはやや涼しい風が吹きはじめ、暑い昼下がりと涼しい夜間の温度差が激しく、職人たちも半袖から上着へと徐々に衣替えを考えるようになる。 幹夫は朝の通勤路で、道端に落ちる枯れ葉を眺めながら、「今年は本当に軍の大口依頼がこないまま夏を越せたんだ……でも、この秋も無事に過ぎればいいが」と胸に小さな不安を抱えたまま、印刷所の門をくぐる。
第一章:民間仕事と秋の準備
九月上旬、印刷所では8月末から引き続き民間の小案件が中心となる。
地元商店会が「秋の実りセール」なる催しのチラシを依頼。
小学校や町内会で9月末から10月にかけて行われる運動会・文化行事などのポスターやパンフ作成。
社長は「今年は本当に民間が途切れず、軍の依存が少なくて助かるな」とほくそ笑み、戸田も「この状態をキープすれば、軍から大口が来ても並行して回せるかもしれない」と声を弾ませる。 一方、堀内は「警察や軍の動きが静かなのはむしろ不気味だ」と繰り返し注意を呼びかけ、幹夫も「父さんが茶畑で警戒を解かないように、こちらも最後まで油断ならない」と同調する。気持ちが緩みそうな職人仲間に「一応、在庫や帳簿はちゃんとしよう」と声を掛け合う。
第二章:静岡の父、秋の茶畑と安堵
九月中旬、幹夫の下宿に父(明義)からの手紙がまた届き、そこには「今年は茶畑がここまで順調に守られ、もう少しで秋の軽い収穫時期だ。拡張も動きなし。陳情は相変わらず静かに続いている」という明るい内容が綴られている。
「そちらの印刷所も軍の依頼がないなら、それが一番だ。だが戦意高揚の空気は全国にある。いつ流れが変わるか分からんから気を引き締めてな」
幹夫は「父さんも余裕が出てきたのか、筆が以前より柔らかい感じだな……」とほっとする。
夜、二つの風鈴を見上げ、「秋晴れの空に青い茶畑が広がってるだろうな。こっちも久々に仕事が安定してる。ありがとう、父さん……」とつぶやき、ほのかな安心感を噛みしめる。
第三章:警察巡回のささやき
九月下旬に差しかかると、またしても「ビラがわずかに出た」という町の噂が走り、警察が印刷所を含む周辺の見回りを検討しているとの話が職人たちの耳に入る。
幹夫や堀内は「ここまで何も起きなかったが、油断大敵だ」と緊張を高め、社長も「書類や在庫を整えておけ。万が一踏み込まれても大丈夫なようにするぞ」と指示。
戸田は「近頃は本当にビラ勢力が潜伏してるのか、警察が神経質なのか分からないけど、ここ数回も大きな踏み込みにはならず済んでいる」と冷静な見方。
結果的には、またもや大掛かりな捜査は行われず、小さな巡回で終わる。それに職人たちはほっと胸を撫で下ろし、「本当に拍子抜けだな」と苦笑。 幹夫は「こんなにも平穏な秋が来るなんて……」と胸を撫で下ろしつつ、次の月こそ何かが起きるのではと心のどこかで疑う。
第四章:夜の涼風、風鈴の短い共鳴
月末、東京の下町には秋の虫が鳴き始め、夕暮れが早まって肌寒い気温になってくる。
幹夫は残業後、下宿へ戻る夜道で葉が落ち始めた街路樹を眺め、「去年までの苦闘と比べ、今年は奇跡のようだな……」と自嘲混じりに笑う。
窓を開けると乾いた夜風が二つの風鈴を軽く揺らし、**チリン……**という控えめな音を作り出す。「父さんも同じ秋を感じてるんだろうか。東京の印刷所もここまで大きな嵐はなし。二つの土地がまだ守られているのかもしれない」と幹夫は胸を撫で下ろす。
そして布団に倒れこみ、「昭和十一年も残り三ヶ月か……こんなにも平穏に過ぎるものだろうか」とまぶたを閉じる。遠くの夜空には星が瞬き、二つの風鈴はかすかなチリンを最後に沈黙を保った。
結び:秋の深まりと次の一歩
昭和十一年九月、東京の印刷所は再び穏やかな一ヶ月を過ごし、警察の巡回も大事にはならず、軍も大きな発注を起こさないまま月末を迎えた。静岡では父が茶畑の秋管理を進め、拡張再開の気配がないことを報せ続け、幹夫は二つの土地が凪のように平和である現状に驚きつつも安堵する。秋の夜風が二つの風鈴を揺らし、チリンと短い音が遠い茶畑と下町を繋ぎ止める。だが、一年の終わりが近づくにつれ、どんな動乱が待ち受けているかは依然として分からない――このまま何も起きずに年を越せるか、幹夫たちは半信半疑のまま、次なる季節を迎えていくのだった。
序幕:秋色の街と薄れない警戒
九月まで大きな軍依頼も警察の激しい捜査もなく、民間仕事が続いてきた印刷所。 下町の人々は秋の深まりを感じながら、行き交う際には少し重ね着をするようになった。 しかし、幹夫や戸田、堀内、そして社長らは、「このまま本当に何もなく年を越せるのか」という疑問が心を離れないまま、**昭和十一年(1936年)**の十月へと足を踏み出す。
第一章:民間案件、秋の行事
十月上旬、印刷所には地域の催しや学校行事のための印刷依頼が引き続きやってくる。
商店会の「秋の収穫祭」チラシ、地域運動会の案内ポスター、私立学校の文化祭パンフレットなど、バラエティに富む案件が並ぶ。
職人たちは「軍の仕事に追われず、こうした季節の行事を形にする作業が本来の楽しさだよなあ」とやりがいを感じつつ、スケジュールに励む。
社長は「夏を越えて秋も民間案件が続くなんて、去年じゃ考えられなかった。軍が完全に沈黙しているのがかえって怖いけど、今は稼ぎ時だ」と笑顔を見せる。戸田は「評判をさらに高め、来年に備えたい」と意気込みを語る。 幹夫も「これだけ穏やかに進めるとありがたいが、いつどう転ぶか分からない」と、依然として心の中に隠れた警戒を抱え込んでいる。
第二章:静岡の父、秋の茶畑を仕上げる
十月中旬に幹夫の元へ届いた父(明義)の手紙には、今年の茶畑がすでに主要な収穫を終え、秋の仕上げ管理に入ったことが記されていた。
「今年も拡張再開の話はなく、まるで夢のようだ。町役場も『これだけ静かならもう怖いものはない』と笑い合っている。
しかし戦意高揚の報道は衰えないから、心のどこかで身構えている。おまえも気を抜かずに過ごすようにな。」
幹夫は「父さんが“夢のよう”と言うなんて、よほど安定しているんだろうな。こっちも同じように、軍が動かないのが不思議なくらいだ」と安堵しつつ、「それでも父さんも用心を忘れない……俺たちもそうだ」と感じる。 夜に下宿で風鈴を手にし、乾いた秋の風を受け止めながら「二つの土地が同じように静かなままでいられるなら……」と想いを巡らせる。
第三章:警察巡回、微かな波
十月下旬、町にはやや小さな騒ぎが伝わり、「どこかでビラらしきものを警察が押収した」という噂が再び立つ。
社長は職人に呼びかけ、「今月末にまた警官が見回りに来るかもしれない。新しいビラ活動の痕跡がないか念のためチェックしておこう」と指示。
戸田は軽く在庫を再確認して「軍の仕事がないからこそ怪しまれる可能性はあるが、去年や夏の実績があるから大丈夫」と皆を落ち着かせる。
幹夫や堀内も「民間仕事がうまく行ってるときに警察が大がかりに踏み込んでこなければいいが……」と内心冷や汗をかくが、実際のところ踏み込みはなかった。
結果、職人たちは「やはり拍子抜けだな。警察もそこまで本腰じゃないんだろう」と再び安堵する一方、戦意高揚の空気が強まる現状を考えると油断大敵という気持ちも消えない。
第四章:秋の夜長、風鈴の短い音
月末、下町の空は乾燥した冷たい風が吹き、夜にはぐっと気温が下がる。通りの葉は紅葉して落ち葉が舞うなか、幹夫は残業を終えて下宿に戻る。
窓を開けると、ヒヤリとした夜風が二つの風鈴を揺らし、チリンと儚い音を立てる。
「今年は印刷所が本当に平穏だ……父さんの茶畑もそうだけど、こんな年があるなんて。でも、昭和十一年もあと二か月だ。どうなるかな……」と、幹夫は自問しながら布団に倒れこむ。
遠くで秋の虫の声がかすかに聞こえ、職人たちの疲れも軽いものになっている。二つの風鈴は相変わらず控えめな共鳴を繰り返し、それが東京と静岡の無事を象徴しているかのように感じられる。幹夫は目を閉じ、「このまま平穏でいられますように」とそっと祈るようにつぶやく。
結び:秋色の終焉、冬への架け橋
昭和十一年十月、東京の印刷所は引き続き軍の大仕事がないまま民間印刷を無難にこなし、警察の動向も大きな捜索には発展しないという、意外な静けさが続いた。静岡の父は茶畑の年末仕上げに入り、拡張再開の話も出ず、今年は夢のように穏やかだと述べる。だが戦意高揚の潮流を止める力は誰にもなく、ビラの動きが散発するなか警察も潜在的な警戒を解いてはいない。秋の夜風がひんやりと吹き、二つの風鈴がチリンと短い音を重ねる。その音は東京と静岡の長い凪の季節を繋ぎ留めるも、冬の足音がもうすぐそこまで忍び寄る気配を伝えていた――そんな中、十一月へと時は流れていく。
序幕:晩秋の光と残る慎重さ
十月を大きな軍仕事も警察の踏み込みもなく乗り切った印刷所。 下町の空には深まりゆく秋の色合いが漂い、朝夕の冷え込みが一層強まってきた。 幹夫や戸田、堀内ら職人たちは、「まさか今年は何も起きずに終わるのかもしれない」と思いつつも、過去の経験から「いや、いつ軍の依頼が来るか分からない。警察だって潜在的に狙っている」と警戒を解いてはいない。 そんな意外な静寂のなか、昭和十一年(1936年)の十一月が静かに幕を開ける。
第一章:民間仕事、年末の足音
十一月上旬、街には「年末に向けた準備」をちらほら意識する声が出始め、印刷所にも以下のような相談が舞い込む。
商店会が「冬セール」を計画しており、そのチラシや広報。
学校や町内会では年末イベントのアイデアを検討中で、早めの印刷予約を申し込むケースも。
社長は「これでまた年末まで民間案件が潤えば助かる。軍が黙っている今こそ稼ぎ時だ」とほくそ笑むが、戸田は「油断は禁物。12月はまた警察が年末巡回を強化するかもしれない」と穏やかに返す。 幹夫はそんなやりとりを聞きながら、「去年もこの時期は軍に振り回されていたのに、今年は全く違うんだな……」としみじみしている。
第二章:静岡の父、秋仕上げと冬の準備
十一月中旬、幹夫の下宿に父(明義)から手紙が届く。
「今年の茶畑は秋仕上げを終え、もうじき冬への支度を本格化する。拡張の話はまったく出ず、町役場も『こんなに静かでいいのか』と首をかしげているが、陳情は続ける。
戦意高揚の報道は増えているが、農民はまずは生活に集中できており、有難いことだ」
幹夫はその文面に「父さんまで拍子抜けしているなんて……」と笑い、ここ数ヶ月東京と同じように“何も起こらない”日常が続いていることに驚きながらも安堵する。 夜、二つの風鈴を揺らしてみると、冷たい秋の風が部屋に入りチリン……と儚い音が重なる。「父さん、俺も今年ここまで無事でいられるのが奇跡みたいだよ」と胸中でつぶやく。
第三章:警察巡回とビラの影
十一月下旬が近づく頃、また小さな噂が流れ、「反戦ビラが少しだけ夜中に貼られたらしい」という情報が職人たちに届く。
社長は「年末が近いし、警察が本腰を入れるかもしれない。今のうちに在庫と帳簿を確認しろ」と指示。
幹夫や堀内は「ずいぶん長い間、ビラ勢力は潜んでいたが、まだ完全には消えていないんだろう……」と複雑な感情を抱きながら管理を進める。
とはいえ、結局は大掛かりな巡回や捜査には至らず、警察は軽く見回りをしただけで終わる。戸田は「これだけ静かだと、かえっていつ爆発するか分からず不気味だな」と漏らし、職人たちもうなずきあう。 幹夫はそんなやりとりの中、「この凪が本当に凪のままで年を越せるなら……いや、何か起きるにせよ備えておくしかない」と複雑な想いを抱える。
第四章:夜風と冬の入り口
月末、下町の木々は落葉が進み、冷たい風が吹く夜は人通りが減って静まる。
幹夫は遅めに下宿へ帰る途中、空を仰ぎ「もう十一月も終わりか……去年と全然違う一年だったな」とつぶやく。
窓を開ければ二つの風鈴がかすかにチリンと合わさるが、すぐに風が止んで音が消える。「父さんの茶畑は今年守られた。俺たちも大口の軍仕事に振り回されず済んだ……。こんな幸福があり得るのか?」と不思議に思う。
しかし、戦意高揚の空気や警察の捜索の可能性は、すべて消え去ったわけではない。幹夫は布団に沈みながら、「まだ一年は終わっていない」と最後の警戒を自分に言い聞かせ、眠りへと落ちていく。
結び:秋の終焉、来る冬への一歩
昭和十一年十一月、東京の印刷所は相変わらず大きな軍依頼も警察の激しい捜索もなく、民間仕事をこなして比較的平穏な月となった。
職人たちは「あれだけ苦しんだ昨年や一昨年と違い、今年は静かすぎる」と驚きながらも、年の瀬へ向けた最終準備を進めている。
静岡では父が茶畑の秋仕上げを終え、拡張再開もなく一年を締めくくる見込みだと報告。幹夫は二つの風鈴をかすかな音に重ね、「父さんと同じように、こっちも最後の月を乗り越えて今年を終えたい」と考える。
落ち葉が冷たい風に舞い散り、夜の下町は静まり返る。二つの風鈴が夜風を受けてチリンと短い共鳴を残しながら、昭和十一年の十二月へと物語を運んでいく。果たしてこのまま無事に年を越せるのか――誰もが期待と不安を抱きつつ、次の月へ足を進めるのだった。
序幕:年末の足音と不思議な静寂
十一月まで大きな波乱もなく民間仕事を続けてきた印刷所。 下町の暮れを迎えるころ、通りの商店は正月に向けた仕度を始め、どこか気ぜわしい雰囲気に包まれている。 だが、幹夫や戸田、堀内、社長らは、それ以上に「今年もあと一か月で終わるのか――これほど穏やかな一年になるとは」と驚きを抱いていた。軍の大口仕事も来ず、警察の大規模捜査もなく、まるで“長い凪”のようなまま年の瀬に差しかかっているのだ。
第一章:民間案件の年末ラッシュ
十二月上旬、商店会や町内会から「歳末セール」や「年末行事」のチラシ・ポスター制作が次々と依頼される。
年越しや正月に向けた宣伝物や、新年の先取り企画などが増え、職人たちは残業しつつも「軍の徹夜地獄に比べれば楽なものだ」と励まし合う。
社長は「こんなに続けて民間仕事が来るなんて、本当に有難い。軍が黙っているおかげでもあるから、なんとも皮肉だが……」と笑い、戸田も「今年中にもう大口が来る気配はなさそう」と冷静に見極める。
堀内は、いまこそ警察に踏み込まれてはたまらないと在庫と帳簿を再点検し、幹夫も周到に作業を続ける。「この一年、誰も想像しなかったくらい平穏だな……本当にこのまま終わるのか?」と半信半疑のままだ。
第二章:静岡の父、年越しの報せ
十二月中旬、幹夫のもとに父(明義)から今年最後の便りが届く。
「今年も何事もなく茶畑を守り、年越しの仕度に入る。拡張が再開されないまま一年が終わるなんて、嘘のようだ。軍がどこに力を入れているのか分からないが、町役場は陳情を続けつつ警戒を怠っていない。
おまえも印刷所で無事なら何よりだ。年末まで気を緩めず過ごせ」
幹夫は「父さんも同じ感慨なんだな……よほど運がいいか、軍が別のところに注力しているのか……とにかく助かった」と嬉しさを噛みしめる。 夜、二つの風鈴を眺めながら、「昭和十一年がこんなふうに終わるなんて。父さんの茶畑とここが無事に繋がってるなんて……」と、不思議な感慨に耽る。
第三章:警察巡回と年末のしめくくり
十二月下旬、印刷所では年末恒例の納品ラッシュをこなし、職人たちが休む間もなく作業に追われる――だが、軍の依頼ではなく、あくまで民間の歳末案件だ。
警察の年末巡回が来るとの情報もあるが、どうやら形式的な見回りに終始する様子で、現実に大きな捜索は行われない。
社長は「本当に運がいいのか、警察も軍も今年は手薄というか……。まるで何かの下準備があるんじゃないかと疑いたくなる」と戸田に語るが、戸田は「静かに一年を終えられるならいいでしょう」と笑い返す。
幹夫や堀内は先月まで感じていた“何か起こるのでは”という胸騒ぎを抱えつつも、現実に何も起きないまま年末が迫っていることに戸惑いつつ安堵を覚えていた。
第四章:大晦日の風鈴、重なる一瞬
大晦日、印刷所はどうにか年末進行の最後の仕事を納品し、職人たちが簡単な大掃除を終え夕方から休みになる。
皆が「今年は苦労はあれど大きな軍仕事に振り回されず、なんとか稼げた」と笑い、社長も「来年こそ、この調子で上昇できるといいが……」と希望を述べる。
幹夫は下宿へ戻り、夜更けの静かな街を見下ろす。周囲は正月準備でせわしなく、人々が年越しそばや餅を求めて行き交う音が遠くに聞こえる。
窓を開けると冷たい冬の風が入り、二つの風鈴がかすかにチリンと音を重ねる。その響きに耳を澄ませ、幹夫は「父さんの茶畑も今年は奇跡のように無事……印刷所も同じく大きな嵐がなかった。一体どうして、こんな穏やかな一年になったんだろう?」と複雑な安堵を味わう。 「ともかく、昭和十一年が終わる。来年はどうなるにせよ、父さんと同じように踏み止まるだけだ……」とつぶやき、年越しの夜をゆっくりと迎える。
結び:静謐な歳末と次の年への扉
昭和十一年十二月、東京の印刷所は軍の大口依頼なし、警察の大規模な捜査なし、民間仕事を無事に収めて年末を迎えるという、予想外の穏やかな締めくくりとなった。
職人たちは歳末の忙しさに追われながらも、去年までの苦境を思えばはるかに楽だと語り合い、社長や戸田も新年に向けた明るい展望を抱く。
静岡では父が今年も拡張なしで茶畑を守り抜き、年始に向けて準備を進めていると報せてくれた。幹夫は二つの風鈴がチリンと短く重なる音に、「本当に奇跡のような一年だった……。でも、昭和はまだ続く」と胸中で呟き、夜更けの町へと視線を馳せる。
こうして昭和十一年が幕を下ろし、新たな年――激動の昭和の未来がどんな波をもたらすのか、東京と静岡それぞれの人々はまだ知る由もない。ただ、今はこの穏やかな大晦日の夜を噛みしめながら、二つの風鈴が繋ぐ奇跡を静かに見届けるだけだった。





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