曇天を裂く
- 山崎行政書士事務所
- 1月28日
- 読了時間: 6分
午前十時、営業部の西村和彦(にしむら かずひこ)は、コーヒーの冷めきった苦さを口に含みながら、デスク上の書類を睨んでいた。そこには「カスタマーハラスメント(カスハラ)報告」という赤字が躍っている。件数はここ数か月で急増し、ついに看過できないレベルに達した。
会社の名前は〈アサギ総合サービス〉。食品卸から通信販売まで幅広く手がける中堅企業だ。その窓口となる営業部員たちは、日々あらゆる問い合わせやクレームに追われている。だが今回のケースは尋常ではない。商品規定を無視した返品要求や、深夜にもかかわらず延々と電話を切らない“長時間拘束”、さらには暴言どころか暴力まがいの行為まで――。
「まさか、ここまでとはな」
そう呟く西村の胸には、重くのしかかる責任があった。この会社で十年勤めながら、常に「お客様第一主義」を叩き込まれてきた。顧客の要望には、できる限り応えよ。それが社訓でもあった。しかし今、現場の疲弊は明らかに臨界点を超えている。仲間の中には休職に追い込まれた者も出ている。
決定打となったのは、先週の一件だった。出張先の店舗で、若手社員が暴言を超える言葉を浴びせられ、ついに泣き崩れてしまったという。顧客はさらに「こんなザマじゃ、お宅の会社、すぐ潰れるだろうね」などと侮辱を続け、それを見かねた同僚が止めに入ったところ、拳で机を叩きつけられた。明らかな威嚇行為。いわゆる“カスハラ”の典型例だった。
西村はすぐに上司へ報告し、人事や法務部とも連携するよう動いた。以前から検討中だった「カスハラ対応マニュアル」を正式に社内に浸透させるべきだと強く進言したのだ。その結果、例の赤い報告書――「カスハラ発生時の行動指針と社内措置」がようやく配布された。
*
翌日、社内会議室。西村を含む主要部署の管理職が勢ぞろいしている。司会を務める法務部の杉原が口を開く。
「これから、『カスハラ対応マニュアル』について共有します。まず目的ですが、従業員を保護し、安全で健康的に働ける環境を維持することが大前提。そして基本方針としては、法律や会社のルールに則り、適切に対応する。場合によっては警察や弁護士とも連携する。よろしいですね?」
全員の視線が一度、杉原に集中する。一見冷静に見えるが、その目には揺るぎない決意がにじんでいた。そして続けて、具体的な内容が説明される。
「不当な要求、長時間の拘束、暴言、暴力などは明確にカスハラとして定義する。もし遭遇したら、まずは冷静に対応し、事実を記録する。理不尽な要求に対しては毅然と拒否し、その場しのぎの対応をしない。状況が深刻ならば、ただちに上司か法務へエスカレーション。事後は報告書を作成し、被害に遭った社員にはメンタルヘルスケアを施す。……以上が手順ですが、疑問点は?」
会議室内を静寂が包む。今まで「お客様は絶対」という暗黙の了解でやってきた現場にとって、この方針転換は大きな衝撃だった。しかし西村は、迷わず手を挙げた。
「疑問というより、確認です。実際に暴力や脅迫があった場合、警察に通報する判断は誰が下すのでしょうか?」 「原則として、責任者か法務部が状況を確認のうえ判断します。そのためにも、当事者は記録を正確に残してください。録音や書面でのメモ、目撃者の証言などを確保することが重要です」
杉原が端的に答える。その内容は、ここ数か月で何度も議論されてきたものだったが、こうして正式な場で共有されることで、はじめて“会社の意思”として力を持つようになる。
*
「やってられないよな」
会議後、廊下を歩く西村に声をかけたのは、同僚で総務部の加藤だった。彼はここ数日、退職をちらつかせる社員の対応で忙殺されているという。
「そりゃあ、やってられないよ。お客様を大事にすることと、社員が苦しみ続けることはイコールじゃないはずだ。それに会社がようやく動いたってことは、今までは黙殺されてた証拠だし……でも、変わるきっかけになればいい」
西村の言葉に、加藤は小さくうなずく。実際、「カスハラはダメだ」と頭ではわかっていても、“現場のノウハウ”となると、まだまだ浸透しきっていないのが実情だ。だからこそ、今回のマニュアルがどれほど作用するかは未知数。しかし、やらなければ始まらない――そんな切実な思いが、彼らを動かしていた。
*
数日後。西村のもとに一本の通報が入った。地方支店の若手社員が、やはり不当な要求にさらされ、電話応対で限界を感じたというのだ。西村はすぐさまメモを取りながら、落ち着いた声で問いかける。
「わかった。いったんそのまま電話を保留にして。相手の言葉は録音してる?」 「はい、録音してます。でも私、もう怖くて……」
焦燥が伝わってくる。西村は深呼吸し、低くもはっきりと伝える。
「大丈夫、すぐにそちらへ連絡を入れるから。相手に暴言が続くようなら、対応を中断して構わない。上司や店長がサポートできる? 一人で抱え込まないように」 「はい、わかりました」
通話を終えると、西村は法務部へ連絡を取り、状況を共有する。相手の言葉によっては、名誉毀損や脅迫罪を検討する必要があるかもしれない。警察への通報も頭をよぎる。穏便に済ませられるのが理想だが、被害を訴えた従業員を盾にするためには、やむを得ない手段だ。
“やっと、ここまでできるようになったのか。” 西村は自分の胸のうちを静かに見つめた。
*
一連の騒動から一か月ほどが過ぎると、社内には変化が芽生えはじめた。カスハラ発生件数そのものはすぐには減らない。だが、今まで埋もれていた“泣き寝入り”の事例が報告されるようになったのだ。上司へ打ち明けることも、法務部へエスカレーションすることも、以前よりはハードルが下がった。
同時に、再発防止のための社内研修が各拠点で進められる。具体例の共有、録音方法の指導、対応マニュアルの読み合わせ、そしてメンタルケアの相談窓口も活発に案内されるようになった。現場の空気はまだ硬いが、少しずつ「守られている」という感覚が社員たちに浸透していく。
その様子を見守る西村は、常に自分自身に問いかけていた。 ――果たして、この動きは一時的な“ブーム”で終わらないだろうか。 ――また以前のように、「お客様第一だから仕方ない」とうやむやにされてしまわないだろうか。
だが、今回ばかりは違う気がしている。法務、総務、人事などの管理部門が一丸となり、経営陣も腰を上げているのだ。何より、現場で声をあげる社員が増えてきた。その声を無視すれば企業の信用は地に落ち、ビジネスの継続自体が危ぶまれる。
*
そんなある日の夕刻、上司の部長が西村のデスクを訪ねてきた。疲れた顔にわずかな笑みを浮かべている。
「お前の手柄だな、例の件。若手から『会社に相談してよかった』って声が出てるそうだ。ありがとうな」 「いえ、みんなの取り組みが成果を出したんです。それに、まだ始まったばかりですよ」
西村は椅子を回し、外の景色をちらりと見る。曇りがちだった空が、わずかに光を射し込みはじめている。自分たちがいる場所はまだ曇天の真っ最中かもしれない。けれど、その先にはきっと青空が広がっているはずだ。
――企業にとって、従業員が安心して働ける環境づくりは義務であり、責任だ。理不尽な要求や言動を受け止めるだけが“サービス”ではないと、ようやく明確に言えるようになった。守るべきものを守るからこそ、長く信頼される企業になれる。それを証明するのは、今ここにいる自分たちなのだ。
西村はそっと目を閉じ、心の内で一度息を吐く。そして、ゆっくりと再び目を開けた。 ――雨雲は深くとも、その下にいる人間が意志を持てば、道はつながる。 曇天の向こうにかすかに輝く一筋の光を捉えながら、彼はデスク上の「カスハラ対応マニュアル」に手を伸ばすのだった。





コメント