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最終章 説明できる明日へ、山崎行政書士事務所

静岡市葵区、青葉通りから少し入った山崎行政書士事務所では、その朝、入口のスリッパがすべて正しい向きに並んでいた。

 これは事件だった。

「誰ですか」

 陽翔が入口で立ち止まり、震える声で言った。

「何が?」

 所長の山崎香澄が、湯呑みを片手に振り返る。

「スリッパです。全部、正しい向きです」

「いいことじゃない」

「いいことすぎて不安です。山崎事務所のスリッパには、少し反抗心があるべきなのに」

 悠真は書類を整えながら、静かに言った。

「スリッパに反抗心はありません」

「でも、シリーズ初期からずっと――」

「シリーズと言わない」

 さくらが笑いながら、応接室をのぞいた。

「今日はお客様がたくさん来るので、私が並べました」

「さくらちゃんが?」

「はい。感謝祭ですから」

 そう。

 その日、山崎行政書士事務所では、これまで相談に来た人たちを招いた小さな感謝祭を開くことになっていた。

 きっかけは、ちぎりの一言だった。

「クラウド法務喫茶、もう一度やりませんか?」

 それを聞いた陽翔が、即座に言った。

「では今回は、“山崎行政書士事務所オールスター感謝祭”で」

「番組名みたいにしない」

 悠真に止められた。

 しかし、香澄は少し考えてから微笑んだ。

「でも、いいかもしれないですね。これまで来てくださった皆さんが、今どうしているか聞けたら嬉しいですし」

 そこから話は膨らんだ。

 契約書チェックで来たスタートアップ。 ISMS認証を目指した会社。 Azure移行に悩んだ製造業。 責任分界線で揉めた三者。 ログがなくて青ざめた清水の会社。 赤ペンに救われたIT企業。 M365会議室に振り回された総務部長。 Pマークを目指した美容サロン。 Key Vaultに恋文を入れかけた若手エンジニア。 コスト怪獣に追われた経理部長。 BCP、DNS、NDA、在留資格、アニメーター、音楽配信、ペット信託、飲食店営業許可、古物商許可、DPIA、NIS2、SOC、IaC、化粧品広告、下請取引、データ侵害通知、クラウド移行。

 気づけば、山崎事務所の相談票には、実にさまざまな人生と会社の不安が並んでいた。

 そして今日は、その人たちが少しずつ集まる。

 青葉通りの小さな事務所に、である。

「所長」

 陽翔が不安そうに応接室を見た。

「入りきりますか?」

「入りきらないかもしれません」

 香澄は正直に答えた。

「では、青葉通りまで拡張しましょう」

「行政書士事務所を道路に拡張しないで」

 悠真が即答した。

 休憩スペースには、ちぎりがコーヒーを淹れる準備をしていた。 しょうこは受付票を分類している。 ふみかはピンクのクリップボードを抱え、名札を並べている。 りなはホワイトボードに会場図を描き、かなえは配布資料の契約文言を確認している。 あやのは赤ペンを持っているが、今日は少しだけ穏やかな顔をしていた。 蓮斗は無言でWi-Fiの接続状況を確認し、奏汰はヘッドホンを首にかけたまま、音響機器の設定をしていた。

「奏汰くん、音楽流すんですか?」

 さくらが聞く。

「玲音さんが一曲、弾き語りしてくれるそうです」

「音楽配信の?」

「はい」

 陽翔が目を輝かせた。

「最終章にライブ演奏!」

「最終章と言わない」

 悠真が再び止めた。

 午前十時、入口の鈴が鳴った。

 からん。

 最初に来たのは、地元ベンチャーの望月だった。 あの「たった三ページの業務委託契約書」を持ち込んだ人である。

「お久しぶりです」

 望月は笑顔で頭を下げた。

「あの契約、無事にまとまりました。業務範囲も、著作権も、クラウド利用も、ちゃんと話し合えました」

 香澄は嬉しそうに微笑んだ。

「それはよかったです」

 陽翔が言う。

「三ページの大河ドラマ、完結ですね」

「完結というより、連載開始です」

 望月は笑った。

「取引は続いていますから」

 次に来たのは、駿河システム工房の杉山社長、村松、海野だった。

「ISMS、無事に認証取得に向けて進んでいます」

 村松が手帳を掲げる。

「教育記録も、もう“研修出た人たぶん”ではありません」

 海野が言った。

「しかも、僕、先月ちゃんと休みを取りました」

 香澄はぱっと顔を明るくした。

「それは一番大事な改善ですね」

 陽翔が聞く。

「おでんチェックリストは?」

 村松は笑って答えた。

「正式資料にはしていません。でも、社内研修で“ISMSはおでんのように煮込め”は使いました」

 悠真が少しだけ目を閉じた。

「使ったんですね」

「好評でした」

「なら、よかったです」

 次に、富士見精機の大石社長と望月情シス担当が来た。

「Azure移行、段階的に進んでいます」

 大石社長は胸を張った。

「クラウドにも図面が必要だと、社内で言い続けています」

 望月が笑う。

「社長、今では構成図を見ると“富士山の輪郭は描けているか”って言うんです」

 蓮斗が静かに頷いた。

「良い確認です」

 奏汰も言った。

「見えないものには輪郭が必要です」

 からん。

 また鈴が鳴る。

 駿河食品物流の戸塚、東海デジタルソリューションの芹沢、清水テックサービスの川辺。 あの責任分界線で白い空気を作った三者である。

「今日は三人で一緒に来ました」

 戸塚が少し照れたように言った。

「障害対応フロー、ちゃんと運用しています」

 川辺が続ける。

「月次会議も始めました。線を引いたら、橋もできました」

 りなは嬉しそうに笑った。

「責任分界線は安倍川を越えましたね」

 芹沢は、そっと紙袋を差し出した。

「安倍川もちです」

 陽翔が真顔で受け取った。

「きな粉ログ、再発防止策は?」

 川辺が言った。

「今回は箱を水平に開けます」

 悠真が頷いた。

「適切です」

 そこから先は、入口の鈴がほとんど休まなかった。

 清水マリンフーズの久保田社長は、「ログは灯台です」と書かれた社内ポスターを持ってきた。

 駿府アプリ工房の松永は、「満足は仕様ではありません」を開発チームの壁に貼ったと報告した。

 静岡みらい商事の内田と森下は、「第三会議室はもう主に支配されていません」と胸を張った。

 クラウド法務喫茶で相談した矢野は、データフロー図を作って事業を整理したという。

 リュミエール美容サロンの長谷川と真奈は、ピンクの安心ボードを持ってきた。

「Pマークは、お客様を大切にする約束」

 ふみかは、その文字を見て少し目を潤ませた。

 Key Vaultに恋文を入れかけた瀬名は、少し照れながらやってきた。

「Key Vault運用ルール、社内で定着しました」

 陽翔が聞く。

「恋文は?」

 瀬名は真っ赤になった。

「送りました」

 事務所が一瞬、静かになった。

 みおが小さく尋ねる。

「結果は?」

 瀬名はさらに赤くなった。

「……返事をもらいました。今度、一緒にお茶に行きます」

 香澄が手を合わせた。

「よかったですね」

 悠真が静かに言った。

「Key Vaultに入れなかったことが、良い判断でした」

 陽翔が拍手した。

「恋もセキュリティも、適切な保管場所が大事!」

「そのまとめは雑です」

 悠真が言ったが、声はやわらかかった。

 コスト怪獣に追われていた大村部長も来た。

「クラウド費用、説明できるようになりました。怪獣はまだいますが、タグ付きです」

 みおが笑った。

「タグが付くと、怖さが減りますね」

 大村はうなずく。

「役員会でも、“これは必要な費用です”と言えるようになりました」

 BCPの河合社長は、防災カードを持ってきた。

「明日をあきらめないための準備。社内で配りました」

 DNSで迷子になった田辺は、ぽんたの写真をスマートフォンで見せてくれた。

「Webサービスも、ぽんたも、無事に戻りました」

 NDAとメロンパンの小鹿は、また紙袋を抱えてきた。

 中には、焼きたてメロンパン。

 陽翔が言った。

「これは重要情報です」

「食べ物です」

 悠真が言った。

 小鹿は笑った。

「商談、うまくいきました。秘密を守るとは、相手の努力を守ること。この言葉、今でも大切にしています」

 その言葉に、香澄は静かに微笑んだ。

 ミナトDXの杉浦社長、小田、そしてグエン・ミンも来た。

「ミンさん、正式に入社しました」

 小田が言う。

 ミンは少し照れたように頭を下げた。

「今はAzure運用チームで働いています。昼休みに、ベトナムコーヒーと静岡茶ロールケーキを食べました」

 陽翔が言った。

「国際オンボーディング、完了ですね」

 奏汰が頷いた。

「良い初期設定です」

 アニメーターの三枝芽衣は、少しだけ眠そうだったが、前より顔色がよかった。

「契約条件、ちゃんと話せました。修正回数も、ポートフォリオ利用も、生成AIの扱いも」

 あやのが嬉しそうに赤ペンを持ち上げた。

「赤ペンの成果ですね」

 三枝は笑った。

「そして、ちゃんと寝ました」

 奏汰が言った。

「最重要進捗です」

 音楽配信の森下玲音と菜月もやってきた。

「Aoba Line、配信開始しました」

 奏汰が、ほんの少し前のめりになる。

「聴きました」

 玲音が驚く。

「本当ですか?」

「はい。二曲目のコーラスが良かったです」

 陽翔が目を丸くした。

「奏汰くんがレビューを」

「音楽の話です」

 玲音は嬉しそうにギターケースを下ろした。

「今日、一曲だけ演奏してもいいですか?」

 香澄は微笑んだ。

「ぜひ」

 ペット信託の佐野は、こはくの写真を持ってきた。 そして、その後ろには、なんと動物病院を通じて飼い主のもとへ戻った灰色猫、しらすの写真もあった。

「こはくの信託準備、進んでいます。生活記録も更新しました」

 ふみかが笑う。

「こはく様の仕様書ですね」

「はい。仕様変更は随時発生しています」

 佐野は堂々と答えた。

 飲食店営業許可の大石夫婦は、開店した食堂「青葉ごはん こもれび」のチラシを持ってきた。

「ゼロトラスト定食は、結局メニュー化しませんでした」

 航平が言った。

「ただ、スタッフ研修では使いました」

 美咲が笑う。

「お客様の情報は、食材と同じくらい大切に扱いましょう、って」

 陽翔は感動した。

「ゼロトラスト定食、概念として生きている」

 古物商許可の望月は、中古サーバーのデータ消去証跡を見せてくれた。

「除霊ではなく消去証跡、定着しました」

 蓮斗が真面目に頷いた。

「良い定着です」

 DPIAで名札事件を起こした瀬戸たちも来た。

「社内会議には、今も“利用者の安心の席”を用意しています」

 さくらは少し照れた。

「DPIA様の名札は?」

 瀬戸は笑った。

「さすがに正式には置いていません。でも、資料の最初に“利用者の安心を確認する”と書いています」

 NIS2とみかん箱の松浦社長は、またみかんを持ってきた。

「今日は一箱だけです」

 悠真が言った。

「適切な数量管理です」

 SOCレポートに泣きついた神谷は、ちぎりに頭を下げた。

「SOCレポート、今では部長が読んでくれます。“見回り報告”と呼んでいます」

 ちぎりは嬉しそうにコーヒーを淹れた。

「無口なメールが、話せるようになりましたね」

 IaC変更管理の藤枝は、少し明るい顔で来た。

「勢いapply禁止、まだチャットに固定されています」

 奏汰が頷いた。

「良い文化です」

 化粧品広告の桐谷と日向は、新しいパンフレットを持ってきた。

「恋より厳しい広告チェック会、毎月やっています」

 ふみかとみおは、赤入れ後のコピーを見て笑った。

「可愛いけれど、ちゃんと責任がありますね」

 下請法とカップ麺の大野は、少し照れながら言った。

「発注書ひな形、整備しました。カップ麺は減りました」

 悠真が静かに頷いた。

「良い改善です」

 データ侵害通知で電話に怯えていた戸倉たちは、時系列表のテンプレートを持ってきた。

「電話が鳴ったら、まずメモです」

 さくらが力強く言った。

「湯呑みは置きます」

 全員が笑った。

 そして、クラウド移行の駿河機工からは、大河内常務、杉山、望月が来た。

「移行説明会、無事に終わりました」

 杉山が言う。

「望月さんのサーバー室の音の話、みんな真剣に聞いてくれました」

 望月は少し照れた。

「クラウド移行の日、富士山が晴れていたんです。あれで、なんだか前へ進める気がしました」

 蓮斗は小さく頷いた。

「会社の記憶は、未来へ渡せましたか」

 大河内常務は笑った。

「まだ途中です。でも、渡せそうです」

 気づけば、山崎行政書士事務所は人でいっぱいだった。

 応接室も、休憩スペースも、廊下も、入口付近も、青葉通りのベンチまで、相談者たちが行き来している。

 契約書を手にした人。 みかんをむく人。 メロンパンを食べる人。 ロールケーキを懐かしむ人。 ギターを調整する玲音。 こはくの写真を見せる佐野。 ゼロトラスト定食の話で笑う大石夫婦。 SOCレポート翻訳表を神谷と見ている蓮斗。 広告コピーについてふみかと日向が盛り上がる。 さくらは「DPIA様」の名札をうっかり見せて、また笑われている。

 混沌だった。

 しかし、不思議と温かい混沌だった。

「所長」

 陽翔が、壁際で少し息を切らしながら言った。

「これはもう、山崎行政書士事務所ではなく、山崎人生相談フェスです」

「名前はともかく、すごいですね」

 香澄は笑いながら、部屋を見渡した。

 そのとき、悠真が静かに言った。

「そろそろ、所長の挨拶の時間です」

「えっ」

 香澄が驚く。

「挨拶?」

 陽翔がにやりとした。

「感謝祭ですから」

「そういう段取り、誰が?」

 しょうこが受付票を見ながら言った。

「進行表に入っています」

「進行表?」

 りながホワイトボードを指した。

 そこには、きれいな字でこう書かれていた。

 十一時三十分 歓談 十二時十分 玲音さん演奏 十二時三十分 所長挨拶 十二時四十分 集合写真 十二時四十五分 片づけ 十三時以降 通常業務へ復帰

「片づけまで入っている」

 香澄が笑った。

「よくできていますね」

「今回は会議室予約も正しく入っています」

 陽翔が胸を張った。

「Teamsリンクは?」

 奏汰が尋ねる。

 陽翔の顔が固まった。

 全員が陽翔を見る。

「……今回は対面なので」

 奏汰が言った。

「逃げましたね」

 笑いが広がった。

 玲音の演奏が始まった。

 曲は「Aoba Line」。

 ギターの音が、青葉通りの窓から入る午後の光に溶けていく。 歌詞は、はっきり聞こえる日本語と、少しだけ英語が混ざっていた。 静岡の街を歩く人、駅を行き来する人、働く人、迷う人、もう一度始める人。 その全部を、軽やかに包むような曲だった。

 奏汰は、珍しく目を閉じて聴いていた。

 陽翔は、少しだけ静かだった。

 曲が終わると、拍手が起きた。

 大きすぎない。 けれど、温かい拍手だった。

 香澄は、みんなの前に立った。

 山崎行政書士事務所の所長として、これほど多くの人の前に立つことはめったにない。 少し緊張していた。 しかし、目の前にいるのは、これまで一緒に悩み、一緒に笑い、一緒に書類をほどいてきた人たちだった。

「今日は、お忙しい中、山崎行政書士事務所にお越しくださってありがとうございます」

 香澄は、ゆっくりと言った。

「こうして皆さんのお顔を見ていると、私たちの事務所が、ずいぶんたくさんの相談に関わらせていただいたのだと実感します」

 契約書。 ISMS。 Azure。 クラウド法務。 許認可。 在留資格。 ペット信託。 音楽配信。 アニメーション制作。 化粧品広告。 下請取引。 情報漏えい対応。 クラウド移行。

 香澄は、その一つひとつを思い出すように言葉を続けた。

「最初は、皆さんそれぞれ違う悩みを持って来られました。契約書が分からない。認証の準備が大変。クラウドが見えなくて不安。誰が責任を持つのか分からない。大切な情報をどう守ればいいか分からない。海外へ進むのが怖い。新しい人を迎えたい。自分の創作を守りたい。ペットの未来を考えたい。お店を開きたい。会社の記憶を未来へ渡したい」

 事務所が静かになった。

 陽翔も、茶化さなかった。

「私たちは行政書士事務所です。契約書を作ります。規程を整えます。許認可の手続きを支えます。申請書を書きます。説明資料を作ります」

 香澄は、少し間を置いた。

「でも、今日、皆さんを見ていて改めて思いました。私たちの仕事は、書類を作るだけではありません」

 悠真が、静かに香澄を見た。

 さくらは、両手を胸の前で組んだ。

 蓮斗も、奏汰も、あやのも、かなえも、りなも、みおも、ふみかも、しょうこも、ちぎりも、同じように聞いていた。

「書類の向こうには、いつも人がいます。会社があります。現場があります。眠れない夜があります。言い出しにくい不安があります。大切にしてきた努力があります。未来へ渡したい記憶があります」

 香澄の声は、やわらかかった。

「契約書は、人間関係の地図でした。 ISMSは、社員が安心して働くための仕組みでした。 Azureの構成図は、見えない雲の中に描く富士山の輪郭でした。 責任分界は、誰も悪者にしない線引きでした。 ログは、責めるためではなく守るためにありました。 赤ペンは、未来の喧嘩を減らす道具でした。 Pマークは、お客様を大切にする約束でした。 DPIAは、利用者の安心に席を用意することでした。 BCPは、明日をあきらめないための準備でした」

 みおが少し目を潤ませた。

 ふみかはピンクのクリップボードをそっと閉じた。

 香澄は続けた。

「書類を作ることは大事です。でも、書類ができたから終わりではありません。大切なのは、その書類によって、人が安心して次へ進める状態を作ることです」

 その言葉に、事務所全体が静かになった。

「説明できること。 約束できること。 戻れる道があること。 困ったときに誰に声をかけるか分かること。 大切なものを、大切だと言葉にできること」

 香澄は、ゆっくり笑った。

「それが、山崎行政書士事務所の仕事なのだと思います」

 拍手が起きた。

 今度は、さっきより大きかった。

 それは、ただの感謝祭の拍手ではなかった。

 それぞれが、自分の不安だったものを思い出し、それが少しずつ形になっていった時間への拍手だった。

 陽翔が、目元をこすっていた。

 悠真が見た。

「泣いていますか?」

「違います。みかんの汁です」

「みかんは持っていません」

「心のみかんです」

「意味が分かりません」

 でも、悠真は少し笑っていた。

 集合写真を撮る時間になった。

 応接室には入りきらないので、青葉通りのベンチ付近まで出ることになった。

 全員が外へ出ると、五月の風が木々を揺らした。

 静岡の空は明るく、遠くには、ほんの少しだけ富士山の輪郭が見えた。

「見えますね」

 望月が言った。

「富士山」

 大河内常務が頷く。

「晴れています」

 玲音はギターケースを背負ったまま、空を見上げた。

 こはくの写真を持った佐野は、隣の人にそれを見せている。 大野は大村部長と「カップ麺とコスト怪獣」についてなぜか盛り上がっている。 瀬名は、Key Vaultの話題になるたびに少し赤くなる。 藤枝は、奏汰と「勢いapply禁止」について真剣に話している。 桐谷と日向は、三枝のポートフォリオ用イラストに興味津々だ。 長谷川と真奈は、美咲の食堂に行く約束をしている。 杉山社長と松浦社長は、ISMSとNIS2の話をしながらみかんを分けている。

 ばらばらの相談者たちが、いつの間にか一つの風景になっていた。

 さくらがカメラをセットする。

「皆さん、入りきりますか?」

 陽翔が言った。

「山崎事務所史上、最大の集合写真ですね」

「個人情報の取り扱いは?」

 ふみかがすかさず聞く。

 全員が笑った。

 香澄が言った。

「撮影と利用について、同意をいただいた方だけで撮りましょう」

「さすがです」

 長谷川が笑った。

 みおがぽつりと言った。

「感謝祭にも個人情報保護」

 悠真が頷く。

「日常に根づいていますね」

 写真を撮る直前、陽翔が叫んだ。

「はい、説明できる明日へ!」

 全員が笑いながら、その言葉に合わせて顔を上げた。

 シャッター音。

 青葉通りの風。

 遠くの富士山。

 山崎行政書士事務所の人たちと、これまで一緒に悩んできた相談者たち。

 その一瞬が、写真の中に残った。

 感謝祭が終わり、夕方になるころ、事務所はようやく静かになった。

 みかんの皮。 メロンパンの袋。 コーヒーカップ。 配布資料。 名札。 ギターの余韻。 そして、たくさんの笑い声の名残。

 さくらが片づけながら言った。

「すごい一日でしたね」

 りながホワイトボードを消しながら頷く。

「相談者さん同士がつながっていくの、不思議でした」

 かなえが契約書ファイルをしまう。

「違う業界でも、悩みの根っこは似ていますね」

 蓮斗が言った。

「見えないものを見えるようにする」

 奏汰が続けた。

「説明できるようにする」

 ふみかがピンクのクリップボードを閉じた。

「大切なものを、大切に扱う」

 あやのが赤ペンをペン立てに戻した。

「未来の喧嘩を減らす」

 しょうこが受付票を整理した。

「次に動ける形にする」

 ちぎりが最後のコーヒーを淹れた。

「難しい話も、温かい飲み物があれば少しほどける」

 みおが窓の外を見た。

「そして、人が安心して次へ進める状態を作る」

 香澄は、全員の言葉を聞いて、静かに微笑んだ。

「そうね」

 悠真は、今日の集合写真をパソコンに取り込みながら言った。

「陽翔くん」

「はい」

「今日の思い出フォルダ用ファイル名は、もう作りましたか」

 陽翔は目を丸くした。

「悠真さんから振ってくるなんて」

「どうせ作るでしょう」

「はい」

 陽翔は胸を張って言った。

「説明できる明日へ_山崎行政書士事務所_人が安心して次へ進める版.xlsx」

 悠真はしばらく画面を見た。

 削除キーには手を置かなかった。

「今回は」

 全員が悠真を見る。

「正式な思い出フォルダに入れましょう」

 陽翔は、しばらく言葉を失った。

「……正式な思い出フォルダ」

 さくらが笑う。

「よかったですね」

 奏汰がぼそっと言った。

「歴史的マージです」

 蓮斗が頷く。

「承認済みです」

 香澄は、休憩スペースの壁に今日の集合写真を貼った。

 その下に、しょうこが小さな紙を貼る。

 書類を作るだけではなく、 人が安心して次へ進める状態を作る。

 陽翔が見た。

「湯呑みに――」

 悠真が言った。

「それは、壁に貼っておくほうがいいです」

「止め方が優しい」

「今日は特別です」

 事務所に笑いが広がった。

 夕方の青葉通りは、少しだけ金色だった。

 通りを歩く人たちは、それぞれの仕事を終え、それぞれの場所へ帰っていく。 誰かは契約書を抱え、誰かはクラウドの画面に向かい、誰かは開店準備をし、誰かは曲を作り、誰かはペットの未来を考え、誰かは会社の記憶を次の世代へ渡そうとしている。

 その人たちの明日は、まだ全部説明できるわけではない。

 けれど、今日より少しだけ説明できる。 今日より少しだけ安心して進める。 今日より少しだけ、次の一歩が見える。

 山崎行政書士事務所は、その一歩のそばにいる。

 契約書が笑う日もある。 赤ペンが走る日もある。 ログがない夜もある。 電話に怯える日もある。 スリッパが反対向きの日もある。 そして、みんなで笑いながら、また書類を整える日がある。

 青葉通りの契約書は、今日も笑う。

 人が安心して次へ進める明日を、 静かに、温かく、見守りながら。


 
 
 

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