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月の受け皿

 九月の終わりの蒲原は、昼のあいだだけ夏のふりをして、夕方になると、ふっと袖口から秋の手を出します。稲はもう青だけではなく、ところどころに金色の息を混ぜはじめて、田んぼの上を風が渡ると、さわ、さわ、と低い声で返事をしました。駿河湾は薄い硝子の皿みたいに光って、薩埵峠の影は、長い帯になって町の端をそっと撫でていました。

 学校で先生が言いました。

「明日は十五夜だ。すすきを一本、道ばたから拝借しておいで。折るときは“ありがとう”って言うんだぞ」

 “ありがとう”と言って折る――その言い方が、幹夫の胸の中の固いところを、ちょん、と叩きました。ありがとうは、軽い言葉なのに、言うと胸の奥が少しだけ整うのです。整うのに、整いすぎると、今度は“足りないもの”が目立ってしまう。

 十五夜には、父がいない。

 その考えが、稲の匂いみたいに、じわっと胸に広がりました。嫌な匂いじゃないのに、吸いすぎると苦しくなる匂い。

 帰り道、こういちが隣を歩きながら言いました。

「すすき、どこにある?」「……川のほう」と幹夫は答えました。ほんとは“薩埵峠のふもと”にもあるのを知っていました。でも、峠のふもとは少し遠くて、遠い場所を言うと、胸の中の“遠い”が増える気がしたのです。

「じゃ、いっしょに取ろう」 こういちの声は、小さいのにまっすぐでした。糸電話の糸みたいに、張りすぎないで、ちゃんと届く声。

 二人は畦道を降りて、用水の脇を通り、草の濃いところへ入りました。夕方の草は、昼の熱をまだ抱えたまま、でも露の気配も混ぜています。手を入れると、指先が少しだけ冷たい。冷たいと、胸の中の熱い石が、いちどだけ丸くなる。

 すすきは、思ったより背が高くて、穂が夕日に薄く光っていました。光り方が、夜光虫みたいに嘘がなくて、幹夫は胸が少し救われました。

「ありがとう」と幹夫は小さく言って、一本、折りました。「ありがとう」とこういちも言って、一本、折りました。

 折ったすすきの茎は、思ったより硬く、硬いのに、持つと軽い。軽さが、幹夫の胸にも欲しい軽さでした。

 家に帰ると、祖母は台所で団子を丸めていました。米の粉に湯を入れて、手のひらでころころころ――と転がすと、白い球が生まれます。白い球は、雪でも石でもなく、ちょうど“待っている”顔をしていました。

「幹、すすき取れたかい」「うん。こういちと」

 祖母はうなずいて、手のひらの粉を払いました。

「こういちも呼んでおいで。月見は、見える人が多いほど明るいからね」

 見える人が多いほど明るい――その言い方は少し変なのに、幹夫は分かる気がしました。灯籠のときみたいに、灯は一つより、並ぶと道になる。

 夕方、こういちが来て、縁側に座りました。窓辺には、いつものものが並んでいます。

 青いガラスの星。 割れた貝の星座の箱。 空の蛍瓶。 虹の海硝子。 竹の短冊。 銀の輪。

 銀の輪は、今日は風が弱いせいか、まだ黙っていました。黙っているのに、そこにあるだけで、父の手の匂いがする気がします。匂いは、言葉より先に胸に届きます。

 祖母が、すすきを小さな瓶に挿し、団子を三方(さんぽう)の代わりの木皿に並べました。団子の白は、夕闇の中で少し青く見えて、幹夫はふっと“暗室の白い紙”を思い出しました。白は、待つ。待っているあいだに、何かが出てくる。

「さあ、月の受け皿も出そうかね」 祖母が言って、古いたらい――洗い物の水盆を持ってきました。水を張ると、水面はしん、と静かになりました。静かになると、幹夫の胸の中も、いちどだけ静かになります。静かになるのに、静かすぎると、今度は“音のない音”が聞こえてしまう。

 幹夫は水盆を見ながら、思わず言いました。

「……父さん、これ、見えない」

 言ってしまった瞬間、頬の裏が熱くなりました。十五夜に父がいないことを、口に出してしまった恥ずかしさ。でも、言わないで胸の中にしまうと、胸の中の糸が絡まるのを、幹夫はもう知っていました。

 こういちは、水盆の縁をそっと触って、言いました。

「父さんも、どっかで月、見てるかも」「……同じ月?」と幹夫が聞くと、「うん。月って、あっちにもこっちにも来る。ずるいくらい」

 ずるいくらい、という言い方に、幹夫は少しだけ笑いそうになりました。笑いそうになって、胸がちくりとしました。ちくりはまだいます。でも今日は、ちくりの奥に、薄い温かさも混ざっていました。

 夜になって、空がちゃんと夜になったころ、月が昇ってきました。

 最初は薩埵峠の影の縁が、ほんの少し白くなって、次にその白が丸くふくらみました。丸が大きくなるにつれて、稲の穂の先が銀色になり、みかんの葉の裏の粉が、こっそり光りました。海は黒い硝子の皿になって、その上に月の道が一本、すうっと伸びました。

 幹夫は、空の月を見て、次に水盆を見ました。

 水盆の中にも、月が入りました。

 月は水の上にふわりと座って、まるで「ここにも来たよ」と言っているみたいでした。水の月は、空の月より少しだけ柔らかく見えました。柔らかい月は、掬える気がして、幹夫の胸が、ふっと危ないところへ行きそうになりました。

 ――掬って、父さんに送れたらいいのに。

 掬えないのに、掬える気がする希望は、糸を張りすぎる希望です。張りすぎると、ぷつん、と切れる音を知っている。

 幹夫は水盆の縁に手を置いて、指先で水面をほんの少し触りました。

 ぴち。

 水面が揺れて、水の月が割れました。

 割れた月は、いくつもに割れて、波紋の輪の上で、ばらばらに散りました。散った瞬間、幹夫の胸が、ぎゅっと縮みました。

「……割れた」 幹夫の声は、自分でも驚くほど小さかった。小さいのに、胸の中では大きな音でした。割れた貝の星座の欠片が、ぱちんと割れたときの、あの感じ。

 こういちが言いました。

「でも、空の月は割れてない」

 幹夫は、はっとして空を見ました。空の月は、まん丸のまま、何事もなかった顔で光っていました。水盆の中の月は壊れたのに、空の月は壊れていない。壊れたのは“映り”だけで、月そのものではない。

 祖母が、団子の皿を少し寄せながら言いました。

「映りはね、揺れれば割れる。でも本物は割れない。幹の胸も同じさ。胸の中の月は、揺れて割れたみたいになる日がある。でも、空の月は、ちゃんと残ってる」

 幹夫は、その言葉が胸にすっと入って、喉の奥がじん、と熱くなりました。涙が出る前の熱。熱いのに痛くない。胸の中で何かが“ほどける”熱でした。

 水面が落ち着くと、水の月はまた、ふわりと一つに戻りました。戻り方が、蛍を返したあとの静けさに似ていました。いちど出ていったものが、別の形でちゃんと“いる”。

 そのとき、薩埵峠のほうから、細い風が降りてきました。

 青い星が、からり。 少し遅れて、銀の輪が、きん。

 からり、きん。 二つの音が、月の光の中で短く交わりました。短いのに、胸の中の空洞が、冷たい穴ではなく、音の通った筒になるのが分かりました。

 幹夫は、空の月を見上げて、胸の中でそっと言いました。

 ――父さん。 ――水の月は割れたけど、空の月は割れなかった。 ――だから、ぼくの気持ちが揺れても、消えないものがある。

 こういちが、隣で小さく言いました。

「月って、返事しないのに、返事みたいだね」「……うん」と幹夫は言いました。 返事しないのに返事みたい――それは、父の便りが来ない日でも父が消えないことと、どこか似ていました。

 寝る前、幹夫は机に向かって、父に短い手紙を書きました。

 「とうさん」 「きょう じゅうごやでした」 「みずのなかに つきが はいりました」 「ゆびで さわったら われました」 「でも そらのつきは われませんでした」 「きん が なりました」 「とうさんのところも おなじ つき ですか」

 “帰って”とは書きませんでした。書けない自分はまだいます。でも今日は、その書けなさが、怖さで糸を引っぱらないための“加減”に思えました。風は呼ぶものじゃなく、通るもの。返事も、無理に鳴らすものじゃなく、通ってくるもの。

 布団に入ると、虫の声が、りん……りん……と夜の布を細い糸で縫っていました。遠くで汽車がことこと鳴り、踏切が――カン、カン、と夜を渡しました。波がしゅう、と引いて、ざあ、と返しました。

 幹夫は目を閉じて、胸の中の水盆をそっと思い浮かべました。水の月は、揺れたら割れる。でも、落ち着けば戻る。戻るということが、今夜は少しだけ信じられました。

 窓辺で青い星が、ごく小さく揺れました。銀の輪は鳴りませんでした。 でも幹夫の胸は、鳴らないことを怖がりませんでした。空の月が、黙ってそこにいるのを、ちゃんと見た夜だったからです。

 
 
 

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