月までの糸電話
- 山崎行政書士事務所
- 2月7日
- 読了時間: 11分

八月の終わりの蒲原は、昼の熱をまだ土の奥にしまい込んだまま、夕方になるとその熱を、海風に少しずつこぼしていました。みかん畑の葉は、疲れたように裏返って白い粉をちらちら見せ、薩埵峠の影が町の端から伸びてきて、道ばたの石ころにまで静かな涼しさを置いていきます。遠くの波は低く、しゅう、と寄せては、ざあ、と返し、砂の上に短い縫い目を残してすぐほどけました。
その日、幹夫は八つ。縁側の板に座り、祖母が出した糸巻きを両手で持っていました。糸巻きは小さな木の胴に、白い糸がきちんと巻かれていて、指で触るとさらり、とやさしい抵抗があります。
「網のほつれを縫う糸だよ。幹、ちょっと持っていておくれ」 祖母はそう言って、針箱を開けました。針のきらり、とした光が、夕方の薄い光を吸って、ほんの一瞬だけ星のようでした。
幹夫は糸巻きを見つめました。糸は目に見えるのに、どこか見えないものみたいに感じます。いくらでも伸びそうで、でも一度切れたら、切れたところはすぐには戻らない。切れたとたん、両端がそれぞれ別の方向へ逃げていく。糸は、近さと遠さの両方を、一本で持っています。
そのとき、門のほうで、ぱたぱた、と足音がしました。
「幹夫」 こういちでした。袖は今日も少しまくられて、手首が日に焼けて、薄い麦茶色になっています。こういちの手首を見ると、幹夫はいつも、ちょっとだけ安心します。白すぎた手首が、ここに馴染んできた証拠みたいで。
「暑いね」とこういちが言いました。「うん。でも……少しだけ、風が冷たい」 幹夫がそう言うと、自分の声が、いつもより少しだけ落ち着いて聞こえました。季節がほんの少し動くと、胸の中のざわざわも、形を変えるのです。
こういちは、縁側に目をやって、糸巻きを見つけました。
「それ、なに?」「網の糸」「……糸ってさ、声も運べるんだって。前のとこで、糸電話やった」
糸電話。
その言葉が、幹夫の胸の奥に、こつん、と当たりました。こつん、は痛くない。でも響きが残る響きです。声が運べる。声が届く。届く、という言葉は、幹夫の中でいつも少しだけ危ない。届くと思うと、届かなかったときに胸が冷えるからです。
「やってみたい」と幹夫は言いました。言ってしまってから、胸の奥がふっと緊張するのを感じました。期待は、糸を引っ張るみたいに胸を張らせる。でも張りすぎると切れる。
祖母が台所から顔を出しました。「缶があるよ。味噌の空き缶。底を洗ってある。遊ぶなら怪我しないようにね」 祖母の声は、止めるでも急かすでもなく、ただ“道”を作る声でした。
幹夫とこういちは、土間から味噌の空き缶を二つ探し出しました。缶の口は少しギザギザしていて、幹夫は指を引っかけないように、そっと撫でて確かめました。ギザギザは痛い。でも痛みの手前で止まると、自分が丁寧になれる気がしました。
缶の底に釘で小さな穴を開け、糸を通して結ぶ。結び目は小さなこぶになって、缶の中でころり、と音を立てます。その音が、なぜだか胸の奥の「からん」に似ていました。空洞が鳴る音。けれど今日は、その鳴りが少し澄んでいます。
「糸は、ぴんって張らないとだめだよ」とこういちが言いました。「ぴん……」と幹夫は繰り返しました。
ぴん、という音は、どこか太鼓の糸に似ています。祭りの夜、太鼓が胸を引っぱってくれた、あの糸。あの糸は強かった。切れなかった。でも、糸電話の糸は細い。細いものを強い気持ちで引っぱると、ぷつん、と切れるかもしれない。
それでも、幹夫は糸を張ってみたかったのです。張って、声が届くということを、一度でいいから手のひらで確かめたかった。
縁側からみかんの木まで、糸を伸ばしました。こういちはみかんの木のそばに立ち、幹夫は縁側に座りました。糸は夕方の光の中で、ほとんど見えません。見えないのに、ぴんと引かれて、確かにそこにある。
「じゃ、喋ってみて」とこういちが言いました。こういちは缶を耳に当て、もう片方を口に近づけます。
幹夫は、自分の缶を口へ持っていきました。缶の口は丸くて、唇に触れると少し冷たい。冷たさが、喉の奥を目覚めさせました。
「こういち」 幹夫が言うと、声は缶の中で少し反響して、いつもの自分の声より小さく、でも近く聞こえました。
少し間があって、こういちの声が返ってきました。
「なに?」
返ってきた声は、驚くほど近かったのです。すぐ隣で囁かれたみたいに、耳の中にすっと入って、胸の奥へ落ちました。声が落ちたところが、ふっと温かくなるのが分かりました。
幹夫は、嬉しくて、同時に、胸が痛くなりました。
――こんなに、届くんだ。 ――こんなに、近くなるんだ。
近くなることを知ってしまうと、届かない遠さが、いっそう鋭く見えてしまいます。鋭く見えると、胸の奥の空洞が、ひゅっと冷たい風を吹く。
幹夫は、缶を持ったまま、言いそうになりました。
「とうさん」
言ってしまえば、糸が父のいる町まで伸びるような気がした。伸びないのに。伸びないのに、伸びる気がするのが、いちばん危ない希望だと幹夫は知っていました。虹の切符みたいに、目の裏に残るから。残ると、握りたくなるから。
幹夫は、その言葉を飲みこみました。飲みこむと、喉が少し痛くなりました。痛みは、飲みこんだ言葉の形です。
「幹夫?」とこういちが缶越しに言いました。「……なんでもない」と幹夫は答えました。 答えた声が少し擦れて、こういちにだけは分かった気がしました。分かった気がして、恥ずかしくて、でも、分かってほしくもありました。
幹夫は、息を整えるために、缶の底を指でちょん、と叩きました。こん、と小さな音がして、その音も糸を伝わっていきます。音は言葉よりも正直で、言葉よりも軽い。軽いから遠くまで行けるような気がします。
「もっと遠くまで伸ばそう」と幹夫は言いました。 言いながら、自分の胸が“もっと”という言葉に引っぱられていくのを感じました。もっと、は欲です。欲は強い。強い欲は、糸を張りすぎます。
二人は糸をほどいて、畦道の先の小さな柿の木のところまで伸ばすことにしました。夕方の風が少し強くなって、糸が空気の中で微かに揺れます。
幹夫は、糸がたるまないように、ぎゅっと引きました。引けば引くほど、声がよく届く気がしました。届いてほしい。届かないものまで届いてほしい。そう思うと、手に力が入りすぎました。
その瞬間。
ぷつん。
音は小さかったのに、幹夫の胸には大きく響きました。ぷつん、は、ラムネの玉が落ちる音にも似ていて、割れた貝がぱちんと割れた音にも似ていて、灯籠の火がぷつんと消えたあの瞬間にも似ていました。
糸の端が、ふわっと弾けて、白い線が一瞬だけ空気の中に見えました。それから、両端がそれぞれ、しゅるる、と逃げていきます。
幹夫の胸の奥の空洞が、すとん、と底へ落ちました。底は冷たい。冷たいと、怒りが上がってきます。怒りは熱い。熱い怒りは、悲しみを隠すための布です。
「……ああ!」 幹夫は声を上げました。声は自分でも驚くほど鋭かった。
こういちが、糸の切れた端を持って立ち尽くしました。こういちの目が、少し白くなりました。白くなるのは責められたからではなく、どうしたらいいか分からないときの白さでした。あの浜で貝を落としたときの白さに似ていました。
幹夫は、その白さを見て、急に胸が苦しくなりました。
――ぼくが切った。 ――ぼくが引っぱりすぎた。
引っぱりすぎたのは糸だけではない、と幹夫は分かってしまいました。胸の中の「届いてほしい」を、無理やり届かせようとした。その力が、糸に乗ってしまった。
「……ごめん」 幹夫は、怒りの布の下から、小さな声を出しました。怒りはまだ熱い。でも熱いままだと、相手を焦がしてしまう。
こういちは、少し息を吐いて、首を振りました。「ううん。ぼくも引っぱった。……また結べばいい」
また結べばいい。
その言葉は、簡単なようで、幹夫の胸にとっては難しい救いでした。切れたものは戻らない。でも結べば、続きになる。続きは、元の一本とは違う。違うのに、繋がる。
幹夫はその“違うのに繋がる”が、嬉しいのか怖いのか、分かりませんでした。分からないまま、目の奥がじんと熱くなりました。涙が出る前の熱。熱の中に、恥ずかしさも混ざっています。
そこへ、祖母が縁側から出てきました。手には針箱と、もう少し太い麻紐がありました。
「切れたかい」 祖母は笑いませんでした。怒りもしませんでした。ただ、切れた糸を見る目をしていました。切れたものを見慣れている目。切れたものを、また縫ってきた目。
「糸はね、張りすぎると切れる。ゆるすぎると届かない。ちょうどいい張りってのがあるんだよ」 祖母は言いました。「人の胸も、同じさ。望みをぎゅうぎゅう引っぱると、胸のほうが先に切れちまう」
幹夫の喉の奥が、きゅっとなりました。祖母は糸の話をしているのに、幹夫の胸のことを言っているのが分かりました。分かると、恥ずかしくて、でも救われます。見透かされるのは怖いのに、見透かされないと、ひとりで息が詰まってしまうからです。
「この麻紐で、途中を補ってごらん」 祖母はそう言って、糸の両端に結び目を作りました。結び目は小さな節になって、指先に硬く当たります。硬いのに、頼もしい。
幹夫とこういちは、結び目を手伝いました。結ぶとき、指が震えました。震えは恥ではありませんでした。震えは、“また繋ぐ”という決心の震えでした。
もう一度、糸を張りました。今度は引っぱりすぎないように、でもたるませないように。張り具合を探すとき、幹夫は自分の胸の張り具合も一緒に探している気がしました。
こういちが缶を耳に当てました。「幹夫、聞こえる?」
幹夫は缶に口を寄せました。「聞こえる」
声はまた、近く届きました。近さは嬉しい。嬉しいけれど、今度は胸が痛くなりすぎませんでした。張りすぎないからです。届くものだけ届けばいい。届かないものを無理に引っぱらない。そう思えると、息が戻る。
祖母が、にやりともしないで言いました。「よし。声はね、張りすぎても届かないんだ。柔らかく、まっすぐが一番だよ」
日が落ちると、畦道の草むらから、りん……りん……と鈴虫の声が出はじめました。蝉の声が遠のいて、そのかわり、小さな音が夜の布を縫いはじめる。縫い目の細かい夜は、心の痛いところも、少しだけ包んでくれます。
幹夫は、ふと、缶の口に向かって小さく言いました。「こういち」
「なに?」
こういちの返事が、糸を通って、すぐ耳に届く。届く、というだけで、胸が少し軽くなる。
幹夫は、そこから先の言葉を、いったん胸の中で並べました。並べるだけで、喉が熱くなりました。
――父さんのこと。 ――帰ってこない日のこと。――帰ってくるかもしれない日のこと。 ――待つのが怖いこと。
全部言うと、糸が切れる気がしました。言葉が多すぎると、胸が張りすぎる。祖母の言った「ちょうどいい張り」を、今夜は守りたかった。
幹夫は、言える分だけ言いました。
「……声ってさ、糸があると、ちゃんと来るんだね」
こういちは少し考えてから言いました。「うん。糸がなくても来る声もあるけど……糸があると、迷わない気がする」
迷わない。 その言葉が、幹夫の胸の中で、すとんと棚に置かれました。棚に置くと、重さが少し分かれます。
「……月まで、糸があったらいいのに」 幹夫は、思わず言いました。
言った瞬間、恥ずかしくなりました。月まで糸なんて、子どもみたいだ。でも、八つは子どもだ。子どもが子どもの願いを言って何が悪いのだろう、と幹夫は思いました。思うと、少しだけ、胸がやさしくなりました。
「月まで行ったら、何言う?」とこういちが聞きました。 聞き方が、押すでも笑うでもなく、ただ隣に座る聞き方でした。
幹夫は、缶を握る手に力を入れすぎないようにして、ゆっくり言いました。
「……父さんに、“こっちは鈴虫が鳴いてる”って言う」「それ、いいね」 こういちの声がすぐ届きました。「ぼくも、前の川の音、月から聞けたらいい」
幹夫は、その言葉を聞いて、胸が少し温かくなりました。遠いものはひとつじゃない。遠いものがいくつもあるなら、遠さはひとりの罰ではなく、みんなの空の広さになる。
夜、こういちが帰ったあと、幹夫は縁側の窓辺に、糸巻きをそっと置きました。窓辺にはいつものものが並んでいます。
青いガラスの星。 割れた貝の星座の箱。 空の蛍瓶。 虹の色が薄く混ざった海硝子。 庭の竹の短冊。
そこに、今日の糸巻きと、味噌の空き缶が二つ、静かに加わりました。缶は小さく、でも、声を運べた缶。声が届いた証拠の缶。
幹夫は、糸巻きを見ながら思いました。
糸は切れる。 でも、結べる。 結び目ができても、声は届く。 結び目は邪魔じゃない。むしろ、そこに「戻った跡」が残る。
父との間にも、見えない糸があるのかもしれない。 張りすぎると苦しくなる。 でも、たるませすぎると、寂しくなる。 ちょうどいい張りは、たぶん、“待つ”と“生きる”の間にある。
窓辺の青い星が、風でからり、と鳴りました。 その音は、糸電話の缶の中の反響と少し似ていました。遠いのに近い音。近いのに、手で掴めない音。
幹夫は布団に入り、目を閉じました。鈴虫の声が、りん……りん……と夜の底で鳴っていました。遠くで汽車がことことと鳴り、踏切が――カン、カン、と夜を渡りました。波がしゅう、と引いて、またざあ、と寄せました。
その音のあいだに、幹夫の胸の太鼓が、こつん、と小さく鳴りました。 今日は、その鳴りが、切れそうで切れない糸の張り具合みたいに、ちょうどよいところで揺れていました。
――月までの糸はない。 ――でも、ここまでの糸は作れた。 ――作れたなら、きっと、また作れる。
幹夫はそう思いながら、眠りへ落ちていきました。 眠りの入口で、窓辺の青い星がもう一度、からり、と鳴りました。 その音は、糸が切れないように、胸の中の張りをそっと整えてくれる音でした。





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