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月下のセーヌ




 夜の空に、薄雲を纏(まと)った月が浮かんでいた。パリの町は柔らかなオレンジ色の街灯に照らされて、まるで古い絵本の一ページのように静かに光っている。ガブリエルという名の少年は、セーヌ川にかかる石造りの橋の上から、水面に映る月をじっと見つめていた。

 ガブリエルは、この街で生まれ育ったわけではない。父が転勤でパリへ移り住むことになり、二週間前に到着したばかり。言葉もまだ不自由で、人々の喧噪(けんそう)や異国の雰囲気にどこか戸惑いを感じていた。しかし不思議と、この橋の上だけは落ち着く。渡りゆく人々の足音、遠くで奏でられるアコーディオンの調べ、そしてセーヌがつくる柔らかな水の香りが、彼の心をそっとほどいていく。

 夜の帳(とばり)が深まるにつれ、月の光は川面を白銀色に染め始めた。まるで月の道が川の上に伸びているかのようだった。ガブリエルは橋の欄干にひじをつき、川面に映った光の帯を追いかける。「もしあの光を歩いていったら、どこへ行けるのだろう?」そんな不思議を抱えたまま、ぼうっと見とれていると、突然、足元から小さな声が聞こえた。

「ねえ、きみも月の道を探しているの?」

 驚いて振り返ると、そこには背丈の半分ほどしかない、小さな紳士のような姿の影が立っていた。広いつばの帽子をかぶり、小さなステッキを手にしている。光がぼんやりと揺らめいて、相手の顔はよく見えない。それなのに、その声はやわらかく、不思議と心を安心させる響きを持っていた。

「きみ……だれ?」「ぼくはセーヌ川に住む“月灯(つきあかり)の案内人”さ。この橋の上を通る人が月の道を見失わないよう、そっと見守っているんだよ。」

 ガブリエルは思わず「そんな存在がいるなんて聞いたことない」と言いかけたが、言葉が出なかった。なぜか目の前の小さな紳士がごく自然にそこに存在している気がしたからだ。

「ねえ、きみは何か探しているの?」 そう問われたガブリエルは、言葉を探すように一呼吸おいて答えた。「ぼく……この街に来たばかりなんだ。まだここと自分のつながりがわからなくて……。セーヌを見ていると、なんだか少し安心できる気がする。だけど、本当にここにいていいのか、迷ってるんだ。」

 小さな紳士はステッキを持ち上げ、月の方をくるりと指し示した。「だったら、月の道を辿ってごらん。セーヌ川が流れるかぎり、パリの街はきみを拒まないよ。そもそも、この街は遠くからやって来た人たちを受け入れて、いまの姿になっているんだからね。」

 そう言うと、紳士の姿はふわりと薄い光の粒になり、やがて夜の空気に溶けていった。ガブリエルは慌てて周囲を見回したが、そこには誰もいない。代わりに、月の光がセーヌの川面を一段と白く照らし始めた。

 次の瞬間、遠くからエッフェル塔のライトアップが夜空を切り裂くように点灯した。煌(きら)びやかな光が塔の輪郭を浮かび上がらせ、塔の先端は、まるで星を射抜くかのように空へ伸びている。ガブリエルはその光景を見て、不意に小さな決心を固めた。

 ――ぼくはここで、パリで、もう少しがんばってみよう。

 紳士の言葉を思い出す。「セーヌ川が流れるかぎり、パリの街はきみを拒まない」。 まるで心の中のしこりがほどけたように、ガブリエルは息をついた。目を閉じて、冷たい風を深く吸い込む。夜はまだ続くし、不安がなくなるわけではない。けれど、この街の風とセーヌの流れが、自分をそっと支えてくれるように感じた。

 橋を渡り、石畳の道を歩き出す。街灯の下では、路地を照らす光と影がゆらめいている。カフェの扉からこぼれるシャンソン、甘いクレープの香り、人々の笑い声……。どこかに混ざって聞こえるアコーディオンの旋律も、先ほどより心地よく胸に響いた。

 ――月の道は、セーヌ川の上だけではなく、パリの町全体に続いているのかもしれない。 ガブリエルはそんな予感を抱きながら、家路へと急ぐ。夜空の月は、さっきよりも幾分高く昇り、冷たいけれどやさしい光をパリの屋根たちへ注いでいた。

(了)

 
 
 

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