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有度山のふもと・茶の香の分光器(舞台:清水区草薙)

 幹夫青年は、草薙の駅を出て、少しだけ山の方へ歩いてゐました。 有度山(うどやま)のふもとの坂道は、夜になると、昼よりも「坂」といふことばがよく分かります。 足の裏が、地面に向かって「こっちだよ」と言はれてゐるやうな、そんな坂です。

 空気は透明で、冷たく、ひどくよく響きました。 靴の音が、こつこつ、と石の粒に当たって、すぐ遠くへ飛んで行きます。 息を吐くと、白い息がふうっと出て、電燈の光の中で一瞬ふくらみ、それから闇の方へほどけて消えました。

 幹夫は、その白い息の消え方を見て、また思ひました。

 (ことばも、あんなふうならいい。 出て、消えて、でも少しあたたかい。)

 坂道の途中で、ふっと匂ひが来ました。 あたたかい匂ひです。 焙(ほう)じた茶の匂ひ――それも、ただの香ばしさではなく、青い葉の名残りと、火の色と、土のにほひとが、いっぺんに混ざった匂ひでした。

 匂ひは、風に乗って来るのに、まるで“光”のやうに真っ直ぐで、幹夫の鼻の奥へ、すうっと入って来ました。 匂ひが光のやうに来るとき、人はときどき、その匂ひの中に色を見てしまひます。

 幹夫は、坂の脇の小さな茶工場の前で立ち止まりました。 戸のすきまから、蒸気が薄く出てゐます。 蒸気の中に、焙じ茶の匂ひが溶けてゐて、それが冬の冷たい空気にぶつかると、ふわっと広がって、そして、ふしぎなことに――幹夫の目には――その匂ひが、いくつもの帯に分かれて見えました。

 青い帯。 黄いろい帯。 琥珀(こはく)の帯。 すこしだけ褐色(かっしょく)の帯。

 (分光だ。)

 幹夫は、理科の授業で見た、プリズムのことを思ひ出しました。 白い光を入れると、虹の帯に分かれる装置。 あれは「分光器」といふのだ、と、先生が言ったのを覚えてゐます。

 いま、草薙の坂道で起きてゐるのも、それと同じなのだ――と幹夫は思ひました。 ただ、ここでは光ではなく、茶の香が分かれてゐるのです。 そして、プリズムの代りをしてゐるのは、冬の空気の透明さと、電燈の白い光と、蒸気の細い粒と――それから、幹夫の目の疲れかもしれません。

 けれど、疲れた目が見つける分光は、案外、生活に役立つのです。

 幹夫は、鼻で息を吸ひました。 茶の匂ひは、また一度、光のやうに来て、そして、今度は胸の中の“ことばのかたまり”へ当たりました。

 ――ごめん。 ――ありがとう。 ――元気? ――いまさら。 ――遅い。

 胸の中には、こんなふうに色々なことばが混ざってゐて、混ざったままでは重くて送れません。 送れないことばは、ポケットの中の石ころみたいに、だんだん冷えて硬くなります。

 ところが、茶の匂ひの帯を見てゐると、幹夫はふしぎに思へました。

 (混ざってゐるなら、分ければいい。 分ければ、一本だけ持てる。 一本だけなら、投げられる。)

 そのとき、道ばたの茶の木(と幹夫は思ったのです。ほんたうに茶の木かどうか、夜なのでよく分かりません)が、街灯の下でぬれて光ってゐるのが見えました。 葉の先に、小さな露が一粒、玉のやうに乗ってゐます。

 幹夫は、そっと身をかがめて、その露を見ました。 露は丸く、透明で、街灯の白い光をぎゅっと抱へてゐました。 抱へた光が、露の丸さで少し曲がって、葉の上に、ほんの細い虹を落としました。

 (これも分光器だ。)

 露の一粒が、草薙の小さな分光器になってゐたのです。 幹夫は、胸の中のことばも、露みたいに丸く出来たらいいのに、と一瞬思ひました。 丸いことばなら、誰かにぶつかっても、角で傷つけません。

 そのとき、背中の方から、やさしい声がしました。

「寒いねえ。兄さん、お茶、のむ?」

 振り向くと、道の角に、ちいさな屋台が出てゐました。 灯りの下で、やかんがふつふつ言ひ、湯気がまっすぐ立ってゐます。 屋台のおばあさんが、厚い手袋をして、紙コップを並べてゐました。

 幹夫は、思はず言ひました。

「こんばんは」

 おばあさんは、にこっとして言ひました。

「こんばんは。ほうじ茶、いちばん温いよ」

 幹夫は、紙コップを受け取りました。 手のひらが、すぐに人間になります。 人間になると、胸の中の裁判官の机の音が、急に遠くなるのです。

 ひと口のむと、香ばしさが先に来て、あとから青い葉の匂ひが追ひかけて来ました。 追ひかけて来る匂ひは、さっき見た“青い帯”と同じでした。

 幹夫は、つい言ってしまひました。

「……匂ひが、虹みたいに分かれて見えます」

 おばあさんは、驚きもせずに、うなづきました。

「分かれるよ。茶はね、分かれてるんだよ。青いの、甘いの、火のやつ。 でもね、最後に残るのは一つだよ」

「……一つ?」

「うまい、ってやつ」

 おばあさんは笑ひました。 その笑ひは、湯気みたいに軽くて、しかしちゃんとあたたかい笑ひでした。

 幹夫は、その「最後に残る一つ」を、胸の中で探してみました。 ごめん、もある。 ありがとう、もある。 でも、今夜の草薙の坂道で、茶の香が分光して見えたあとに残るのは――たぶん、これでした。

 (ありがとう。)

 幹夫は、ポケットからスマホを出しました。 画面の白い光は正確で、少し厳しい。 けれど、ほうじ茶の湯気が、その白さに薄い膜をかけてくれます。 湯気は、光を少しにじませるのです。

 幹夫は長文を書きませんでした。 長い文は、すぐ説明になり、説明はすぐ言ひ訳になり、言ひ訳は風に重くて乗りません。 青い風に乗るのは、短いものです。 露の虹みたいに、細い一本のものです。

 幹夫は、たった一行だけ打ちました。

 ――「草薙の坂。お茶の香りが虹みたい。ありがとう。」

 送信すると、胸の中で、なにかが小さく発車しました。 汽笛は鳴りません。 でも、胸の中のことばの列が、さっきより少しだけやわらかくなって、息をしはじめたのです。

 おばあさんが、紙コップを片づけながら言ひました。

「兄さん、風にのせたね」

 幹夫は、少し照れくさくて、でも正直にうなづきました。

「……はい。一本だけ」

「一本がいちばん飛ぶよ。枝もね、一本ずつ伸びるから木になるんだ」

 幹夫は、有度山の黒い輪郭を見上げました。 山は黙ってゐました。 黙ってゐるのに、坂道の上の空気を支へてゐました。 支へてゐるものを見ると、人は安心して小さなことが出来ます。

 風がまた通りました。 見えないのに、通ったのが分かりました。 なぜなら、ほうじ茶の湯気が、すうっと片側へ曲がったからです。 その曲がり方が、さっきの“青い帯”の方へ向かってゐました。

 幹夫青年は、草薙の有度山のふもとで、大きな奇跡を見たわけではありません。 ただ、茶の香りが分光して見えて、ことばも一本に分けて送っただけです。 けれど、その“一本だけ”があると、冬の夜はちゃんとあたたかい方へ進みます。 草薙の坂道は、今夜も静かにのぼってゐて、茶の香の分光器は、誰にも見えないところで、ひとりの胸の光をそっと分けてゐたのです。

 
 
 

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