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望月の既読

満月は、都会では痩せて見える。月が痩せたのではない。こちらの視線が痩せたのだ。見上げる時間のない者の月は、いつでも細い。細いものほど鋭い。鋭いものほど胸に刺さる。

私は京都駅の南口を出て、川の方へ歩いた。会議の終わりに残った言葉の砂が、喉の奥に溜まっていた。「調整」「関係者」「前向きに検討」——便利な言葉ほど不潔だ。便利な言葉は、決めたくない者の手を清潔に保つ。清潔な手ほど怖い。清潔な手は、血の匂いを知らずに人を動かすからだ。

鴨川の風は冷たかった。冷たさは正しい。正しい冷たさが、私の中の甘い言い訳を叱る。川面の上で街灯が揺れ、揺れは秩序に似る。秩序に似たものほど危険だ。秩序は「済んだ」と思わせる。済んだと思った瞬間、人は匂いを忘れる。

橋のたもと、黒い影がひとつ立っていた。影は古い。古い影は若い影より怖い。古い影は、こちらの未来を先に知っているように見えるからだ。近づくと、影は男だった。衣は衣装ではないのに、衣装のように整っている。整いすぎたものほど不吉だ。整いは、崩れる前触れになる。

男は私の胸元を見た。社員証のストラップ。薄い名札。薄い名ほど危険だ。薄い名は、いつでも誰かの器になる。

「その札は、あなたの位か」

私は笑いかけて、やめた。笑いは薄い。薄い笑いは、こちらの怖さを軽くする。軽くなった怖さほど、あとで重くなる。

「……会社の名札です。名刺みたいな」

男は頷かなかった。頷きは楽だ。楽な頷きは、すぐ“承諾”になる。男は川の方を見て、言った。

「名は軽くなり、札は増えた。それで、この国は治まっているか」

治まっているか。問いは刃だ。刃は刺さる場所を選ばない。私は答えられなかった。答えれば、仕事の言葉で答えるしかない。仕事の言葉は無臭だ。無臭の答えほど残酷なものはない。

男は、淡々と名乗った。

「藤原道長だ。この名も、今では札のように扱われているのだろう」

“道長”。その二字が、教科書の紙の匂いではなく、香の匂いを伴って胸へ落ちた。香は甘い。甘い香は腐る。腐った香の上で、人は美談を作る。だが彼の名は、美談の甘さを拒んでいた。拒む名ほど怖い。

私は言った。

「道長なら……この国を、どう見ますか。今の日本を」

道長はすぐ答えなかった。答えない沈黙は怖い。怖い沈黙ほど正しい。彼は満月を見た。月は、駅前の看板の光に押されて、どこか白く薄かった。白は潔白ではない。白は、汚れが目立つことを最初から知っている者の色だ。

「よく出来ている」

道長は言った。

「衣は清く、道は平らで、夜は灯で破られぬ。飢えは“制度”で薄められ、争いは“手続き”で封じられている。我らが欲した“治まり”だ」

私は、その言葉に救われそうになって嫌だった。救いは甘い。甘い救いは腐る。腐った救いの上で、人はまた同じ机へ戻れる。

道長は続けた。

「だが、治まりが無臭すぎる」

無臭。その一語が、私の喉を締めた。締まる喉は感情移入だ。私は今日一日、無臭の会議をしてきた。誰も怒らず、誰も泣かず、誰も責任の匂いを出さないまま、決めないことを決める会議。無臭は安全に見える。安全に見えるものほど危険だ。安全は、腐りを進める。

「あなたの世は、香がありましたね」

私が言うと、道長はわずかに目を細めた。笑いではない。計算の目でもない。遠い疲れの目だった。

「香は、隠すために焚くものでもある」

道長は言った。

「香で穢れを包み、包んだ穢れを“雅”と呼ぶ。雅は美しい。美しい雅ほど危険だ。美しさは、罪の匂いを消してしまう」

私は、胸の奥に小さな痛みが走った。痛みは真実だ。真実は甘くない。甘くないから腐らない。道長の言葉は、美談を拒む痛みだった。

「では、今は何で穢れを包んでいる」

道長は私を見た。

私は答えたくなかった。答えれば、私自身がその包みの一部だと認めることになる。だが逃げれば、月はさらに痩せる。

「……数字と、言葉です。KPIとか、評価とか。『透明性』とか」

透明性。透明は清潔のふりをする。透明な言葉ほど危険だ。透明は匂いを隠してしまう。

道長は、ふと私の手元を見た。私が握っていたスマートフォン。画面は暗いのに、そこに“白い面”がある気がした。白は潔白ではない。白は、罪を映す鏡だ。

「それは何だ」

「手紙です。……いや、手紙より速い。連絡とか、仕事とか、全部ここで」

道長は指で画面を触れようとして、ためらった。ためらう手は珍しい。ためらう手ほど人間的だ。人間的な手は、汚れを知っている。

私は画面を点けた。通知が並んだ。短い文。絵文字。既読。未読。既読は、読んだという印だ。印は軽い。軽い印ほど残酷だ。印は、相手の心を待たずに責任だけを押し付ける。

「既読」

道長が、声に出して読んだ。乾いた声だった。乾いた声は涙を許さない。

「内覧(ないらん)に似ているな」

内覧。摂政・関白が、上奏文を“先に読む”あの行為。私は息を止めた。息を止めると音が増える。川の水音、遠い車の音、胸の奥の小さな軋み。

「はい。……読んだ印がつく。読んだだけで、返事しなくても。でも、読んだことは相手に分かる」

道長は薄く笑った。薄い笑いだった。薄い笑いは照れの仮面だ。

「よい仕組みだ」

そして、すぐに言った。

「よい仕組みほど危険だ」

私はその言い方に、つい感情移入してしまった。よい仕組み。私たちは“よい仕組み”を作るために働く。よい仕組みができれば、誰も傷つかないような気がする。だが傷つかない仕組みは、痛みを見えなくする。見えない痛みほど残酷なものはない。

道長は、川の上にある満月を見て言った。

「この世をば——」

私は、息が止まった。来る。あの歌が来る。“望月の欠けたることもなしと思へば”。教科書の中で、あまりにも傲慢に光る一句。傲慢は美しい。美しい傲慢ほど危険だ。美しさは、権力を物語にしてしまう。

道長は、途中で言葉を切った。

「……言えぬな」

私は驚いた。驚きは、こちらの仮面を剥ぐ。仮面が剥がれると、喉が熱くなる。熱は涙に似る。涙は湿り気だ。湿り気は決断を鈍らせる。私は鈍らせたくなかった。だが熱は止まらなかった。

「なぜですか」

道長は、月を見たまま言った。

「欠けが見えるからだ」

欠け。欠けは恥に似る。恥は生き残った者の印だ。道長の世にも欠けがあった。飢えも、病も、怨みも、流罪も。それでも彼は“欠けたることもなし”と言った。言わねばならなかったのか。言いたかったのか。どちらにせよ、言葉は刃になる。刃になった言葉は、後の者の胸を刺す。

道長は私の方へ向き直った。目が重かった。重い目は、人を裁かない。ただ重さだけで人を正直にする。

「いまの国も、望月に見えるだろう。便利で、清潔で、争いが少ない。だが欠けがある。欠けは数字で埋められぬ」

私は、思わず言ってしまった。

「欠けって……何ですか」

道長は、私の胸元の名札を指した。

「名が薄いことだ」

薄い名。薄い名で働くこと。薄い名で生きること。薄い名は、いつでも交換できる。交換できる者ほど、心が冷える。冷えた心ほど、やがて崩れる。

「そして、匂いが薄い」

道長は続けた。

「恋文には香が染みた。言葉の裏に、汗があり、恐れがあり、恥があった。だが今は、既読の印が先に立つ。印は軽い。軽い印ほど残酷だ。印が先に立てば、心は遅れる。遅れた心は置き去りにされる」

置き去り。その語が、私の生活そのものだった。父の病院からの不在着信。友人からの長いメッセージ。返せない既読。返せない既読は、無臭の罪だ。無臭の罪は、積み上がって一度に崩れる。

道長は、最後に言った。

「お前たちは、わしより賢い。わしより多くの者を飢えから遠ざけた。だが賢さは、いつでも欠けを隠す」

そして、月を見た。

「望月は欠けないのではない。欠けを見ないように光を増やすのだ」

光。街の光。スクリーンの光。評価の光。光が増えるほど、闇は濃くなる。濃い闇ほど正しい。正しい闇が、余計な美化を拒む。

風が吹き、川面が一度だけ荒れた。その一瞬で、月が割れたように見えた。割れる月ほど、真実に近い。

次に目を上げたとき、道長の影は薄くなっていた。薄くなる影は物語にされやすい。物語にされた瞬間、匂いは消える。私は消したくなかった。

だから私は、スマートフォンを胸ポケットにしまい、川の匂いを吸った。湿り気。土の匂い。遠い焼き鳥の煙。匂いは生活の重さだ。重さは現実だ。現実は臭い。臭い現実だけが、甘い物語に抵抗する。

その夜、私はホテルの部屋で、父に電話をかけた。正しい言葉を探さなかった。正しい言葉は清潔すぎる。清潔な言葉ほど残酷だ。代わりに、恥を差し出した。

「……ごめん。最近、既読ばっかりで、返せてなかった。明日、帰ったら行く。顔、見に行く」

沈黙があった。怖い沈黙ほど正しい。父は短く言った。

「ええよ。気をつけて帰れ」

たったそれだけで、胸の奥が少しだけほどけた。ほどけることは救いではない。救いは甘い。甘い救いは腐る。これは救いではない。匂いの回復だ。欠けを欠けのまま抱えるための、最初の痛みだ。

窓の外で、満月が薄く光っていた。欠けたることもなし——とは言えない。言えないままでいい。言えないまま、私は明日また“判の国”に戻る。

ただ一つだけ、道長の評価を胸に残す。この国は、よく出来ている。だからこそ、欠けを忘れるな。望月の光に酔うな。既読の印を、内覧の誇りにするな。

匂いを残せ。名を薄くするな。——欠けを見えるままにして、生きろ。

 
 
 

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