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朝焼けの風と富士の声

  • 山崎行政書士事務所
  • 4月4日
  • 読了時間: 10分

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第一章 黎明の日本平

 日本平から望む富士山と静岡市、清水港。夜明けの光が大地を照らし始めている。

夜明け前の空には、まだ幾つか星が瞬いていた。東の空高く、明けの明星がかすかに輝きを残している。やがて地平が紺碧から薄紫へと移ろい、空と大地の境目がほのかに朱に染まり始めた。朝の静けさの中、日本平の丘にひとり立つ幹夫は、息を呑んで空の変化を見守っていた。

やわらかな風が草原を渡り、夜の名残を帯びた冷気が頬をなでる。下方には日本一深いといわれる駿河湾​が横たわり、そこから吹き上げる風が微かに潮の香を運んできた。鳥たちが一斉に目覚め、茂みの中から「ホーホケキョ」と鶯のさえずりが聞こえてくる。幹夫は目を閉じて耳を澄ました。風に揺れる草の音、鳥の囁き——自然が目覚める合図が静寂を少しずつ満たしてゆく。彼の胸にも、夜から朝へと移りゆく不思議な高揚感が広がっていった。


東の空が白み始めると同時に、富士山のシルエットがゆっくりと闇の中から浮かび上がってきた。やがて朝日は富士の稜線を照らし、冠雪した頂きを紅に染める。霊峰富士がその威厳ある姿を現すと、幹夫の心は言葉にできない敬意と畏怖に打たれた。足元から斜面を見下ろせば、碧い茶畑が帯のように広がり​、朝焼けの光に照らされた無数の茶の新芽に宿る露が銀色の粒となって瞬いていた。さらにその先、山裾には朝靄が立ちこめ、眼下の静岡市や清水港の街並みはまだ眠っているかのように静まり返っている。幹夫は思わず胸の前で手を合わせた。かすかな朝焼けの光が大地に差し込み、新しい一日の始まりを告げているようだった。


 日本平の草むらに咲く野の菫の花。朝露に濡れた小さな花弁が朝日に透き通る。素朴なこの花にも、春の訪れと生命の輝きが宿っている。

幹夫は足元に目を落とした。草陰には紫色の小さな菫の花が群れて咲いている。朝露をまとった花弁が朝日に透け、宝石のように輝いていた。彼は膝を折ってそっと指先で一輪の菫に触れた。ひんやりとした露の感触と、ほのかな花の匂いが指先から胸の内へと染み込んでくるようだった。「おはよう」と小さく呟いてみる。自分も自然の一部となって朝を迎えている——そんな安らぎが幹夫の胸に満ちていった。

第二章 都市の波

時は昭和四十年代半ば、日本全体が高度経済成長の熱気に包まれていた。幹夫が暮らす静岡の町も例外ではない。あちこちで建設工事の音が響き、新しい工場や住宅街が次々と生まれていた。朝、丘から見下ろした清水港では、日が昇るにつれてクレーンが動き出し、港湾労働者たちが蟻のように忙しなく行き交うのが見えた。遠く平野部を一筋の銀色の光が横切っていった。それは始発の東海道新幹線であり、街が目覚めて今日という日が巨大な歯車のように動き出したことを告げているようだった。

幹夫はゆっくりと日本平の丘を降り、自宅に戻ると、古い木造の家から自転車を引っ張り出し、いつものように工場へと向かった。彼は市内の機械部品工場で技術者として働いている。白い作業着に袖を通し、油にまみれた機械を相手にする日々——それは詩とはかけ離れた世界だった。工場のサイレンが午前八時を告げると同時に、幹夫は工具を手に流れ作業の持ち場についた。金属を削る轟音が工場内に響き渡り、その喧騒の中で朝の日本平で感じた静謐さは嘘のようにかき消されていった。

昼休み、幹夫は工場の片隅で弁当を広げながら小さな手帳を取り出した。機械作業の合間にも浮かんでは消える言葉の断片を、彼はいつもその手帳に書き留めているのだ。手帳のページには走り書きの詩の一節が並んでいた。

灰色の空 見失われし星コンクリートの川 時を呑み人の波はどこへ急ぐのか

幹夫はペンを止め、未完成の詩行を見つめた。自分の胸の内を吐露したつもりでも、その言葉は虚しさばかりを伝えているように思えた。ため息とともに手帳を閉じ、残りの冷めた茶を飲み干す。作業終了を告げるベルが高らかに鳴り、幹夫は重い足取りで現実の仕事へと戻っていった。

夕方、工場を出ると街は夕焼けに染まっていた。西の空を真紅に染めた夕日がビルの谷間に沈もうとしている。幹夫は自転車を漕ぎながら、街路樹の並ぶ通りを抜けて帰路についた。郊外の空き地だった場所には新しいマンションの鉄骨が組まれ、見慣れた田んぼは駐車場に変わっているのを見て、変わりゆく故郷の風景に胸の奥がざわめいた。便利さと引き換えに何か大切なものが失われてゆく——そんな予感が頭をもたげる。「このまま進んで、本当に人々は幸せになれるのだろうか?」と幹夫は心の中で問いかけたが、沈黙した夕空は何も答えてはくれなかった。

夜、家族が寝静まった後、幹夫は一人書斎の机に向かった。窓の外には遠く富士山の稜線が闇に溶け込んでいる。昼間に書き留めた詩を清書しようとするが、言葉はなかなか紡げなかった。開け放った窓からかすかな夜風がカーテンを揺らし、街の喧騒もようやく収まって虫の音だけが聞こえている。インクの香り、紙の手触り——それらに囲まれていると、幹夫の心は少しずつ落ち着きを取り戻し、ペン先は紙の上で言葉を探し始めた。だが胸の内から湧き出るのは、昼間感じた憂いと焦燥ばかりだった。「僕は何のために生きているのだろう…」ふと漏れた呟きが静かな部屋に落ちる。満たされない思いが、闇に沈む富士の方角へと押し寄せた。

幹夫はペンを置き、窓の外の空を見上げた。都市の灯に霞んで星ひとつ見えない夜空——それは今の自分の心象そのもののように思えた。朝の日本平で見た満天の星は、もはや彼の頭上にはない。彼は胸にぽっかりと穴が空いたような孤独を感じていた。

ふと、遠い昔に父と訪れた日本平の夜明けを思い出す。「富士山はな、人々を見守ってくれているんだよ」と語ってくれた父の声が甦った。当時少年だった幹夫は、その言葉の真意を深く考えなかった。ただ美しい朝焼けと雄大な富士に心奪われていた記憶がある。しかし今になって、その意味をどうしても知りたいと強く思う。「富士山は今の僕に何を語ってくれるだろうか?」——胸にそんな問いが芽生えたとき、幹夫の中で何かが静かに決まった。翌朝もまたあの丘へ行ってみよう。富士の声を、もう一度聞きたい——そう心に誓いながら、幹夫はゆっくりと目を閉じた。

第三章 霊峰との対話

翌朝、幹夫は再び日本平の丘に立っていた。東の空がわずかに白み始めた頃、彼は静かに手を合わせ、薄闇の中にそびえる富士の輪郭に向かって祈るように呟いた。「富士山よ…どうか、僕に教えてください。僕はどう生きるべきなのでしょうか?」静かな問いかけが冷たい空気に溶けて消えていく。一瞬、風が止み、森閑とした静寂が辺りを包んだ。

ふいに、耳元で誰かの声がしたような気がして、幹夫ははっと息を呑んだ。だが辺りに人影はない。聞き違いかと瞬きをしたそのとき——「お前は何に悩んでいるのか。」低く穏やかな声がどこからともなく響いた。幹夫の胸の鼓動が高鳴る。声はまるで大地そのものから湧き上がってくるようだった。幹夫は震える声で答えた。「…僕は、自分の心に正直に詩を書き続けたい。でも、社会の一員として家族を養い、仕事で責任を果たさなければならないとも思うんです。周りの人々は皆、経済の発展や便利な生活のために懸命に働いている。それ自体は尊いことだと分かっています。だけど、ふと怖くなるんです。このまま進んでいったら、自然は失われてしまうんじゃないかって…人々の心から、大切な何かが消えてしまうんじゃないかって…」幹夫は堰を切ったように胸の内を吐き出した。その瞳にはいつしか熱い涙が滲んでいた。

しばらくして、再びあの声が静かに響いた。「お前が感じている不安は、決して無意味なものではない。確かに人は、便利さや豊かさを求めるあまり足元の自然や心の声を置き去りにしがちだ。もし自然とのつながりを忘れたまま開発ばかりを続ければ、その報いはきわめて大きく、いずれ取り返しのつかないものになるだろう​。」声には深い悲しみが宿っていた。「だが同時に、人間には知恵もある。自然を守り、心の豊かさを育みながら進む道を選ぶこともできるはずだ。」幹夫ははらはらと頬を伝う涙を拭い、耳を澄ました。東の空は次第に橙色に明るみ始め、富士の山肌が朝日に照らされてゆく。


「見てごらん、幹夫。」声が促すように言う。幹夫は顔を上げ、滲んだ視界を拭った。眼前には雄大な富士の全貌が朝日に浮かび上がっている。空は黄金色に染まり、小鳥たちが朝の喜びを歌っていた。「私は長い年月、この地上の営みを見てきた。」声は静かに語り始めた。「戦もあった。貧しい時代もあった。人々は泣き、笑い、それでも生き続けてきた。時代は移ろっても、朝は必ず訪れるものだ。真っ暗な夜の後には、こうして必ず光が差す。」ゆっくりと、一筋の陽光が雲間から漏れ、富士の頂を輝かせた。「お前も知っているだろう。真夜中の空にも明けの明星が瞬いていたことを。」幹夫は静かに頷く。「…はい。」まだ嗚咽の名残る声で答えた。

「お前の中にも、星はある。詩という光がな。」声は優しく続けた。「お前の詩は、お前自身の魂の声であると同時に、いつか他の人々の心にも光を灯すだろう。人々は豊かさを追い求めるあまり、ともすれば心に潤いを与えるものを後回しにしがちだ。しかし本当の繁栄とは、自然との調和に根ざした発展と、人の心を潤す文化——その両輪があって成り立つものなのだ​。どちらか一方だけでは、いずれ行き詰まってしまう。」幹夫は息を呑んだ。胸の奥に静かな感動が広がる。「私はお前に詩を書く才能を授けたわけではない。お前自身がそれを見出し、育んできたのだ。そしてそれこそが、お前に与えられた役目でもあろう。」声はそっと語りかける。「どうか自分を信じなさい。風の声、木々の囁き、そして人々の笑顔や涙…そのすべてを感じ、お前の言葉で伝えてゆくのだ。それがお前にできる務めであり、この世界への貢献ともなるだろう。」


幹夫の頬を朝のそよ風が撫でた。それはまるで慈しみ深い手のひらのように暖かかった。胸の中で渦巻いていた迷いが嘘のように消え去っていく。「ありがとうございます…」気がつけば、幹夫の唇から感謝の言葉が零れていた。込み上げる熱い想いに心が満たされる。「私はこれからもここに在る。だから時折、思い出したら会いにおいで。」声が微笑むように言った気がした。幹夫は何度も頷き、朝日に輝く富士に向かって深々と頭を下げた。顔を上げたとき、もう声は聞こえなかった。しかし不思議と寂しさはなく、代わりに大きな勇気が心に宿っていた。

第四章 静かなる変容

 満開の桜の花が青空を背景に咲き誇り、朝の微風に花びらが静かに舞っている。その春の光景は、見る者の心にも静かな喜びを運んでくるようだ。朝陽に透ける花びら一枚一枚が、小さな希望の光のように輝いていた。

朝日がすっかり昇る頃、幹夫はゆっくりと丘の上を歩いていた。足元一面に桜の花びらが散り敷いている。世界は昨日までと同じ姿をしているはずなのに、彼の目に映る景色はどこか一変していた。空の青さは透き通り、風の香りは一層甘やかに感じられる。鳥たちのさえずりも耳慣れた旋律のはずだが、今朝はまるで新しい歌のように胸に染みた。幹夫の心は満ち足りている。長らく覆っていた心の靄が消え去り、暖かな光が隅々にまで行き届いていたのだ。

幹夫は桜の木の下に腰を下ろした。取り出した手帳の白いページが朝日に輝く。彼はペンを走らせ、心に浮かぶままに言葉を綴っていった。迷いはない。湧き上がる想いが透明な言葉となって紙面に降り注いだ。

暁の風が 胸を吹き抜ける露と消えゆく 宵(よい)の迷い燃ゆる朝日が 道を照らし悠久の霊峰(れいほう) 空より見守る新しき朝(あした)へ 我は歩み出す

書き終えた詩を読み返し、幹夫は静かに微笑んだ。それはまるで自分自身へのエールのようだった。ゆっくりと立ち上がり、朝日に向かって大きく伸びをする。希望に満ちた新しい一日が、今まさに始まろうとしていた。幹夫は手帳を胸ポケットにしまい、軽やかな足取りで丘を後にした。その背中を、黄金色の朝日が静かに押していた。

 
 
 

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