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東海道とトンネル建設の苦闘〜 明治の山を貫く三十年の挑戦 〜

  • 山崎行政書士事務所
  • 1月17日
  • 読了時間: 5分



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1. 明治初期、東海道の地に宿る大構想

 明治七年(一八七四)――近代国家を目指す日本が、ようやく鉄道敷設に本腰を入れはじめたころ、東海道沿いでも大規模なトンネル建設が提案された。 その地勢(ちせい)は厳しく、山脈が海岸線に迫り出しているため、迂回(うかい)すれば鉄道の延長は途方もなく伸びるし、海沿いに大掛かりな崖工事をするのもまた困難極まりない。結局、「山を貫くしかない」という結論に至った。 しかし、当時の日本にトンネル建設の経験は乏しかった。技術者も限られ、外国から招聘(しょうへい)した専門家さえ、ここまで困難な地形を前に、唇を噛みしめるほかなかった。人々は“近代化”という名の大義を掲げながら、その実現をどう果たすか暗中模索だったのだ。

2. 明治六年の災害と出発点の苦悶

 実はトンネルの計画に先立つ明治六年(一八七三)には、激しい豪雨や地震を伴う天災がこの地域を襲った。その混乱で山肌が崩れ、村落が大きな被害を受けた。 まもなく、政府高官が視察に来て「鉄道が通れば物資がいち早く運ばれ、復興が容易になるだろう」と豪語したが、地元住民からは「本当にそんなことが可能なのか」「第一、山崩れの多いこの地形に鉄路など通るのか」と辛辣(しんらつ)な声が飛んだ。 それでも官僚や技術者たちは、山々を測量し、ルートを検討する。そこには西洋式の測量器を初めて目にした村人の好奇心と戸惑いが交錯(こうさく)していた。「これが外人の機械か」「わが国でもこんなことができるのか」と、村人たちは不思議そうに見守った。

3. 技術者たちの決意と苦闘

 明治七年、仮工事の着工が発表されるや、国内各地から集まった技術者と工夫(こうふ)たちが現地に入り、キャンプを張った。 指揮を執るのは若き日本人技師・大塚(おおつか)と、外国人技師ローガンだ。大塚は幕府崩壊後に欧州留学を経験しており、西洋のトンネル工法に一応の知識がある。しかし現場の山は未知そのものだった。 「ここは岩盤が脆(もろ)く、地震も多い。さらに地下水脈(すいみゃく)が複雑に走り、掘削(くっさく)すれば水が噴き出すかもしれない」 そう警告するローガンに対し、大塚は「我らが手を合わせることで、きっと道は開ける。日本の力を示したいのだ」と眼をきらめかせる。二人の共通言語は英語や拙(つたな)い日本語を交えてだが、建設への情熱は共有していた。

4. 山と闘う三十年

 とにかく工事は難航を極めた。最初の十年でわずかに数百メートルしか掘れなかったときもあった。 明治十数年には、また大きな地震が起こり、すでに掘り進めた坑道の一部が崩落し、多くの工夫が犠牲になったという惨劇が発生。「こんな苦労はいつまで続くのか」「そもそも完成するのか」と悲観する声が高まる。 しかし大塚とローガンら技術陣は諦めず、新しい発破技術を試み、坑内の通気や排水システムを改良し、少しずつ前進した。それら技術改良には地元の木材業者や町人の協力があり、人夫(にんぷ)や物資輸送が絶えることのないよう調整が続けられた。

5. 地元住民の葛藤と支え

 一方、地元住民の気持ちは複雑だった。鉄道が完成すれば利便性は大幅に向上するだろうが、それまでに山が切り崩され、昔からの山道や祠(ほこら)が失われるのではないかという危惧もあった。 また、工事関係者が数百人単位で移住し、村落の治安や物価が乱れるという懸念も少なくなかった。 それでも、工事が続くほどに、技術者と住民とのあいだで心の通い合いが生まれ始める。「よそ者が思い描く科学や技術が、我らの山をどう変えるのか見届けたい」と熱中する若者も現れ、炊き出しや資材運搬を喜んで手伝うようになった。

6. 幾度目かの崩落、そして光

 明治二〇年を過ぎたあたりでも、未だ掘削は半ばにも届かない。幾度となく崩落や地下水の噴出で計画が後退した。 伝えによれば、この時期に大塚は深夜、工事の現場を歩きながら弱音を吐(は)いたという。「私が生きているうちに、本当にトンネルは貫通するのか……」 だが、ローガンがそっと肩を叩き、「あなたの国の底力を信じよう」と微笑(ほほえ)んだ。祖国を離れた外国人技師が、むしろ日本の地を愛し、この山の情景に心打たれている様子が伝わり、大塚は改めて決意を固めた。

7. 三十年の果て、トンネルの完成

 明治から大正への移り変わりの中、ようやくトンネルが貫通する日が来たのは工事開始から約三十年後のことであった。 最後の岩壁が崩れ落ち、作業員たちが互いを呼び合い、狭い坑道の向こうから光が差し込んだとき、その場に居合わせた人々は歓喜のあまり叫び声を上げた。 誰かが「天井が落ちないように気をつけろ!」と慌てるそばで、別の者は「やっと神代からの山が貫かれたのだ…」と神妙に涙を浮かべる。まさに、長い長い戦いが一つの到達点を迎えた瞬間だった。

8. 余韻

 こうして東海道にトンネルが通り、新しい鉄路が海岸線の交通を一変させることになった。 明治七年(一八七四)に着工して以来、約三十年という歳月を費やしたこの大工事は、まさに日本の近代化を象徴する壮大な事業であり、同時に地元住民と技術者の血と汗、そして山の大自然との格闘(かくとう)の軌跡でもあった。 トンネルが完成したあと、地域の経済は急激に変化した。物資と人の行き来が盛んになり、都市へのアクセスが容易になる一方、昔からの山道に宿っていた素朴な風景が薄れていくという嘆きもあった。 しかしながら、工事によって生まれた結束もある。土木技術を学んだ若者が次々と新しい工事現場へ羽ばたき、村では外国人技師の家庭と交流し合い、文化の差を越えた友情が息づいた。 人々が見上げる山は、いまやトンネルによって内部を貫かれ、それが当たり前の風景となった。けれども、かつて人びとがこの難所を越えるため必死に歩き、そして工事のために地を掘り進め、血を流した歴史は地底に刻みつけられている。 まさしく近代日本の黎明期(れいめいき)、西洋技術と和魂(わこん)の融和によって成し遂げられた大いなる挑戦。トンネルの入り口に立てば、今なおそこから当時の工夫(こうふ)たちの息遣いや、大塚・ローガンら技師の情熱が、かすかな風となって聞こえてくるかのようである。

(了)

 
 
 

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