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東海道銀河電車・静岡停車

 最終のベルが、静岡駅の天井のどこかで、かすかに鳴りました。

 ぴん。

 ぴん。

 といふよりも、鉄の骨の奥で、一本の針がふれるやうな音でした。

 改札のシャッターは半分降り、売店の灯はひとつ、またひとつ消え、ホームの蛍光灯だけが白く残つて、床の黄色い点字ブロックを、まるで顕微鏡の下の標本みたいに照らしてゐました。

 自販機は、ううん、と低く鳴り、時刻表は、紙のまま静かに時を持つてゐます。

 人はもうほとんど居ません。清掃の人が、モップを「すう、すう」と押してゐるだけです。

 幹夫青年は、その白いホームに立つてゐました。

 なぜこんな時間に、ここにゐるのか自分でも分かりません。

 けれども、胸の底の重たい石が、今夜はどうしても部屋の中に納まらず、町の光の下を歩かせ、つひに駅まで連れて来てしまつたのでした。

 ――どこへ行きたいんだらう。

 ――どこへも行けないのに。

 幹夫青年は、線路の方を見下ろしました。

 レールは黒く、しかしそこだけは、街灯の反射で、細い銀いろの線になつてゐます。

 遠くのポイント(分岐器)のところで、風が吹くと、レールが、

 きいん……

 と、ひとつ鳴くのでした。

 その音を聞くたびに、幹夫青年の胸の石も、こつ、と鳴るやうに思へました。

 そのときです。

 線路の奥の闇が、ふうつと薄くなり、

 闇の中に、ほんの小さな青い火が二つ、ぽつ、ぽつ、と点りました。

 最初は列車の前照灯だと思ひました。

 けれどもその火は白ではなく、星の青で、しかも音がありません。

 いつもの列車なら、遠くから「ごとん、ごとん」と音が来るのに、今夜のそれは、音を連れて来ないのです。

 ただ火だけが近づいて来て、やがてホームの端の空気が、冷たい金属の匂ひに変はりました。

 それから、線路の上に、光の輪郭が現れました。

 車体の縁が、まるで夜空の星座のやうに点で縁どられ、窓には暗い海が映つてゐるのに、その海の中で星が泳いでゐます。

 列車の側面には、白い字がありました。

 「東海道 銀河電車」

 幹夫青年は、息をのみました。

 こんなものが、時刻表にあるはずがありません。

 けれども「無いはずだ」といふ言葉は、その列車の前では、紙みたいに薄くなりました。

 列車は「ある」のではなく、「来てしまつた」のでした。

 ぷしゅう……。

 ドアが開きました。

 湯気のやうな白い息が、ふわりとホームへ流れ出ました。

 その息は冷たいのに、どこか甘い匂ひがしました。松の匂ひと、潮の匂ひと、茶の青い匂ひが、いっしよに混じつてゐるのです。

 そして、ドアのところに、車掌が立ちました。

 紺の制服を着て、帽子のつばが月の光を受けて銀いろに光り、胸のボタンが星みたいにきらきらしました。

 車掌は、まつすぐ幹夫青年を見て言ひました。

 ――ミキオ青年。

 ――お待ちしてをりました。

 ――切符(きつぷ)をお見せなさい。

 幹夫青年は、びつくりして自分のポケットを探りました。

 いつもの定期券しかないはずです。

 けれども、指先に紙の角が触れました。

 取り出してみると、それは小さな白い切符で、紙の中にうすく、銀いろの粉が混じつてゐます。

 幹夫青年は車掌へ差し出しました。

 車掌は切符を見て、ふうと息を吐きました。

 そして、少し困つたやうに言ひました。

 ――これは「どこからどこまで」の切符ではありません。

 ――あなたの切符は、路線図の上を走るものではない。

 ――あなたの切符は、「いま、ここから」「いま、ここへ」です。

 幹夫青年は、切符の文字を見ました。

 たしかに、駅名が書いてありません。

 かわりに、鉛筆のやうな字で、たつた一つ、丸い字がありました。

 「近」

 「……近い?」

 幹夫青年が呟くと、車掌はうなづきました。

 ――遠い銀河へ行く切符は、ほかにたくさんあります。

 ――けれども、あなたに渡されたのは、近いところへ行く切符です。

 ――近いところへ行くのが、いちばんむづかしいのです。

 幹夫青年は、胸の底の石が、ぐう、と動くのを感じました。

 「近いところ」――それは、逃げられない言葉です。

 遠いところなら、夢にできます。

 近いところは、夢にできません。

 近いところは、手が届いてしまふからです。

 車掌は、ドアの内側を手で示しました。

 ――どうぞ。

 ――静岡停車(ていしや)は、三分です。

 ――三分で、あなたは自分の「近さ」を見て来なければなりません。

 幹夫青年は、ふらふらと一歩、車内へ入りました。

 中は、明るくはありませんでした。

 夜の深い青の明りが、床をうすく照らし、座席は雲のやうに白く、天井には透明な管が走り、その中を小さな光の粒が、

 とろり……とろり……

 と流れてゐます。

 流れる粒は、泡のやうでもあり、星屑のやうでもありました。

 そして座席には、いろんな乗客がゐました。

 白い羽を畳んだ鴎が、足にまだ糸の感触を残して静かに座り、

 銀いろの鮎の子が、水の匂ひのする袋の中で「ぴち」と尾を振り、

 帽子をかぶつたどんぐりが、松葉の槍を膝に立ててゐました。

 巴川のくらげ燈が、ふうつと腹を光らせて、

 さくらえびが、ぷつ、ぷつ、と電信みたいに瞬いて、

 雲工場の輪郭係が、ゴーグルの奥でにやりと笑ひ、

 黒い猫が、しつぽを「ぱたん」と振つてゐます。

 石の学校の先生みたいな大きな岩までが、座席の端で、黙つてゐました。

 みんな、幹夫青年を見ると、小さくうなづきました。

 ――ミキオ青年。

 ――ミキオ青年。

 呼ばれるたびに、幹夫青年の胸の石は、こつ、こつ、と鳴りました。

 石はまだ重い。

 けれども、その重さが、いまは少しだけ「名札のある重さ」になつてゐるやうに感じられました。

 車掌が、車内の小さな掲示板を指しました。

 掲示板には、停車駅が並んでゐます。

 けれども駅名は、ふつうの駅名ではありませんでした。

 「三保 銀河砂」

 「安倍川 水晶ラッパ」

「駿府 どんぐり兵隊」

 「茶畑 ひかりの梯子」

 「巴川 くらげ燈」

 「清水港 さくらえび電信」

 「日本平 雲工場」

 「呉服町 セロ弾き茶屋」

 「大谷崩れ 石の学校」

 「用宗 潮のオルゴール」

 「静岡 停車」

 幹夫青年は、その文字を見て、胸の奥が少し熱くなりました。

 それは「遠い銀河」ではありません。

 どれも、歩けば行ける場所です。

 手が届く場所です。

 それなのに、そこへ行くことが、どこか宇宙みたいに大きく感じられるのです。

 車掌が言ひました。

 ――これらは「駅」ではありません。

 ――あなたがこれまで拾つた一ページの名前です。

 ――あなたがほどいた糸、あなたが押へた風、あなたが置いた石。

 ――それらが、路線になつてゐるのです。

 ――東海道の線路は、地上の鉄でできてゐます。

 ――けれども、あなたの線路は、いままでの手つきでできてゐます。

 幹夫青年は、切符を握りしめました。

 切符の銀いろの粉が、指の熱で、すこしだけあたたかくなりました。

 「……ぼくは、どこへ行くんですか」

 幹夫青年が訊くと、車掌はゆつくり首を振りました。

 ――あなたは「どこへ」ではありません。

 ――あなたは「どれだけ近く」へ行くかです。

 ――遠いところへ行けば、景色は派手です。

 ――けれども近いところへ行くには、目の焦点を合わせなければならない。

 ――焦点が合ふまで、痛いのです。

 幹夫青年は、ふと、ホームの方――ドアの外――を見ました。

 白い蛍光灯の下で、清掃の人がまだモップを動かしてゐます。

 その人の足もとのところに、何か黒いものが落ちてゐるのが見えました。

 小さな鍵束です。

 鍵束が、床の上で、きらり、と一度だけ光りました。

 幹夫青年の胸の石が、こつ、と鳴りました。

 その「こつ」は、さつきまでの「なぜだらう」のこつではなく、

 「いま、やれ」といふこつでした。

 車掌が言ひました。

 ――静岡停車、残り一分。

 ――ミキオ青年。

 ――あなたの切符は「遠い銀河」へ行くためにあるのではない。

 ――あなたの切符は、いま見えた鍵束のためにある。

 ――切符は、距離ではなく、手の方向です。

 幹夫青年は立ち上がりました。

 座席の乗客たちが、いっせいに小さくうなづきました。

 鴎が、羽を少しだけ開き、

 鮎の子が、ぴち、と尾で返事をし、

 どんぐり兵隊が、松葉の槍で、

 こつ、

 と敬礼の音を立てました。

 幹夫青年は、ドアの方へ走りました。

 車掌が帽子のつばを上げ、静かに言ひました。

 ――では。

 ――つぎの停車は、あなたの「明日」です。

 ――明日は、また来ます。

 ――けれども、来たときに、あなたが乗れるかどうかは、いまの近さで決まります。

 幹夫青年はホームへ飛び出しました。

 ぷしゅう……。

 ドアが閉まりました。

 銀河電車は、音もなく、すうつと後ろへ引いて行きました。

 レールが一度だけ、

 きいん……

 と鳴いて、列車は闇の中へ溶けました。

 溶けたあとには、いつもの線路だけが残り、蛍光灯の白さが、さつきと同じやうに床を照らしてゐます。

 幹夫青年は、目をこすりました。

 夢だつたのかもしれません。

 けれども、掌の中には、まだ切符の角の感触が残つてゐました。

 幹夫青年は、清掃の人の方へ歩いて行きました。

 鍵束を拾ひ上げると、金属は冷たく、正確で、言ひ訳を許しません。

 幹夫青年は鍵束を、そつと差し出しました。

 「落ちてゐました」

 清掃の人は、びつくりして顔を上げ、それから、ほつと笑ひました。

 「ああ……助かりました。これ、無いと倉庫が開かなくてねえ」

 その笑ひは、派手ではありません。

 けれどもその小さな笑ひが、幹夫青年の胸の底へ落ちて、

 ぽん

 と、ちいさな泡を上げたやうに感じられました。

 泡はすぐ消えました。

 けれども消える前に、たしかに「次の泡」を押し上げたのです。

 幹夫青年はホームの端へ戻り、線路の闇を見ました。

 銀河電車はもう見えません。

 けれども、闇はさつきよりも少しだけ、怖くありませんでした。

 闇の中に、何かが「待つてゐる」気配が、少しだけ、やさしくなつたからです。

 幹夫青年は、切符を見ました。

 切符の「近」の字は、さつきよりも濃く見えました。

 濃く見えるのは、字が変はつたのではありません。

 幹夫青年の目の焦点が、ほんの少しだけ合つたのです。

 ――遠い銀河を探す前に、近い鍵束を拾ふ。

 ――近いところへ手を伸ばす。

 ――それが、ぼくの東海道なのだ。

 幹夫青年は、静岡駅の出口の方へ歩き出しました。

 靴の音が、

 こつ。

 こつ。

 と、少しだけ揃つてゐます。

 胸の鼓(つづみ)も、

 たん、たん。

 と、すこしだけ整つてゐます。

 駅の外へ出ると、夜の空に、雲の切れ目があり、そこに星が二つ三つ、冷たく光つてゐました。

 その星が、遠い銀河の星なのか、ただの物理なのか、幹夫青年にはもう、どちらでもよいのでした。

 ひかりは遠くから来る。

 けれども使ふのは、いつも、近いところ。

 切符は、距離ではなく、手の方向。

 幹夫青年は胸の中で小さく言ひました。

 「……あしたも、近いところへ、ひとつだけ」

 風が「すう」と通り、

 どこか遠くでレールが、また一度だけ、

 きいん……

 と鳴りました。

 それは返事でも、ただの鉄の伸び縮みでも、どちらでもよいのでした。

 
 
 

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