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松葉の電報

 十一月の終わりの蒲原は、朝の空気が薄い硝子みたいに澄んでいて、息を吸うと胸の奥へ白い道が一本、すうっと通る気がします。畦道の土は夜のあいだに固くなり、踏むと、こりっ、と小さく鳴りました。薩埵峠の影は長い帯になって町の端を撫で、駿河湾は遠くで鋼の板みたいに光っています。波は低く、しゅう……ざあ……と、控えめに息をしていました。

 その朝、幹夫は縁側の前で立ち止まり、窓辺の並びを一つずつ見ました。

 青いガラスの星。 割れた貝の星座の箱。 虹の海硝子。 竹の短冊。 銀の輪。

 そこに、机の上の本がひとつ、加わっていました。父から来た“匂いのしおり”を挟んだ本です。しおりの端は少し焦げて、焦げの匂いがみかんの匂いに混ざって、冬の味がしました。

 窓の外から、風が来ました。

 どっどど――。

 台風のがたんではなく、木枯らしの風でした。強いのに、どこか乾いていて、まっすぐで、余計なものを持っていかない風。風が縁側の柱を撫で、窓辺の紐を揺らし、

 青い星が、からり。 銀の輪が、きん。

 いつもの短い会話がありました。 けれど今日は、その二つの音の間に、別のものが挟まりそうな気配がありました。風が細い糸ではなく、針みたいに尖って、胸の奥の空洞の壁を、つん、と突く気配。

 幹夫は、喉の奥が紙みたいに乾くのを感じました。

 ――木枯らしは、返事を運ぶ風なのに。 ――どうして今日は、胸が寒いんだろう。

 寒いのは外のせいだけではありませんでした。音が鳴ると、鳴るほど、鳴らない日も思い出す。返事があると、返事のない時間の輪郭が、余計に見える。

 台所から祖母が言いました。

「幹、今日は風がよく歩く。顔も手も、よく洗っておいで。風は乾くからね。心も乾きやすい」

 心も乾きやすい。 祖母のその言い方が、幹夫の胸にこつん、と当たりました。乾くと、言葉が引っかかる。引っかかると、言えないことが重くなる。

 幹夫は顔を洗い、学校へ向かいました。

 校庭の端の松の木が、ざわざわと鳴っていました。葉っぱではなく、針みたいな葉が、いっせいに擦れ合って、さささ、と音を立てています。音は細いのに、数が多いから、空が一枚、震えるみたいでした。

 休み時間、こういちが幹夫のところへ来て、松の下を見上げました。袖をまくった手首が、風で少し赤くなっています。

「松、うるさいね」とこういちが言いました。「うん。でも……嫌じゃない」と幹夫は答えました。 嫌じゃないのに、胸が落ち着かない――その不思議を、自分でもまだ上手く言えませんでした。

 こういちは地面に落ちた松葉を拾い、指先で挟んで見せました。松葉は二本が一緒になって、ぴんと伸びています。

「これでさ、笛ができるよ」「……笛?」 幹夫は思わず聞き返しました。笛、と言われた瞬間、胸の奥の空洞が、ひゅっと息を吹きました。笛は声より遠くへ行く気がするからです。

 こういちは、両手の親指を合わせて、松葉をその間にそっと置きました。そして口元に近づけ、息を――

 ひい。

 ほんの細い音が出ました。 音は小さいのに、幹夫の胸の奥に、まっすぐ刺さりました。刺さったのに痛くない。刺さったところが、ふっと温かくなる。

「……出た」とこういちが言いました。 言い方が、得意げじゃなくて、ただ驚いている言い方でした。

 幹夫は、その松葉を受け取りました。指に触れると、冷たくて、まっすぐで、少しだけ甘い樹脂の匂いがします。みかんの匂いとは違う、冬の緑の匂い。

 幹夫は真似をしました。親指と親指の間に松葉を置いて、息を――

 すう。

 何も鳴りません。風だけが自分の口の前で、空っぽに流れていきます。空っぽの流れは、胸の奥の空洞に似ていて、幹夫は急に焦りました。

 焦ると、指に力が入ります。 力が入ると、松葉が動きます。 動くと、鳴る前に、折れます。

 ぷち。

 小さな音。 切れる音。

 幹夫の胸が、すとん、と底へ落ちました。底は冷たい。冷たいと、怒りが出そうになります。怒りは熱いから、冷たさを隠してくれる。でも、怒りが出る前に、幹夫の喉の奥がじん、と熱くなりました。涙の前の熱。熱いのに、恥ずかしい熱。

「……だめだ」 幹夫は小さく言いました。言うと、“だめな自分”が立ち上がるのを知っているのに、止められませんでした。

 こういちは、折れた松葉を責めませんでした。幹夫も責めませんでした。こういちはただ、幹夫の手元を見て、言いました。

「幹夫、息して。……指で押さえるんじゃなくて、置くみたいに」「置く……」 幹夫は繰り返しました。

 置く。 その言葉は、祖母の「ぎゅうぎゅうはだめ。息ができるくらい」の言葉とつながりました。結び目も、藁のゆりかごも、みんな同じ。押さえつけると息が止まる。息が止まると、音も止まる。

 幹夫はもう一度松葉を拾い、親指の間に“置きました”。 置くと、松葉が自分で道を探すみたいに、すっと座りました。

 幹夫は息を吸って、吐きました。

 ひい。

 音が出ました。 音は細くて、冬の空気にすぐほどけそうなのに、確かに出た。確かに、ここから外へ出た。

 幹夫の胸の奥が、ふっと緩みました。緩むと、涙が出そうになりました。けれど涙は出ませんでした。今日は涙より先に、息が深くなりました。

「……鳴った」と幹夫は言いました。 声が、いつもより少しだけ丸かった。

 こういちがうなずきました。

「うん。電報みたいだね。短いけど、ちゃんと来るやつ」

 電報。 その言葉が、幹夫の胸の中でぴん、と光りました。長い手紙じゃなくてもいい。短くても届くものがある。届くものがあるなら、言えない言葉も、別の形で行けるかもしれない。

 放課後、二人は薩埵峠の方へ少し登る道の手前まで行きました。そこから海が見え、波がしゅう……ざあ……と呼吸しているのが、遠くの布の上の縫い目みたいに見えました。

 木枯らしが、峠から下りてきます。 風は冷たい。 でも冷たい風には、変に湿った怖さがありません。 怖さがないわけではない。けれど、握りしめたくなる怖さではない。

 こういちが言いました。

「ここで吹くと、遠くまで行くよ」

 幹夫は松葉を持ち、親指の間に置きました。 息を吸って、吐く。

 ひい。

 音は風に乗って、海の方へ飛んだように感じました。飛んだのは本当の音かもしれないし、幹夫の胸の想像かもしれない。けれど、どちらでもよかったのです。想像でも、胸が息をするなら、それは“道”になる。

 幹夫は胸の中で、そっと言いました。

 ――父さん。 ――これは言葉じゃないけど、ぼくの音だよ。

 言葉にしようとすると喉が痛くなることがある。 “帰って”を思うと、糸が張りすぎる。 でも、ひい、なら、胸が切れない。 ひい、は、言えない言葉の代わりの小さな舟。

 こういちも隣で、ひい、と鳴らしました。二つの音は同じなのに、少し違う。違うのに、一緒に風へ混ざる。混ざると、ひとりの音より、少しだけ遠くまで行く気がしました。

 家に帰ると、祖母が火鉢の灰を整えていました。灰の上に炭の星が小さく赤くなって、ぱち、と瞬きます。窓辺では青い星と銀の輪が、風の来るたび、からり、きん、と会話していました。

 幹夫は、折れずに残った松葉を一本、祖母に見せました。

「これ、笛になる」「松葉笛かい」祖母はうなずきました。「松はね、冬でも緑だ。冬の声が出るのも、当たり前だね」

 祖母は、その松葉を小さな紙に挟み、折って、小さな“しおり”にしました。 紙は白いのに、松葉の緑が透けて見えます。透ける緑は、冬の中の命の色でした。

「本に挟んでおいで」と祖母が言いました。「怖いとき、声が出ないときはね、しおりを触って息を思い出すといい」

 幹夫は、その松葉のしおりを、自分の本にそっと挟みました。父の匂いのしおりの隣です。 みかんの匂いのしおり。 松葉の緑のしおり。 匂いと音の、二枚のしるし。

 夜、窓辺の銀の輪の紐のそばに、祖母は短い松葉を一本、そっと結びました。結び目は小さい瘤になって、指先に硬く当たります。硬い瘤は“戻った跡”の印。

 風が通ると、青い星が、からり。 銀の輪が、きん。 その間で、松葉が、かすかに――ひゅう。

 声とも音とも言えないほど小さな響き。 けれど幹夫の胸は、それをちゃんと聞きました。聞いた瞬間、胸の奥の空洞が、冷たい穴ではなく、音の通る筒になりました。

 からり(ここ)。 きん(遠く)。 ひゅう(言えないところ)。

 三つが並ぶと、胸は少しだけ楽に息ができます。

 幹夫は机に向かって、父へ短い手紙を書きました。

 「とうさん」 「きょう まつばで ふえを ふきました」 「ひい と なりました」 「ことばじゃないけど ぼくの おとです」 「ほんに まつばの しおりも はさみました」 「こっちは きょう からり と きん と ひゅう でした」

 “早く帰って”とは書きませんでした。書けない自分はまだいます。けれど今日は、その書けなさが、糸を張りすぎないための加減に思えました。言葉が重いなら、音でいい。音が小さいなら、しおりでいい。道はいくつあってもいい。

 布団に入ると、遠くで汽車がことこと鳴り、踏切が――カン、カン、と夜を渡しました。波がしゅう、と引いて、ざあ、と返しました。虫の声はもう細く、りん……りん……が、風のひゅう……に混ざっていきます。

 幹夫は目を閉じて、胸の中でそっと言いました。

 ――電報は短い。 ――短いから、切れない。 ――切れないなら、明日も送れる。

 窓辺で青い星が、ごく小さく、からり。 銀の輪が、それに返して、きん。 松葉が、ひゅう。

 その三つの返事を聞きながら、幹夫の胸の空洞は、今夜も冷たい穴ではなく、冬の風と小さな音が通っていく、あたたかい筒のままでした。

 
 
 

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