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根に抱かれて息をする――タ・プロームで借りたクラマー

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シェムリアップの朝は湿った。森の手前でトゥクトゥクを降りると、空気の温度が一段あがる。アンコール遺跡群のひとつ、タ・プローム。石の回廊は緑に覆われ、頭上からは鳥の声、足もとからは乾いた葉のこすれる音。目の前で、一本の巨大な根が寺院の屋根をまたいでいた。まるで大きな手が、崩れないように建物を抱きとめているみたいだ。石は苔で青く、根は乳色にふくらんで、触れれば体温がありそうに見える。

カメラを構えたら、レンズが一瞬で曇った。湿気が勝つ。あたふたしていると、入口脇の売店のおばさんが手招きした。山積みのボトル水と一緒に、格子柄の布を何枚も吊っている。カンボジアのスカーフ、クラマーだ。

「これ、貸す。首とレンズ、両方にいいよ」と日本語混じりの英語。笑って受け取ると、布は汗で冷えた首にやさしく、曇りもゆっくり引いていった。おばさんは「Aw kun(ありがとうは“オークン”ね)」と発音まで教えてくれる。少し照れながら復唱すると、彼女は満足そうにうなずいた。

石段を上がって内部へ。木の手すりの先で、スタッフの青年が静かに合掌してくる。名札には“Vanna”。彼は根の名前を教えてくれた。「スポアン。木の名前。寺を壊す時もあるけど、守ってもいる。ここはね、人と木が“話し合い中”なんだ」

回廊を抜けると、映画で見たことのある“根に飲まれた門”が現れた。近くにいた男性観光客が、嬉しさ余って石に足をかけようとして、警備員にやさしく止められている。Vannaが肩をすくめて笑う。「木が撫でるのは自由。でも僕らは撫でるだけ」。たしかに、手のひらを根に当てると、ざらつきの中にしっとりした湿り気があった。生き物の皮膚の感触。その瞬間、蚊がふくらはぎに止まった。思わずはたくと、すかさずVannaがポケットから小さなタイガーバームを取り出し、少し分けてくれる。メントールの匂いが鼻に抜けた。

奥へ進むと、迷路みたいな小部屋が続く。天井の落ちた空間で、オレンジ色の袈裟の少年僧が三人、スマホを自撮り棒にセットしていた。けれど画角に全員が入りきらない。私は目で「押しますか?」と訊く。少年たちはいっせいに合掌で応えた。広角で一枚、二枚。「Okun chraen(どうもありがとう)」と練習したての英語にクメール語が混じり、最後に一人が気恥ずかしそうに「日本のどこ?」と聞く。答えると、「いつか行きたい」と小さく笑う。その笑いが、石の部屋をやわらかくした。

正午が近づき、湿気はさらに重みを増す。外へ出ると、さっきの売店のおばさんがベンチを指さした。「休憩、休憩。グリーンマンゴー、食べてみる?」薄く切った青いマンゴーに、塩・唐辛子・砂糖を混ぜた粉をぱらり。噛むと、甘酸っぱさに汗が引く。隣の木陰では、遺跡修復の作業員がレンガの並びを指差しながら、番号のついた石をひとつずつ確認している。おばさんが言う。「私の弟もAPSARA(遺跡保護機関)で働いてる。石は重いけど、順番が分かれば動く。人も同じ」

食べ終えたら、私のクラマーを指して彼女が結び方を教えてくれた。首、頭、腰、肩掛け――あっという間に四通り。最後は私のカメラストラップに結び、レンズの曇り止め兼汗拭きにする方法まで伝授。「クラマーは“なんでも係”。赤ちゃんの抱っこにも、荷物の紐にも、枕にもなるよ」と胸を張る。私は「じゃあ今日は、旅のお守りにします」と言うと、おばさんは「持っていきな」と、貸していた布をぐいっと押し付けてきた。代金を差し出すと、彼女は首を振る。「さっき“オークン”を上手に言えたから、プレゼント」

午後の回廊で、小さなハプニングがあった。足もとの石が風で転がったのか、少年がつまずいて膝を擦りむいた。観光客が「ティッシュ!」と手を伸ばし合う中、私はさっき習ったばかりのクラマーを思い出して、端っこを細くねじって簡易包帯にした。Vannaが消毒液を持ってきて、少年の母親が何度も頭を下げる。クラマーは本当に“なんでも係”だ。布を水で洗って日向に張れば、数分で乾く。太陽は容赦ないけれど、こういう時は味方になる。

日が傾くころ、根の影は長く伸び、石の緑は深くなる。ふと、Vannaが「ここで掌を重ねてみて」と言った。彼の合図で、近くにいた人たちが輪になり、目を閉じる。風が葉を揺らす音、遠くの鳥の声、どこかで石がわずかに軋む気配――数十秒の沈黙のあと、彼は笑って言った。「いま、木が呼吸する音を聞いた。僕らも同じ場所で息をしてる。それだけで十分でしょ?」

出口に向かうと、朝のおばさんが店じまいをしていた。木箱にボトル水、干しバナナ、ポストカード。私が「クラマー、本当に助かった」と言うと、彼女は指で自分の頬をつまんで、「あなたの顔、朝より軽い」といたずらっぽく笑った。別れ際、小さな紙包みを渡される。開けると、カンボジアの黒胡椒がひとつかみ。「帰ったらスープに。木の匂いが少しするから」

トゥクトゥクに戻ると、運転手のソカーがミネラルウォーターを差し出してくれた。「暑かったでしょ」私はクラマーを額に当て、「Aw kun」ともう一度。発音は朝より上手くなった気がする。車が森を離れると、バックミラーに巨大な根が小さくなっていった。抱きとめる手、支える腕、ほどけてはまた絡む線。

遺跡は、過去のものじゃなかった。湿気に曇るレンズ、タイガーバームの匂い、塩と唐辛子のマンゴー、クラマーの結び目。今日ここで交わした小さなやり取りが、石と木の間でいまも続いている呼吸に重なって、胸の中でゆっくり動き続けている。ホテルの部屋でシャワーを浴びてからも、借りたクラマーは枕元に置いた。布の端に指を引っかけると、日中の湿った風の感触がよみがえる。

旅先で手に入れたものの中で、一番頼りになるのは、たぶん“道具以上の道具”だ。タ・プロームで借りた一枚の布は、汗を拭き、レンズを守り、子どもの膝を包み、最後は私の心を落ち着かせた。次にあの根を見に行くとき、私はまたクラマーを首に巻いて、静かに手のひらを合わせるだろう。木の呼吸と同じリズムで、ゆっくりと。

 
 
 

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