桜海老に揺れる波の音
- 山崎行政書士事務所
- 2025年5月15日
- 読了時間: 4分
第一章 浜辺の夜明け
薄曇りの空の下、幹夫(みきお)は母の車に乗って駿河湾の港へやってきた。まだ夜が明け切らぬうち、湾内の船がぱらぱらと出て行く。 「桜海老の水揚げが見られるかもしれないわよ」 母がそう言って微笑む。桜海老の漁期に合わせて泊まりがけでこの港を訪れるのは、幹夫にとって初めての経験だ。夜気の冷たさに身をすくめながら、港の照明に照らされる漁船の姿をじっと見つめる。 遠くから、波の音がかすかに聞こえる。その向こうに駿河湾の深い青が広がっているはずなのに、今はまだ闇に包まれていた。
第二章 駿河湾の朝焼け
夜が明ける頃、東の空がうっすらと群青色からオレンジ色へ変化しはじめた。幹夫は港の防波堤近くの浜辺に足を運び、朝焼けに染まる駿河湾を眺める。 浜辺の砂はしっとりと冷え、足元からかすかな湿気が立ち上る。波が寄せては返す音は穏やかで、まるで眠りからゆっくり目覚めるように感じられた。 ふと、幹夫は遠くの水面に光の筋が見えるのに気づく。夜の闇を溶かすような陽光が、湾の奥から広がってくるのだ。まもなく、漁を終えた船が帰ってくるのかもしれない――そう考えると、胸が静かに高鳴った。
第三章 桜海老の水揚げ
やがて、何隻かの船が港に戻りはじめた。浜辺を出て、幹夫と母は水揚げ場へ向かう。そこで目にしたのは、何籠(なんろう)もの桜海老が一気に揚がる光景だった。 薄紅色の小さなエビが、目を凝らすと透けるほどの繊細な体を寄せ合っている。その姿は「桜海老」という名がふさわしい淡い色合いで、港の喧騒の中でもどこか美しさを放っていた。 「これが全部、駿河湾で獲れたんだ……」 幹夫は思わず呟く。まるで花びらが集まって舞い散ったような景色に見えた。漁師たちの威勢のいい声が響き、海老がざっざっと網からこぼれていく。 鼻をくすぐる磯の香りと、海老の甘い匂いが混ざり合う。その匂いを胸いっぱいに吸い込みながら、幹夫は思った――この海の奥には、まだ無数の命が泳ぎ、流れ、巡っているのだろう。
第四章 桜海老のかき揚げ
水揚げが落ち着くと、母が「桜海老のかき揚げ丼が有名なのよ」と言い、港の食堂へ幹夫を連れて行った。カウンターに腰かけ、あたたかいお茶をすすっていると、揚げたてのかき揚げ丼が目の前に運ばれる。 桜海老が薄衣の中でぎゅっと固まり、淡い朱色を残したままサクサクとした見た目をしていた。幹夫が箸で割ると、中からふわっと湯気が立つ。 「いただきます」 一口頬張ると、海老の甘みと香ばしさがじわりと広がり、その瞬間に駿河湾の潮風を思い出すようだった。浜辺で感じた冷たさと朝焼けの光が、胸の奥で溶け合うようにじんわりと染みる。 「あ……おいしい」 それ以上うまく言葉が出てこない。でも、その一言だけで母は嬉しそうに笑みをこぼした。
第五章 波打ち際で拾ったもの(エピローグ)
かき揚げ丼を平らげた後、幹夫はもう一度浜辺へ行きたくなり、母に頼んで少しだけ時間をもらった。今はすっかり昼下がりの青空となり、波もさっきより静かに見える。 足元の砂に目をやると、桜海老の小さな殻が散らばっていたのか、細いピンク色の欠片が点々と混じっていた。波が寄せるごとに少しずつ削られては、また戻ってくる。 幹夫は何気なく砂を掘り返してみる。すると、小さな巻貝の殻が出てきた。白地に淡い茶の模様があり、海に洗われたせいか艶のある表面をしていた。 ふっと、この殻にも長い時間が刻まれているのだろうと想像すると、胸の中がじんわりと温かくなった。桜海老が育つ海、巻貝が砂に埋もれる海――すべてはこの駿河湾の波が紡ぎ出した物語の欠片かもしれない。 空を見上げれば、青が広がる。帰りの道中、幹夫は小さな巻貝をそっとポケットにしまった。さっき食べた桜海老のかき揚げの味わいが、まだ唇に残っている。 ──波打ち際から聞こえるざぶん、ざぶんという音に耳を傾けながら、幹夫はまぶしいほどの昼の光を受け止める。駿河湾の透明な青と、浜辺の穏やかな潮騒。そのどちらも、小さな胸の奥へ静かに沁みていくようだった。





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