top of page

桜田、火の都

江戸の桜は、咲くより先に散る匂いを持っている。花びらが水堀へ落ち、薄い膜のように貼りついていくのを見ると、私はいつも、死体が川面に浮かぶ姿を連想してしまう。春の都は本来、歓喜の季節であるはずなのに、江戸の春は、どこか「処刑の前の白粉」のように白く、薄く、そして冷たい。

慶応四年三月――城内の廊下を渡る風が、やけに乾いていた。畳の目が硬く浮き、柱の木肌が人肌から遠ざかる。木は生きているはずなのに、戦の前では木でさえ、死の側へ寄っていく。

「西郷が来る」

誰かが言った。その名は、火打石のように簡単に火花を散らす。火花の音は小さいが、火花は都を焼く。

勝海舟の屋敷で整えられたはずの話が、どこかで折れたのだと聞いた。折れた理由は誰も言わない。理由を言った者から先に、正しさの刃で斬られるからだ。折れたという事実だけが、城の空気を太くしていた。

私は旗本の末席、名も薄い若侍に過ぎない。それでも今夜、刀を磨く手だけは無駄に丁寧だった。丁寧さは、覚悟のふりをするのに便利だ。覚悟のふりをしていれば、腹の底の恐怖が「美学」に化ける。

刀身を灯明にかざすと、刃の光が桜の花芯のように淡く揺れた。私は不意に、江戸が燃える景色を思い描いた。屋根が落ち、梁が砕け、空が赤く染まり、町人の声が熱で歪む――そして、そのすべてが、ひどく完成された舞台装置のように見えてしまう。破滅は、なぜこうも整って見えるのだろう。整って見えるから、私の心は恐ろしく甘くなる。

甘さが嫌で、私は刀を鞘に納めた。抜けば、世界は単純になる。単純さは救いに似ている。救いに似たものに、人は一番騙される。

その夜更け、廊下の曲がり角で勝海舟とすれ違った。月の光が彼の頬のしわに溜まり、しわがまるで地図の等高線のように見えた。人間の顔に刻まれた等高線ほど、信用できる地図はない。地図は紙で作れるが、しわは作れない。

海舟は私の刀の柄に目を落とし、何でもない声で言った。

「江戸が好きか」

質問があまりに唐突で、私は返事が遅れた。遅れは罪に似ている。

「……はい。ここで育ちました」

海舟は、鼻で笑うでもなく、ただ小さく息を吐いた。

「なら、斬るな。斬れば、江戸は火の都になる。江戸の火は、正義の火じゃない。いつでも、愚かさの火だ」

私は胸が熱くなった。熱くなると、人はすぐ英雄になりたがる。私は英雄になりたくないと思いながら、英雄の言葉を探してしまう。

「しかし、武士です。都を明け渡すなど……」

海舟は私を見た。その目には、軽蔑も励ましもなく、ただ疲れがあった。疲れは、最も人間的な光だ。

「武士を名乗るなら、死ねるかどうかより、生き残ったあとに臭くならないかを考えろ」

臭い――その言葉が、妙に胸に残った。江戸は魚と醤油と人いきれの臭いで出来ている。私はその臭いが好きだった。好きだったからこそ、火で一度洗ってしまいたい誘惑もあったのだ。火は臭いを消す。臭いを消せば、罪も消える気がする。だが罪は消えない。消えるのは、ただ臭いを嗅ぐ鼻のほうだ。

海舟はそのまま去っていった。背中が、ひどく小さく見えた。小ささは弱さではなく、重いものを背負いすぎた者だけが持つ縮み方だ。

私は廊下に一人残り、江戸の臭いを思い出した。日本橋の魚の腹の甘い臭い。川の泥の臭い。夜更けの屋台の味噌の臭い。――その全部が、明日には火の匂いに変わるかもしれない。

私は懐から紙を出し、短い文を書いた。相手は、おつゆ。魚河岸の娘だ。武家の名分には入らぬ女だが、私の体温の半分は彼女の声で出来ている。

「もし煙が見えたら、川へ。橋を渡るな。生きろ」

書き終えると、私は腹が立った。生きろ、という言葉ほど無責任なものはない。無責任だからこそ、人はそれを書いてしまう。

夜明け前、江戸の空は青すぎた。青は希望の色ではない。青は無関心の色だ。無関心の下で、人間は最もよく死ぬ。

最初の砲声が聞こえたのは、桜田門の方角だった。音は遠いのに、胸の奥が先に震えた。震えは恐怖ではない。恐怖に似た期待だ。期待は、死を美しく見せる。私はその期待を噛み殺すように、歯を食いしばった。

城内が走る。命令が飛ぶ。槍が鳴る。火薬の匂いが、まだ見えぬ炎より先に鼻を刺す。私は門へ走った。石垣が、寒い顔で立っている。石垣は忠義を知らない。知らないから崩れない。人間だけが忠義を知って崩れる。

城外の町が、すでにざわついていた。町人の声は、戦になると急に甲高くなる。甲高い声は生の叫びだ。生の叫びは、都を守るより先に、自分の喉を守ろうとする。

砲弾が落ちた。木造の家が、紙のように裂けた。裂ける音が、障子が破れる音に似ているのが恐ろしかった。生活と戦は、同じ素材で出来ている。だから戦は生活をこんなに簡単に破る。

火が走った。江戸の火は、いつも速い。風が火を煽り、火が風を呼ぶ。火は生き物のように舌を出し、舌先で屋根をなぞっては次の屋根へ跳ぶ。跳ぶ火の軽さが、私は憎かった。軽いものが重いものを焼く。軽さは、世界を壊す。

私は銃を撃ち、刀を抜き、誰かの肩を突き、誰かに突かれた。血が袴に滲む。血の温かさが、妙に現実を濃くする。現実が濃くなると、私の中の「美しい破滅」の絵は剥げ落ちていった。

剥げ落ちたところから見えたのは、ただの肉だった。焦げる木の匂い。焼けた髪の匂い。泣く子の声。美学は、臭いに弱い。

私は隙を見て、日本橋の方へ走った。走るという動作は、武士の型にない。だから走ると、急に自分がみっともなくなる。みっともなさは、しかし生の味だ。生の味は苦い。苦いものほど、いまは信じられた。

橋の上は、人で埋まっていた。荷車、布団、子ども、桶、位牌――生活の断片が、火の前で同じ重さになる。重さが同じになると、身分も同じになる。戦が平等をもたらすなどという言い方は、嘘だ。戦がもたらすのは、ただの混乱だ。混乱の中で、人は同じように踏まれる。

私は叫んだ。「おつゆ!」声が喉で割れた。割れた声は、情けない。情けない声は、人間の声だ。

煙の向こうに、彼女がいた。髪が乱れ、頬が煤で黒い。だが目だけは、魚のように澄んでいた。澄んだ目は、死の前でいちばん危ない。澄んだ目は、こちらの心を裂く。

彼女の腕には、小さな子がしがみついている。その子の唇が青い。青い唇は、寒さの色ではない。恐怖の色だ。恐怖は、子どもの身体を先に冷やす。

「橋を渡るなって……書いたじゃないか」

おつゆは笑った。笑いは薄い。薄い笑いは、泣く代わりに出る。

「橋を渡らなきゃ、川へ行けないよ」

その返しが、江戸の女の現実だった。現実はいつでも正しい。正しい現実ほど、残酷だ。

私は子を抱き上げた。軽い。軽すぎる。軽さは、命の不安定さだ。川べりへ押し出し、舟を探し、半ば叩きつけるように二人を乗せた。舟の舳先が水を切る。水は黒い。黒い水は、火の赤を映す鏡だ。

舟が離れる瞬間、おつゆが私の袖を掴んだ。指が熱い。熱は生の執着だ。

「生きて」

彼女はそれだけ言った。生きて、という言葉が、私の胸を殴った。海舟の「臭くなるな」と同じ方向から来た殴打だった。生きることは、臭い。生きることは、醜い。醜いから、頼まれる。頼まれる醜さほど、断ち切りがたい。

私は袖を引き抜いた。引き抜いた瞬間、自分がひどく冷たい人間になった気がした。冷たさは武士の徳のように語られるが、本当はただの臆病だ。情に負けて戻れなくなることが怖かったのだ。

「すぐ行く」

私は嘘を吐いた。嘘は軽い。軽い嘘は、舟より速く流れていく。おつゆは嘘を知っていたはずだ。それでも頷いた。頷きは、許しではない。諦めだ。諦めは、生き残る者が最初に身につける鎧だ。

私は燃える都へ戻った。戻るたびに、足の裏が熱くなる。熱さは英雄の熱さではない。焼けた板の熱だ。英雄の熱は言葉を生むが、焼けた板の熱は言葉を奪う。

戦は、次第に「江戸の火事」になっていった。銃声と火の音が混じり、敵味方の旗よりも煙が支配した。煙が支配する戦では、名分は役に立たない。名分は紙だ。紙は火の餌だ。

私は桜田門の石垣の陰で、膝をついた。太腿に熱い痛みが走っている。いつの間にか撃たれていたらしい。血が靴の中へ流れ、足袋が重くなる。重くなる足袋は、地面に縫い付けられる感覚をくれる。縫い付けられると、人は動けなくなる。動けなくなると、ようやく考える。

――この戦は、何のためだ。――徳川のためか。会津のためか。武士のためか。答えはどれも薄い。薄い答えは、火の中ですぐ溶ける。

煙の向こうで、桜が舞っていた。花びらが灰と混じり、空から「白い屑」として落ちてくる。白い屑は雪に似ていた。雪のように静かで、しかし触れれば指先に汚れが残る。私はその白い屑の中で、初めて確信した。

美しい死は、嘘だ。嘘だからこそ、皆が欲しがる。本当の死は、ただ体温が抜けるだけだ。体温が抜けたあとに残るのは、名分ではなく、臭いだ。焦げと血と人間の臭いだ。

私の視界が揺れた。揺れの中で、舟の上のおつゆの顔が浮かんだ。彼女は生きるだろう。子も生きるだろう。その未来の臭いを、私は想像した。魚の臭い、川の臭い、子どもの汗の臭い。――生の臭い。あの臭いは、燃えて消えるべきではない。

私は笑いたくなった。結局、私が守りたかったのは、徳川の旗ではなく、江戸の臭いだったのかもしれない。旗は布だ。布は燃える。臭いは燃えない。燃えないものだけが、心に残る。

銃声が近づき、誰かの叫びが遠のいた。私は刀の柄に手を置いたが、もう抜かなかった。抜いたところで、世界は単純にならない。単純にならない世界の中で、私はただ、沈んでいく。

空から、白い屑が降っていた。桜と灰が混じった、ならぬ雪が。その雪だけが、江戸の血の色を最後まで隠さずに、静かに積もっていった。

 
 
 

コメント


Instagram​​

Microsoft、Azure、Microsoft 365、Entra は米国 Microsoft Corporation の商標または登録商標です。
本ページは一般的な情報提供を目的とし、個別案件は状況に応じて整理手順が異なります。

※本ページに登場するイラストはイメージです。
Microsoft および Azure 公式キャラクターではありません。

Microsoft, Azure, and Microsoft 365 are trademarks of Microsoft Corporation.
We are an independent service provider.

​所在地:静岡市

©2024 山崎行政書士事務所。Wix.com で作成されました。

bottom of page