森の帽子をのせた彼女――アジアゾウの里で
- 山崎行政書士事務所
- 9月14日
- 読了時間: 4分

朝のジャングルは、葉の裏までしっとり濡れている。小川を一本わたると、低い土の匂いと、砕いたレモングラスみたいな青い香りが混ざり合った。案内役の青年が「sabaidee(サバイディー/こんにちは)」と笑い、指を二本立てて「この距離ね」と合図する。森の向こうから、ふごっ、という優しい空気の音。灰色の背中が木立の間をするりと抜け、彼女は現れた。背に小枝と葉っぱをのせている――“森の帽子”。日よけと虫よけの、彼女のやり方だと青年は教えてくれた。
名前はナン・ペット。若いメスのアジアゾウだ。耳の縁に茶色のそばかすが点々とあり、長いまつ毛が濡れている。鼻先がこちらへ伸び、リュックのポケットの甘い匂いを見つけたらしく、ふにゃ、と布を押した。あやうくバナナチップを献上しかけた瞬間、青年が「bone, bone(待って)」と声を落とす。ナン・ペットはぴたりと止まり、耳をぱたぱたさせた。人がルールを思い出すまで、彼女の方が待ってくれる。
午前の“おしごと”は、森の散歩と水浴びだという。ぬかるみを歩いていると、足首に冷たい針が刺さる感覚が走った。見るとヒルが一匹、くっついている。慌てて手で払おうとすると、後ろから女のスタッフが走ってきて、ポシェットからライムと塩の小瓶を取り出した。「bo pen nyang(大丈夫)」と笑い、ライムの断面をヒルに触れさせ、塩をひとつまみ。するりと外れた。「森には森の手当て」と親指を立てると、ナン・ペットがタイミングよく鼻で短く鳴き、こちらをのぞき込んだ。まるで「それ、知ってる」と言わんばかりの顔だ。
川辺に出ると、青年がバケツを渡してくれた。川の水を汲んで、背中へ。どっしんと座り込んだナン・ペットは、気持ち良さそうに目を細め、次の瞬間、思いきり水を鼻から噴き上げた。全身びしょ濡れ。カメラをかばい損ねた私を見て、子ども連れの家族がタオルを差し出してくれる。お返しに持っていた飴を一つ渡すと、ちびっ子が嬉しそうにポケットへしまった。バケツの水はいつのまにか小さなバトンになり、知らない者同士の間で軽やかに行き来する。川べりに笑い声が増え、ナン・ペットは“森の帽子”を背に乗せたまま、うっとりと鼻を水に沈めた。
昼の休憩は小屋の下。青年が竹筒ごと蒸したカオ・ラム(ココナツミルクの甘いもち米)を割り、切り分けてくれる。指先がさらさらする白砂糖をまぶして食べると、森の湿気がふっと薄くなる。彼は、ここが“乗らない、触りすぎない”保護区だと話してくれた。森を歩くこと、川に入ること、食べる量を決めること――できるだけ彼女のペースに合わせる。「ぼくらの仕事は“邪魔しないこと”が半分。残り半分は“見守って笑うこと”」と言って、彼は肩をすくめた。
食後、葉陰から小さな男の子が顔を出した。近くの村の子で、きょうはお母さんの手伝いで餌の草を束ねに来たらしい。青年が彼の手をとり、少し離れた場所から草を一束だけ差し出す練習をさせる。ナン・ペットは静かに近づき、鼻先でそっと受け取り、ゆっくり噛む。男の子の目が真剣だったのに、最後はくすっと笑い、草の残りを自分の頭に乗せて“森の帽子ごっこ”。みんなで拍手をすると、ナン・ペットも耳を一度大きく振って応えた。大きな体の中に、いたずらの小さな芽が確かにある。
帰り道、葉っぱの影から風が落ち、背中の“帽子”がつるりと滑り落ちた。青年が拾い上げて戻そうとすると、ナン・ペットが鼻で器用につまみ、もう少し大きな枝を選び直して自分で背にのせた。こだわりがあるらしい。私が笑うと、彼女は鼻の先を草地に押しつけ、小さな砂煙を上げた。自分の都合の良い重さや形を、ちゃんと知っている。人間だって同じことをしているのに、気づくのに時間がかかるだけだ。
森の入口まで戻ると、青年が古い米袋で作った小さな封筒をくれた。中には、ゾウの糞で漉いた紙の栞が入っていた。種が混ぜ込んであって、水に浸して植えると芽が出るという。「土に返るものだけで、また次が始まる」。栞を指でなぞると、わずかに草の匂いがした。
トゥクトゥクのエンジンがかかる前、私はもう一度だけナン・ペットを振り返った。背の葉は整い、耳はゆったり動き、森の空気が彼女の体をすべっていく。青年が片手を額にかざして「khop chai lai lai(本当にありがとう)」と見送ってくれる。私も同じ言葉を返した。道が赤土から舗装に変わるころ、ふごっ、という優しい音が背中の方から届いた気がした。
“森の帽子”ののり方を教えてくれたのは、ゾウだった。急がないこと、待つこと、よく食べてよく浴びること。旅で役立つ知恵のほとんどは、案外これで足りる。宿に戻って栞を机に置くと、手のひらにまだ、川の水と砂の細かいざらつきが残っていた。明日、コップに水を張って種を浸す。芽が出たら、窓辺に小さなジャングルをつくろう。そこに風が通るたび、ナン・ペットの耳が、またゆっくり動く気がする。





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