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森は水の字を読む

  • 山崎行政書士事務所
  • 8月20日
  • 読了時間: 6分

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静岡市の夏の入口は、街じゅうがうすい緑の紙で包まれたみたいになります。浅間神社の石段をのぼり、賤機山の肩へ回ると、若葉の匂いが風のポケットにぎゅうぎゅうに詰まっていて、歩くだけでその匂いがこぼれました。

 幹夫は小さなスコップと紙の封筒を持って、雑木林のひらけた場所へ来ました。地面は明るく、草は糸のように細く、木々はどれもすこしずつ斜めを選んで立っています。斜面の傾きと根の深さと、今年の雨の癖の、ちょうど折り合いのところに。


 幹夫が草の上にしゃがむと、木の幹が一本、光の縞をずらして言いました。

「よく来たね、幹夫くん。きみ、去年ひまわりに風の地図を教えた子だろう?」

 幹夫はびっくりして、しかしうなずきました。ポケットには封筒があり、そこには「駅北口三角地・風は列車の速さ」「三保・潮の音」などのメモといっしょに、黒い小舟のような種がいくつも眠っています。

「ぼく、今年は森のことも知りたい。ひまわりは風のほうを向くって、教わったから」

 幹は音をすこし低くしました。

「私たちは、水の字を読むんだよ」


 幹夫は耳をすませました。林は静かです。でもその静けさの奥で、なにか細い文字が、地面の中をゆっくり移動するのがわかります。雨のすじ、湧き出しの向き、土の粒の並び。

「見えるかい?」

「うん……。地面の中に、透明な線がある。川の下書きみたいな」

「それが水脈。私たちはそれを触って立ち、葉の向きを決める。風が強くても倒れないのは、この文字を毎朝読み直しているからさ」


 そのとき、封筒の口がこっそり動き、ひまわりの種が一粒、指先へころがり出ました。

「幹夫くん、ぼくは風羅(ふうら)の友だち。駅前で冬を越した種だよ」

「起きてたの?」

「森の音はよく眠れるけれど、きょうは字が聞こえる」

 木々がかすかに笑いました。葉の影がその笑いに合わせて波打ち、林の緑がもっと深くなります。


「お願いがある」と、近くのコナラが言いました。

「この先の斜面に古い溝がある。落ち葉でふさがって、水の字がつっかえている。今夜、山の雨が来る。つっかえた字は、根の薄い子どもたちを一度に倒してしまうかもしれない」

「ぼくで、できる?」

「できるとも。水は少し道を示してやれば、あとは自分で字を組み直す」


 幹夫はスコップを持って、林を横切る細い踏みあとへ出ました。溝は草に隠れ、落ち葉と小枝で詰まっています。幹夫が枝をどかし、土をさらってゆくと、暗いところから「すい」と涼しい音がしました。

「動いたよ」

「もっと下手まで」

 溝は曲がり、いちど平らになり、やがて斜面の低いところへ落ちこみます。幹夫は泥で指を黒くしながら、葉をすくい、石の位置をずらし、詰まりをほどいていきました。

 急に、土の中の線が太くなりました。光のない小さな流れが、草の根をなで、木の足もとをやさしく冷やしてゆきます。

「できた」

「ありがとう」林が言いました。「これで今夜の字は読める」


 幹夫は立ち上がり、手の泥を草でぬぐいました。風が一本の葉を持ち上げ、その葉脈を透かすと、そこにも細い川の地図が見えます。

「水の字は、どこへ行くの?」

「安倍川だよ。山の骨の間を抜け、街の背骨に合流する。街が暑い日も、私たちの字がすこし涼しくしている」

 幹夫はうなずきました。安倍川の堤でひまわりに水をやった夏の匂いが、指の泥からひょいと顔を出します。


 昼すぎ、雲が厚くなりました。林はいっせいに色を落ち着かせ、光を小さな粒に砕いて、あたりへ配ります。それは、ひまわりの花粉よりもっと細かな、見えない帳尻合わせのようでした。

 幹夫は封筒を開き、ひまわりの種を三粒、林の縁に埋めました。

「ここにも太陽の弟子を?」と、木がたずねます。

「うん。風の地図と水の字が、となり合わせにあるほうが、街は安心だから」

「いい考えだ。木陰のひまわりは背を低くして、葉を広くするだろう。森の文字を読む練習にもなる」


 雨は夕方に来ました。細かい雨脚が何段ものカーテンのように降り、林の音は低い調子で鳴り続けます。さきほどの溝はおとなしく水を通し、詰まりはもうありません。

 幹夫はカッパのフードを指で押さえ、木々の間をぬけて浅間神社のほうへ下りました。石段は濡れて、狐の背中みたいなつやを出しています。

 家へ帰る途中、安倍川の水面は灰色で、でもどこかやわらかく、見えない字が流れの底でほどけていくのがわかりました。


 翌朝、空は洗われた青。幹夫はまた林へ行きました。地面はしっとりと冷え、草はすこし背を伸ばし、木の幹には雨の名残りが縞のように残っています。

「おはよう」

「おはよう、幹夫くん。字はちゃんと通読できたよ」

 林はうれしそうに葉を鳴らしました。足もとでは、昨日埋めたひまわりの場所に小さなふくらみができています。

「芽が出るね」

「そうだね。森で育つ子は、風と水の両方を読む。街に降りてからも、倒れにくい」


 幹夫は封筒を整え、鉛筆で新しい一行を書き足しました。

〈賤機山・水の字・落葉の溝・通読可〉

 それから、ひまわり用のメモにも。

〈木陰で背を低く、葉を広く〉


 午後、幹夫は堤へ行き、ひまわりたちに昨日の話をしました。風羅の親戚の花が、ゆっくり首をふりました。

「森は水の字を読む。いいね。ぼくらの地図と合わせれば、街は立体になる」

「うん。ぼく、地図帳を作る。風のページと水のページを重ねるんだ」

「だったら、港の方は波の拍子記号も必要だよ」

「清水のクレーンに聞いてみる」

 二人(一本と一人)は笑いました。川面の光は薄く、でも粒が揃っていて、見ているだけで胸の中の空気が明るくなります。


 夏休みの終わり、林の縁の土から、丸い双葉が三つ顔を出しました。駅前の三角地でも、一本の背の低いひまわりが、列車の風に合わせて葉を振っています。

 幹夫は学校の理科室で方眼紙をもらい、家で地図帳を作りはじめました。表紙には〈静岡市・風と水の地図〉。最初のページは安倍川の流れと、堤のひまわり。次のページは賤機山の溝と、木陰の芽。

 ページをめくるたび、街の上に透明の線が増えていきます。風の矢印、水の文字、港の拍子。

 その線のあいだに、人の道が一本、薄い鉛筆で引かれます。朝、学校へ行く道。夕方、堤へまわる道。ときどき、山へ上がる道。


 夜、窓を開けると、駿河からの風が地図帳の角をふくらませました。ページはゆっくりめくれ、賤機山の緑が月の光で薄く光ります。

 幹夫はそっと指で押さえ、眠る前に小さくつぶやきました。

「ひまわりは風のほうを向き、森は水の字を読む。ぼくは、そのあいだにいる水差しだ」

 風は静かにうなずいて、ページの端を少しだけ持ち上げ、まだ空白のつづきを、先に読んでいるようでした。

 
 
 

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