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樟の影に、さよならを置く

――幹夫青年と、駿府公園の一本の木――

 幹夫(みきお)は、光より影のほうが好きだった。 影は、だれにも「早くしろ」と言わない。 影は、だれにも「もっと頑張れ」と言わない。 ただ静かに、そこにいて、熱を少し和らげてくれる。

 だから幹夫は、夏が苦手だった。 静岡の夏は、海からの湿った空気と、街の照り返しと、山からの熱が、いっぺんに胸へ来る。 息を吸うだけで、世界に追い立てられる気がしてしまう。

 その日も、朝から暑かった。 幹夫は点検用のクリップボードを抱えて、事務所の扉を出た。 今日の仕事は「街路樹(公園樹)の確認」。 駿府城公園――駿府公園の一角にある、大きな樟(くす)の木。

 メモには、事務的にこう書かれていた。

 「内部腐朽あり。倒木リスク。伐採・更新の段取り」

 幹夫は、その文字を見ただけで喉が渇いた。 “伐採”という言葉は、いつも角が立っている。 切る。終わらせる。 事故を防ぐための正しい行為なのに、なぜか、やさしさと反対の方向へ引っ張られる。

 正しいことが、だれかの悲しみになる瞬間を、幹夫は何度か見てきた。 それがいちばんしんどい。 だれかを守るために、だれかの大切を壊す。 その“板挟み”の空気は、夏の湿気より息苦しい。

1 木の前で、声が小さくなる

 駿府公園は朝の時間でも人がいた。 ジョギングする人、犬を散歩させる人、ベンチで缶コーヒーを飲む人。 それぞれが自分の速度で歩いていて、幹夫は少しだけ安心した。 ここでは、焦ることが礼儀じゃない。

 樟の木は、公園の端――広場の影を抱えるような場所に立っていた。 近づくほどに、空気が変わる。 葉の匂いに、樹皮の乾いた匂い、土の匂いが混じる。 幹夫は思わず、深く息を吸った。

 胸が、少しだけ広がる。 この木の影は、やさしい。 やさしすぎて、逆に怖いくらいだ。 自分の中の固い部分が、影に照らされて浮き上がるから。

 幹夫は幹に触れた。 樟の樹皮はごつごつしているのに、どこか温度が安定している。 熱くない。冷たくもない。 人の感情みたいだ、と幹夫は思った。 揺れているのに、芯がある。

 幹の途中に、古い傷のような空洞があった。 のぞくと、乾いた木くずと、小さな紙片がいくつか見えた。 細く折った紙。 色あせた付箋。 メモ帳の切れ端。

 幹夫の胸が、ちくりとした。 “ここに置いた”んだ、と思った。 だれかが、ここに言葉を置いていった。

 「……あ」

 後ろから声がして振り向くと、幼い男の子が立っていた。 帽子をかぶって、汗で前髪が額に貼り付いている。 母親らしい人が少し後ろで見守っている。

 男の子は幹夫の手元を見ると、すぐに木のほうを見た。 「その木、どうするの?」

 幹夫は一瞬、言葉が詰まった。 子どもの質問は、角が立たない。 でも、答えは角が立つ。

 「……点検、だよ」 「病気?」 「……うん。ちょっと、弱ってるみたいで」

 男の子は木の影に入って、幹を見上げた。 「この木、ぼく、なでるとね、落ち着くんだよ」

 幹夫は、胸の中がふっと熱くなるのを感じた。 子どもがそう言うとき、その子は嘘をつかない。 落ち着く、という言葉を、いちばん正確に使う。

 母親が小さく頭を下げた。 「すみません、急に話しかけて」

 幹夫は慌てて首を振った。 「いえ……大丈夫です」

 “大丈夫”という言葉が、自分の口から出たことに幹夫は驚いた。 今日はなぜだか、言葉が少しだけやさしく出る。 木の影のせいかもしれない。

 男の子は最後に、木に向かって小さく手を振った。 その仕草が、まるで生き物に向けた挨拶みたいで、幹夫は目の奥が痛くなった。

2 正しさの中に、置いていかれるもの

 幹夫は担当の造園会社の人と合流し、腐朽の確認をした。 専門用語が飛び交う。 「空洞率」「健全木質」「倒伏方向」「根返り」。 正しくて、必要で、冷静な言葉。 幹夫はその冷静さに救われる一方で、どこか寂しかった。

 木は人じゃない。 人じゃないのに、人の記憶の中心に立つことがある。 人の生活の一部になることがある。 そこを、数字だけで切り分けると、何かがこぼれる。

 「伐採、更新ですね」 業者が言った。 幹夫も頷くしかない。 倒れて誰かが怪我をすれば、それは取り返しがつかない。 怖いのは、倒木だ。 その怖さは、幹夫にも分かる。

 分かるのに、それでも胸が痛むのは―― 自分が“切る側”に立つからだ。

 仕事を終え、公園を出るとき、幹夫はもう一度振り返った。 樟の影は変わらず地面に広がっていた。 影は、何も知らない顔で、そこにある。 その無邪気さが、なぜだかいちばん残酷に見えた。

 帰り道、幹夫は自分に言い聞かせた。 「守るためだ」 「事故を防ぐためだ」 何度も言い聞かせた。 でも、言い聞かせれば言い聞かせるほど、心のどこかが硬くなる。 硬くなった部分が「それでも寂しい」と言っている。

 幹夫は、夜になっても眠れなかった。 天井の白さが、昼間の点検表の白さと似ていて、落ち着かない。 目を閉じると、樟の影が浮かぶ。 影の中に、だれかの言いそびれた言葉がふわふわ漂っている気がする。

 幹夫は起き上がり、ペンを持った。 何かを書かなければ、胸の中の言葉が腐ってしまう気がした。

 紙には、こんなふうにしか書けなかった。

 ――「切るのは正しい。 ――でも、正しいことだけで、生きていけたらいいのに」

 自分の字が、少し震えている。 幹夫はそれを見て、苦笑した。 大の大人が、木一本でこんなに揺れる。 でも、揺れるくらいでいい。 揺れないで切るほうが、もっと怖い。

3 影のノート

 翌日、幹夫は公園の担当窓口に相談した。 伐採の告知は必要だ。 でも、できることなら、ただ「切ります」と貼り紙をして終わりにしたくなかった。

 「……あの木、よくみんな座ってるんです。 ちょっとだけ、最後に……時間を作れないでしょうか」

 自分でも何を言っているのか分からないくらい、言葉は不格好だった。 担当者は最初、困った顔をした。 予算も手続きもある。 “感情”は、書類に載りにくい。

 けれど幹夫は、引かなかった。 引かなかったのは、正義感じゃなく、たぶん怖さだった。 このまま切ったら、自分が自分を嫌いになる気がしたのだ。 嫌いになった自分で、また別の「正しい作業」を続けたら、いつか何かを雑に壊してしまう気がした。

 結果、簡易な形なら許可が出た。 「メッセージノートを置く」「短時間の見守り」 それならできる、と。

 幹夫はノートを一冊買った。 表紙は、いちばん地味な、濃い緑。 緑が良かった。樟の葉に似ているから。

 ノートの表に、幹夫は丁寧に書いた。

 「樟の木へ」 「ここで過ごした時間、置いていってください」 「名前はいりません」 「ありがとうでも、さよならでも、何でも」

 書き終えたとき、幹夫は少し泣きそうになった。 泣きそうになる理由は分からない。 でも、自分が“置き場所”を作れたことが嬉しかったのかもしれない。 言葉が行き場を失わないように。

 ノートを木のそばの小さな台に置くと、最初は誰も触れなかった。 みんな、覗くけれど、通り過ぎる。 見知らぬ場所に感情を置くのは、勇気がいる。 幹夫はそれが分かった。自分だって、そうだ。

 しばらくして、散歩の女性がペンを取り、短く書いた。 それから、老夫婦。 学生。 子どもと親。

 ページが少しずつ埋まっていく。

 幹夫は木陰でその様子を見守りながら、胸の奥がふっと緩むのを感じた。 人は、ちゃんと“さよなら”の準備をする。 準備ができれば、少しだけ優しく別れられる。 別れが完全に痛くなくなるわけじゃない。 でも、痛みの形が変わる。

 あるページには、丸い字でこう書いてあった。

 ――「ここで泣いた。ここで笑った。   木はなにも言わなかったのに、ずっと聞いてくれた」

 幹夫は、その一行を見て、胸がいっぱいになった。 自分も、そうだったからだ。 木は何も言わない。 でも、何も言わない存在に救われる夜が、人にはある。

4 伐採の日、音が遅れてくる

 伐採の日は、空がやけに澄んでいた。 夏の終わりの、少しだけ乾いた青。 幹夫はその青を見て、なぜだか腹の底が冷えた。 いい天気ほど、別れは痛い。

 作業員が準備をし、規制線が張られる。 安全のための手順。 正しい。 正しいのに、幹夫は胸が苦しくて、呼吸が浅くなるのを感じた。

 ノートは、前日に回収した。 回収するとき、幹夫はノートを抱えたまましばらく動けなかった。 紙の束なのに、重い。 人の時間が詰まっている重さ。

 作業開始の合図が出る。 チェーンソーの音が、最初は遠くで鳴って、次第に近づいた。 その音を、幹夫は耳で聞いているのに、心が受け取るのが遅れる。 遅れて、遅れて、胸に届く。 届いたとき、痛みになる。

 幹夫は、自分の指先が震えているのに気づいた。 握りしめるものはないのに、握りしめてしまう。 空気を掴むように。 逃げないために。

 ふと、あの男の子が母親と一緒に来ているのが見えた。 男の子は規制線の外から木を見上げて、唇を噛んだ。 幹夫は近づいて、声をかけた。

 「……きみ、この前の」 男の子は幹夫を見て、少しだけ目を見開いた。

 「切っちゃうの?」 幹夫は、嘘をつけなかった。 「……うん。倒れたら危ないから」

 男の子は黙った。 泣かない。 泣かないけれど、肩が小さく上がって、息が浅くなる。 幹夫はその息が、自分の息に似ていると思った。

 幹夫は、ポケットから小さな紙を出した。 ノートを置いたとき、余ったメモ用紙だ。 「書く?」 男の子は頷いた。

 男の子は一生懸命、鉛筆で書いた。 字はまだ不揃いで、でもまっすぐだった。

 ――「ありがとう かげ」

 幹夫は、その紙を受け取って、喉の奥が熱くなった。 “影”にありがとう。 木にありがとうじゃなく、影に。 それが、この子の本当なんだと思った。

 幹夫は紙を丁寧に折って、胸ポケットに入れた。 「……預かるね」 男の子は頷いた。

 そのとき、上の枝が落ちる音がした。 どさり、と。 葉が風に散って、光が一瞬、地面にまだらに落ちた。 影が、ほどける。 そのほどけ方が、まるで長い息みたいだった。

 幹夫は、目を伏せた。 見ていられない、ではなく、 “ちゃんと感じてしまう”から目を伏せたのだと思う。 感じきってしまうと、自分の中の何かが壊れそうだった。

 でも壊れるのは、きっと悪いことじゃない。 壊れて、柔らかくなる部分もある。 幹夫はそう信じたかった。

5 残った影で、未来を測る

 伐採が終わったあと、木は切り株になった。 突然広くなった空が、痛々しいほど明るい。 影がない場所は、こんなにも頼りないのか、と幹夫は思った。

 切り株の年輪を見て、作業員の誰かが言った。 「長生きだな」 年輪は静かに答える。 声はない。 でも幹夫には、年輪がずっと呼吸していたように見えた。 一年ごとに、ひとつずつ。 暑い年も、寒い年も、嵐の年も、 “それでもここにいた”という証拠。

 幹夫は、回収したノートを抱えて担当窓口に戻った。 そこには、保管の指示が出ていた。 「一定期間保管後、処分」 正しい手順。 でも幹夫は、ノートを“処分”という言葉にしたくなかった。

 「……コピーを取って、地域の記録として残せませんか」 幹夫が言うと、担当者は少し驚いた顔をした。 しかし、ノートの厚みを見て、目つきが変わった。 “これは、ただの感傷ではない”と伝わったのかもしれない。

 結果、ノートは公園の小さな展示コーナーに、抜粋として残ることになった。 全部は無理でも、影の中にあった言葉の一部が、ちゃんと空気に触れられるように。

 後日、公園には若い樟の苗が植えられた。 小さくて、影はまだ薄い。 日差しを全部は受け止められない。 でも、その薄い影に、幹夫は座ってみた。

 地面はまだ温かい。 土の匂いがする。 苗木は風に揺れて、頼りない。 頼りないのに、ちゃんと立っている。 それが、なんだか泣きたくなるほど健気だった。

 幹夫は胸ポケットから、あの男の子の紙を出した。 ――「ありがとう かげ」

 幹夫は紙を見つめ、そっと息を吐いた。 自分もまた、影にありがとうを言いたかった。 樟の影に。 茶畑の風に。 おでんの湯気に。 いくつもの“言葉にならない救い”に。

 幹夫は紙を小さく折り直し、ノートの最後のページに貼った。 そして、自分の字で一行だけ添えた。

 ――「影はなくならない。形を変えて、また生まれる」

 書き終えた瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなった。 軽くなると、怖い。 また何か失う気がする。 でも今日は、その怖さを抱えたまま、座っていられた。

 苗木の葉が、かすかに鳴った。 それは、まだ弱い音。 でも幹夫には、その弱さが希望に聞こえた。 弱いものが、弱いまま生きる音。 無理に強がらない音。

 幹夫は立ち上がり、空を見上げた。 青は相変わらず広い。 でも、今日は昨日より少しだけ、青が優しく見えた。

 彼は思った。 自分の仕事は、消すことだけじゃない。 終わらせることの中にも、繋げるやり方がある。 影を奪うのではなく、次の影が育つ場所を整えることだってできる。

 幹夫は、ゆっくり歩き出した。 背中に日差しが当たる。 暑い。 それでも、胸の奥には、薄い影が残っている。

 その影は、樟の影のように大きくはない。 けれど幹夫には、それで十分だった。 人はきっと、そのくらいの影を抱えて、今日を生きていける。

 
 
 

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