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正雪の雪は燃える

雪は降っていなかった。だが、正雪という二文字の上では、いつも雪が降っていた。

宿の薄い障子から、初夏の光が斜めに差し込み、畳の目の一本一本が、刃物のように硬く浮き上がって見える。湿気が肌にまとわりつき、呼吸をするたび胸の奥にぬるい水が溜まってゆく。私はその水を、世界の平和と呼ぶことにした。平和はいつだって湿っている。湿っているから腐る。

机の上には紙が一枚。墨はもう乾きかけ、文字の輪郭だけが黒く残っている。書いたのは遺書ではない。遺書というのは、残される側のための形式だ。私は形式が嫌いではない。嫌いではないが、形式に救われるほど素直でもない。私はただ、自分の体内に溜まり続ける言葉を、どこかへ流したかっただけだ。

指先に、かすかな震えがある。老いの震えではない。恐怖の震えでもない。震えは、期待の裏返しだ。——人は、終わりにだけ期待できる。終わりは完成しているからだ。

廊下の向こうで、誰かの足音がした。宿の主人の足音かもしれない。役人の足音かもしれない。追手が来るとすれば、もう来ている。来ていなければ、永遠に来ない。どちらにしても私は、もう待つことに飽きていた。

私はふと、自分の名を思う。正しい雪。雪は白い。白は潔白の象徴だと人は言う。だが白は、血を最もよく目立たせる色でもある。そして私は、白い名を持ちながら、を夢見た。

火は赤い。赤は罪の色だ。罪の色ほど、夜に美しい。

江戸にいた頃、私の部屋にはいつも人がいた。浪人たち——彼らの体臭は、米の欠けた匂いがした。米が欠けると、人間はまず匂いが変わる。匂いが変わると、目が変わる。目が変わると、言葉が変わる。言葉が変わった瞬間、刀は勝手に抜けたがる。

私は彼らに兵法を語り、書を読ませ、剣を振らせた。教えるという行為は、慈悲に似ている。だが慈悲は、いつも支配の顔をしている。私は支配したかったのではない。支配される側の、あの屈辱の熱を知りすぎていただけだ。

幕府の世は、整いすぎていた。整いすぎたものは美しい。美しいが、息が詰まる。武士の身分は残り、刀は腰にあるのに、刀を振るう場所だけが消えていった。刀の居場所が消えると、刀は持ち主の心臓へ向かう。心臓へ向かう刃を、私は毎日見ていた。

彼らは私に言った。「先生、何かしてくれ」「先生、世を変えてくれ」「先生、我らの首を、ちゃんと値打ちのある場所で落とさせてくれ」

最後の言葉は、誰も口にはしなかった。だが飢えた目が言っていた。飢えた目ほど正直なものはない。

私の中にも、同じ目がいた。幼い頃から、私は「正しい」だけでは救われないことを知っていた。正しさは、ただの秩序だ。秩序は人を生かすが、同時に人を殺す。人を殺さずに人を生かす秩序など、どこにもない。

ある夜、橋の下で浪人が凍えていた。冬だった。雪は降らなかった。降らない雪は、江戸の冷たさを余計に強くする。彼は袴の裾を握りしめ、歯を鳴らしていた。口から出る息が白い。息が白いとき、人間は生きていることを思い出す。生きていることを思い出すと、急に死が欲しくなる。

私は彼に銭を渡した。銭は軽い。軽いくせに、人の人生を動かす。だが銭を渡した瞬間、私は自分がひどく下品になった気がした。——救いが、銭の形をしていることほど下品なものはない。

その晩、私は机に向かい、紙の上に「火」という字を書いた。一画目を置いたとき、胸の奥が熱くなった。熱は、正しさより誠実だ。正しさは言い訳を持つが、熱は言い訳を持たない。

私はその熱を「決意」と呼ぶことにした。呼んだ瞬間、決意は現実になった。

丸橋忠弥と初めて会ったのは、湯屋の帰りだった。湯上がりの肌は、いつでも柔らかい。柔らかい肌は、刃を想像しやすい。私は湯気の匂いの中で、男の声を聞いた。

「この世は、何も変わらぬ。変わらぬなら、燃やすしかない」

振り向くと、丸橋は笑っていた。笑いは明るい。明るい笑いは危険だ。明るい笑いは、罪の形を隠すからだ。だが、その目の奥にある暗さを私は見た。暗さは、同じ種類の暗さだった。浪人の暗さ。刀を持ちながら刀の居場所を奪われた者の暗さ。

私たちは、理屈を交わしたのではない。互いの暗さを確認しただけだ。暗さを確認した者同士は、言葉が少なくて済む。

計画は、自然に形を持った。形を持つ計画は、もう半分実行されたも同然だ。江戸のどこかで火が上がり、人々が走り、門が開き、誰かが叫び、刃が抜け、秩序の背骨が折れる。折れた背骨の上に、新しい骨格を置く。——それが私の頭の中では、恐ろしく美しく整っていた。

美しく整っているものは、必ず破滅を呼ぶ。破滅は、完成した構図を好む。

私は夜ごと、紙に線を引き、線の上に都市を置いた。都市は、紙の上では簡単に燃える。紙の上で燃える火は匂いを持たない。匂いを持たない火は、罪を持たない。罪を持たない火ほど甘いものはない。

だが私は知っていた。現実の火は匂いを持つ。焦げた木の匂い、髪の匂い、肉の匂い。その匂いを吸い込みながらも私は、火を止められないだろう。止めれば、私の生が再び湿りはじめる。湿った生に戻るくらいなら、燃える匂いに溺れた方がましだと、私は思ってしまった。

思ってしまったことが、私の罪だった。罪は、行為より先に心の中で生まれる。

破れたのは、剣ではなかった。破れたのは、舌だった。

ある夜、丸橋が酒に負けた。酒は、男の胸の奥の暗さを、ひどく明るく照らす。明るく照らされた暗さは、叫びになる。叫びは、壁を通る。壁を通った叫びは、役人の耳に入る。耳に入った瞬間、叫びは証拠になる。

私は知らせを受けたとき、妙に冷えた。冷えは、絶望ではない。冷えは、理解だ。——世界は、英雄を欲しない。世界は、英雄を作りたがるだけだ。作りたがる者たちの前で、英雄は必ず滑稽な形で転ぶ。

私は走った。走るという行為が、これほど惨めだとは知らなかった。走る者の背中は、美しくない。背中が美しくないと、私は自分が「物語」から外れたことを思い知らされる。物語から外れるのは恥だ。だが恥は、生きる者の証拠でもある。

夜の街は、やけに静かだった。静けさは、追われる者の耳を狂わせる。遠くの犬の吠え声さえ、役人の笛に聞こえる。私は息を殺し、暗い路地を曲がり、橋を渡り、何度も振り返った。

振り返るたび、私は自分の名を思った。正しい雪。雪は足跡を残す。足跡は追われる者の敵だ。私は雪の名を持ちながら、追われる者になった。それがあまりに皮肉で、私は笑いそうになった。笑いは、泣きより残酷だ。

そして今、宿の畳の上にいる。江戸の湿り気はここにもある。どこに逃げても世は湿っている。湿り気から逃げるために火を夢見たのに、火に辿り着く前に水に足を取られた。

私は紙を見た。紙の上には、まだ乾き切らぬ墨がある。墨は黒い。黒は罪の色だ。罪の色は、雪の白さと最もよく似合う。白と黒が並ぶと、世界は急に美しくなる。美しくなると、人はそこに意味を見出してしまう。意味は麻薬だ。麻薬は、人を勇敢にするふりをする。

私は刀を横に置き、短刀を手に取った。短刀の冷たさは、初めて触れる雪の冷たさに似ていた。雪は、世界を覆う。短刀は、世界の中で唯一、私の身体だけを確実に切る。

私は思った。もし計画が成功していたら、私は英雄だっただろうか。いや、英雄などではない。英雄という呼び名は、後から貼られる札だ。札は軽い。軽い札が人を殺す。

成功していたら、江戸は燃えただろう。燃えた江戸の上に、新しい秩序が建っただろう。その秩序もまた、いつか湿り、腐り、また誰かが火を欲する。火は連鎖する。火は伝染する。火の伝染を止める唯一の方法は、火を持つ者が先に消えることだ。

私が消えれば、火は消えるだろうか。消えない。消えないからこそ、私は消える。この矛盾だけが、私に残された唯一の整った形だった。

廊下の足音が近づく。襖の紙が、微かに震える。震えは、雪ではなく風の震えだ。風はどこまでも無慈悲だ。無慈悲は清い。清いものは、時に救いに似る。

私は息を吸った。吸い込んだ空気が、ぬるい。ぬるい空気の中で、私は最後の想像をした。

——雪が降る。——白い雪が、江戸の屋根に降る。——私が夢見た火を、雪が静かに消してゆく。——火が消えると、煙が消える。——煙が消えると、誰の顔も見えなくなる。——顔が見えなくなれば、恨みも忠義も、ただの寒さになる。

寒さだけが残る世界なら、案外、人は人を殺さずに済むかもしれない。そんな幼い願いが、胸の奥で小さく光った。光ったことが恥ずかしくて、私はすぐにその光を潰した。

短刀を握る。握った手は震えない。震えないことが、かえって悲しい。悲しさは、私がまだ人間である証拠だ。

私は腹に刃を当てた。痛みが来る前に、冷たさが来る。冷たさは雪の冷たさだった。正雪の雪が、ようやく身体に触れたのだと思った。

襖の向こうで声がした。「開けよ!」

私は答えなかった。答えれば、私はまだ生を選ぶ。生を選べば、私はまた湿りへ戻る。戻りたくない。

刃を押す。世界が、一瞬だけ澄む。澄む瞬間にだけ、人は自分の生涯を正しい形で眺められる。

——私は、火を夢見た雪だった。——雪が火を夢見たのは、滑稽だった。——滑稽であることが、私の唯一の真実だった。

そしてその真実は、驚くほど静かに終わった。

 
 
 

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