死んだはずの一人目が、全員を攫った
- 山崎行政書士事務所
- 5月14日
- 読了時間: 11分
※登場人物・事件はすべて架空です。

――草薙連続失踪事件――
草薙で最初の女が消えた夜、雨は降っていなかった。
ただ、風だけがあった。
五月の終わり、静岡市清水区草薙。JR草薙駅の北口から伸びる坂道を、二十二歳の坂井美緒は一人で歩いていた。アルバイト帰りだった。薄いベージュのカーディガン、黒いスニーカー、コンビニの袋。防犯カメラには、彼女がスマートフォンを耳に当て、誰かと話しながら歩く姿が映っていた。
午後九時十七分。
画面の中で、美緒はふと立ち止まった。
次の瞬間、彼女はカメラの死角へ入った。
その三秒後、袋だけが地面に落ちた。
中には、紙パックの牛乳と、母親のために買ったプリンが二つ。
スマートフォンは、道端の排水溝の上に置かれていた。最後の通話記録は母親宛て。録音された最後の声は、ひどく小さかった。
「お母さん……草が、鳴ってる」
それきりだった。
誘拐の目撃者はいない。
悲鳴もない。
車も映っていない。
そして現場には、奇妙なものが残されていた。
黒いリボンで結ばれた、半分だけ折られた折り鶴。
清水署刑事課強行犯係の真壁豪は、その折り鶴を見た瞬間、胸の奥が嫌な音を立てた。
「ふざけやがって」
真壁は低く言った。
四十三歳。短く刈った髪に、日焼けした顔。声が大きく、歩くのが速く、事件現場では誰よりも先に泥を踏む。若い刑事からは「熱血を通り越して発火物」と陰で呼ばれていた。
だが、被害者家族の前では違った。
真壁は美緒の母親の前で、深く頭を下げた。
「必ず見つけます。生きて、連れて帰ります」
母親は泣きながら、何度も言った。
「あの子、昨日ケンカしたんです。わたし、プリンなんていらないって言っちゃって……」
真壁は、コンビニ袋の中で冷えきったプリンを思い出した。
事件はそこで終わらなかった。
二週間後、十九歳の専門学生、小野寺琴葉が草薙の住宅街で消えた。
三週間後、二十五歳の会社員、藤崎早織が静鉄草薙駅近くの道で消えた。
さらに二十七歳の看護助手、水野紗季。
大学生の長谷川朝芽。
五人。
全員、若い女性。
全員、草薙周辺。
全員、夜。
全員、遺体も身代金要求もない。
そして、すべての現場に同じものが残された。
黒いリボン。
半分だけの折り鶴。
清水区は凍りついた。
テレビは「草薙連続失踪」と騒ぎ、ネットは「草薙の女狩り」と呼んだ。駅前のコンビニから女性客が減り、夜の道には警察官の巡回が増えた。だが犯人は、まるで街そのものの呼吸を読んでいるように、どの巡回の隙間にも入り込んだ。
真壁の相棒、駿河灯は、折り鶴を机の上に並べて言った。
「先輩。これ、挑発じゃありません」
「じゃあ何だ」
「案内です」
灯は冷静な若手刑事だった。声は静かだが、観察眼は刃物のように鋭い。
彼女は折り鶴を一つ、慎重に開いた。
紙には、かすれた文字が印刷されていた。
――行方不明者を探しています。
真壁の背筋に、冷たいものが走った。
五羽の折り鶴をすべて開くと、一枚の古い捜索チラシの断片になった。
そこに写っていたのは、十五年前に草薙で消えた女子高校生の顔だった。
真柴凛。
当時十七歳。
未解決。
遺体なし。
犯人なし。
世間から忘れられた、「一人目」。
真壁はその名前を知っていた。
忘れたことなど、一度もなかった。
十五年前、真壁はまだ駆け出しの刑事だった。真柴凛の捜索に加わり、草薙の坂道を何日も歩いた。だが当時の捜査は、家庭内の問題、家出、思春期の衝動という言葉で薄められていった。
凛の母親は泣かなかった。
義父は「面倒な子だった」と言った。
真壁だけが、凛の部屋に残されたノートを見ていた。
そこには、十七歳の少女とは思えない数式と、助けを求める短い言葉が同じページに書かれていた。
――わたしの頭がよすぎるから、誰もわたしの痛みを信じない。
凛は天才だった。
児童相談所の記録には、知能指数は測定上限を超えた、とだけ残っていた。
マックス。
紙が、彼女を測りきれなかった。
真壁はそのとき、彼女を救えなかった。
十五年後、その死んだはずの名前が、五人の失踪現場に帰ってきた。
「犯人は凛なのか」
灯が言った。
「死んだ少女が、女たちを攫っている?」
真壁は答えなかった。
答えられなかった。
その夜、清水署に一通の封筒が届いた。
中には、六本の黒いリボン。
五本には、すでに消えた女性たちの名前が書かれていた。
残る一本は空白だった。
カードが添えられていた。
――六人目は、あなたの目の前にいる。
翌日、相棒の灯が消えた。
午後八時四十一分。
灯は真壁に電話をかけてきた。
「先輩、真柴凛のこと、わかりました」
「どこにいる」
「草薙の――」
そこで音が乱れた。
風の音。
草が擦れるような音。
そして、灯の声が震えた。
「先輩……これ、誘拐じゃないかもしれません」
通話は切れた。
灯のスマートフォンは、県立美術館前へ向かう道の脇で見つかった。
画面には、最後に撮影された写真が残っていた。
古い木造の建物。
看板には、かすれてこう書かれていた。
――草薙こども文庫。
その建物は、十年前に閉じられた小さな私設図書館だった。
真壁は署の制止を振り切るように車を走らせた。夜の草薙は静かだった。駅前の明かりから離れるほど、風の音だけが大きくなる。
草薙こども文庫は、坂の奥に沈むように建っていた。
玄関の鍵は開いていた。
中に入った瞬間、真壁は腐った紙と古い木の匂いを嗅いだ。
懐中電灯の光が、本棚をなぞる。
児童書。
図鑑。
破れた絵本。
そして奥の壁一面に、五人の女性の写真が貼られていた。
坂井美緒。
小野寺琴葉。
藤崎早織。
水野紗季。
長谷川朝芽。
それぞれの写真の下に、日付、行動記録、通話履歴、家族構成、勤務先、相談歴。
まるで彼女たちの人生が、犯人の手で分解され、冷たい標本にされているようだった。
真壁は歯を食いしばった。
「灯!」
返事はない。
床板の下から、かすかな音がした。
こつん。
こつん。
真壁は本棚をどかした。床に隠し扉があった。
開けると、暗い階段が地下へ続いていた。
降りるにつれて、空気が冷たくなる。
地下室の扉には、白い紙が貼られていた。
――開ければ、あなたの正義が死ぬ。
真壁は鼻で笑った。
「俺の正義なんざ、とっくに傷だらけだ」
扉を蹴り開けた。
その瞬間、白い光が目を焼いた。
地下室は、病室のように清潔だった。
中央に長いテーブル。
壁には防音材。
棚には食料、水、毛布、薬、女性用の衣類。
そしてそこに、五人の女性がいた。
生きていた。
坂井美緒が、震える手でプリンの空容器を握っていた。
小野寺琴葉は泣きながら、隣の水野紗季の背をさすっていた。
長谷川朝芽は、包帯を巻いた腕を胸に抱えていた。
藤崎早織は真壁を見て、小さく首を振った。
「来ないで」
真壁は立ち尽くした。
「どういうことだ……」
奥の部屋から、灯が出てきた。
無事だった。
手首に縄の跡はない。
口をふさがれてもいない。
ただ、目だけが赤かった。
「先輩」
灯は言った。
「この人たち、攫われたんじゃありません」
背後から、静かな声がした。
「正確には、攫いました。けれど、殺してはいません」
真壁が振り返ると、ひとりの女が立っていた。
黒いワンピース。
細い体。
左手には、半分だけ折られた折り鶴。
草薙こども文庫の元司書、志乃原璃子。
真壁は数日前、聞き込みで彼女に会っていた。物静かで、感情の薄い女だと思った。子どもに絵本を読み聞かせていた声だけは、不思議に温かかった。
女は眼鏡を外した。
その目を見た瞬間、真壁の喉が詰まった。
十五年前の捜索チラシ。
そこに写っていた少女と、同じ目だった。
「真柴、凛……」
女は微笑んだ。
「お久しぶりです、真壁刑事」
地下室の空気が、さらに冷たくなった。
死んだはずの一人目が、生きていた。
そして、五人を消していた。
凛は淡々と話した。
彼女は十五年前、家出したのではなかった。
逃げたのだ。
家庭の中で壊され、助けを求めたが、誰にも信じてもらえなかった。頭がよすぎる少女の訴えは、計算された嘘のように扱われた。泣かない子どもは、傷ついていない子どもだと決めつけられた。
だから彼女は、自分の存在を殺した。
名前を捨て、戸籍の隙間に潜り、別人として生きた。
「わたしは一度、社会から死にました」
凛は言った。
「死んで初めて、息ができた」
彼女は大人になり、草薙に戻った。
同じように助けを求めても届かない女性たちを見つけた。DV、ストーカー、家族からの支配、職場での脅迫。彼女たちは何度も相談した。だが事件になる前の苦しみは、いつも薄い紙のように扱われた。
「警察だけが悪いとは言いません。家族も、職場も、友人も、社会も、みんな少しずつ目をそらす。だから誰も犯人にならない。誰も犯人にならないまま、女たちは死んでいく」
「だから攫ったのか」
真壁の声は震えていた。
「救うために?」
「いいえ」
凛は首を振った。
「殺すためです」
美緒が泣き出した。
凛は彼女を見て、やさしく言った。
「名前を、殺すため」
地下室の壁に貼られていた記録は、標本ではなかった。
保護のための記録だった。
彼女たちを追う者から逃がすため、凛は彼女たちの行動を読み、危険な夜の直前に姿を消させた。失踪に見せかけた。世間が騒ぎ、家族が初めて本気で探し、警察が動き、彼女たちを傷つけていた者たちが慌てて尻尾を出すように。
それは救済だった。
同時に、犯罪だった。
「お前は神様じゃない」
真壁は言った。
「勝手に人の人生を消していいわけがない」
凛の目が、わずかに揺れた。
「では、誰が消さずに済ませてくれましたか」
その一言が、真壁の胸を刺した。
十五年前の草薙の坂道。
十七歳の少女の部屋。
数式と、助けて、という文字。
真壁は一歩、凛に近づいた。
「俺は、お前を救えなかった」
地下室が静まり返った。
「だが、だからといって、お前がこの子たちの人生を決めるな」
凛は初めて、苦しそうに笑った。
「真壁さんなら、そう言うと思っていました」
「なぜ俺をここへ呼んだ」
「終わらせるためです」
その瞬間、上階で物音がした。
灯が銃を構える。
階段の上から、男の声がした。
「感動的だな、凛」
現れたのは、榊原景。
相談支援アプリを運営する若き実業家だった。表向きは女性の悩みに寄り添う支援者。だが実際には、弱っている女性たちの個人情報を集め、支配し、脅し、追い詰めていた。
五人は全員、榊原のアプリに相談していた。
凛は彼の正体に気づき、彼より先に彼女たちを消した。
榊原は笑った。
「彼女たちは助けてほしかったんじゃない。誰かに決めてほしかったんだよ。君と同じだ、凛」
凛の顔から血の気が引いた。
榊原は灯油の缶を蹴った。
匂いが広がる。
地下室に悲鳴が走った。
真壁は迷わず飛び出した。
榊原が何かを振り上げるより早く、真壁はその腕に体ごとぶつかった。二人は床に転がった。榊原は笑いながら叫んだ。
「お前らは遅いんだよ! いつも遅い! 壊れてから来る!」
「だったら今日は」
真壁は榊原の胸ぐらをつかんだ。
「壊れる前に来た」
灯が榊原を取り押さえた。
火はつかなかった。
五人の女性は、地下室から外へ出た。
夜明け前の草薙の空は、薄い青に変わっていた。
坂井美緒は震える手で、真壁の携帯を借りた。
母親に電話をかけた。
「お母さん」
しばらく沈黙があった。
それから美緒は、子どものように泣いた。
「プリン、また買って帰るね」
真壁は顔をそむけた。
灯も泣いていた。
凛だけが、少し離れた場所に立っていた。
朝の風が、彼女の髪を揺らしていた。
真壁は手錠を取り出した。
「真柴凛。監禁、偽計業務妨害、その他一切。署で話を聞く」
凛は両手を差し出した。
その表情は、どこかほっとしていた。
「十五年かかりましたね」
「ああ」
真壁は手錠をかけた。
「遅くなった」
凛の目から、涙が一粒落ちた。
「わたしを、見つけてくれてありがとう」
清水署へ向かう車の中で、凛は窓の外を見ていた。
草薙の街は、何事もなかったように朝を迎えていた。通勤の人々が駅へ向かい、パン屋がシャッターを開け、誰かの洗濯物が風に揺れている。
真壁は運転席で言った。
「お前のやったことは許されない」
「はい」
「でも、お前が救おうとしたものまで、なかったことにはしない」
凛は目を閉じた。
「それで十分です」
数日後、五人の女性たちは、それぞれ保護下で新しい生活を始めた。
美緒の母親は、娘の前で何度も謝った。
琴葉は専門学校に戻らず、遠くの街で勉強をやり直すことを選んだ。
早織は初めて、自分を脅していた上司を告発した。
紗季は「消えなくても眠れる夜があるんですね」と灯に言った。
朝芽は、凛に宛てて手紙を書いた。
――あなたは怖かった。でも、あなたがいなかったら、私はもういませんでした。だから、今度は私が私を助けます。
榊原景は逮捕された。
相談アプリの裏にあった膨大な記録が押収され、余罪は次々と明らかになった。
世間はまた騒いだ。
凛を悪魔と呼ぶ者もいた。
聖女と呼ぶ者もいた。
だが真壁は、どちらの言葉も嫌いだった。
凛は悪魔でも聖女でもない。
救われなかった少女が、誰かを救おうとして罪を犯した。
ただ、それだけだった。
事件が一段落した夜、真壁は草薙の坂道を一人で歩いた。
風が吹いた。
草が鳴った。
十五年前、ここで消えた少女は、死んでなどいなかった。
ただ、誰にも見つけてもらえないまま、生きていた。
真壁はポケットから、あの半分だけの折り鶴を取り出した。
署に証拠品として戻す前、最後に一度だけ開いた。
古い捜索チラシの裏に、小さな文字があった。
おそらく十五年前の凛が書いたものだった。
――もし誰かが私を見つけたら、その人は次の子を見捨てないでください。
真壁は長い間、その文字を見つめていた。
やがて、折り鶴をもう一度折った。
今度は半分ではなく、最後まで。
夜明けの風の中で、真壁は静かに言った。
「見捨てない」
草薙の街に、朝が来る。
消えた女たちの名前が、ひとつずつ戻ってくる。
そして清水署の刑事は知っていた。
本当に恐ろしい犯人は、刃物を持った怪物ではない。
助けてという声を聞き逃したまま、何も起きていない顔で朝を迎える、この世界そのものなのだと。





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