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死んだはずの一人目が、全員を攫った

※登場人物・事件はすべて架空です。

――草薙連続失踪事件――

 草薙で最初の女が消えた夜、雨は降っていなかった。

 ただ、風だけがあった。

 五月の終わり、静岡市清水区草薙。JR草薙駅の北口から伸びる坂道を、二十二歳の坂井美緒は一人で歩いていた。アルバイト帰りだった。薄いベージュのカーディガン、黒いスニーカー、コンビニの袋。防犯カメラには、彼女がスマートフォンを耳に当て、誰かと話しながら歩く姿が映っていた。

 午後九時十七分。

 画面の中で、美緒はふと立ち止まった。

 次の瞬間、彼女はカメラの死角へ入った。

 その三秒後、袋だけが地面に落ちた。

 中には、紙パックの牛乳と、母親のために買ったプリンが二つ。

 スマートフォンは、道端の排水溝の上に置かれていた。最後の通話記録は母親宛て。録音された最後の声は、ひどく小さかった。

「お母さん……草が、鳴ってる」

 それきりだった。

 誘拐の目撃者はいない。

 悲鳴もない。

 車も映っていない。

 そして現場には、奇妙なものが残されていた。

 黒いリボンで結ばれた、半分だけ折られた折り鶴。

 清水署刑事課強行犯係の真壁豪は、その折り鶴を見た瞬間、胸の奥が嫌な音を立てた。

「ふざけやがって」

 真壁は低く言った。

 四十三歳。短く刈った髪に、日焼けした顔。声が大きく、歩くのが速く、事件現場では誰よりも先に泥を踏む。若い刑事からは「熱血を通り越して発火物」と陰で呼ばれていた。

 だが、被害者家族の前では違った。

 真壁は美緒の母親の前で、深く頭を下げた。

「必ず見つけます。生きて、連れて帰ります」

 母親は泣きながら、何度も言った。

「あの子、昨日ケンカしたんです。わたし、プリンなんていらないって言っちゃって……」

 真壁は、コンビニ袋の中で冷えきったプリンを思い出した。

 事件はそこで終わらなかった。

 二週間後、十九歳の専門学生、小野寺琴葉が草薙の住宅街で消えた。

 三週間後、二十五歳の会社員、藤崎早織が静鉄草薙駅近くの道で消えた。

 さらに二十七歳の看護助手、水野紗季。

 大学生の長谷川朝芽。

 五人。

 全員、若い女性。

 全員、草薙周辺。

 全員、夜。

 全員、遺体も身代金要求もない。

 そして、すべての現場に同じものが残された。

 黒いリボン。

 半分だけの折り鶴。

 清水区は凍りついた。

 テレビは「草薙連続失踪」と騒ぎ、ネットは「草薙の女狩り」と呼んだ。駅前のコンビニから女性客が減り、夜の道には警察官の巡回が増えた。だが犯人は、まるで街そのものの呼吸を読んでいるように、どの巡回の隙間にも入り込んだ。

 真壁の相棒、駿河灯は、折り鶴を机の上に並べて言った。

「先輩。これ、挑発じゃありません」

「じゃあ何だ」

「案内です」

 灯は冷静な若手刑事だった。声は静かだが、観察眼は刃物のように鋭い。

 彼女は折り鶴を一つ、慎重に開いた。

 紙には、かすれた文字が印刷されていた。

 ――行方不明者を探しています。

 真壁の背筋に、冷たいものが走った。

 五羽の折り鶴をすべて開くと、一枚の古い捜索チラシの断片になった。

 そこに写っていたのは、十五年前に草薙で消えた女子高校生の顔だった。

 真柴凛。

 当時十七歳。

 未解決。

 遺体なし。

 犯人なし。

 世間から忘れられた、「一人目」。

 真壁はその名前を知っていた。

 忘れたことなど、一度もなかった。

 十五年前、真壁はまだ駆け出しの刑事だった。真柴凛の捜索に加わり、草薙の坂道を何日も歩いた。だが当時の捜査は、家庭内の問題、家出、思春期の衝動という言葉で薄められていった。

 凛の母親は泣かなかった。

 義父は「面倒な子だった」と言った。

 真壁だけが、凛の部屋に残されたノートを見ていた。

 そこには、十七歳の少女とは思えない数式と、助けを求める短い言葉が同じページに書かれていた。

 ――わたしの頭がよすぎるから、誰もわたしの痛みを信じない。

 凛は天才だった。

 児童相談所の記録には、知能指数は測定上限を超えた、とだけ残っていた。

 マックス。

 紙が、彼女を測りきれなかった。

 真壁はそのとき、彼女を救えなかった。

 十五年後、その死んだはずの名前が、五人の失踪現場に帰ってきた。

「犯人は凛なのか」

 灯が言った。

「死んだ少女が、女たちを攫っている?」

 真壁は答えなかった。

 答えられなかった。

 その夜、清水署に一通の封筒が届いた。

 中には、六本の黒いリボン。

 五本には、すでに消えた女性たちの名前が書かれていた。

 残る一本は空白だった。

 カードが添えられていた。

 ――六人目は、あなたの目の前にいる。

 翌日、相棒の灯が消えた。

 午後八時四十一分。

 灯は真壁に電話をかけてきた。

「先輩、真柴凛のこと、わかりました」

「どこにいる」

「草薙の――」

 そこで音が乱れた。

 風の音。

 草が擦れるような音。

 そして、灯の声が震えた。

「先輩……これ、誘拐じゃないかもしれません」

 通話は切れた。

 灯のスマートフォンは、県立美術館前へ向かう道の脇で見つかった。

 画面には、最後に撮影された写真が残っていた。

 古い木造の建物。

 看板には、かすれてこう書かれていた。

 ――草薙こども文庫。

 その建物は、十年前に閉じられた小さな私設図書館だった。

 真壁は署の制止を振り切るように車を走らせた。夜の草薙は静かだった。駅前の明かりから離れるほど、風の音だけが大きくなる。

 草薙こども文庫は、坂の奥に沈むように建っていた。

 玄関の鍵は開いていた。

 中に入った瞬間、真壁は腐った紙と古い木の匂いを嗅いだ。

 懐中電灯の光が、本棚をなぞる。

 児童書。

 図鑑。

 破れた絵本。

 そして奥の壁一面に、五人の女性の写真が貼られていた。

 坂井美緒。

 小野寺琴葉。

 藤崎早織。

 水野紗季。

 長谷川朝芽。

 それぞれの写真の下に、日付、行動記録、通話履歴、家族構成、勤務先、相談歴。

 まるで彼女たちの人生が、犯人の手で分解され、冷たい標本にされているようだった。

 真壁は歯を食いしばった。

「灯!」

 返事はない。

 床板の下から、かすかな音がした。

 こつん。

 こつん。

 真壁は本棚をどかした。床に隠し扉があった。

 開けると、暗い階段が地下へ続いていた。

 降りるにつれて、空気が冷たくなる。

 地下室の扉には、白い紙が貼られていた。

 ――開ければ、あなたの正義が死ぬ。

 真壁は鼻で笑った。

「俺の正義なんざ、とっくに傷だらけだ」

 扉を蹴り開けた。

 その瞬間、白い光が目を焼いた。

 地下室は、病室のように清潔だった。

 中央に長いテーブル。

 壁には防音材。

 棚には食料、水、毛布、薬、女性用の衣類。

 そしてそこに、五人の女性がいた。

 生きていた。

 坂井美緒が、震える手でプリンの空容器を握っていた。

 小野寺琴葉は泣きながら、隣の水野紗季の背をさすっていた。

 長谷川朝芽は、包帯を巻いた腕を胸に抱えていた。

 藤崎早織は真壁を見て、小さく首を振った。

「来ないで」

 真壁は立ち尽くした。

「どういうことだ……」

 奥の部屋から、灯が出てきた。

 無事だった。

 手首に縄の跡はない。

 口をふさがれてもいない。

 ただ、目だけが赤かった。

「先輩」

 灯は言った。

「この人たち、攫われたんじゃありません」

 背後から、静かな声がした。

「正確には、攫いました。けれど、殺してはいません」

 真壁が振り返ると、ひとりの女が立っていた。

 黒いワンピース。

 細い体。

 左手には、半分だけ折られた折り鶴。

 草薙こども文庫の元司書、志乃原璃子。

 真壁は数日前、聞き込みで彼女に会っていた。物静かで、感情の薄い女だと思った。子どもに絵本を読み聞かせていた声だけは、不思議に温かかった。

 女は眼鏡を外した。

 その目を見た瞬間、真壁の喉が詰まった。

 十五年前の捜索チラシ。

 そこに写っていた少女と、同じ目だった。

「真柴、凛……」

 女は微笑んだ。

「お久しぶりです、真壁刑事」

 地下室の空気が、さらに冷たくなった。

 死んだはずの一人目が、生きていた。

 そして、五人を消していた。

 凛は淡々と話した。

 彼女は十五年前、家出したのではなかった。

 逃げたのだ。

 家庭の中で壊され、助けを求めたが、誰にも信じてもらえなかった。頭がよすぎる少女の訴えは、計算された嘘のように扱われた。泣かない子どもは、傷ついていない子どもだと決めつけられた。

 だから彼女は、自分の存在を殺した。

 名前を捨て、戸籍の隙間に潜り、別人として生きた。

「わたしは一度、社会から死にました」

 凛は言った。

「死んで初めて、息ができた」

 彼女は大人になり、草薙に戻った。

 同じように助けを求めても届かない女性たちを見つけた。DV、ストーカー、家族からの支配、職場での脅迫。彼女たちは何度も相談した。だが事件になる前の苦しみは、いつも薄い紙のように扱われた。

「警察だけが悪いとは言いません。家族も、職場も、友人も、社会も、みんな少しずつ目をそらす。だから誰も犯人にならない。誰も犯人にならないまま、女たちは死んでいく」

「だから攫ったのか」

 真壁の声は震えていた。

「救うために?」

「いいえ」

 凛は首を振った。

「殺すためです」

 美緒が泣き出した。

 凛は彼女を見て、やさしく言った。

「名前を、殺すため」

 地下室の壁に貼られていた記録は、標本ではなかった。

 保護のための記録だった。

 彼女たちを追う者から逃がすため、凛は彼女たちの行動を読み、危険な夜の直前に姿を消させた。失踪に見せかけた。世間が騒ぎ、家族が初めて本気で探し、警察が動き、彼女たちを傷つけていた者たちが慌てて尻尾を出すように。

 それは救済だった。

 同時に、犯罪だった。

「お前は神様じゃない」

 真壁は言った。

「勝手に人の人生を消していいわけがない」

 凛の目が、わずかに揺れた。

「では、誰が消さずに済ませてくれましたか」

 その一言が、真壁の胸を刺した。

 十五年前の草薙の坂道。

 十七歳の少女の部屋。

 数式と、助けて、という文字。

 真壁は一歩、凛に近づいた。

「俺は、お前を救えなかった」

 地下室が静まり返った。

「だが、だからといって、お前がこの子たちの人生を決めるな」

 凛は初めて、苦しそうに笑った。

「真壁さんなら、そう言うと思っていました」

「なぜ俺をここへ呼んだ」

「終わらせるためです」

 その瞬間、上階で物音がした。

 灯が銃を構える。

 階段の上から、男の声がした。

「感動的だな、凛」

 現れたのは、榊原景。

 相談支援アプリを運営する若き実業家だった。表向きは女性の悩みに寄り添う支援者。だが実際には、弱っている女性たちの個人情報を集め、支配し、脅し、追い詰めていた。

 五人は全員、榊原のアプリに相談していた。

 凛は彼の正体に気づき、彼より先に彼女たちを消した。

 榊原は笑った。

「彼女たちは助けてほしかったんじゃない。誰かに決めてほしかったんだよ。君と同じだ、凛」

 凛の顔から血の気が引いた。

 榊原は灯油の缶を蹴った。

 匂いが広がる。

 地下室に悲鳴が走った。

 真壁は迷わず飛び出した。

 榊原が何かを振り上げるより早く、真壁はその腕に体ごとぶつかった。二人は床に転がった。榊原は笑いながら叫んだ。

「お前らは遅いんだよ! いつも遅い! 壊れてから来る!」

「だったら今日は」

 真壁は榊原の胸ぐらをつかんだ。

「壊れる前に来た」

 灯が榊原を取り押さえた。

 火はつかなかった。

 五人の女性は、地下室から外へ出た。

 夜明け前の草薙の空は、薄い青に変わっていた。

 坂井美緒は震える手で、真壁の携帯を借りた。

 母親に電話をかけた。

「お母さん」

 しばらく沈黙があった。

 それから美緒は、子どものように泣いた。

「プリン、また買って帰るね」

 真壁は顔をそむけた。

 灯も泣いていた。

 凛だけが、少し離れた場所に立っていた。

 朝の風が、彼女の髪を揺らしていた。

 真壁は手錠を取り出した。

「真柴凛。監禁、偽計業務妨害、その他一切。署で話を聞く」

 凛は両手を差し出した。

 その表情は、どこかほっとしていた。

「十五年かかりましたね」

「ああ」

 真壁は手錠をかけた。

「遅くなった」

 凛の目から、涙が一粒落ちた。

「わたしを、見つけてくれてありがとう」

 清水署へ向かう車の中で、凛は窓の外を見ていた。

 草薙の街は、何事もなかったように朝を迎えていた。通勤の人々が駅へ向かい、パン屋がシャッターを開け、誰かの洗濯物が風に揺れている。

 真壁は運転席で言った。

「お前のやったことは許されない」

「はい」

「でも、お前が救おうとしたものまで、なかったことにはしない」

 凛は目を閉じた。

「それで十分です」

 数日後、五人の女性たちは、それぞれ保護下で新しい生活を始めた。

 美緒の母親は、娘の前で何度も謝った。

 琴葉は専門学校に戻らず、遠くの街で勉強をやり直すことを選んだ。

 早織は初めて、自分を脅していた上司を告発した。

 紗季は「消えなくても眠れる夜があるんですね」と灯に言った。

 朝芽は、凛に宛てて手紙を書いた。

 ――あなたは怖かった。でも、あなたがいなかったら、私はもういませんでした。だから、今度は私が私を助けます。

 榊原景は逮捕された。

 相談アプリの裏にあった膨大な記録が押収され、余罪は次々と明らかになった。

 世間はまた騒いだ。

 凛を悪魔と呼ぶ者もいた。

 聖女と呼ぶ者もいた。

 だが真壁は、どちらの言葉も嫌いだった。

 凛は悪魔でも聖女でもない。

 救われなかった少女が、誰かを救おうとして罪を犯した。

 ただ、それだけだった。

 事件が一段落した夜、真壁は草薙の坂道を一人で歩いた。

 風が吹いた。

 草が鳴った。

 十五年前、ここで消えた少女は、死んでなどいなかった。

 ただ、誰にも見つけてもらえないまま、生きていた。

 真壁はポケットから、あの半分だけの折り鶴を取り出した。

 署に証拠品として戻す前、最後に一度だけ開いた。

 古い捜索チラシの裏に、小さな文字があった。

 おそらく十五年前の凛が書いたものだった。

 ――もし誰かが私を見つけたら、その人は次の子を見捨てないでください。

 真壁は長い間、その文字を見つめていた。

 やがて、折り鶴をもう一度折った。

 今度は半分ではなく、最後まで。

 夜明けの風の中で、真壁は静かに言った。

「見捨てない」

 草薙の街に、朝が来る。

 消えた女たちの名前が、ひとつずつ戻ってくる。

 そして清水署の刑事は知っていた。

 本当に恐ろしい犯人は、刃物を持った怪物ではない。

 助けてという声を聞き逃したまま、何も起きていない顔で朝を迎える、この世界そのものなのだと。

 
 
 

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