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死体に押された交付決定印

※本作はフィクションです。人物・団体・事件・制度名はすべて架空であり、実在の行政機関・事務所・団体とは関係ありません。

――山崎行政書士事務所の補助金地獄――

 静岡市葵区、鷹匠の細い路地に、山崎行政書士事務所はあった。

表の看板は古かった。白地に黒い文字で、ただこう書かれている。

山崎行政書士事務所補助金・許認可・相続

五月の雨が、アスファルトの上で湯気のように跳ねていた。青葉通りの欅は暗く濡れ、駿府城公園の堀から吹く風は、茶の匂いとも泥の匂いともつかない湿り気を運んでくる。

その日、山崎誠一郎は、事務所の蛍光灯を一本だけ残して帰ろうとしていた。

補助金申請の締切が近い時期は、行政書士の机は戦場になる。見積書、事業計画書、収支予算書、誓約書、役員名簿、納税証明、反社会的勢力排除に関する同意書。紙の束は、人間の生活より重く見えることがある。

「先生、もう帰りましょうよ」

補助者の青井沙耶が、マグカップを洗いながら言った。二十七歳。事務処理は早いが、感情をごまかすのは下手な女性だった。

「あと一件だけ確認したら帰る」

「その“一件だけ”が、毎日三時間かかるんです」

山崎が苦笑したその時、入り口の曇りガラスが三回、弱く叩かれた。

夜の七時四十二分。

来客予定はない。

沙耶が顔を上げた。山崎は、鍵を開けた。

外に立っていたのは、痩せた女性だった。三十代後半に見えた。髪は雨に濡れ、頬には化粧の崩れた線がある。片手に布製の楽器ケース、もう片方の手に茶封筒を抱えていた。

「山崎先生ですか」

「はい」

「補助金の申請を……お願いしたいんです」

声が震えていた。

山崎は、急ぎの案件に慣れている。だが、その女性の目は、締切に追われる事業者の目ではなかった。

追われているのは、もっと別のものだ。

「中へどうぞ」

女性は、応接椅子に腰を下ろすなり、茶封筒を机に置いた。

封筒には、黒いマジックでこう書かれていた。

地域共生音楽活動支援補助金 交付申請書一式

その下に、赤いボールペンで乱暴に走り書きがある。

通ったら死ぬ。落ちても死ぬ。ガイ楽団対。

山崎は一瞬、眉をひそめた。

「ガイ楽団対……?」

女性は息を吸った。

「すみません。慌てて書いたんです。外郭団体、です」

沙耶が、静かに息を止めた。

女性の名は、由比野真帆といった。

清水区で小さな市民楽団を運営しているという。名前は「灯りの合奏団」。家庭に事情のある子どもや、高齢者施設にいる人たちに楽器を教え、月に一度、無償の小さな演奏会を開く団体だった。

「この補助金で、古いクラリネットを直して、譜面台を買って、港の倉庫を借りた練習場に防音材を貼る予定でした」

真帆は言った。

「でも、申請説明会のあと、知らない人に声をかけられました。“採択されたいなら、ここの見積書を使え”って」

「業者を指定された?」

「はい。しかも、その業者の見積額は、うちが取った見積もりの三倍でした」

山崎は封筒を開けた。申請書は一見、普通だった。形式も整っている。事業目的、対象者、実施期間、補助対象経費、自己資金額。

だが、すぐに違和感があった。

見積書の発行者が、すべて同じ住所を共有している。会社名は違う。代表者も違う。けれど所在地は、静岡市内のある雑居ビルの三階、四階、五階に固まっている。

さらに、添付されていた審査説明資料の端に、鉛筆で小さく丸がついていた。

事前相談先:一般社団法人 清流文化まちづくり機構

外郭団体だった。

市の補助金事業の伴走支援を受け、審査補助、採択後の実績確認、イベント支援、広報支援を担っている。表向きは、市民活動を助けるための組織。

山崎は、その名を知っていた。近年、市内の補助金申請者の多くが、そこを通るようになっていた。

「由比野さん。これは誰から?」

真帆は、楽器ケースを抱きしめるようにした。

「市議の後援会にいる人です。名前は言えません。言ったら、律が……」

「律?」

「息子です。十四歳です」

その時、沙耶が申請書の一枚を手に取った。

「先生、これ」

彼女が指差したのは、交付申請書の控えだった。

受付印欄には、まだ何も押されていないはずだった。だが、その欄に赤い印があった。

交付決定

日付は、明日。

そして申請者名の欄には、由比野真帆ではなく、こう印字されていた。

故 由比野真帆

事務所の空気が冷えた。

真帆は、唇を噛んだ。

「先生。私が明日死んだら、この申請書を出してください」

「そんなことはできません」

「できるかどうかじゃないんです」

真帆は、濡れた髪から雨粒を落としながら言った。

「これは補助金じゃありません。棺桶なんです。誰かが、毎年、同じ棺桶に名前を入れている」

山崎は、茶封筒の底に小さなUSBメモリを見つけた。ラベルには、手書きで「実績報告」とある。

「中を見ても?」

真帆はうなずいた。

だが、山崎がパソコンに挿そうとした瞬間、真帆は急に立ち上がった。

「いえ、今は駄目です。先生が一人の時に見てください。沙耶さんも一緒に」

「あなたは?」

「帰ります」

「送ります」

「駄目です。誰かが見ています」

真帆は、笑おうとした。しかし、その表情は壊れた楽器のように歪んだ。

「山崎先生。行政書士って、書類で人を救える仕事ですよね」

山崎は答えられなかった。

書類で救える人もいる。書類で殺される人もいる。

それを、彼は知っていた。

真帆は最後に、小さな声で言った。

「律が、先生のことを選びました」

「息子さんが?」

「はい。先生は、昔、不採択になった申請者にも、最後まで理由を説明してくれたから」

それだけ言うと、彼女は雨の中へ消えた。

翌朝、静岡市清水区の古い倉庫で、由比野真帆の遺体が発見された。

ニュースは短かった。

市民楽団代表の女性死亡。事件性を視野に捜査。

だが、山崎の胸を凍らせたのは、報道ではなかった。

午前八時十九分、山崎事務所のポストに白い封筒が投げ込まれていた。

中には写真が一枚。

真帆の右手だった。

青白い手のひらに、朱肉の赤で印が押されている。

交付決定

沙耶は、椅子に崩れるように座った。

「先生……これ、昨日の……」

山崎は、USBメモリを握りしめた。

「警察に行く」

「でも、先生」

沙耶は震える指で、机の上を指した。

そこにあったはずの茶封筒が消えていた。

夜のうちに、事務所に誰かが入っていた。

鍵は壊れていない。窓も割れていない。

ただ、書類だけが抜き取られていた。

残っていたのは、山崎の机の上に置かれた一枚の紙だった。

市の補助金申請様式。その余白に、黒いインクでこう書かれていた。

不採択理由:生存。

沙耶が泣きそうな顔で言った。

「こんなの、人間のすることじゃない」

山崎は、USBメモリを見た。

「いや。人間だ。だから怖いんだ」

USBには、パスワードがかかっていた。

ファイル名は一つだけ。

score_999.xlsx

山崎は、パスワードのヒントを見た。

補助対象外のもの

沙耶が呟いた。

「補助対象外……食糧費、交際費、汎用性の高い備品、政治活動、宗教活動……」

「違う」

山崎は、真帆が昨日言った言葉を思い出した。

――律が、先生のことを選びました。

真帆の申請書に、息子の名前があった。由比野律。十四歳。クラリネット担当。

申請書の事業目的欄に、不自然な一文があった。

子どもたちの沈黙を、行政上の空白として扱わない。

山崎は打ち込んだ。

沈黙

ファイルが開いた。

中には、採択一覧表があった。

過去五年分の補助金事業。申請団体、採択点数、交付額、委託先、見積業者、紹介者、審査委員、議員名。

沙耶が顔色を変えた。

「これ……全部、つながってる」

山崎は無言で画面をスクロールした。

市民団体A。委託先は、清流文化まちづくり機構の理事の親族会社。

市民団体B。イベント音響費が不自然に高額。領収書発行元は、同じ雑居ビル。

NPO法人C。代表者は、市議・塩谷重蔵の元後援会幹部。

補助金は、いったん市民活動の名目で外へ出る。そこから業者、コンサル、印刷、音響、警備、広報、会場管理という名目で枝分かれする。最終的には、政治資金パーティー券、後援会会費、架空の講師料として戻ってくる。

美しい循環だった。

腐敗というより、よく磨かれた機械だ。

「でも、これだけじゃ証拠にならない」

山崎は言った。

「本物の領収書、メール、指示した人間の記録が必要だ」

その時、事務所の電話が鳴った。

沙耶が取った。

「山崎行政書士事務所です」

すぐに彼女の顔が青ざめた。

山崎が受話器を受け取った。

向こうから、機械で加工されたような声が聞こえた。

「先生、第一問です」

「誰だ」

「補助金の審査で、最初から採択者が決まっている場合、不採択者は何のために存在するでしょう」

山崎は黙った。

声は笑った。

「答えは、競争性を演出するためです」

「由比野さんを殺したのか」

「違います。由比野真帆は、もう五年前から殺されていました。今日、身体が追いついただけです」

「ふざけるな」

「ふざけているのは行政です」

電話の向こうで、かすかに音楽が聞こえた。クラリネットの単音。低いミ。

声が言った。

「第二問。申請書の十九ページ、補助対象経費の一文字目を縦に読んでください」

通話は切れた。

沙耶が申請書のコピーを探した。幸い、山崎は昨夜、スキャンを取っていた。

十九ページ。

講師謝金。楽器修繕費。広報印刷費。会場使用料。記録撮影費。保険料。通信費。消耗品費。

各項目の説明文の一文字目を、沙耶が読み上げる。

「は、せ、が、わ、と、お、る、を、み、ろ」

長谷川徹を見ろ。

長谷川徹は、清流文化まちづくり機構の会計担当だった。

山崎と沙耶は、その日の午後、葵区の外れにある機構の事務所へ向かった。外観は、驚くほど清潔だった。ガラス張りの入り口。白い壁。市民活動支援、文化振興、地域共生。耳触りのいい言葉が、ポスターになって並んでいる。

受付の女性は笑顔だった。

「長谷川は本日、外出しております」

「いつ戻りますか」

「未定です」

山崎が名刺を差し出すと、奥から初老の男が現れた。

白髪を後ろへ撫でつけ、眼鏡の奥の目だけが妙に若い。

「山崎君じゃないか」

山崎の身体が固まった。

「高柳先生……」

高柳弦一。

山崎が若い頃、補助金申請の実務を教わった行政書士だった。今は廃業し、清流文化まちづくり機構の特別顧問になっていると聞いていた。

「久しぶりだな。こんなところで会うとは」

高柳は穏やかに笑った。

「由比野真帆さんの件で来ました」

「痛ましいことだ。市民活動の担い手を失うのは、地域の損失だ」

完璧な言い方だった。

一文字も間違っていない。だから、山崎は寒気がした。

「長谷川さんに会わせてください」

高柳は首を横に振った。

「君も専門家なら分かるだろう。個人情報だ」

「人が死んでいます」

「だからこそ、慎重でなければならない」

その時、山崎の携帯にメールが届いた。

差出人不明。添付画像。

写っていたのは、長谷川徹だった。

地下駐車場のような場所で、椅子に縛られている。口にガムテープ。その胸には、白い紙が貼られていた。

実績報告未提出

沙耶が小さく悲鳴を上げた。

高柳の表情は、まったく変わらなかった。

「山崎君」

「はい」

「深入りするな。補助金は、善意の金じゃない。配分の技術だ。配分には、必ず敗者が出る」

「敗者を殺していい理由にはなりません」

高柳は、少しだけ寂しそうに笑った。

「君はまだ、書類に魂があると思っているんだな」

その夜、長谷川徹は発見された。三保へ向かう旧道沿いの空き倉庫。意識不明の重体だった。

だが、死ぬ前に一つだけ残していた。

彼の靴下の中に、小さく折りたたまれた紙があった。

市民楽団の演奏会チラシ。裏面に数字が並んでいた。

3-1-4-1-5-9-2-6

沙耶が見て言った。

「円周率?」

山崎は首を振った。

「補助金の様式番号だ」

山崎は事務所に戻り、過去の申請様式を開いた。第3号様式、第1号様式、第4号様式……指定された順番に、各様式の一行目を読む。

そこに文章が現れた。

高柳が書いた。塩谷は運んだ。清流は洗った。律を止めろ。

最後の一文に、山崎は眉を寄せた。

律を止めろ。

犯人は、塩谷市議でも、高柳でもないのか。

沙耶が震えた声で言った。

「由比野さんの息子さんが……何かしようとしてる?」

その瞬間、事務所の照明が落ちた。

停電ではない。パソコンの画面だけが、青白く光っている。

自動で動画が再生された。

画面には、真帆が映っていた。

死ぬ前に撮られた動画だ。

「山崎先生」

彼女は、穏やかな顔をしていた。あの雨の夜とは違う。覚悟を決めた人間の顔だった。

「この動画を見ているなら、私はたぶん、もう帰れません」

山崎は、拳を握った。

「清流文化まちづくり機構は、市の補助金を食い物にしています。でも、もっと怖いのは、お金じゃありません。あの人たちは、採択される団体と、されない団体を使って、街の声を選別している」

真帆は続けた。

「言うことを聞く団体は育てる。文句を言う団体は干す。選挙の時に動く団体には金を通す。困っているだけの団体には、書類不備という名前の石を投げる」

沙耶が涙を拭った。

「律は天才です。けれど、まだ子どもです。私が死んだら、あの子は全部を壊そうとするかもしれません。個人情報も、子どもたちの記録も、全部ネットに出してしまうかもしれない」

真帆は画面の中で、深く頭を下げた。

「先生。律を止めてください。私は、復讐じゃなくて、申請をしたいんです」

「申請……?」

画面の真帆は微笑んだ。

「この街に、まだ人間として扱われるための申請を」

動画は終わった。

その直後、また電話が鳴った。

加工された声。

「最終審査に進みます」

山崎は言った。

「律君だね」

沈黙。

「君はお母さんを殺した犯人じゃない。でも、この事件の舞台を作ったのは君だ」

声は、子どもの声に戻った。

「大人は、証拠がないと見ない」

「ある」

「見ても動かない」

「動かす」

「嘘だ」

その声には、怒りよりも深い絶望があった。

「市役所に相談した。機構にも言った。新聞にも送った。警察にも行った。みんな、調査しますって言った。調査している間に、母さんは殺された」

山崎は目を閉じた。

「君は何をするつもりだ」

「全部、公開する」

「子どもたちの住所や病歴まで入っている」

「ぼくたちの痛みを、あいつらは点数にした」

「だからといって、君が同じことをしていいわけじゃない」

電話の向こうで、律が泣いた。

「じゃあ、どうすればいいんだよ」

山崎は、静かに言った。

「申請書を出すんだ」

「何の」

「君のお母さんが残した申請書だ」

「死んだ人の申請なんて通らない」

「通すためじゃない。記録に残すためだ。行政は、受け取った書類をなかったことにはできない。君のお母さんの声を、正式な受付番号のあるものにする」

律は黙った。

山崎は続けた。

「それから、証拠を選別して警察と報道に渡す。子どもたちの情報は隠す。悪い大人だけを出す。君は賢い。だから、壊すより難しいことができる」

「何」

「守りながら、暴くことだ」

律は、長い沈黙のあと、場所を告げた。

旧袖師音楽倉庫。

深夜十一時。

山崎と沙耶が倉庫に着くと、雨は止んでいた。清水港の方から、海の匂いがした。

倉庫の中には、古い譜面台が並んでいた。壁にはプロジェクターで、補助金の採択一覧が映されている。

中央に、少年が立っていた。

細い身体。黒いパーカー。手にはクラリネットケース。

由比野律だった。

そして、その奥に、二人の男が椅子に縛られていた。

一人は市議の塩谷重蔵。もう一人は、清流文化まちづくり機構の理事長だった。

山崎は息を呑んだ。

「律君、これは駄目だ」

「殺さない」

律は言った。

「ただ、生配信で全部しゃべらせるだけ」

沙耶が近づこうとした瞬間、倉庫の横扉が開いた。

入ってきたのは、高柳弦一だった。

後ろに、黒い雨合羽の男がいる。手にはナイフ。

塩谷市議が泣き声を上げた。

「高柳先生、助けてくれ!」

高柳は、塩谷を見もしなかった。

「見苦しい」

山崎は、ゆっくりと前へ出た。

「高柳先生。あなたが書いたんですね。この仕組みを」

高柳は微笑んだ。

「仕組みには作者がいる。道路にも、橋にも、補助金にもな」

「由比野さんを殺したのも?」

「直接ではない」

雨合羽の男がナイフを握り直した。

「彼は塩谷君の秘書だ。実行役という言葉は便利だね。責任を小さく見せられる」

沙耶が震えながら言った。

「どうして……」

高柳は、倉庫の壁に映る採択一覧を眺めた。

「昔は、補助金は弱い人を助ける金だった。だが弱い人は多すぎる。全員は救えない。ならば、街にとって役に立つ弱者を選ぶ必要がある」

「何様ですか」

沙耶の声は怒りで震えていた。

「神様にでもなったつもりですか」

高柳は、彼女を見た。

「違う。行政だ」

その言葉は、倉庫の中で恐ろしく響いた。

山崎は言った。

「行政は人を選別するためにあるんじゃない。手続で権力を縛るためにある」

高柳は、初めて顔を歪めた。

「青いな、山崎君。君に教えたはずだ。書類は現実を作る。現実を作れる者が、街を支配する」

「だから、あなたは申請書で人を殺した」

「殺したのは私ではない。彼らの不備だ。政治を知らない。根回しをしない。指定業者を使わない。審査員に挨拶もしない。そんな団体が落ちるのは当然だ」

律が叫んだ。

「母さんは不備じゃない!」

声が割れた。

「母さんは、ただ音楽を続けたかっただけだ!」

雨合羽の男が律に向かって走った。

山崎は、とっさに机の上にあった分厚い補助金要綱ファイルを掴んだ。ナイフが突き出される。山崎はファイルで受けた。

刃が紙束に突き刺さった。

数百ページの規程、様式、注意事項、Q&A。人を押し潰すほど重い書類が、その瞬間だけ、人を守った。

沙耶が消火器を男の足元に噴射した。白い粉が舞う。律がクラリネットケースを投げた。ケースは男の膝に当たり、男は倒れた。

外からサイレンが近づいてきた。

律が山崎を見た。

「通報したの?」

「君が場所を教えてくれた時点でね」

「ずるい」

「大人だからな」

律は泣きながら笑った。

警察が踏み込む直前、高柳は山崎に近づいた。

「最後に一つ教えてやろう」

「何です」

「由比野真帆の手に交付決定印を押したのは、私ではない」

山崎は動きを止めた。

高柳は穏やかに言った。

「彼女自身だ」

山崎は、真帆の動画を思い出した。あの落ち着いた顔。覚悟。

高柳は続けた。

「彼女は死ぬ前に、自分の手に印を押した。君の事務所から持ち出した印ではない。自分で作った玩具の印だ。自分の死を、最後の申請にするために」

律が呆然とした。

「母さんが……?」

高柳は笑った。

「たいした女だったよ。だから殺された」

その瞬間、山崎は高柳を殴りたい衝動に駆られた。

だが、殴らなかった。

殴れば、高柳の世界に入ることになる。力で人を黙らせる世界に。

山崎は、床に落ちた申請書を拾った。

真帆の字がある。

地域共生音楽活動支援補助金 交付申請書

申請者。由比野真帆。

事業目的。

声を上げられない人の沈黙を、街の音楽として残す。

山崎は、その紙を胸に抱えた。

三か月後。

清流文化まちづくり機構をめぐる補助金不正は、静岡市政を揺るがす大事件になった。市議の塩谷は逮捕され、複数の外郭団体で不透明な委託と還流が明らかになった。高柳弦一は、補助金詐欺、証拠隠滅、殺人教唆の容疑で起訴された。

報道は連日、利権構造を追った。

補助金は、市民活動の希望であると同時に、権力が善意を飼い慣らす檻にもなる。採択、不採択、点数、評価、実績。それらの言葉の裏で、誰かの生活が明るくなり、誰かの灯りが消される。

だが、報道されなかったこともある。

山崎事務所には、今も一枚の申請書の控えが残っている。

受付番号はある。だが、交付決定はされていない。

申請者が死亡していたため、形式上、その申請は審査不能となった。

それでも山崎は、その控えを捨てなかった。

ある冬の日、事務所に小さな演奏会の招待状が届いた。

差出人は、由比野律。

会場は、清水区の小さな公民館。出演者は、灯りの合奏団。

山崎と沙耶が行くと、そこには十数人の子どもたちがいた。古い譜面台。修理跡のあるクラリネット。少し音の外れたフルート。弦の古いバイオリン。

律は、舞台の端に立っていた。

演奏が始まる前、律はマイクを握った。

「母は、補助金をもらえませんでした」

会場が静まった。

「でも、母の申請書は、受け取られました。だから、母がやろうとしたことは、なかったことにはなりません」

律は山崎を見た。

「山崎先生が、そう言いました」

山崎は目を伏せた。

律は、少し笑った。

「今日の一曲目は、母が好きだった曲です。タイトルは――」

一瞬、言葉が詰まった。

沙耶がハンカチを握った。

律は、涙をこぼさずに言った。

「『不採択の春』」

子どもたちが演奏を始めた。

最初の音は震えていた。二つ目の音は、少し外れた。三つ目の音で、誰かが笑った。

それでも音楽は続いた。

山崎は、その音を聞きながら思った。

行政書士の仕事は、世界を変えることではない。一枚の紙を、正しい場所に届けることだ。

だが、時に一枚の紙は、死者の声を運ぶ。腐った仕組みに、小さな穴を開ける。沈黙していた人間に、もう一度名前を与える。

演奏が終わると、律が山崎の前に来た。

「先生」

「うん」

「ぼく、行政書士になります」

沙耶が驚いて笑った。

「え、音楽家じゃなくて?」

律は真面目な顔で答えた。

「音楽は続けます。でも、書類も書きます。母さんみたいな人が、書類で殺されないように」

山崎は、しばらく何も言えなかった。

やがて、彼は律の肩に手を置いた。

「じゃあ、まず漢字からだな」

「漢字?」

「外郭団体を、ガイ楽団対って書かないように」

律は、初めて子どもらしく笑った。

外へ出ると、静岡の空は澄んでいた。遠くに富士山が見えた。雪をかぶった山頂は、何も知らないように白かった。

山崎事務所へ戻る道すがら、沙耶が言った。

「先生」

「何」

「書類で人を救えるんですね」

山崎は、少し考えた。

「救える時もある」

「救えない時は?」

「その時は、せめて、殺す側に回らない」

沙耶は黙ってうなずいた。

夕方、山崎行政書士事務所の灯りがついた。

机の上には、新しい補助金申請書が置かれている。申請者は、小さな子ども食堂。目的欄には、たどたどしい字でこう書かれていた。

お腹がすいた子に、あたたかいごはんを出したい。

山崎は万年筆を取った。

外では、街がいつものように動いている。どこかで利権が息を潜め、どこかで善意が書式に迷い、どこかで誰かが助けを求めている。

山崎は、申請書の一行目を丁寧に確認した。

そして、静かに呟いた。

「受け付けます」

その声は小さかった。

けれど、確かに、誰かの明日へ押された印のようだった。

 
 
 

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