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死体は二分遅れて発車する――東海道新幹線連続殺人事件――

東京駅十七番線の朝は、いつも人間より先に時計が目を覚ます。

午前六時五十一分。

案内放送が、まだ眠りきれない群衆の頭上に降った。

「まもなく、十七番線に、新大阪行き……」

清掃員の小野寺は、その放送を背中で聞きながら、ホーム端の業務用扉の前に置かれた銀色のスーツケースを見つけた。

東海道新幹線のホームで置き忘れは珍しくない。だが、そのスーツケースには妙なものが貼られていた。

白い紙片。

万年筆の黒い文字で、ただ一行。

七二三A

小野寺は眉をひそめた。

新幹線の列車番号のように見えた。だが、時刻表に詳しい彼にも、その番号に覚えはなかった。

十分後、駅員二人と警備員が集まり、スーツケースは開けられた。

中にいたのは、男だった。

折り畳まれた身体。閉じられた瞼。胸元に、同じ筆跡で書かれた紙。

存在しない列車に乗せた。

被害者は高槻勝、五十八歳。元旅行雑誌の時刻表編集者。喉に細い絹紐の痕があった。

警視庁捜査一課の佐伯豪介が東京駅に着いたのは、午前七時二十二分だった。

乱れた髪、赤い目、結びそこねたネクタイ。彼は階段を二段飛ばしで駆け上がり、規制線の前で駅員に怒鳴った。

「ホームの時計、全部止めろ! 監視カメラの時刻も確認しろ! “何時何分”を一秒も逃すな!」

部下の三浦が慌てて追いつく。

「佐伯さん、まだ被害者の身元確認が――」

「時刻表殺しだ」

佐伯は紙片を見た瞬間、低く言った。

「これは列車じゃない。人間を時刻で殺す奴の仕事だ」

三浦は息をのんだ。

佐伯豪介は、東海道新幹線に憑かれている刑事だった。

十二年前、彼の相棒だった矢代刑事が、三島駅近くの保守通路で死んだ。未解決事件の容疑者を追っていた夜だった。容疑者には完璧なアリバイがあった。

午後九時十七分、容疑者は京都駅の防犯カメラに映っていた。

矢代が襲われたのは、三島で午後九時十五分。

東海道新幹線を使っても、二分では人間は移動できない。

その二分が、事件を殺した。

その二分が、佐伯の相棒も殺した。

以来、佐伯は時刻表を憎んでいた。

東京の事件から三日後、第二の死体が名古屋駅で見つかった。

場所は新幹線改札内のコインロッカー前。被害者は垣内真紀、四十六歳。旅行会社勤務。死因は薬物による急性心不全。

足元に置かれていた紙片には、こうあった。

九一四D

また、存在しない列車番号だった。

さらに四日後、京都駅。

八条口側の待合室で、茶色のコートを着た老人が眠るように死んでいた。被害者は安西了、六十二歳。元駅務員。

膝の上の紙片には、

一〇一五E

その二日後、新大阪駅。

二十七番線下の業務用階段で、橋爪幸一、六十四歳が発見された。元雑誌記者。胸を一突き。

紙片には、

一二二〇C

四人の被害者。四つの駅。

東京、名古屋、京都、新大阪。

東海道新幹線の大動脈に、死体が等間隔で打ち込まれていく。

そしてすべての現場に、存在しない列車番号が残されていた。

捜査本部は混乱した。

「七二三Aも九一四Dも、一〇一五Eも一二二〇Cも、現行ダイヤに存在しません」

鉄道会社から派遣された運行担当者が、会議室で淡々と説明した。

「臨時列車、回送、試運転を含めても該当なし。過去十年分を照合してもありません」

三浦がぼやいた。

「じゃあ、犯人は適当に書いてるんですかね」

「適当な奴は、こんな数字を書かない」

佐伯は四枚の紙片を並べた。

数字の幅。アルファベットの位置。万年筆のインクの濃淡。

どれも美しかった。

美しすぎた。

「こいつは数字を飾ってる。死体より数字を見せたいんだ」

その夜、佐伯は一人の男を呼んだ。

久遠怜司。

三十七歳。鉄道時刻表研究家。テレビ番組では「歩く時刻表」と呼ばれていた。幼いころから驚異的な記憶力を持ち、東海道新幹線の開業日から現在までの主要ダイヤを暗唱できるという。

久遠は黒いコートで現れた。

顔は整いすぎていて、表情が薄かった。目だけが冷えていた。

「存在しない列車番号、ですか」

久遠は紙片を見るなり、口元だけで笑った。

「美しいですね」

佐伯は椅子から身を乗り出した。

「人が死んでる」

「ええ。だから美しいと言ったのです。死は乱雑です。しかし時刻表は乱れない。犯人は、乱雑な死を時刻表の中へ戻そうとしている」

三浦が露骨に顔をしかめた。

「変な言い方しますね」

久遠は三浦を見なかった。

「東海道新幹線には、密室性があります。飛行機ほど閉ざされず、在来線ほど開かれていない。一度乗れば、乗客は自分が“移動している”と思い込む。しかし実際には、駅に停まった数分間だけ、世界が裂ける」

佐伯の目が細くなった。

「数分間?」

「ええ。二分、三分、四分。人間はそれを誤差と呼ぶ。犯人は、それを通路と呼んでいる」

久遠は四枚の紙片を指でなぞった。

「この事件の鍵は、列車そのものではないでしょう。列車番号に見せかけた何かです」

「何かとは?」

久遠は微笑した。

「それを見つけるのが、刑事の仕事では?」

挑発だった。

佐伯はその笑いを見た瞬間、十二年前の夜を思い出した。

矢代が死んだ事件にも、同じような男がいた。

時刻を語り、人の死を数式にした男。

だが、証拠はなかった。

今回も、久遠怜司にはアリバイがあった。

第一の殺人、東京駅の朝。

久遠は名古屋駅のホームにいた。講演会のため、午前七時十六分着の列車から降りる姿が防犯カメラに映っていた。

第二の殺人、名古屋駅の昼。

久遠は京都行きの車内で、乗客三人に目撃されていた。七号車の窓側席で、黒いコートを着て文庫本を読んでいたという。

第三の殺人、京都駅の夕方。

久遠は新大阪駅の書店でサイン会をしていた。百人近い客が証言した。

第四の殺人、新大阪駅の夜。

久遠は東京行きの車内にいた。車掌が検札で確認していた。

完璧だった。

完璧すぎた。

佐伯は被害者四人の過去を洗った。

高槻勝、垣内真紀、安西了、橋爪幸一。

四人は十二年前、同じ事件の関係者だった。

矢代刑事が死んだ、あの未解決事件。

当時、名古屋のホテルで若い女性が殺された。被害者は神崎美緒、二十九歳。鉄道写真家だった。彼女は死の直前、東海道新幹線のダイヤ改正に関する不正を調べていた。

容疑者は四人いた。

編集者の高槻。

旅行会社の垣内。

駅務員の安西。

記者の橋爪。

だが四人には、それぞれ新幹線によるアリバイがあった。

高槻は東京にいた。

垣内は名古屋にいた。

安西は京都にいた。

橋爪は新大阪にいた。

防犯カメラ、乗客証言、切符の記録。

すべてが四人を別々の場所に置いていた。

矢代はそれを疑った。

「二分だけズレてるんだよ、佐伯」

生前、矢代はそう言っていた。

「人間の記憶じゃない。時計がズレてる。列車じゃなくて、駅が嘘をついてる」

その夜、矢代は一枚の古い切符を手にしていた。

事件現場から消えた切符だと言っていた。

翌朝、矢代は死んだ。

切符も消えた。

佐伯は拳を握った。

「十二年前の関係者を、誰かが順番に殺している」

三浦が訊いた。

「復讐ですか?」

「復讐なら、なぜ列車番号を残す」

佐伯は四枚の紙片を見た。

七二三A。

九一四D。

一〇一五E。

一二二〇C。

その夜、佐伯は東海道新幹線に乗った。

東京から新大阪まで。

捜査ではなく、確認のためだった。

午後八時ちょうど、東京駅。

ホームの時計は正確だった。乗客はスマートフォンを見ている。発車標は秒を持たない。案内放送は一分前に流れる。ドアは定刻よりわずかに早く閉まり、列車は数十秒遅れて動きだす。

その「わずか」を、人は覚えていない。

名古屋では、乗客の証言が食い違った。

「久遠さんは発車直前までホームにいました」

そう言う者がいた。

「いや、ずっと席に座っていました」

そう言う者もいた。

京都では、駅の防犯カメラと売店レシートの時刻が二分違っていた。

新大阪では、ホームの発車標の更新が一分遅れていた。

一分。

二分。

三分。

東海道新幹線は巨大な時計のように動いている。

だがその内部では、小さな歯車がわずかに噛み合っていなかった。

犯人はその隙間を歩いている。

佐伯はそう確信した。

新大阪から東京へ戻る深夜の車内で、佐伯は眠れなかった。

車窓の闇に自分の顔が映っていた。

矢代の声が蘇る。

「二分だけズレてるんだよ、佐伯」

東京に戻った佐伯は、十二年前の遺品箱を開けた。

矢代の手帳。

血のにじんだネクタイ。

そして、捜査資料のコピー。

そこに、見落としていた一枚の写真があった。

矢代が死ぬ数時間前、監視カメラに映っていた手元の拡大写真。

矢代は、切符を持っていた。

古びた指定席券。

印字はかすれている。

佐伯は写真を拡大した。

そこには、こうあった。

七号車二十三番A

佐伯の呼吸が止まった。

七号車、二十三番、A席。

七二三A。

列車番号ではない。

座席番号だった。

佐伯は四枚の紙片をつかんだ。

九一四D。

九号車十四番D。

一〇一五E。

十号車十五番E。

一二二〇C。

十二号車二十番C。

すべて座席番号。

存在しない列車番号ではなく、存在していた座席だった。

古い切符が、四つの数字の正体を一瞬で変えた。

佐伯は捜査本部へ駆け込んだ。

「予約記録を洗え! この四つの席だ! 列車番号じゃない、席番だ!」

三浦が叫んだ。

「いつの列車ですか!」

「全部だ! 事件当日の前後、東海道新幹線の全列車、この四席の予約を出せ!」

結果は夜明け前に出た。

四つの席は、すべて別々の列車で予約されていた。

予約名は違った。現金購入。本人確認なし。

だが購入した券売機の防犯映像に、同じ男が映っていた。

黒いコート。

冷えた目。

久遠怜司。

さらに調べると、各列車の該当席には、久遠本人ではなく、黒いコートと帽子だけが置かれていた時間があった。

乗客は窓越しに、あるいは通路越しに、それを「久遠が座っている」と思い込んだ。

久遠は座席に自分の影を置き、駅の二分を使って移動していた。

東京では、発車直前に車内から降り、業務用通路で高槻を殺し、二分後の別列車に乗った。

名古屋では、停車中の列車から別ホームへ抜け、薬を仕込んだ垣内の死を待ち、京都行きに戻った。

京都では、サイン会の開始時刻を駅ビルの時計に合わせ、実際には三分前に現場を離れていた。

新大阪では、検札時に席にいたのは久遠ではなく、彼とよく似た帽子を被った老客だった。久遠はその間、階段下で橋爪を刺していた。

どれも数分。

だが、その数分は、東海道新幹線という巨大な密室の中では、不可能に見えた。

「令状を取ります」

三浦が受話器を握った。

佐伯は首を振った。

「その前に、奴は最後の列車に乗る」

「最後?」

「十二年前、神崎美緒が殺された時刻だ。午後九時十七分。矢代が死んだ時刻だ。久遠はそこまで物語を揃える」

「久遠が神崎美緒の関係者だっていう証拠は?」

佐伯は写真の古い切符を見た。

「久遠怜司は本名じゃない」

捜査資料に、神崎美緒の家族欄があった。

弟。

神崎怜司。

当時二十五歳。

事件後、行方不明。

佐伯は東京駅へ走った。

午後九時十三分。

十七番線。

新大阪行き最終に近い列車が、銀色の顔で待っていた。

人波の向こうに、久遠怜司が立っていた。

黒いコート。小さな革鞄。静かな横顔。

佐伯は規制線を抜け、ホームを駆けた。

「神崎怜司!」

男が振り向いた。

初めて、その顔から笑みが消えた。

佐伯は息を切らしながら近づいた。

「十二年前の切符を、どこへやった」

久遠はしばらく黙っていた。

やがて、薄く笑った。

「刑事さん。あなたはやはり、時計を見るのが下手だ」

「答えろ」

「切符は母の遺品です」

「神崎美緒はお前の姉だ」

久遠の目が、わずかに揺れた。

「姉は殺された。四人に。彼らは時刻表を使って逃げた。ならば、時刻表で死ぬべきだ」

「矢代も殺したのか」

久遠は答えなかった。

沈黙が、答えだった。

佐伯の拳が震えた。

「お前の美学なんざ、ただの人殺しだ」

「いいえ」

久遠は静かに言った。

「これは修正です。時刻表から外れた死を、正しい場所へ戻しただけです」

「人間は列車じゃない」

「だから醜い」

発車ベルが鳴った。

乗客が急ぐ。

久遠は一歩、車内へ入った。

佐伯も続いた。

七号車。

二十三番A。

そこには、黒いコートと帽子が置かれていた。

人間の影だけが座っていた。

久遠が微笑む。

「また遅れましたね、佐伯刑事。あなたはいつも二分遅い」

列車のドアが閉まりかけた。

佐伯は胸ポケットから一枚のものを出した。

古い切符だった。

本物だった。

矢代の遺品箱の底板に隠されていた、十二年前の指定席券。

東京から新大阪。

七号車二十三番A。

裏面には、赤いスタンプが四つ押されていた。

東京。

名古屋。

京都。

新大阪。

その時刻は、四人の容疑者が「別々の場所にいた」と主張した時刻と完全に一致していた。

だが一枚の切符に、四つの駅の途中確認印がある。

つまり、十二年前、四人のアリバイはひとつの切符で作られていた。

同じ座席を目印に、同じ列車を使い、駅ごとの数分のズレで証言を分断した。

四人は別々の場所にいたのではない。

同じ計画の中にいた。

そして久遠は、その切符を模倣して今回の殺人を組み立てた。

佐伯は切符を久遠に突きつけた。

「お前が盗んだと思っていたんだろう。だが矢代は隠していた。お前が殺した後も、この切符は残っていた」

久遠の顔から血の気が引いた。

「そんなものが……」

「四人のアリバイも、お前のアリバイも、これで終わりだ」

佐伯は低く言った。

「列車番号じゃない。座席番号だ。お前は十二年前と同じ席を使った。使いすぎたんだよ、天才」

ドアが閉まる寸前、三浦たちが車内へ雪崩れ込んだ。

久遠は逃げようとした。

だが佐伯がその胸倉をつかみ、座席に叩きつけた。

七号車二十三番A。

十二年前、すべてが始まった席。

久遠の背中がそこに沈んだ。

発車ベルが止まった。

列車は動かなかった。

駅員の声がホームに響く。

「安全確認のため、発車を見合わせます」

久遠は笑った。

壊れた時計のような笑いだった。

「遅延ですか」

佐伯は手錠をかけた。

「違う」

彼は古い切符を握りしめた。

「終点だ」

夜の東京駅で、東海道新幹線は二分遅れていた。

だがその二分は、もう誰のアリバイにもならなかった。

 
 
 

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