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死体貯蔵許可第零号


――山崎行政書士事務所、午前零時の不許可印

 静岡市葵区、青葉通りから少し外れた路地に、山崎行政書士事務所はあった。

 古いビルの三階。階段の踊り場には、雨に濡れた傘の匂いと、階下の茶舗からの香ばしい焙煎香がいつも混ざっている。窓からは駿府城公園の木々が見え、晴れた日には、ビルの隙間の向こうに富士山の白い肩がのぞいた。

 山崎明日香は、父から継いだその事務所で、建設業許可、産廃収集運搬、法人設立、風俗営業、在留資格、そして少し特殊な分野である高圧ガス保安法関係の許認可を扱っていた。

 第一種貯蔵所の設置許可。販売事業届。製造許可。変更許可。完成検査。保安係員や保安教育に関する書類。

 どれも、一般の人には紙の束にしか見えない。

 だが明日香は知っている。

 許認可の紙は、時に命の手前に立つ。

 その紙一枚が、誰かの安全を守ることもあれば、誰かの死を黙認してしまうこともある。

 父の山崎誠一郎は、いつもそう言っていた。

「行政書士はな、明日香。判子を押す仕事じゃない。押していい判子と、絶対に押しちゃいけない判子を見分ける仕事だ」

 父は七年前に亡くなった。

 心筋梗塞と診断されたが、明日香は今でも、父が最後の数か月、何かに怯えていたことを覚えている。深夜に一人で古いファイルを開き、赤鉛筆で何度も何度も同じ書類に線を引いていた。

 そのファイルは、父の死後、どこを探しても見つからなかった。

 事件が始まったのは、五月の雨の午後だった。

 事務所のドアが、二回だけ叩かれた。

 受付兼補助者の由比千夏が顔を上げた。

「先生、予約のない方です」

 ドアの前に立っていたのは、黒いスーツの男だった。

 年齢は三十代後半ほど。長身で痩せている。濡れた髪はきっちり後ろへ撫でつけられ、瞳だけが不自然なほど静かだった。

「久世遼と申します」

 男は名刺を差し出した。

 肩書は、保安技術コンサルタント。

「高圧ガス保安法に基づく許認可一式をお願いしたい」

 男はそう言って、黒いファイルを机に置いた。

 明日香は表紙を見た。

 そこには、几帳面な文字でこう印字されていた。

 高圧ガス第一種貯蔵所設置許可申請書

 その下に、もう一枚、白い紙が挟まっていた。

 明日香は息を止めた。

 そこには、あり得ない題名があった。

 死体貯蔵許可申請書

 千夏が小さく悲鳴をあげた。

 明日香は紙をめくった。

 申請者欄には、久世遼。

 貯蔵場所欄には、山崎行政書士事務所。

 貯蔵対象物欄には、こうあった。

 山崎明日香の心臓

 雨音が、急に遠くなった。

 久世遼は、まばたき一つせずに言った。

「本日二十四時までに、十八年前の申請書に混入した一つの嘘を見つけてください」

「何の話ですか」

「先生のお父様なら、分かっていたはずです」

 久世は懐から銀色の小さな封筒を出した。

 中には写真が三枚入っていた。

 一枚目は、山崎行政書士事務所を外から撮った写真。

 二枚目は、明日香が今朝、青葉通りで傘を差して歩いている写真。

 三枚目は、古い倉庫の中で椅子に縛られている初老の男の写真だった。

 男の胸には、赤い紙が貼られていた。

 受理済

「この人は」

「田浦征二。十八年前、清水区折戸にあった低温物流会社の工場長です」

 明日香の指先が冷たくなった。

 折戸低温物流事故。

 それは、父が生前もっとも口を閉ざした事件だった。

 十八年前、清水区の低温倉庫で高圧ガス関係の重大事故が発生した。死者二名。重傷者五名。

 当時、その施設の許認可書類に関わっていた行政書士が、父、山崎誠一郎だった。

 世間は父を責めた。

 安全性に疑義があったのに、申請を通したのではないか。

 会社の言いなりになったのではないか。

 父は最後まで沈黙した。

 沈黙し、事務所を守り、明日香を育て、そして死んだ。

 久世は淡々と続けた。

「田浦はまだ生きています。ただし、零時を過ぎても答えが出なければ、次の“申請”に進みます」

「警察に行きます」

「もう行っていますよ」

 久世は薄く笑った。

「静岡県警には、同じ写真が届いている。けれど警察は書類を読めない。犯人がどこにいるかではなく、犯人が何を読ませたいかを理解できるのは、山崎行政書士事務所だけです」

 千夏が震える声で言った。

「あなた、何者なんですか」

 久世は初めて千夏を見た。

 その目に、ほんの一瞬だけ、亀裂のような感情が走った。

「死んだ人間です」

 そう言い残して、男は去った。

 十分後、警察が来た。

 望月環刑事は、明日香の大学時代の先輩だった。昔は穏やかでよく笑う人だったが、刑事になってからは、表情の奥にいつも鋭い刃物のようなものを隠していた。

「山崎さん、田浦征二は本当に見つかった。市内の廃業した保冷倉庫だ。命に別状はない。ただ、本人は混乱していて何も話さない」

「久世遼は」

「身元はある。だが妙だ。戸籍上、彼は十八年前の折戸低温物流事故で死亡している」

 明日香は、思わず椅子を掴んだ。

「死亡している?」

「そう。死者二名のうち一人が、当時十二歳の久世遼。もう一人は母親の久世美和子」

 千夏が、机の上の湯呑みを倒した。

 茶が書類の端に広がった。

「千夏さん?」

「すみません……急に、耳鳴りが」

 明日香は、千夏の肩に手を置いた。

 千夏は二十七歳。三年前、父の知人の紹介で事務所に来た。几帳面で、静かで、だが人の感情の変化にひどく敏感だった。誰よりも早く来て、誰よりも遅く帰り、古い依頼者の名前までよく覚えている。

 ただ、幼い頃の記憶が曖昧だと、一度だけ話してくれたことがあった。

 交通事故で両親を亡くし、遠縁の親戚に育てられたのだ、と。

 その夜、山崎行政書士事務所は、警察の簡易対策本部になった。

 久世が置いていった黒いファイルには、実在する事業者名、施設図、保安管理体制、貯蔵計画、販売計画、変更理由書が整然と綴じられていた。

 内容は、驚くほど完璧だった。

 完璧すぎた。

 明日香は何時間も書類を読み込んだ。

 久世遼は天才だった。

 ただの知識ではない。法律、行政手続、現場の慣行、人間の心理、警察の動き、報道の呼吸。それらをすべて盤面に置き、将棋の終盤のように先を読んでいる。

 犯行予告なのに、申請書として破綻していない。

 恐怖なのに、法的文書として美しい。

 その異常さが、明日香の背筋を凍らせた。

「先生」

 千夏が、かすれた声で言った。

「この数字、おかしいです」

「どこ?」

「各書類のページ番号です。普通なら通し番号なのに、わざと飛んでいます。三、十一、十八、二十六、三十五……」

 明日香は紙に数字を書き出した。

 望月刑事が覗き込む。

「暗号か?」

「たぶん。五十音に置き換えると……」

 千夏が震える指で書いた。

 し ん せ い し ょ は う そ を つ く

 申請書は嘘をつく。

 明日香の胸の奥で、父の声が蘇った。

 ――書類は嘘をつく。だから人間が読まなきゃならない。

 明日香は立ち上がり、事務所の奥にある古いキャビネットを開けた。

 父の時代の書類が保管されている場所だった。

 折戸低温物流のファイルは、ないはずだった。

 だが、千夏が言った。

「先生、下です」

「下?」

「一番下の引き出し。二重底になっています」

 明日香は目を見開いた。

「どうして分かるの」

 千夏は青ざめた顔で首を振った。

「分かりません。ただ……そこにある気がするんです」

 望月刑事が工具を借り、引き出しの底板を外した。

 中から、茶色い封筒が出てきた。

 父の字だった。

 折戸低温物流 不受理理由控

 明日香は封筒を開けた。

 そこには、十八年前の申請書の写しと、父の赤字メモがあった。

 ――安全確認に重大な疑義あり。 ――現地確認なしに受任不可。 ――この内容では提出しない。 ――山崎誠一郎。

 明日香は、涙で視界が滲むのをこらえた。

 父は申請を通していなかった。

 拒んでいた。

 では、事故後に県へ提出されていたという書類は何だったのか。

 答えは、次の紙にあった。

 父の職印が押された申請書。

 しかし、父の押印ではなかった。

 印影の縁に、肉眼では見逃すほどの欠けがある。

 偽造だった。

「誰が」

 望月刑事が低く言った。

 封筒の最後に、父の走り書きがあった。

 田浦、松永、神谷。三人が嘘を作った。だが証人の子どもが消えた。子どもを守れ。

 その瞬間、事務所の電話が鳴った。

 明日香が受話器を取ると、久世遼の声がした。

「見つけましたね」

「父はやっていない」

「知っています」

「あなたは復讐のために、こんなことを?」

「復讐?」

 久世は静かに笑った。

「復讐なら、十八年前に終わっています。田浦も松永も神谷も、社会的には死んでいる。私が欲しかったのは、許可です」

「許可?」

「死んだ人間が、生きていると認められるための許可です」

 明日香は息を呑んだ。

「あなたは、本当に久世遼なの」

「そうです。死亡届の中で十八年間貯蔵されていた、久世遼です」

 望月刑事が合図を出し、通話の逆探知が始まった。

 久世はそれを知っているかのように続けた。

「山崎先生。最後の申請です。これを不許可にしてください。でなければ、あの子はまた消される」

「あの子?」

「久世千夏」

 千夏の顔から血の気が引いた。

 受話器の向こうで、久世の声がわずかに震えた。

「私の妹です」

 事務所の空気が止まった。

 千夏が、首を横に振った。

「違う……私は由比千夏です。私の両親は……交通事故で……」

 久世が言った。

「そう教えられたんだ。君を守るために」

 明日香は、父の封筒の最後にもう一枚、薄い写真が入っていることに気づいた。

 幼い兄妹の写真だった。

 十二歳くらいの少年と、五歳ほどの少女。

 少女は、今の千夏と同じ目をしていた。

 写真の裏に、父の字があった。

 遼くんは死亡扱い。千夏ちゃんは保護。いつか真実を渡す。すまない。

 千夏は写真を見た瞬間、崩れるように膝をついた。

「お兄……ちゃん……?」

 その時、外で爆ぜるような音がした。

 窓の向こう、ビルの一階の駐車場に止まっていた車のライトが点滅している。

 望月刑事の無線が叫んだ。

「松永が逃走! 山崎事務所方面へ向かっています!」

 松永。

 十八年前の県担当者。

 偽造書類を見逃し、事故後に記録を消した男。

 今は民間の保安審査会社に天下りし、高圧ガス関係の講習や点検業務に関わっていた。

 数秒後、階段を駆け上がる音がした。

 望月刑事が拳銃に手をかけた。

 ドアが蹴破られた。

 松永は、髪を振り乱し、千夏を見た。

「生きていたのか……お前が生きていたから、全部おかしくなったんだ!」

 明日香は千夏を庇って前に出た。

「下がってください」

「行政書士風情が!」

 松永は机の上の黒いファイルを掴み、叫んだ。

「全部あいつが仕組んだんだ! 久世遼だ! あの化け物が!」

 明日香は震える手で、父の赤字メモを掲げた。

「いいえ。最初の嘘は、あなたたちが作った」

 松永の顔が歪んだ。

 久世の天才的な計画は、警察を、明日香を、そして松永をこの事務所へ集めるためのものだった。

 田浦を殺さず、しかし逃げられない形で発見させる。

 過去の偽造書類を掘り起こさせる。

 千夏の記憶を呼び起こす。

 そして、真犯人たちが最も恐れる証人を、もう一度公の場所に出す。

 久世遼は、怪物のように知能の高い犯人だった。

 だが、彼が本当に設計したのは殺人ではなかった。

 妹を、戸籍と嘘と恐怖の中から取り戻すための、狂気じみた申請手続きだった。

 望月刑事が松永を取り押さえた。

 松永は泣き叫びながら、十八年前の偽造を認めた。

 田浦と神谷も、ほどなく逮捕された。

 零時まで、あと七分だった。

 明日香の携帯に、久世から最後のメッセージが届いた。

 最後の書類を見てください。

 黒いファイルの最終ページ。

 そこには、最初と同じ題名があった。

 死体貯蔵許可申請書

 だが、内容が違っていた。

 申請者、久世遼。

 貯蔵場所、死亡届の中。

 貯蔵対象物、十八年前に死んだことにされた少年。

 許可希望期間、永遠。

 明日香は涙を拭った。

 そして、父が残した古い朱肉を開けた。

 押すべき判子と、押してはいけない判子を見分ける。

 それが山崎行政書士事務所の仕事だ。

 明日香は、申請書の下部に大きく書いた。

 不許可

 理由欄には、こう記した。

 人間は、死亡届の中に貯蔵できない。

 その下に、もう一文。

 久世遼は生きている。久世千夏も生きている。

 午前零時、久世遼は駿府城公園の巽櫓の近くで逮捕された。

 逃げるつもりはなかったらしい。

 警察車両に乗せられる直前、明日香と千夏が駆けつけた。

 千夏は震えながら、久世の前に立った。

 久世は初めて、完璧な表情を失った。

「千夏」

 その声は、犯人のものではなかった。

 十八年間、妹の名前だけを胸に閉じ込めて生きてきた兄の声だった。

 千夏は泣きながら言った。

「お兄ちゃん、こんなやり方、だめだよ」

「分かってる」

「でも」

 千夏は一歩近づいた。

「生きててくれて、ありがとう」

 久世の顔が、子どものように歪んだ。

 静岡の夜に、雨はもう上がっていた。

 青葉通りの濡れた舗道が、街灯を映して光っている。

 遠くで、茶舗のシャッターが降りる音がした。

 事件から三か月後、山崎行政書士事務所の看板は少しだけ新しくなった。

 明日香は、父の名誉回復に関する資料を整え、関係機関へ提出した。高圧ガス保安法関係の仕事も、以前より増えた。怖がって逃げる依頼者もいたが、逆にこう言って来る人もいた。

「山崎先生のところなら、危ないものは危ないと言ってくれるでしょう」

 千夏は事務所に残った。

 記憶は少しずつ戻っていた。戻るたびに苦しそうだったが、明日香が淹れる濃い静岡茶を飲むと、少し笑えるようになった。

 久世遼には、いくつもの罪が問われた。

 脅迫、監禁、偽計業務妨害、文書偽造。

 許されることではない。

 それでも明日香は、毎月一度、千夏と一緒に面会へ行った。

 ある日、久世はガラス越しに言った。

「山崎先生。私は、法律を憎んでいました。紙切れが母を殺し、妹を消し、私を死人にしたと思っていた」

 明日香は静かに答えた。

「紙切れだけでは、人は救えません」

「ええ」

 久世は小さく笑った。

「でも、人が読むなら、紙は人を救うこともある」

 面会室を出たあと、千夏が明日香に言った。

「先生、今度、兄に差し入れしてもいいですか」

「何を?」

「お茶です。静岡のお茶。あの人、昔から苦いのが好きだった気がするんです」

 明日香は笑った。

「いいと思う」

 その夕方、山崎行政書士事務所に新しい依頼者が来た。

 高圧ガス販売事業の届出について相談したいという、小さな町工場の社長だった。

 明日香はいつものように名刺を受け取り、書類を広げた。

 窓の外では、駿府城公園の木々が風に揺れている。

 父の古い朱肉は、今も机の右上に置いてある。

 押すべき判子。

 押してはいけない判子。

 そして、押さずに人を救うための沈黙。

 明日香は申請書の最初の一行を読み、顔を上げた。

「では、まず現場の状況をきちんと確認しましょう。安全に関わるところは、急ぎません」

 社長は驚いたように瞬きし、それから深く頷いた。

 千夏が奥から茶を運んでくる。

 湯呑みから立ちのぼる香りは、雨上がりの静岡の街によく似ていた。

 恐怖も、怒りも、罪も、完全には消えない。

 けれど人は、書類の中に閉じ込められたままでは終われない。

 山崎行政書士事務所の壁には、事件後に明日香が額装した一枚の紙がある。

 それは、あの夜の最後の申請書だった。

 赤い不許可印の下に、父の言葉を添えて。

 人の命に、受理印だけで触れるな。

 
 
 

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