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死者名簿の最後に、犯人の名がある

新宿が燃えた夜、テレビ局はどこも同じ言葉を繰り返していた。

――安全神話の崩壊。

西新宿の超高層オフィスビル「セントラル・ノア」の二十八階で爆発が起き、非常階段に逃げ込んだ人々が、次々と煙に巻かれた。死者六十四名。重軽傷者二百名以上。

一週間後、代々木寄りの複合ビル「リンクス新宿」で二度目の爆発。死者三十七名。

さらに十日後、歌舞伎町の再開発地区に建つ「東新宿アーク」で三度目。死者八十一名。

都心のど真ん中で、ビルが次々に牙をむいた。

犯人は毎回、爆発の三分前に警察と報道機関へ短い声明を送った。

これはテロではない。これは証明である。安全は、人を殺す。

声明の末尾には、いつも小文字で署名があった。

max

世間は犯人をそう呼んだ。

知能指数が測定不能、捜査を嘲笑う怪物。冷血で、精密で、神出鬼没の天才爆弾魔。

「マックスを捕まえろ」

新宿署強行犯係の刑事、荒垣灯馬は、三度目の現場で、焦げた壁に拳を押しつけた。

「ふざけるなよ……人の命を、証明に使うんじゃねえ」

荒垣は熱血漢だった。怒鳴る。走る。泣く。捜査本部では古臭い刑事だと笑われることもあった。

だが、彼は死者を数字で数えなかった。

焼け焦げた社員証を拾えば、その人物の机に残った家族写真を見た。搬送された負傷者が意識を取り戻せば、病室まで行って手を握った。遺族が泣き崩れれば、何時間でも黙って隣に座った。

三度目の爆破の翌朝、現場近くの仮設テントに、ひとりの少女が保護された。

五歳の相沢凪。

両親は東新宿アークの二十一階で亡くなった。凪だけが、非常階段の踊り場で発見された。防火扉の内側、煙が薄い場所に、毛布で包まれて眠っていた。

荒垣は膝をつき、少女と目線を合わせた。

「凪ちゃん、怖かったな」

凪は小さく首を振った。

「お姉ちゃんがいたから」

「お姉ちゃん?」

「黒いコートのお姉ちゃん。お手て、すごく冷たかった。凪をここで待っててって。お父さんとお母さんは、あったかいところに行ったよって」

荒垣の胸が詰まった。

「そのお姉ちゃん、顔は覚えてる?」

凪は少し考え、焼け跡の匂いの中で、ぽつりと言った。

「雪みたいな名前」

その言葉が、最初の鍵だった。

三つの現場には、奇妙な共通点があった。

爆発そのものの威力は、死者数に比べて大きすぎるものではなかった。多くの犠牲者は爆風ではなく、避難経路で命を落としていた。

非常階段。防火扉。自動閉鎖されたシャッター。館内放送。

そしてどの現場でも、爆発直後に同じアナウンスが流れていた。

「安全確認中です。館内に留まってください。外へ出ないでください」

逃げたい人々を、ビルそのものが引き止めていた。

荒垣の相棒、槙野志乃は、鑑識出身の冷静な刑事だった。荒垣とは正反対で、声を荒げることはない。

彼女は三つの現場の防災システムを調べ上げ、眉をひそめた。

「全部、同じ系列です。アストライア防災の統合避難制御システム」

「偶然か?」

「三件連続なら、偶然ではありません」

「犯人はそのシステムを利用した?」

「たぶん。でも、それだけじゃないです」

槙野は一枚の古い資料を荒垣に渡した。

「十五年前、新宿の小さなオフィスビルで火災事故がありました。表向きは軽微な事故。でも、非公開資料には、死亡者十二名とあります」

荒垣は紙面を睨んだ。

死亡者の多くは子どもだった。

ビル内にあった企業内保育施設。名前は「つぼみ園」。

死んだ子どもの中に、ひときわ幼い名前があった。

白瀬陽太、五歳。

荒垣の指が止まった。

白瀬。

雪みたいな名前。

「白瀬家を調べろ」

荒垣は言った。

数時間後、槙野が戻ってきた。

「白瀬陽太には姉がいました。白瀬真冬。当時十三歳。異常なほどの知能指数で、検査記録には数値ではなく“MAX”と書かれています。測定上限を超えた、という意味です」

荒垣は黙った。

max。

世間が怪物の名だと思っている署名は、もしかすると、少女につけられた古い烙印だった。

だが、その資料にはさらに奇妙な一文があった。

白瀬真冬――死亡。

死亡日は、一度目の爆破事件当日。

西新宿セントラル・ノアの死者名簿、その最後に、彼女の名前があった。

「どういうことだ」

荒垣は低く言った。

「犯人が、最初の事件で死んでいる?」

「あり得ません。二件目も三件目も声明は届いています」

「じゃあ誰かが名前を使ってる」

「あるいは――」

槙野は言いかけて、やめた。

荒垣は立ち上がった。

「墓を掘るぞ」

白瀬真冬の遺体は、一度目の爆破現場で発見されたことになっていた。

だが身元確認は、本人の私物と入館記録に頼った簡易なものだった。遺体の損傷が激しく、確定には時間がかかるとされていた。

荒垣は、真冬の最後の足取りを追った。

彼女はアストライア防災の元社員だった。十五年前のつぼみ園事故のあと、母を亡くし、父は失踪。天才少女として海外の研究機関に招かれたが、数年前に帰国していた。

そして、帰国後に匿名で何度も告発していた。

アストライアの避難制御システムには、致命的な欠陥がある。人を守るはずの扉が、人を閉じ込める。安全を優先する判断が、弱い者を見捨てる。

告発は握り潰された。

企業も行政も、口をそろえた。

「現代日本のオフィスビルは安全です」「想定外は起こりません」「不安を煽る情報は控えるべきです」

白瀬真冬は、誰にも聞かれなかった。

荒垣は真冬の古いアパートを訪ねた。

部屋は空だった。家具はほとんどなく、壁には一枚だけ、色あせた子どもの絵が貼られていた。

クレヨンで描かれたビル。非常階段。泣いている小さな男の子。その隣に、手を引く少女。

絵の下に、幼い字で書かれていた。

まふゆおねえちゃん、ぼくをそとにつれてって。

荒垣は、しばらく動けなかった。

「荒垣さん」

槙野が机の引き出しから封筒を見つけた。

中には、十二枚の折り紙が入っていた。

折り紙の裏には、つぼみ園で亡くなった子どもたちの名前が書かれていた。

最後の一枚にだけ、名前ではなく、文章があった。

最後のビルで、警察はようやく正しい扉を選ぶ。

その夜、四度目の声明が届いた。

最後の証明を行う。場所は、新宿で最も安全な建物。時刻は、陽太が息をしなくなった時刻。正しい扉を選べ。max

新宿で最も安全な建物。

捜査本部は都庁、警視庁関連施設、大手企業の防災センターをリストアップした。

だが荒垣は、つぼみ園の古い事故報告書を読み返していた。

陽太が息をしなくなった時刻。十九時四十二分。

事故報告書には、保育室の扉が開かなかったと記されていた。

理由は、防災システムが「外部の危険を遮断する」と判断したため。

安全のために閉ざされた扉の内側で、子どもたちは助けを待った。

「違う」

荒垣は呟いた。

「最も安全な建物じゃない。最も安全だと信じ込まされている建物だ」

彼は資料を叩きつけた。

「アストライア本社だ」

アストライア防災本社ビルでは、その日、新型避難制御システムの発表会が開かれていた。官僚、企業幹部、報道関係者、そして遺族を招いた式典。

皮肉にもテーマは、「テロに負けない都市安全」。

十九時三十分、荒垣たちはビルに突入した。

避難誘導は始まっていたが、館内放送はまたしても同じ言葉を繰り返していた。

「安全確認中です。館内に留まってください」

人々は廊下で押し合い、泣き叫び、閉じた扉を叩いていた。

荒垣は怒鳴った。

「扉を開けろ! システムを切れ!」

アストライアの社員は青ざめて首を振った。

「切れません! 外部から制御を奪われています!」

「奪われてるんじゃねえ!」

荒垣は防災センターの画面を睨んだ。

「十五年前から、お前らが手放さなかったんだ!」

槙野が叫んだ。

「荒垣さん、地下です! つぼみ園の再現展示室があります!」

アストライア本社の地下には、過去の防災教育用に作られた小さな保育室の模型があった。

荒垣は階段を駆け下りた。

地下二階。薄暗い廊下の先。開け放たれた扉の向こうに、子ども用の小さな椅子が並んでいた。

そして、中央の机の上に、黒い箱がひとつ置かれていた。

その横に、古い携帯端末があった。

画面が灯る。

そこに映ったのは、白瀬真冬だった。

痩せた顔。雪のように白い肌。静かすぎる目。

『荒垣灯馬さん』

録画だった。

『あなたがここまで来ると思っていました。あなたは怒る人だから。怒りながら、人の名前を忘れない人だから』

荒垣は息を呑んだ。

『私は怪物です。許されることはありません。たくさんの人を死なせました。どんな理由を並べても、私の罪は消えません』

真冬の声は震えていなかった。だが、その平静さがかえって痛々しかった。

『でも、私は十五年間、ずっと同じ夢を見ていました。陽太が扉の向こうで泣いている夢です。私は天才だと言われました。何でも分かる子だと。でも、弟が死ぬとき、扉の開け方ひとつ分からなかった』

画面の中の真冬は、少しだけ笑った。

『あの事故のあと、会社は言いました。安全上、仕方がなかったと。システムは正しかったと。死んだ子どもたちは、想定外だったと』

荒垣の拳が震えた。

『人間が想定外なら、安全なんていらない』

録画の真冬は、机の上に折り紙を置いた。

『私は爆弾を作ったのではありません。都市が隠していた爆心地を、表に出しただけです。けれど、爆発を選んだのは私です。だから私は犯人です』

荒垣は黒い箱を見た。

詳しい仕組みなど分からない。分かる必要もなかった。

これは、誰かの命を奪うためではなく、最後に警察を試すために置かれたものだった。

正しい扉を選べ。

部屋には二つの扉があった。

右の扉には「安全」と書かれていた。左の扉には「外」と書かれていた。

十五年前、システムは「安全」を選んだ。

荒垣は迷わなかった。

「槙野! 全員を左の避難通路へ誘導しろ!」

「でも、図面では左は未確認区域です!」

「確認された安全で人が死んだんだ!」

荒垣は左の扉を蹴り開けた。

埃まみれの非常通路が現れた。古い設計図から消された、手動の避難路だった。

人々はそこから外へ逃げた。

十九時四十二分。

地下の展示室で、黒い箱が小さく破裂した。

爆風は展示室を壊しただけだった。誰も死ななかった。

四度目の爆破事件は、未遂に終わった。

だが、荒垣の中に勝利はなかった。

数日後、正式な鑑定結果が出た。

白瀬真冬は、一度目の爆破事件で本当に死んでいた。

しかも、彼女は爆心地から遠い非常階段で発見されていた。腕に、五歳の少女を抱いた姿勢で。

相沢凪を助けた黒いコートのお姉ちゃん。

それが白瀬真冬だった。

彼女は最初の事件を起こしたあと、想定を超えた被害に気づき、現場へ戻った。逃げ遅れた子どもを見つけ、煙の中を抱いて運んだ。そして、自分はそこから出られなかった。

二件目以降の声明は、あらかじめ残された録音とデータだった。

警察が追っていた犯人は、最初から死者名簿の中にいた。

世間はその事実に震えた。

マックスは幽霊だった。都市を呪った天才少女。弟を救えなかった姉。何百人もの命を奪った犯人。そして、最後にひとりの子どもを助けて死んだ人間。

裁判は開かれなかった。真冬を法廷に立たせることはできなかった。誰も、彼女に罰を与えられなかった。誰も、彼女に赦しを与えられなかった。

アストライア防災の幹部たちは逮捕された。十五年前の事故隠蔽も明るみに出た。だが記者会見では、誰もが頭を下げるだけだった。

申し訳ありません。再発防止に努めます。安全対策を徹底します。

その言葉の軽さに、荒垣は吐き気を覚えた。

事件から一か月後。

新宿駅前には人波が戻っていた。巨大なビジョンには明るい広告が流れ、ビルの窓は何事もなかったように光っていた。

荒垣は、つぼみ園の跡地に立っていた。

そこには小さな花束が十二束置かれていた。

白瀬陽太。五歳。

荒垣はその名前を声に出して読んだ。

次に、連続爆破事件で亡くなった人々の名前を読んだ。

会社員。清掃員。警備員。配達員。たまたま近くにいた学生。誰かの母。誰かの父。誰かの子ども。

最後に、死者名簿の一番下の名を見た。

白瀬真冬。

荒垣は長いあいだ、その文字を見つめていた。

犯人だった。被害者だった。姉だった。怪物だった。人間だった。

どれか一つに決めれば楽だった。

だが、楽になることを、荒垣は自分に許せなかった。

背後で、小さな声がした。

「刑事さん」

振り返ると、相沢凪が祖母に手を引かれて立っていた。

凪は花束を抱えていた。

「お姉ちゃんに、ありがとうって言ってもいい?」

荒垣は喉の奥が熱くなるのを感じた。

「いいよ」

「でも、お姉ちゃんは悪い人なの?」

荒垣は答えられなかった。

新宿の空は灰色だった。ビルの窓に、無数の人影が映っていた。

誰もが安全な場所にいるように見えた。けれど、その安全の奥には、いつも閉じた扉がある。

荒垣は凪の手の中の花を見た。

白い花だった。

雪のような名前の女に、よく似合う花だった。

凪が小さな声で言った。

「もう、ビルは爆発しない?」

荒垣は、今度こそ答えようとした。

大丈夫だ、と。もう怖くない、と。安全だ、と。

けれど、その言葉は口から出なかった。

彼は知っていた。

本当に恐ろしいのは、爆弾ではない。

誰かが泣いている声を、社会全体で聞こえないことにすることだ。

新宿のビル群は、今日も静かに光っていた。

まるで何もなかったように。まるで、これからも何も起こらないように。

 
 
 

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