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江尻の潮音と、夜のしらべ — 港の星と海の光

  • 山崎行政書士事務所
  • 1月16日
  • 読了時間: 4分

1.


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江尻の港と富士の姿

 江尻の港は、夜が明けきらぬうちからあわただしく動き始める。魚を満載した船が小さな波を切って入港し、岸壁では威勢のいい声が飛び交う。そのなかをすり抜けるようにして、舟守 雫は籠を抱えて歩く。 雫は十二か十三ほどの少女で、両親を早くに亡くし、漁師の伯父に育てられている。網から滑り落ちる魚の銀鱗や海水のしぶき、そして塩の香りにどこか安心感を覚えながら、雑務をこなす毎日だ。 ふと立ち止まって見上げると、港の向こうに富士山が朝日を受けてかすかに赤みを帯びていた。けれど、港の喧噪のなかでは、誰もそれを気にとめていないように見える。「みんな、あの山が私たちを見守ってるなんて思ってもいないのかな…」 雫は胸のうちでつぶやき、籠をもう少しきゅっと抱きしめた。

2. 旧宿の老人と昔話

 その日の作業を終え、雫は港近くの小さな茶屋を訪れた。そこには江尻宿の歴史をよく知る老人、佐野が住んでいる。「おや、雫か。今日は早かったね」 佐野老人は温かいお茶を差し出しながら、昔の江尻宿の話を語り始める。「むかしはこのあたり、人や荷物が行き交い、旅籠も栄えたもんじゃ。駿河湾を越えて富士山を拝む旅人も多かった。聞いたことがあるかい? 昔、海霧が立ち込めたとき、沖で光るものを見た旅人がいたんだそうな。富士山の化身が海を渡ったって話もあるよ…」 昔話に目を輝かせる雫を見て、佐野老人は「お前さんは、きっと海と山の不思議を見つけるかもしれないね」と、優しく笑った。

3. 夕刻、港で富士山を望む

 ある日の夕方、雫は伯父の手伝いがひと段落したあと、桟橋の端に座って海を眺めていた。暮れなずむ空はオレンジや紫に染まり、遠くには富士山がシルエットをなして浮かんでいる。 気温が少し下がってきたのか、潮風がほのかに冷たい。雫は肩をすくめながら、それでもどこかやさしい風を感じていた。「海と山が呼び合っているみたい…」 思わず声に出すと、そよそよと吹いた風が髪を撫で、「きみの想いを海に溶かして…」と囁くように聞こえた。あまりの不思議さに雫は立ち上がり、思わずあたりを見回す。けれど、そこにはにぎやかな港の風景があるだけだ。

4. クライマックス:夜の海霧、富士の化身の幻

 その夜、濃い霧が港をすっぽりと覆い隠した。漁に出た伯父の帰りが遅い。心配した雫は、佐野老人にとめられたにもかかわらず、提灯を手に桟橋へ急いだ。 視界は白いもやに支配され、船影もぼんやり浮いたり消えたりしている。波の音が妙に近く聞こえるのに、姿はどこにも見当たらない。 やがて風が強まり、霧がゆっくりと裂かれるように動いた。その一瞬、夜空に白く浮かび上がる富士山の稜線がくっきりと見えるではないか。「まるで…山が海へ降りてきたみたい…」 雫が息を呑むと同時に、海面に淡い光が走り、それが富士山のほうへすうっと昇っていくように見えた。伯父の船影も近くに揺れている。「伯父さん…! いたんだね!」 雫は思わず声を張り上げ、船に駆け寄る。伯父は「無事に帰ったから心配ないさ」と笑っている。だが雫の胸には、さっきの白い光が何だったのかが焼きつき、不思議な昂ぶりが収まらなかった。

5. 結末:静かな朝と小さな心の変化

 翌朝。港はいつものように忙しく、漁船が行き来し、岸壁ではセリが始まっている。雫もまた同じように魚の仕分けを手伝いながら、なんだか心が澄んだような気がしていた。 佐野老人が「昨夜は、大変な霧だったなあ。もしかして、お前さん、富士の化身を見たのかもしれないね…」とからかうように言ってくる。雫は頬を赤らめながら、遠くの富士山を見つめた。 「あの山と海は繋がってる。伯父さんの船も私も、みんなそこに守られてるんだ」 そうつぶやく雫の瞳には、確かな信頼の光が宿っている。海はだんだん青く光り、漁師たちは今日も魚を満載して戻ってくる。富士山も朝日に白く染められ、かすかに微笑んでいるかのよう。 江尻の港はまた一日を動き始め、人々の営みはめいめいの役割を果たしながら進んでいく。けれど雫だけは、ときどき空を仰いでは、あの夜に見た幻のような光を思い返し、「海と山は一つに繋がっているんだ」と、ほのかな優しさを噛み締めるのだった。

(了)

 
 
 

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