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法人設立、死者一名

 若い人間が夢を語る時、目の奥には二種類の光が宿る。

 一つは、本当に未来を信じている光。

 もう一つは、自分でも信じきれない未来を、声の大きさで塗りつぶそうとする光。

 その日、山崎行政書士事務所にやってきた三人には、その両方があった。

「株式会社を作りたいんです」

 最初に口を開いたのは、桐谷蒼だった。

 二十八歳。短く切った髪、白いシャツ、黒いジャケット。美人というより、見る者に「この人についていけば何かが起きる」と思わせる顔をしていた。

 隣には、真壁陸。

 二十九歳。元外資系コンサルだと名乗った。高級そうな腕時計をつけ、言葉の端々に数字が混じる。笑う時も、目の奥では計算している。

 そして、鳥居湊。

 二十六歳。痩せた青年だった。黒いパーカーの袖口を握りしめ、膝の上にノートパソコンを置いている。ほとんど喋らないが、山崎が書類の話をすると、誰よりも鋭く顔を上げた。

「事業内容は」

 山崎が尋ねると、蒼が身を乗り出した。

「企業の内部データを解析して、不正の兆候を見つける監査支援システムです。経費、契約、発注、請求、勤怠、稟議。全部のログを横断して、改ざんや不自然な取引を検知する」

「名前は?」

「ミラーゲート株式会社にしようと思っています」

 陸がすぐに補足した。

「BtoBのコンプライアンスSaaSです。上場準備企業や自治体関連企業向けに、監査ログの透明性を提供する。初年度で三社導入、二年目に資金調達。投資家も興味を示しています」

 言葉は滑らかだった。

 滑らかすぎた。

 山崎は湊を見た。

「鳥居さんは、技術担当ですか」

 湊は小さく頷いた。

「システムは、ほとんど僕が作りました」

 その一言で、蒼の肩がわずかに動いた。

 陸の笑顔も薄くなった。

 夢に満ちた創業相談。

 表面だけ見れば、そうだった。

 けれど山崎は、何度も見てきた。

 会社は、設立前から壊れることがある。

 定款を作る前に、友情が破れることがある。

 出資比率を決めるだけで、人間の腹の底が見えることがある。

「行政書士として、私は定款作成や創業者間契約書、各種合意書の整理をお手伝いできます。電子定款の認証についても対応できます。ただし、会社設立登記の申請は司法書士の領域ですので、必要に応じて司法書士と連携します」

 山崎がそう説明すると、蒼は安心したように頷いた。

「そこまで整理していただけるなら助かります。ネットで調べても、何を決めればいいのか分からなくて」

「法人設立は、書類を作るだけではありません。誰が何を出資し、誰が何を持ち、誰が何を決めるのか。そこを曖昧にしたまま会社を作ると、後で必ず揉めます」

「揉めませんよ」

 陸が笑った。

「僕ら、チームなんで」

 その時、湊が初めて陸を見た。

「チームなら、なんで僕の持分が五パーセントなんだ」

 応接室の空気が止まった。

 蒼が目を伏せた。

 陸は、舌打ちしそうな顔を笑顔で隠した。

「それは投資家が入る前提の資本政策だろ。技術者にストックオプションを設計する形にした方が、次の調達で説明しやすい」

「僕が作ったコードだ」

「コードだけじゃ会社にならない」

「会社になる前から、僕を追い出す気か」

「湊」

 蒼が低く言った。

「今日はその話をしに来たんじゃない」

「じゃあ、何の話をしに来たんだよ」

 湊の声が震えた。

「僕のシステムを会社に入れて、持分は蒼と陸が握って、投資家に渡す。僕は名前だけのCTO。そういう話だろ」

 陸の目が冷たくなった。

「被害妄想もいい加減にしろ」

 湊はパソコンを抱え込むようにして、黙った。

 山崎は三人を見た。

 夢の話は終わっていた。

 これから始まるのは、欲の話だった。

     *

 出資比率をめぐる打ち合わせは、二時間続いた。

 蒼は代表取締役候補。

 陸は事業開発と資金調達。

 湊は開発責任者。

 当初、三人は三分の一ずつで始めるつもりだったらしい。だが、投資家候補の黒川という男が入ってから、話が変わった。

 蒼に四十パーセント。

 陸に三十五パーセント。

 湊に五パーセント。

 残りは投資家とストックオプション用。

 湊の技術は会社に譲渡する。

 湊が退職した場合、持分は会社側が買い戻せる。

 創業者間契約の案は、若い起業家の夢というより、最初から誰かを排除するための檻に見えた。

「鳥居さんは、この条件に納得されていますか」

 山崎が尋ねると、湊は首を横に振った。

「していません」

 蒼が苦しそうに言った。

「でも、投資を受けるには必要なの。黒川さんは、湊の技術は評価してる。でも、会社は一人のエンジニアに依存してはいけないって」

「つまり、僕が邪魔なんだ」

「違う」

「違わない」

 湊は蒼を見た。

「蒼は、昔からそうだ。僕が作ったものを、綺麗な言葉にして人に売る。僕が怒ると、『社会のため』って言う」

 蒼の顔が白くなった。

「今それを言うの?」

「言うよ」

「私がいなかったら、あんたのコードなんて誰にも届かない」

「届かなくていいものもある」

 陸が低く笑った。

「ほら、こういうところだ。湊は会社に向いてない。技術は天才かもしれないけど、信用できない」

「信用?」

 湊は陸を睨んだ。

「借金まみれで、投資家に頭を下げてるお前が?」

 陸の顔色が変わった。

「何を知ってる」

「知ってるよ。全部ログに残ってる」

 その言葉で、三人の間にあった薄い膜が破れた。

 山崎は静かに口を開いた。

「今日はここまでにしましょう」

「先生、でも」

 蒼が縋るように言う。

「定款案の作成はできます。ただし、創業者間の合意がないまま、知的財産の帰属や出資比率を確定させる書類は作れません」

 陸が不満そうに息を吐いた。

「時間がないんです。投資家との面談が来週で」

「急いで作った書類ほど、人を刺します」

 山崎は言った。

「山崎行政書士事務所では、通すためだけの書類は作りません。後で争いにならないための書類を作ります」

 湊が、初めて山崎をまっすぐ見た。

 その目は、ひどく疲れていた。

     *

 帰り際、湊だけが事務所に残った。

「先生」

「はい」

「定款の事業目的に、公益通報支援を入れてください」

「公益通報支援?」

「企業の不正を、消されない形で記録するサービスです。ただの監査ツールじゃない。死んだ人の声を残すシステムです」

 山崎は眉をひそめた。

「死んだ人?」

 湊は答えなかった。

 代わりに、名刺の裏に小さく文字を書いた。

 HAGURUMA

「これがシステムの本当の名前です」

「ミラーゲートではなく?」

「ミラーゲートは、蒼がつけた売れる名前です。僕が作ったのは、ハグルマ。大きな歯車に潰された人間の記録を拾うためのものです」

「誰かを告発するつもりですか」

 湊は笑った。

「僕が告発しても揉み消されます。でも、会社の事業になれば、消しにくくなる」

「それは、会社を利用するということですか」

「違います」

 湊は首を振った。

「会社にしないと、誰にも届かないんです」

 その声には、夢ではなく、切迫した恐怖があった。

     *

 三日後、鳥居湊は死んだ。

 コワーキングビルの屋上から転落した。

 死亡推定時刻は、夜十一時過ぎ。

 警察は自殺の可能性が高いと見た。屋上に争った形跡はなく、湊のスマートフォンには短いメモが残っていた。

 会社なんて作らなければよかった。

 蒼は泣き崩れた。

 陸は黙っていた。

 投資家の黒川は、葬儀にも来なかった。

 山崎がその知らせを受けた時、机の上には、三人から預かった法人設立関係の資料が広がっていた。

 定款案。

 発起人予定者の確認書。

 創業者間契約書のドラフト。

 知的財産の取扱いに関する合意書案。

 そして、死亡翌朝に陸からメールで送られてきた「最新版」の書類。

 山崎はそれを開いた。

 湊の署名があった。

 鳥居湊。

 筆跡はよく似ている。

 だが、電子署名のログに残された時刻は、午前零時十九分。

 死亡推定時刻の後だった。

 書類の内容は、湊が保有するシステム「HAGURUMA」に関するすべての権利を、設立予定会社へ無償に近い条件で譲渡するものだった。

 山崎は椅子から立ち上がった。

 死者が署名している。

 しかも、死んだ後に。

     *

 翌日、蒼と陸が山崎事務所に来た。

 二人は並んで座ったが、互いに目を合わせなかった。

「先生、会社設立は続けたいんです」

 蒼の声は枯れていた。

「湊のためにも」

 陸がすぐに続けた。

「僕らが止まったら、あいつの技術も死ぬ。投資家も待ってくれません」

 山崎は、最新版の合意書を机に置いた。

「この書類は使えません」

 陸の顔が強張った。

「なぜですか」

「鳥居さんの電子署名が、死亡推定時刻の後に付されています」

 蒼が息を呑んだ。

 陸はすぐに反論した。

「死亡推定時刻なんて幅があるでしょう。警察だって正確には」

「それでも、この時刻にはすでに警察と救急が現場に入っています。鳥居さんが自分で署名できる状況ではありません」

 蒼が陸を見た。

「陸、あなたが?」

「ふざけるな」

 陸は蒼を睨んだ。

「湊のスマホに触れたのはお前だろ。死んだって連絡を受けて、真っ先にビルへ行った」

「私は、湊のパソコンを探しただけ」

「ほら、認めた」

「違う! 黒川さんに取られると思ったから」

「結局、お前も欲しかったんだ。湊のコードが」

 蒼の頬に涙が落ちた。

「あんたに言われたくない。借金を返すために、会社を黒川に売ろうとしてたくせに」

 陸の顔が歪んだ。

「蒼、お前はいつもそうだ。綺麗事を言って、人を使う。湊のことだってそうだ。恋人だった時は天才って言って、別れたら面倒なエンジニア扱いか」

 蒼は立ち上がった。

 山崎が静かに言った。

「ここは責任の押し付け合いをする場所ではありません」

「じゃあ、どうすればいいんですか!」

 蒼が叫んだ。

「湊は死んだんです。あの子のコードも、夢も、全部このまま腐らせるんですか」

「偽の署名で会社を作れば、鳥居さんの夢は二度死にます」

 山崎は言った。

「死者の名前を使って、死者の権利を奪うことはできません」

 陸が低く言った。

「行政書士が、ずいぶん偉そうですね」

「偉いからではありません」

 山崎は合意書を閉じた。

「書類を作る者は、その書類で誰かが消される瞬間を見逃してはいけないからです」

     *

 投資家の黒川は、山崎事務所に現れた時、喪服のような黒いスーツを着ていた。

 四十代後半。穏やかな顔、柔らかい声。名刺には、黒川創投資事務所 代表 黒川譲とあった。

「若い才能が亡くなるのは痛ましいことです」

 黒川はそう言って、深く頭を下げた。

 だが、その目に悲しみはなかった。

「先生、設立手続きを前に進めていただきたい」

「鳥居さんの署名に疑義があります」

「若者同士の混乱でしょう。湊君も、生前に合意していたと聞いています」

「生前の意思を確認できる書類が必要です」

「書類ならあります」

「死亡後の署名が付いた書類は使えません」

 黒川は笑った。

「細かいですね」

「細かいところに、人の人生が残ります」

「会社設立はスピードが命です。行政書士の先生なら、起業家の背中を押すのが仕事では?」

「崖の方へ向かっているなら、止めるのも仕事です」

 黒川の笑顔が消えた。

「先生、あなたは登記をするわけではないでしょう」

「その通りです。登記申請は司法書士の業務です。私は定款や契約書、設立前の合意内容の整理を担当します」

「なら、余計な判断はせず、書類を整えてください」

「整えられません」

「なぜ」

「虚偽の疑いがあるからです」

 黒川はしばらく山崎を見つめた。

 そして、静かに言った。

「湊君は、自殺ですよ」

「警察の判断は警察の判断です」

「では、あなたは何を疑っているんですか」

「私は捜査機関ではありません」

 山崎は答えた。

「ただ、死者の署名が死亡後に付された書類を、正規の合意書として扱うことはできません」

 黒川は立ち上がった。

「正しさは、時に人を殺しますよ」

「嘘も同じです」

「いえ」

 黒川は扉の前で振り返った。

「嘘は、人を生かすこともある。会社も、夢も、投資もね」

     *

 湊の通夜は、小さな斎場で行われた。

 母親の鳥居由美子は、遺影の前で背中を丸めていた。父親の姿はなかった。

 山崎が焼香を終えると、由美子が声をかけた。

「山崎先生ですね」

「はい」

「湊が、先生のことを話していました」

「私のことを?」

「『書類をちゃんと読む人がいた』って」

 山崎は胸の奥が詰まった。

 由美子は小さな封筒を差し出した。

「これを、先生に渡すようにと」

 中には、USBメモリと手紙が入っていた。

 手紙には、湊の字でこう書かれていた。

 山崎先生へ。 もし僕が死んだら、死亡後の署名が出てくると思います。 それは使わないでください。 それを使った時点で、僕を殺した側と同じになります。 母に、HAGURUMAの権利を渡す手続きができるなら、母から新会社へ正当にライセンスしてください。 会社を作ってください。 ただし、僕の名前を使って嘘を作らないでください。

 山崎は手紙を読み終え、由美子を見た。

「鳥居さんは、どこまでご存じですか」

 由美子は遺影を見た。

「湊の父親は、五年前に自殺しました」

 その声は乾いていた。

「暁星データソリューションズという大企業で、システム監査をしていました。ある自治体向けプロジェクトの不正を見つけたと言っていました。でも、会社は父を情報漏洩の犯人にした。懲戒、損害賠償、週刊誌の記事。夫は、駅のホームから飛び込みました」

「HAGURUMAは、その件と関係が?」

「湊は、父のパソコンから残されたログを見つけました。それを解析して、暁星が契約データや請求記録を改ざんしていた証拠を集めた。でも、個人で告発しても潰される。だから会社にして、サービスとして世に出すと言っていました」

「黒川さんは」

「暁星の子会社にいた人です」

 山崎は目を閉じた。

 投資家は、投資家ではなかった。

 証拠を買い取って、沈黙させるために近づいたのだ。

     *

 USBメモリの中には、膨大なデータが入っていた。

 山崎は技術の専門家ではない。

 だが、添付された説明文は読めた。

 自治体のスマートシティ事業。

 架空の再委託。

 水増し請求。

 競合入札の事前調整。

 下請会社への不透明な送金。

 そして、内部監査担当者だった湊の父を、情報漏洩者に仕立てるための偽造ログ。

 HAGURUMAは、それらを単なるデータとして保存しているだけではなかった。

 改ざんの時刻、アクセス権限、署名ログ、承認フローを突き合わせ、誰がいつ何を変えたのかを可視化するシステムだった。

 山崎は、その中に一つのフォルダを見つけた。

 DEAD_SIGNATURE

 死者の署名。

 そこには、湊の死亡後に付された電子署名ログが保存されていた。

 署名時刻。

 IPアドレス。

 端末情報。

 位置情報。

 アクセスに使用された認証端末。

 その場所は、黒川創投資事務所ではなかった。

 暁星データソリューションズ本社ビル。

 湊の死の直後、何者かが彼の認証情報を使い、知的財産譲渡の合意書に署名していた。

 山崎は、その画面を見つめた。

 これは証拠かもしれない。

 だが、山崎は捜査機関ではない。

 勝手に犯人を決めることも、誰かを断罪することもできない。

 できることは、書類として扱えるものと扱えないものを分けること。

 正当な意思に基づく手続きへつなぐこと。

 そして、必要な専門家や機関へ、記録を壊さず渡すことだった。

     *

 蒼は、湊の手紙を読んで泣いた。

 泣き方は、恋人を失った女のものでも、創業者を失った代表のものでもなかった。

 自分の弱さを見抜かれた人間の泣き方だった。

「私、湊を守るつもりだった」

 蒼は言った。

「でも本当は、湊の技術を使って、自分を救いたかった。貧乏だった家も、母の病院代も、昔の自分も、全部この会社でひっくり返したかった」

「それ自体は罪ではありません」

「でも私は、湊が嫌がっている条件を飲ませようとした」

 山崎は黙っていた。

 陸もまた、別の日に事務所へ来た。

「俺が殺したと思っていますか」

「私は捜査機関ではありません」

「便利な言い方ですね」

「便利ではありません。限界です」

 陸は笑った。

 疲れ切った笑いだった。

「黒川から金を借りました。父の会社が潰れて、妹の学費もあって。最初はただの投資家だと思った。でも途中で分かった。あいつは湊のシステムを潰したいんだって」

「なぜ言わなかったのですか」

「言えば、自分の借金も、嘘も、全部ばれる」

「鳥居さんには?」

「言えなかった」

 陸は俯いた。

「あいつ、俺のこと嫌ってたけど、最後までチームだと思ってたんです。だから余計に、言えなかった」

 山崎は、若い三人の顔を思い出した。

 夢。

 欲。

 愛情。

 劣等感。

 借金。

 嫉妬。

 救済願望。

 それらが絡み合って、一人の青年を孤立させた。

 転落死の真相は、まだ分からない。

 だが、湊は死ぬ前から、一人で落ちていた。

     *

 会社設立をどう進めるか。

 山崎は、蒼、陸、湊の母である由美子を集めた。

 黒川は呼ばなかった。

「死亡後に署名された書類は使えません」

 山崎は最初に言った。

「鳥居さんの権利については、相続や知的財産の扱いを確認し、必要に応じて専門家にもつなぎます。その上で、鳥居さんのご遺族から新会社へ正当に使用許諾する契約を作成する形が考えられます」

 蒼が頷いた。

「湊の名前は、勝手に使わない」

 陸も小さく言った。

「持分も、最初からやり直す」

 由美子は二人を見た。

「私は、湊の会社を作ってほしいわけではありません」

 蒼と陸が顔を上げた。

「湊はもういません。あの子が夢見た会社を、あなたたちがそのまま作れるはずがない。だから、あなたたちの会社として作ってください。ただし、湊が残したものを、嘘で汚さないで」

 蒼は泣きながら頭を下げた。

 陸も、初めて深く頭を下げた。

 山崎は新しい定款案を示した。

 会社名は、ハグルマ・トレース株式会社

 事業目的には、こう入れた。

 企業および団体の業務記録、契約記録、承認記録等の解析、保全および不正検知に関するシステムの企画、開発、提供。 公益通報および内部通報に関する証拠保全支援サービスの提供。

「登記申請は司法書士に引き継ぎます。山崎行政書士事務所では、定款、創業者間契約、知的財産の使用許諾契約、その他の合意書類を整えます」

 蒼が言った。

「先生、会社は作れるんですね」

「作れます」

 山崎は答えた。

「ただし、死者の署名ではなく、生きている人間の責任で」

     *

 黒川からの圧力は、すぐに始まった。

 内容証明郵便が届いた。

 営業秘密の侵害を主張する文書。

 投資契約違反を示唆する文書。

 湊が生前に暁星側へ権利譲渡していたとする文書。

 どの書類にも、整った言葉が並んでいた。

 整いすぎた悪意だった。

 山崎は、弁護士へつなぐべき部分は弁護士へつなぎ、自分が扱える範囲の書類を一つずつ整理した。

 定款。

 議事メモ。

 創業者間の確認書。

 知的財産に関する由美子の意思確認書。

 黒川側から届いた文書の受領記録。

 死亡後署名の疑義に関する時系列表。

 行政書士の仕事は、派手ではない。

 だが、混乱した事実を時系列に並べ、誰が何を言い、何に署名し、何に署名していないのかを明確にすることは、時に人間を守る盾になる。

 山崎行政書士事務所の小さな応接室で、蒼と陸は何度も言い争った。

「湊なら、こう言う」

「お前が湊を語るな」

「陸だって、逃げてたじゃない」

「蒼こそ、黒川に会うたびに条件を変えてた」

 由美子は、そのたびに静かに言った。

「湊は、もう反論できません。だから、勝手に湊を使わないでください」

 その言葉だけが、二人を黙らせた。

     *

 法人設立の日。

 山崎は、提携する司法書士から連絡を受けた。

 ハグルマ・トレース株式会社の設立登記が完了した。

 法人番号が付された。

 山崎の役割は、ここまでだった。

 定款を整え、創業者間契約を作り、湊の母との使用許諾契約を整備し、虚偽の署名を排除した。

 会社は、死者の名義ではなく、生者の責任で生まれた。

 その夜、蒼から電話がかかってきた。

「先生、システムが動きました」

「システム?」

「湊が仕込んでいたんです。法人番号が公開されたら、HAGURUMAの告発サイトが起動するように」

 山崎はパソコンを開いた。

 そこには、ハグルマ・トレース株式会社の公式サイトが表示されていた。

 白い背景に、黒い文字。

 飾り気のないページだった。

 冒頭に、こう書かれていた。

 これは復讐ではありません。 これは、署名したはずの人間が本当に署名したのかを問うシステムです。 これは、死者が残した告発ではありません。 死者に署名させてきた者たちへの記録です。

 その下に、暁星データソリューションズに関する解析レポートが並んでいた。

 自治体契約の改ざん。

 架空請求。

 内部監査ログの偽造。

 湊の父を陥れた証拠。

 そして、湊の死亡後に付された電子署名の記録。

 署名端末は、暁星本社のネットワークに接続されていた。

 その情報は、同時に報道機関、監督官庁、関係する専門家にも送信されていた。

 蒼の声が震えていた。

「先生、これって……会社の事業として出ています。個人の暴露じゃない。正式なサービスの第一号レポートとして」

 山崎は画面を見つめた。

 湊は、自分の告発が個人の怨念として潰されることを恐れていた。

 だから会社を作りたかった。

 法人という器に入れることで、証拠を一人の青年の叫びではなく、事業として、記録として、社会へ出そうとした。

 犯人が逮捕されたわけではない。

 黒川がその夜、手錠をかけられたわけでもない。

 暁星がすぐに崩れたわけでもない。

 現実は、そんなに速く正義へ向かわない。

 だが、消されるはずだった告発は、消せない形で世に出た。

 会社が設立されたからだ。

 死者の署名ではなく、生者の責任で。

     *

 数日後、山崎行政書士事務所の前には、報道関係者らしき人間が何人か立っていた。

 山崎は取材を受けなかった。

 自分がしたことは、事件を暴いたことではない。

 書類を正しく扱っただけだ。

 使ってはいけない署名を使わず、作るべき書類を作り、登記は司法書士へつなぎ、必要な専門家へ渡すべき記録を渡した。

 それだけだ。

 だが、それだけが、時に死者の声を守る。

 夕方、蒼と陸と由美子が事務所に来た。

 蒼は痩せていた。

 陸は時計を外していた。

 由美子は、小さな花束を持っていた。

「先生、ありがとうございました」

 由美子が言った。

「湊は救われたでしょうか」

 山崎はすぐには答えなかった。

「分かりません」

 正直に言った。

「ただ、鳥居さんの名前で嘘の会社は作られませんでした」

 由美子は涙を浮かべて頷いた。

「それで十分です」

 蒼が言った。

「十分じゃないです。これからです。湊が始めたものを、私たちが汚さないようにしないと」

 陸も低く言った。

「俺たちは、一度汚しかけた」

 由美子は二人を見た。

「だから、忘れないでください。湊は天才だったかもしれない。でも、利用していい神様ではありません。ただの、怖がりで、意地っ張りで、眠れない夜に母親へ電話してくる子どもでした」

 蒼は泣いた。

 陸は黙って頭を下げた。

     *

 その夜、山崎は一人でファイルを閉じた。

 表紙には、こう書かれている。

 ハグルマ・トレース株式会社 設立関係資料

 定款。

 創業者間契約書。

 知的財産使用許諾契約。

 死亡後署名に関する記録。

 黒川側から届いた文書。

 司法書士との連携メモ。

 そして、湊の手紙。

 山崎は最後のページに、短く付箋を貼った。

 虚偽署名は使用せず。

 それは、事務的な一文だった。

 だがその一文がなければ、死者はもう一度殺されていた。

 法人設立は、夢の入口だと言われる。

 けれど、ときには墓標にもなる。

 誰が何を持ち、誰が何を奪い、誰が何を隠そうとしたのか。

 会社という器は、それらをすべて飲み込んで生まれる。

 山崎はパソコンの画面をもう一度見た。

 HAGURUMAの公開レポートは、更新されていた。

 暁星データソリューションズに関する追加解析。

 そこには、湊の死亡後署名だけでなく、過去十年にわたる不審な電子署名の一覧が表示されていた。

 退職後に署名したことになっている社員。

 入院中に承認したことになっている監査役。

 失踪後に契約変更へ同意したことになっている下請業者。

 そして、すでに死亡していた者の署名。

 数は、一名ではなかった。

 二十七名。

 山崎は息を止めた。

 画面の一番下に、湊が残した文章があった。

 法人設立、死者一名。 そう見えるなら、あなたはまだ書類の表だけを見ている。 この会社は、死者の署名を数えるために生まれた。

 窓の外で、駅前の信号が赤に変わった。

 人々が立ち止まり、また青を待つ。

 山崎行政書士事務所の看板は、その夜も静かに灯っていた。

 紙一枚で、人は消される。

 紙一枚で、死者は利用される。

 だが、紙一枚を正しく扱うことで、消された声が戻ることもある。

 山崎はファイルを棚へ戻した。

 法人設立、死者一名。

 それは終わった事件の題名ではなかった。

 これから始まる告発の、最初の行だった。

 
 
 

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