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浅間さんの冬詣、鈴とベルが混ざる夜

 幹夫青年が浅間さんへ足を向けたのは、信心の篤さからではない。 信心――といふ言葉は、口に出すと途端に肩が凝る。肩が凝ると、こちらの胸の内側にゐる小さな裁判官が、すぐ机を叩き始める。「清くあれ」「立派であれ」「それで何を願ふのだ」と。

 幹夫は、その裁判官の声が嫌ひだつた。 嫌ひな声を黙らせるには、酒よりも、煙草よりも、灯りの多い道を歩く方が効く。歩けば、声は足音に混じつて少し薄くなる。薄くなつた声の上なら、息が通る。

 今夜はクリスマスである。 世間はその二字を、まるで呪文のやうに掲げてゐる。呪文が掲げられると、街の顔は急に“楽しまねばならぬ顔”になる。幹夫は、その“ねばならぬ”が苦手だつた。 楽しいといふのは、命令されて出来るものではない。命令されると、楽しいものほど急に窮屈になる。窮屈になると、また裁判官が机を叩く。「ほら見ろ」「お前は向いてゐない」と。

 そこで幹夫は、命令の外へ逃げた。 逃げたと言つても遠くへ行く元気はない。静岡の町の中で、命令が少なく、しかも灯りがあるところ――それが浅間さんの夜だと、幹夫は勝手に思つてゐた。

 呉服町のアーケードを抜けると、風が直接頬に当たつた。 冬の風は乾いてゐて、肌を撫でるくせに少し痛い。痛い風の中で、街の飾りがいよいよ白々しく見えさうになるが、今夜の幹夫は、白々しさに噛みつく気力がなかつた。白々しいなら白々しいで据ゑ置きにして、ただ歩けばいい。

 七間町のあたりを過ぎると、どこかの店先から、鈴の音の入つた音楽が漏れてゐた。 ちりん、ちりん。 クリスマスのベルといふものは、いかにも「幸せ」を装飾してゐる。それが腹立たしい日もある。だが今夜は、そのちりんが、むしろ遠いところで鳴る波のやうに聞こえた。遠い波なら、こちらの胸を荒立てない。

 浅間通りへ入ると、空気が変る。 木の匂ひが増える。杉の匂ひ、土の匂ひ、灯籠の油の匂ひ。 匂ひが増えるところでは、言ひ訳が息をしにくい。息をしにくい言ひ訳は黙る。黙れば、幹夫の胸の裁判官も、机の叩き方が少し弱くなる。

 朱の楼門が見えた。 浅間さんの朱は、夜になると余計に深い。昼の朱は観光の朱だが、夜の朱は生活の朱である。生活の朱は、見栄を要求しない。見栄を要求しないものを見ると、人は少しだけ安心する。

 境内へ入ると、参拝の人の波が柔らかくうねつてゐた。 正月ほど混まない。祭りほど賑はない。だが、ぽつぽつと人がゐる。ぽつぽつとゐる人の顔は、皆それぞれの用事を持つてゐる顔だ。用事を持つた顔は、こちらを裁かない。 幹夫は、その裁かれない感じが好きだつた。

 屋台がいくつか出てゐた。 甘酒の湯気、焼いた醤油の匂ひ、甘い菓子の匂ひ。 湯気があると、夜は急に“叱らない夜”になる。幹夫は湯気に引つ張られ、甘酒の屋台の前で足を止めた。

「こんばんは」

 売り子は年配の女で、首に厚いマフラーを巻き、手がよく動く顔をしてゐた。手がよく動く人の声は、だいたい温い。

「こんばんは。寒いねえ。甘酒、あったかいよ」

「……ください」

 紙コップを受け取ると、掌に熱がのる。 熱がのると、胸の石の角が少し丸くなる。丸くなると、周りの灯が少し柔らかく見える。柔らかく見えるのは灯のせゐではない。幹夫の目の角が取れたのだ。

 甘酒をひと口含むと、甘さが舌に広がり、あとから米の匂ひが追ひかけて来る。 酒ではないのに、胸がほどけるのが可笑しい。甘さと湯気は、理屈のない薬である。

 幹夫は、そのまま拝殿の方へ歩いた。 鈴緒が垂れ、賽銭箱の前に人が並ぶ。並ぶが、並び方がせかせかしてゐない。せかせかしてゐない行列は、腹が立たぬ。腹が立たぬ行列なら、幹夫も混ざれる。

 拝殿の前で、幹夫は一度だけ足を止めた。 ここで、いつもの癖が顔を出す。 ――願ふことが多すぎる。 ――願ふことが多いと、欲張りに見える。 ――欲張りに見えたくない。 ――けれど、何も願はないのも空虚だ。 幹夫はこの手の裁判の書記をやるのが妙に上手い。

 願ひは、考へれば考へるほど増える。増えるほど重くなる。重くなると、結局、鈴も鳴らさず帰りたくなる。 ――長い願ひは、長い言ひ訳になる。 七間町の鈴の音が、どこかで思ひ出された。

 幹夫は、賽銭を一枚、静かに落とした。 落ちる音は小さい。小さい音ほど、耳の奥へ残る。 それから、鈴緒を一度だけ引いた。

 がらん。

 鈴の音が、胸のあたりで揺れた。 揺れは長くない。だが、長くないからこそ、空気の芯だけを揺らす。 幹夫は、そこで長い祈りをやめた。やめて、短く言つた。

「……今日を、ありがとうございます」

 それだけでよい気がした。 明日を変へろ、と命令する祈りではなく、今日を一度受け取る祈り。受け取れば、手が動く。手が動けば、返事も動く。 前向きとは、きつと、命令の形ではなく、受け取る形で出来てゐる。

 顔を上げた瞬間、遠くから、ちりん、と別の鈴の音が聞こえた。 浅間さんの鈴とは違ふ、軽いベルの音。 境内の外の通りから、クリスマスの曲が流れてゐるのだらう。商店街のスピーカーか、店先の小さなラジオか。 がらん、とちりん。 鈴とベルが、今夜の空気の中で同じ高さに並んでゐる。並んでゐるのが可笑しく、そして少し嬉しかつた。

 宗教の違ひだとか、祝ひの形式だとか、さういふ立派な区別は、幹夫にはいつも重たかつた。 けれど鈴とベルが混ざる夜を見てゐると、区別は案外、生活の端の方で勝手にほどけるのだと思へた。ほどけるなら、息が通る。息が通れば、胸も通る。

 拝殿の横で、子どもがサンタ帽をかぶつて走つてゐた。 母親が「こら、走らない」と叱る。叱り声は、いつでも少し冷たい。 だが子どもは走りながら、鈴の音に振り向き、きょとんとした顔をして立ち止まつた。 その顔の正直さが、叱り声の冷たさを一枚薄める。

 幹夫は、その様子を見て、ふと思つた。 祝ひといふものは、正しく並べるから重くなる。 混ざるから軽くなる。 鈴とベルが混ざるやうに、叱り声と笑ひ声も混ざつて、夜は出来てゐる。

 境内を少し歩くと、お守りの授与所の灯が見えた。 人は多くない。 幹夫は、何かを買ふつもりはなかつた。買ふと、また立派な意味が生れる気がしたからだ。 だが、授与所の脇に、小さな札が置いてあるのが目に入つた。 紙の札で、「一言みくじ」と書いてある。引くと、一行だけ言葉が出るらしい。

 幹夫は、その“一行”に惹かれた。 長文は言ひ訳の巣になる。 一行なら、乾く。 雨の日の言葉が濡れるやうに、祝ひの日の言葉も、湿つて腐りやすい。一行なら、腐りにくい。

 幹夫は小銭を入れて、札を一枚引いた。 出た札には、短く書いてある。

  「先に言へ。」

 幹夫は、思はず笑つた。 先に言へ――それは、この頃、彼が何度も稽古してゐることだ。おはようを先に言ふ。拍手を先にする。返事を一行で送る。 神様も、案外、細かい生活の稽古を応援するのだらうか。応援といふより、こちらの稽古を見抜いてゐるやうな、ひどく実用的な一言である。

 授与所の若い巫女が、幹夫の札を見て、にこりとした。

「いいですね。先に言うって、大事ですよね」

 幹夫は、照れを隠すための冗談を言ひかけ、やめた。 やめて、素直に言つた。

「……はい。僕、遅れるのが得意なので」

 巫女は笑つた。笑ひは責めない。

「遅れても、先に言う日があれば、十分だと思います」

 十分。 その言葉がよかつた。 十分は、立派より先に長持ちする。 立派は一晩で冷めるが、十分は明日にも残る。

 境内を出るころ、外の通りのベルの音が、また少し近く聞こえた。 それに、浅間さんの鈴の余韻がまだ混ざつてゐる。 がらん、とちりん。 混ざつてゐる音は、どちらの勝ちでもない。どちらの負けでもない。 勝ち負けで考へない夜は、気持ちが軽い。

 幹夫は、甘酒の紙コップの残りを飲み干し、空のコップを握りしめた。 空のコップは軽い。軽いものほど、手が自由になる。手が自由になると、スマホが出せる。 幹夫はポケットからスマホを取り出した。

 長文は書かない。 今日は鈴の日だ。短い方が、ちゃんと届く。

 ――「メリークリスマス。浅間さんで鈴を一回鳴らした。願いは短く『今日をありがとう』。鈴とベルが混ざってた。」

 送信すると、胸の内がすとんと静かになつた。 返事が来るかどうかは分らぬ。分らぬが、今日はそれで十分だと思へた。 先に言へ、と札が言つた通り、こちらが先に言へたのだから。

 帰り道、呉服町のアーケードへ戻ると、店先の飾りがまだ光つてゐた。 光つてゐるのに、さつきより白々しく見えない。白々しく見えないのは、飾りが変つたのではない。幹夫の目の角が取れたのである。 角が取れると、世間の祝ひは“命令”ではなく“背景”になる。背景になれば、こちらは自分の歩幅で歩ける。

 幹夫青年は浅間さんの冬詣で、立派な祈りをしたわけではない。 ただ、鈴を一度鳴らし、願ひを短くし、ベルの音と混ぜただけである。 だが、その“だけ”があると、聖夜は十分に成立する。 鈴とベルが混ざる夜――それは、違ひを争はずに、生活がただ明るくなるための、いちばん静かな祝ひ方であつた。

 
 
 

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